午後のひととき
「お帰りなさいませ、累様」
完璧な一礼で累を出迎えてくれたのは、柔らかい金髪を三つ編にした、静謐な魅力のある少女だった。
理性的な表情は幾分か冷ややかにも感じるが、鈴の鳴るような声音は、年相応の幼さが残っている。
「ただいまー」
「お調べ物は、如何でございましたか?」
「うん、もう大丈夫。後で返事を書くから、届けてもらっていいかな」
「はい、勿論でございます」
分厚い絨毯の上を歩いていく累。それに付き従うスズメは、会話をしながらも丁寧な所作で累の上着を脱がせ始めた。
白くほっそりした手に促された累は、慣れたように腕を動かして上着を脱ぐと、最後に自分でシャツの第一ボタンを外し、吐息を零した。
「ふぅ、ちょっと休憩……」
小さく欠伸を嚙み殺しながら、部屋に置かれた豪奢なソファに歩み寄ると、深く腰を掛けた。
するとすぐに、別の【止まり木】に上着を渡したスズメが、心配そうな顔で寄ってきた。
「大丈夫でございますか……? 皇宮からお戻りになって以来、午前中は訓練、午後は執務、そして夜間には周囲の見回り……。お忙しくされすぎです」
確かに言われた通り、この紺碧校へと戻ってきてから3日、まとまった休息を取っていなかった。
午後からの個人訓練の時間も、他の用事に対応する為に使っているが、さすがに放浪し過ぎたせいで、溜まっている分を片付けるだけでもなかなか終わらない。
その上、10日ほど前に摘発した、離反者集団による不正売買の事件も、思ったように進展しなかったのだ。
特に、関連してると目された、紺碧校でのドロップアウトが多発している件についても、実際に生徒と接触した痕跡や、ましてや本人を見つけることも出来ていない。
結局、この学校での気になる現状は何も解決していなかった。
穢れが活発に蠢く夜には、周辺の警戒を怠ることは出来ないし、何より、あれからカナリアの行方も分かっていないのだ。彼女の性格からして、反省して身を隠してる……なんて事は無いだろう。
どれもこれも中途半端だ、と思うと寝不足なんて言ってられない。せめて頼ってきた者達の力になるぐらいは、寝る間を惜しんで対応したかった。
スズメの気遣う言葉を、軽い苦笑で流した累は、ポケットからメモ用紙を取り出し、テーブルに広げた。
すると、意図を察した【止まり木】達は、何も言わずとも累の求める筆記具をテーブルに並べ始める。
その中から、使い慣れた万年筆を手に取った累は、器用にも指先でくるりと回しながら、側に立つスズメに言葉を返した。
「1週間ものんびりさせてもらったからね、調べ物ぐらい楽なもんだよ」
「……ですが、皇宮でも何かと累様への謁見が相次いで、ごゆっくりして頂けず……」
「ははは、ふらふら出歩いてたツケだよねー」
話しながらも、用意された上等な便箋に、返信をさらさらと書き記していく累。
最後に署名を入れ折り畳むと、四角い漆塗りの盆へ置いた。
「教皇庁の児童福祉会へ」
その指示を受け、ひとりの【止まり木】が捧げるように盆を持ち、奥へと引っ込んで行った。
……これで向こうには、即日で解決案が届くだろう。
終わった終わったー、と万年筆をテーブルに転がした累は、大きく伸びをしながら背凭れに身体を預けた。
ふわりとした柔らかい手触りと、適度な弾力が心地がいい。
「少しお休みになりますか?」
「…………あー、惹かれるお誘いだなぁー……」
スズメの言葉に、再び出てくる欠伸を噛み殺す。
一度気が緩んでしまうと、眠気が一気に押し寄せてきたらしい。
「目の下に隈が出来ております。……これ以上、無理をなさるようでしたら、アトリ様にご相談を……」
「わー、それはやめてー。アトリに言ったら無理矢理ベッドに放り投げられそうだし……」
「では此方へ」
すかさず手を取るスズメに促されるまま、ふらりと立ち上がる。と、寄り添うように抱き締められ、そんなに心配されるような顔をしていたのかと苦笑する。
「大丈夫だよ。眠いだけなんだから」
「それでも十分心配でございます」
怒ったようなスズメに先導されつつ、寝室の扉をくぐった。
広い室内に足を踏み入れてすぐ、目に入るのは、大きなキングサイズのベッドだ。
シワひとつない白く艶やかなシーツは、窓からの柔らかい日差しを反射して、部屋全体を気持ちの良い明るさにしてくれている。枕がわりに置かれた何個ものクッションは、背凭れにちょうど良くて気に入っているものだ。
こんな時間に寝室に入るって、凄い変な感じがするなぁ……と思いながら、ベッドのフチに腰を下ろす。
「寝付きやすいように、お酒か、暖かいお飲み物でもお持ちしましょうか?」
「いや……」
要らないよ、と答えようとして思い留まる。
「……やっぱりホットミルク、貰おうかな。少し砂糖を多めの」
「はい、只今。……でもお珍しいですね、累様が甘いお飲み物をお召しになるなんて」
不思議そうなスズメの言葉に小さく笑って返し、ベッドの上に足を下ろす。
クッションを背凭れにして軽く身体を預ければ、沈み込む感じが心地よくて、本当に直ぐにでも寝てしまいそうだった。
大きく息を吐いてひと心地ついてから、寝る前にこれだけは読んでしまいたい……とベッドサイドに置いておいた紙束を取り上げ……ようとして、細い手に阻止された。
「そんなことをしていては寝れません」
「……ちょっとだけ……」
「いけません。すぐにミルクをお持ちいたしますから……」
「……じゃあ飲み終わるまで。早く読んで回答したいからさ」
ね、と食い下がってみせれば、尚も何か言いたそうな顔をしたスズメだったが、その短時間でしたら……、と妥協を示した。
「皆、累様に頼り過ぎなのです……」
「いや、近衛師団の依頼を勝手に横取りしてるだけなんだけどね」
「っ!? もうっ、何をしておられるんですかっ! あれ程勝手に動かれるのはやめて下さいと……!」
「あはははっ、いーじゃん、他の近衛魔法士たちは忙しいんだし」
「累様も十分お忙しくされてます!」
スズメの文句を笑って聞き流しながら、肌触りのいい毛布を引っ張り上げる。
腰元まで掛けて、その柔らかい毛並みを撫でたところで、先程の図書室での出来事を思い出した。
「……そういえば……本当に蓄光の布って有り難がられてるんだねぇ……」
「…………?」
「いや。ラウド君が大事そうにしてたからさ……」
「あぁ、シャルマ家の……。それはそうです。一般に流通する事のない、特別希少な布ですから。……献上された毛布やラグなどは、きちんと保管しておりますが、お出し致しましょうか?」
良いお品でしたからね、と微笑むスズメに、
「いや……あれさ…………ジョークグッズじゃなかったんだね……」
思わず本音をポツリと零せば、大きな目を更に大きく開いて、可愛らしく絶句するスズメ。
「……っな……なんて事を仰られるんですかっ! 私達が累様を謀ると……!?」
「だって、光るんだよっ!? すっごいリラックスして寝ようって時に、緑色に光るんだよ!? 怖くない!?」
「神聖な光でございます!」
「……ラウド君も夜になると光ってるのかなー……」
「…………なんて嘆かわしい発言ですか……」
額に手を当てるスズメをよそに、夜の状況を想像して口元が緩みそうになる。
機会があれば見てみたいぐらいだ。絶対に面白いに違いない。
「そうだ。今度、夕方に図書室へ行って、さりげなく観察してみよう」
「おやめください、恥ずかしすぎます……」
呆れたように制止するスズメ。
その背後では、1人の少女が静かに一礼して、台車を押してきていた。
湯気の立つカップを優雅に持ち上げ、ベッドサイドのテーブルにそっと置き、再び深く礼をして踵を返していく。
スズメは、用意されたホットミルクをちらりとチェックしてから、累に声を掛けた。
「累様。お待たせ致しました、どうぞ」
「あぁ、それスズメのだから」
「…………は?」
あっさりと言い切った累に、カップを示しながら小首を傾げるスズメ。
「ここに座って飲みなよ。僕はその間、資料の確認をしとくから」
「……え、いえ、これは累様にご用意したもので……」
「違うよー。最初からスズメに、と思ってお願いしたんだ。……鏡を見てごらん? 相当疲れた顔してるよ」
累の柔らかい声に、スズメが驚いたように両頬を押さえた。
「え、そんなことは……。……ご心配をお掛けするなど、未熟者で申し訳ございません……」
「えぇっ、謝る必要は無いってばー。僕が起きてる間、同じように寝ないで付き合ってくれてるんだから、そりゃあ疲れるよ。だから、糖分補給に甘いめのホットミルク」
きっと美味しいよ、と促すが、固まったまま動かないスズメの目元は、やはり普段と比べて精彩さを欠いている。
夜間の見回りなんて、累が外に出てしまえば暇になるだろうのに、律儀に寝ないで待ってくれているのだ。休んでてね、と伝えてはいるものの、主人を差し置いて……と承諾してくれないのだから、ここは引けない。
「はい、どうぞ。ゆっくりで良いよ? スズメが飲み終わるまで、資料の確認をしておくから」
そう言って、手元の紙束を一枚ずつめくっていく。
飲み終わるまで寝ないという、【止まり木】にしか通用しないであろう脅し文句に、スズメが徐々におろおろし始めた。
あまり拒絶すると失礼にあたるし、でも、主人の為に用意されたものを飲むだなんて……と、頭の中はパニックなのだろう。
「あ、立ったまま飲むなんて行儀の悪い事、出来ないか。……こっちにおいで」
だめ押しとばかりに、軽く横にずれた累が、ひょいひょい、と手招きをすれば、だんだんとスズメのピンク色の頰が膨れてきた。
「……累様、ずるいです」
「ふふっ、スズメのほっぺがふくらんだー」
「もうっ! そんなに言われると、お断りする方が失礼じゃ無いですかっ!」
従者としての淡々とした仮面が剥がれたスズメは、年相応の無邪気な表情で文句を口にする。その気安さが少し嬉しい。
広いベッドは、スズメを座らせたところで全然余裕なのだが、恥ずかし気に顔を伏せて端の方にちょこんと座るのを、優しい表情で見届ける。
焦げ茶色のコルセットスカートを丁寧に整えて座った後、上品にカップに手を伸ばしたスズメ。
「ご馳走になります」
小さく呟いてからカップに口をつけた。
コクコクと、少し飲んでは吐息をこぼすスズメ。
とろんとした目と、血色の良くなった表情を見ると、相当リラックス出来ているのだろう。
少しでも疲れを癒してくれれば良いのだが……。
そう思いながら、累も手元の資料に視線を落とす。
本来、割り当てられた仕事があるわけじゃないので、特に急ぐようなものは無いのだが、自分が動くことで何かが好転するのならば、助力は惜しまない。と言っても、基本的には有能な幹部達が、上手く回してくれているから心配なんて全く無い。累が安心して、視察と称した潜入活動を続けられるのも、彼らのおかげなのだ。
ぱらり、ぱらり……と紙を捲る音に、時折かすかに聞こえる、陶器の擦れる音。
ゆっくり飲めば良い、と少しの間、資料に集中していると、
「……あれ、寝ちゃった……?」
カップをソーサーに置いたままの姿勢で、動かなくなったスズメ。
よく見ると、長い睫毛は伏せられていて、正していた姿勢も、背後のクッションに沈んでいるようだ。
書類を傍にまとめた累は、カップに添えられた白い指をそっと外し、ソーサーと合わせて取り上げた。それを控えていた【止まり木】の少女へ渡すと、今度はもう少し寝やすいように、身体を動かしてやる。
「……少しの間、おやすみ……」
無防備な顔で眠るスズメ。
きっと起きたら、この失態に真っ赤になって恥じ入るのだろう。
そんなことを想像しながら、白いシーツに散った柔らかい金髪を、優しく梳いた……。