基礎訓練の前の準備運動
「——そろそろ良い時期なので、全体での実地訓練へ移行しますか」
累が編入して2日目の授業は、オスヴィン・ヴェラー教師のそんな一言から始まった。
「おい累、しっかり柔軟しとけよ」
「……柔軟すればっ、マトモに、立ち回れるので、しょうかっ……」
「んなわけねぇだろ。怪我しにくくなる程度だ」
「あ、大丈夫だよ、累くん。怪我しても回復魔法かけてあげるし!」
「……怪我する、前提っていうのが、もうっ……ぅぐぐぐっ……痛い痛いっ、和久、ギブ……!」
長座体前屈をする背中を容赦なく押された累は、姿勢を崩しながら腿の裏をさすった。
涙目の情けない姿に、和久が呆れたように笑う。
「お前身体が硬すぎんだよ。柔軟なんて痛いくらいやんねーと効果ねぇぞ?」
「いやぁー……ほんとに痛い……」
「回復魔法、いる?」
「さっそくかよっ!」
笑顔のニイナは、余裕で綺麗な二つ折り状態だ。今日も柔らかい髪がふわふわと揺れていて可愛らしい。
今日は基礎訓練ということで、運動着に着替えて訓練場に集合していた。
というのも、教室で通達された、全体での実地訓練に向けた準備なのだ。
教室でそれを伝えたヴェラーは、どよめく生徒達を見渡し、更にこう続けた。
『実地訓練と言っても、ノクスロスの殲滅戦ではありません。ちょうど魔法士部隊が人手不足のようなので、軽い治安維持の仕事を手伝って欲しいそうです。……魔法士というのはノクスロスと戦うだけが仕事ではありませんからね。予定としては、明日からです。なので今日は、対人を想定した基礎訓練を行います』
穏やかな表情でそう告げるヴェラーの言葉に、穏やかじゃなかったのは累だった。
うわぁ……一番苦手なやつ……。
思わず苦い顔をしてしまう程には、避けたい内容だった。基礎訓練が少ないだろうという打算があったからこそ、本科の3年生に編入したのに……。
『会長以下、既に実地訓練に出ている者は、未経験の者にアドバイスしてあげて下さいね。では着替えて基礎訓練場に集合です』
というわけで、準備運動にいそしんでいるのだ。
シンプルな黒の上下服姿になった累は、久しぶりのラフな格好を堪能する余裕もなく、バキバキに硬い身体にムチを打っていた。
「ほら、次は腕立てだ」
「えぇええぇ……それ準備運動……?」
「こんぐらい、当たり前だろ。さっさと済ませちまえよ」
「腹筋も背筋もやったんだから……ちょい休憩……」
「累くん、この疲れてる時に頑張ると、筋肉がつくらしいよっ!」
涼しい顔をして腕立てを始める和久は良いとしても、キラキラ笑顔のニイナまで、ゆっくりとした深い腕立てをこなすから凄い。
見かけと違って、基礎科をクリアした魔法士のタマゴなのだから当然かもしれないが、累からすれば別次元だ。
ニイナの顎を伝う汗が、健康的で美しい。
2人が軽く30回こなすのを、だらけた体勢で眺めつつ、一応気持ちだけストレッチをしておく累。
周囲では、同じように運動着に着替えた生徒たちが、思い思いに身体を動かしていた。
和久らのように筋力トレーニングをする者や、組手をする者、あとは……と観察していると、2人の女子生徒と目が合った。
片方はショートカット、もう片方は髪をひとまとめに束ねている。どちらも運動が得意そうなスポーティーな姿で、念入りに柔軟をしていた。
朝からの例では、すぐに視線を逸らされて終わりだったのだが、この2人は一瞬顔を見合わせた後、再び照れたようにこちらを見た。
それならば、と小さくペコリと挨拶をする。
「…………どうも」
すると、それに喜色を浮かべた2人は、おもむろに柔軟をやめて立ち上がった。どうしたのかと見ていると、周囲を気にするように小走りで近付いてくる。
「——あのー、おはよう、峯月くん」
「あ、はい、おはよう……」
「あのっ、昨日、挨拶出来てなくてゴメンね。うちらニイナの友達なの。だから何か困ったこととかあったら、遠慮なく話し掛けてねっ!」
「基礎体術とか魔法の訓練相手を探してたら、いつでも協力出来るし!」
「え、ホントに? ありがとう」
座ったまま、にこやかに礼を言うと、更に頰を紅潮させる2人。そして、アレやコレやと世話を焼こうとしてくれる。
編入生に優しいなぁ……と思いながら笑顔で聞いていると、真剣に自主トレをしていたニイナが顔を上げた。
「ん……? あれ、おはようみんなー」
「おはよ、ニイナ! 今、峯月くんに挨拶してたんだっ」
「良かったねー! ……って、2人? 柚ちゃんは?」
額の汗を拭いながら体勢を戻したニイナは、2人の背後をキョロキョロと確認する。
「柚、まだ来てないのよ」
「えーっ、また寝坊ー?」
「昨日のニイナの話を聞いて、興奮して寝られなかったんじゃない?」
「もうっ、罰則訓練して反省文提出するの、何度目なのよー」
「ねぇー! ……せっかく話しかけるチャンスだったのにねっ」
一応最後の言葉は、ニイナの耳に顔を寄せ、内緒話のように声を潜めていた。が、完全に丸聞こえだ。そんなに編入生が珍しければ、気にせず話しかけてくれたらいいのに……。
ニイナと含み笑いをしつつ、こちらを見てくる2人に愛想笑いを返すと、更に満面の笑みが返ってきた。朝から珍獣扱いが続いていたから、打てば響くような反応には安心してしまう。
「おい人気者。あんま勘違いさせんなよ……」
「え、珍しい編入生に声をかけてくれただけじゃん」
「そりゃ珍しかろうよ、世間知らず……」
呆れたように遠い目をする和久。その理由がわからず、問うように首を傾げると、
「好物件ってこ——……」
「おぉっとー、和久くん、おはようおはよう!」
「今日も調子良さそうだねー! いいねいいねー、良いことだよー!」
「ぐぇっ……はいはいっ、黙ります黙ります……!」
慌てたように和久に近づいた2人が、笑顔でヘッドロックをかました……。
突然のバイオレンスな光景に、呆気にとられる累。
しかし、和久も本気で苦しがっていないのを見ると、ただのじゃれ合いのようだ。
みんな仲が良いんだなぁとほのぼのした気持ちで眺めていると、そんな累の視線に気付いた2人が、動きを止め、取り繕うような笑顔で口を開いた。
「……ぁ、ぇっと——」
……とタイミングを同じくして、
「——こらー、そこー! ちゃんとアップしてよー!」
「っ、会長だっ!」
「すみませーんっ、ランニングしてきますー! じゃね、峯月くん」
軽い叱責の言葉に声の方向を向くと、広い施設の中でも、一際目立つ存在である鷺ノ宮ユーリカが、颯爽と歩み寄って来ていた。
ニイナの友達2人は、ぺろりと舌を出してから、わざわざ名指しで手を振って走り去っていく。
その好意に、笑顔で手を振り返すと、大げさ過ぎる溜息が聞こえた。
「……なにか」
「いやー、先が思いやられますねー」
「なんだよ、その意味深な棒読み」
「だって累くんだからねぇ」
「ニイナまで!?」
さらりと和久の味方をするニイナにショックを受けつつ、すぐ目の前に来たユーリカへと視線を移した。
昨日の制服姿も非常に似合っていたが、シンプルな運動着も、スタイルの良さが際立っている。ショートパンツから覗くスラリとした素足は、鍛えられたしなやかさが露わだ。
「おはよう、3人とも。昨日は楽しかったわね」
にこりと笑いかけてくるユーリカに、和久やニイナが口々に礼を言う。その言葉に朗らかに返答しながら、累の側にしゃがみこんだユーリカ。
何か落ち着いて話したいことでもあるのかと、笑顔のままのユーリカを見つめていると、
「——で、君は何をサボってるのかしら? さっさと腕立てやっちゃいなさいな」
バレていたようだ……。
笑顔の裏に鬼が棲んでいる……。
「いや……ちょっとしたインターバルタイムなんです……」
「それは1セットやり終えてから言おうね」
にっこりと有無を言わせない笑みで、累の腕をとるユーリカ。そのまま腕立ての態勢に誘われてしまう。
「ほら、いーち……って、全然腕曲がってないわよー!」
「曲げたら戻ってこれないですもん……」
「泣き言言わない。出来ないから練習するんじゃないのー」
反論の余地がない言葉に促され、それから数度挑戦するも、腕がプルプルしてまともに戻れない。
そんな累を笑顔で応援するユーリカ。
和久とニイナも、自分で設定した分は終わっていたのか、揶揄いながらアドバイスを投げてくれている。
「……っ……はぁっ、はぁっ、もう、絶対無理……っ」
全力で数回、何とかこなすも、べちゃりと潰れたままになる累。
こんなに頑張って腕立てをしたのなんて、本当に久しぶりだ。
地面に転がる累を、苦笑するように見つめるユーリカ。
「うーん、ま、苦手にしては頑張ったかしら……。この調子で続けてね。——さぁ……そろそろ時間だわ」
訓練場に入って来たヴェラーを見つけたユーリカは、表情を引き締めて立ち上がった。
好戦的にも見える弧を描いた唇が、非常に魅力的だ。
中央に立ったヴェラーの周りに、生徒達が集合し始める。
「——みなさん揃ってますね。……では、戦闘訓練を始めましょう」