呟き
ドクンドクンドクンドクン
ドックンドックンドックンドックン
ト・ク・・ト・ク・・ト・ク・・ト・ク・・
ト・・ク・・・ト・・ク・・・
ト・・・ク・・・・ト・・・・・・
ヨシオが53年の生涯を終えた。
何故か、サトシは右腕をヨシオの肩に回し、左胸に耳を当てていた。
喉を詰まらせてもがいている間は、慌てて、何の処置もする事を思いつかなかったのに、死にざまを冷静に観察している自身が、不思議でさえあった。
その瞬間、ヨシオは何を思っていたのだろうか。穏やかで機嫌のいい時に見せる、こどもたち(シーズーの“チャコ”とシェパード雑種の“ゴンジ”)へ頷く顔に似ていた。
座椅子にもたれる大柄な上半身とは、どうしても釣り合わない、V字に広がった脚は膝から下が10cm程しかなかった。その股間には、呑んでいたビールが、全て通り抜けて出てきたかのように溢れていた。
ゴンジが異変に気づいて近寄ると、ヨシオの股間から流れ出て、フェルト状の薄いカーペットに染み込み切れないでいる液体を、憑りつかれたように舐め続けている。このコは普段から我々のグラスに舌を伸ばして、旨そうに掬い呑む程のビール好きだったが、どのような心境からくる行動なのかは解らなかった。
救急隊員がぞろぞろ上がり込んで大立ち回りしていた筈なのに、色々な器具を使って蘇生を試みていた筈なのに、その時の状況をサトシは覚えていない。放心状態だったと、翌日かみさんから聞いた。
サトシは、掛け替えのない人に逝かれてしまうのは二度目だった。幼少期での父親の死や、廃人同様だった祖父の死、家族の死で悲しみに沈んだことは無かった。
会社勤めを始めて二年程経ったサトシは、実質的な師匠だった社長夫人から、大人のオトコへの成長期を導いてもらっていた。懐の大きな人物だった。小規模な会社のこともあって家族ぐるみで目をかけてくれた。師匠の、あまりにもあっけない突然の死は、これ程に悲痛な出来事が世の中にはあるのかと、サトシを悲しみの底に沈ませた。おおらかに微笑む彼女と、病院から連れ帰るときの死に顔が代わるがわる現れて、何処にこれ程の涙が溜めてあったのか、溢れても溢れても止もうとしないのだった。社長宅までの車はサトシが運転したのだが、降雨時にワイパーを使わないフロントガラスみたいになった涙目での運転は、通り慣れている道でも困難だった。
日常生活をこなす為には、多忙を極めるか、無理矢理、所用や趣味で忙しい“ふり”をするしかない。思考が停滞すると、笑顔の師匠と、そうでない師匠とが交互に現れて、サトシを放心状態にしてしまうのだった。その度にハンカチを汚す、立ち直るまでに半年は掛かった。
27年後に味わう悲痛は、じわりじわりと心の準備をする時間はくれたが、逝かれてしまうと、本来のサトシに立ち返るまでに半年では足りなかった。拷問を受ける日々が続いた。事情聴取や、善人ぶった無責任極まりない言動の親戚、知人、周囲からの不条理な仕打ち、サトシ自身の精神力と闘うことになるのだった。
ヨシオは重度の糖尿病を患っていた。アルコール依存症でもあった。
サトシは“しらふ”のヨシオを知らない。
自宅では当たり前だが、勤務時でも、ガソリンスタンドと当人が称する酒店に立ち寄るのが日常だった。
好き勝手放題に生きてきたヨシオは、他人からの意見や忠言などを聞き入れる事は全くない男だった。
支店で常にトップを続ける営業成績のヨシオに、意見できる者はいなかった。
営業員の経験が無かったサトシにとっては、酒を除けば手本であり、師匠であり、神様であった。
酒臭かろうが、態度が横柄だろうが、数字がすべて結果がすべての世界だ。実際彼の実力は殆どの社員から認められていた。
上背があり、品よくシルバーグレイにまとまった髪と彫の深い顔立ちは、それだけでも周りを惹きつけた。
家庭用調理器具を訪問販売していたことも成功に繋がっていたのだろう。相手は例外なく女性である。事実女にはモテていた。本人は当たり前のように話す。今交際している元同僚も含めて、思春期からこれまで女に不自由はしなかったと豪語する。かみさんがどこまで知っているのかは分からないが、理髪店を切り盛りする彼女にとって大したことではないようで“割り切って”いるようにも見えた。ガールフレンドと別れ、越してきたばかりのサトシにはまさに“神” であった。
ヨシオは、馴染みの料理店やスナック、バーへサトシを連れて、一日の仕上げをするのだった。今迄職人の世界しか知らず、田舎町から出てきたばかりのサトシを、弟分の様に、ご馳走したりネオン街を連れまわしては、夜遊びと営業の仕方を併せて指導教育してくれた。連れられる店ごとの“自慢”を味わいながら当日の経験を話すと、ヨシオ自身の体験談や的を得た助言をしてくれ、翌日か数日以内には成果に繋がるのだった。結果が出ればお祝いである。そこでまた新たなツボを教わる。連鎖が生まれる。
実績が出来て収入も増えるとサトシの行動範囲も広がっていった。サトシ独自の好みや趣味に合った店も見つけ、店主とも馴染みになる事が出来た。ヨシオからの教えはネオン街でも生きていた。行きつけの店を持つようになると、そこへヨシオ夫妻を招いた。ヨシオがするようにそれらの店を連れて回ると、二人とも心から嬉しそうで、見込んだ通りだと誇らしく思っているようでもあった。
サトシは恩返しが出来るまでになって、家族ぐるみとの絆の深まりを感じるのだった。界隈では評判の理髪店を営むかみさんは、経済的に不自由する筈もなく、三人で豪遊することが当たり前の夜が続いた。古町へも歩いて行ける距離だったから勢いづくと止まらない。“こどもたち”にとっては留守番を強いられる機会が増えたわけだが、ヨシオ一家とサトシの絶頂期が続いた。
ヨシオが交際しているエミコを伴うことは一度もなかった。サトシは自身と近い年齢らしい魅力的な彼女を見てみたいと思っていた。近くの海岸で撮ったという、身体を少しくの字にしてヨシオの左腕に収まる写真を見せられただけだが、小顔で華奢な雰囲気のワンピース姿が知的でもあり、どうも女性の好みは近いようだ。会ってみたかったが、ヨシオがそれを避けている様にもサトシには思え、叶わなかった。
直接ヨシオの自宅を訪れるときは、サトシは決まって“剣菱”をぶら下げていく事にしていた。和歌山で生まれ、血の気の多い年頃を大阪や京都で暮らしたことからか、選ぶ日本酒は新潟に移り住んでからも剣菱で、数多い新潟銘酒等には目もくれなかった。一時期のトラウマのせいで日本酒が苦手で知識のないサトシは、味覚とは別のヨシオならではの理由があるのだろうと想像していた。
ある日曜日、いつものように剣菱を調達して、晩餐のメニューを予想しながら“こどもたち”の出迎えを受けた。先を争うようにかけてきたふたりから、かがんで低くした顔にベロベロの挨拶を受ける。理髪店で、髭剃り前にお湯で溶いたクリームを塗りたくられているみたいだ。ふたりを代わるがわる体じゅうもみくしゃにやり返す。決まって始まる玄関での儀式である。
そっぷ力士みたいな上半身を大儀そうにくねらせて、ヨシオが左足親指を不器用そうに何やらいじっていた。敷居の角にぶつけて怪我をしたという。親指の内側の爪の際が、皮膚がめくれ血が滲んでいた。傷の大きさに不似合いで小さなキズバンを、どう貼り付けようか決めかねている様子だった。キズバンを二の字に並べてサトシが貼り付けてやった。
ヨシオとかみさんと“こどもたち”とサトシ、いつもの晩餐。足指の傷は忘れ去られた。
この時のどうってことのない小さな傷が、大き過ぎる、延々と続く悲痛の始まりになるのを誰も想像出来なかった。糖尿病合併症という悪魔のような存在を甘く見ていた。ヨシオ一家とサトシや、出入りする友人知人、一人として予測出来る者はいなかった。
ヨシオは極端な医者嫌いだった。
訪問先では健康調理器具を謳っているだけに、それなりの知識は持ち合わせていたが、他人を諭すことはして自身を省みることを知らない、ヨシオらしかった。
何かのきっかけで身体中の外部内部まさぐられるように調べられたら・・・何が見つかるかは当人が予測しているに違いない。だから重篤に至るまでは触れようとしない。知りたくない、見たくない、我慢ならないものがそこにあると分かっていれば蓋を開けたくはない。
翌週の親指は紫色に膨れ上がって、早めに収穫したナスに似ていた。
病院へは行っておらず「歩けるんだから大丈夫だわや」やはりこちらの助言には耳を貸そうとしない。
“こどもたち”を代わるがわるいじくり回しながらなま返事するだけだった。
壊疽が始まっていた。ここからは早かった。
早穫りのナスから始まった左足は、踝まで化膿してブヨブヨしていた。露店に並ぶおもちゃの風船で似たものを見たことがあった。
靴はもちろん、スリッパやサンダルさえ履くことが出来ず、歩くことが困難になったヨシオは、外科の実績と、看護師たちに美形が多いと評判のN病院で世話になることにした。「あそこは別嬪が大勢いるから暫く行ってくるぞ」彼らしい動機づけを語るのだった。覚悟を決めたようだ。一度目の切断手術である。
サトシが様子を見ようと病院へいく度、病室で大人しくしているヨシオを見ることはまず無かった。喫煙スペースでセブンスターをふかしているか、そうでないときは決まって、フロアでも目立つ美形の看護師と、他愛のない冗談を交わしているのだった。
サトシから見ても、世話をしてもらえるのなら少々の犠牲は我慢できそうだと考えて不思議はなかった。少なくとも若い看護師でブサイクは見なかった。優しくて、親切で、気取りがなく、それでいて田舎臭さも感じずこれなら評判になる訳である。妙な気を起こしそうになるサトシだったが、若い男性患者が多いのにも気付いていた。交通事故かそれとも作業中の事故か知らないが、例外なく患者達は明るい。外科病棟の特徴だろうか、運命を受け入れて闘病生活を続けるというような地味な患者はいない。怪我が恢復すれば去ってゆき、またイキのいい患者に入れ替わる。相乗効果が生じているのだろうとサトシは考えた。
義足が出来ていた。
健康的な人肌色をしたヨシオの左足を見たのは半年ぶりだろうか、樹脂で出来た向うずねが天井の蛍光灯を反射して、硬質さを主張していた。車椅子の最前部で異様に目立つ。これで歩けるようになるのか。懸命にリハビリに精を出す、などというような事をする男ではないのをサトシは分かっていた。
依存症なのだから当たり前だと、入院中も人目を盗みながら缶ビールを欠かさなかった。実に旨そうに喉を鳴らす。散歩の名目で車椅子を動かせば病院近くに自販機はあった。それ以降のヨシオはビール以外は飲まなくなった。
「小指が痒い」
膝の皿から10cm程しかない向うずねをピコピコさせながらヨシオが苦笑した。
「感じるんか?」
「そうだ」
「ここを掻いてもしょうがねぇしなぁ」
切断手術後の左足は、サトシには奇異なものに映った。特大の太く短いハムが、膝に括り付けてあるように見える。
念入りに、緻密に作られた筈の義足は、ヨシオの意思通りに役割を果たせないらしく、着脱に手間をかける鬱陶しさを嫌って、移動は車椅子でなければしなくなっていった。上背があったヨシオの、今の目の高さで見る生活空間の景色はどう映っているのだろうか。
歩行の自由を奪われ、性格が変わったみたいになったヨシオの独善は留まることがなくなってゆき、不自由さを紛らわす為には手段を選ばないようになっていった。その頃から居間で寝起きしていたヨシオが理由にするのは、食器や寝具類の不備や汚れなどで些細なことだった。かみさんや“こどもたち”に当たり散らし、グラス、灰皿を投げ飛ばしては部屋中を滅茶苦茶にしてしまう。大柄だけに暴れだすと手が付けられない。短時間で収まらないときなどは後始末もできず、翌朝まで破片や残骸だらけのこともあった。サトシがいるときでこの有り様である。来訪者の無い家族だけの長い時間を想像するのが恐ろしかった。かみさんに対しての慰労や励ましの言葉が意味を持たないことを承知していた。理髪店を一人で切り盛りしている彼女の苦悩は、サトシの想像を超えているかも知れなかった。
トップセールスを誇っていた頃から趣味らしいものを持たないヨシオは、台所で皆の為に腕を振るうという事もしなくなっていた。両脚が揃っていた頃は、生き生きと楽しそうで、サトシも教わりながら一緒に材料を捌いたりすることもあった。並ぶ料理は例外なく旨かった。大柄な上半身を右足一本に委ねて包丁を振るうことなど、物理的に出来る訳もなく、食事も全面的にかみさんに頼ることになる。出掛けることもなくなり、垂れ流しのTV画面を前にして“こどもたち”をおもちゃにして遊んでいるか、吞んだくれるしかないのだった。
サトシが行くことの多かった日曜日の夜、“こどもたち”との儀式を終えて部屋へ上がると、右足の踝と土踏まずにかけて逆三角形に包帯が巻かれてあった。足首がブリーフを履いているみたいに見えた。純白の真新しいブリーフが、片方しかない膝下だけにやけに目立っていた。今度は外側の踝を柱の角にぶつけたと言い、切り傷みたいになったから、チンキを塗って包帯を巻いたらしかった。思案しながら、巻き直しを繰り返したはずの逆三角形は、器用ではないヨシオにしては上出来の仕上がりだった。
純白の逆三角形が、洗濯されないブリーフみたいになって、赤茶色から紫色へ変わり、左足の壊れ方を辿っていくのをサトシは想像してしまうのだった。気分が沈み、薄い鉛の箔で覆われる真冬のこの辺りの気候と重なった。
依存症の性である。ビールを止めようとはしない。この頃はまだ旨そうに喉を鳴らしていた。
ここからの進行は一本目の時より数倍速く、サトシの予測を遥かに超えていた。
切らなければ生命に危険が及ぶと悟ったヨシオの決断は早かった。
左と同じところで切ることになった。
一本目の時と違い、努めて明るく振る舞うことをしなくなっていた。
退院後は膝関節にサポーターを着けていた。義足や松葉杖は拒否していたため、トイレ等の移動時は赤ん坊と同じで四つん這いである。「大男の四つん這い、膝から下が10センチ、膝から下がピッコピコ」サトシがからかうと「ジャカァシィッ!」と笑いながらノッてくる。おおらかな一面がまだ残っていた。
アルコール浸けで不摂生を思春期からずっと続けてきたのだから、大男の、外見では分からないどろどろの体内は一触即発だったのだろう。
「どうもいうことを利かない」左腕を思うように操れなくなってきたようだ。少し麻痺しているように見える。ヨシオが普通にものを食べる様子は見られなくなっていった。次第に咀嚼や嚥下もぎこちなくなってゆき、食事は、命を繋ぐ為に仕方なく行っている作業のようだった。ビールだけは、旨そうにとは言えないが飲めているように見える。
TVの斜め上にある月捲りのカレンダーが一枚変わった頃、意思通りに操れるのは右腕だけになっていた。
“こどもたち”は呼ばれても寄り付こうとはしなくなっていた。首根っこを捕まえて引き寄せても、すばしっこいあのコ達は隙を見て逃げ出す。かみさんの理髪店は年間で最も多忙な時期であり、ヨシオに費やす時間は殆ど取れない。孤独が募っていたに違いなかった。
大晦日、サトシはここ十三年ヨシオの家で年を越す。大抵他の友人も混ざって賑やかになるのだったが、
ヨシオの、自由になるのが右腕だけになってからは、初めての年越しである。サトシ以外来訪者はいない。
「二年参りに行こう」ヨシオが唐突に言い出した。
揃ってあちこち豪遊していた頃でも、年越しは家で呑み明かしていた。大混雑が分かりきっていて、思い通りの身動きが出来る筈のないH神社へ行くというのである。この身体で?気まぐれとしか思えなかったが、言い出したら止められないのは皆が知っていた。
酔っ払いがぐだぐだ歩けば四、五十分は掛かる距離にある、地元では名の通った神社だった。“こどもたち”に留守番を言いつけて、ヨシオを動力付きの車椅子にかみさんとサトシで押し込んだ。オートマのミニカーみたいなもので右腕だけでも運転出来た。かみさんとサトシが一人分離れた後ろから追いてゆく。ヨシオはミニカーを自身以外が操ろうとするのを嫌っていた。
冬の新潟らしくなく、空気も道も乾いていた。このあたり特有の水気の多い重たい雪が少しでも積もっていれば、車椅子など動き回れる訳もなく、珍しい好天もヨシオをその気にさせたようだ。
H神社の周辺や繋がる道路は、交通規制は勿論、地域住民が移動手段を心得ている為、四車線ある道路を走る車は殆ど無く、ヨシオのミニカーは車道を快調に進んだ。
予想通り神社入口周辺は、歩道という歩道人で溢れかえっていた。車道にこぼれそうだ。長丁場を覚悟したサトシは、少しでも早く終わらせたいという思いで周りを注視していると“車椅子はこちら”案内板を見つけた。白地に赤のゴシックで書かれたその案内板が、サトシには、楽園に導く派手なネオンサインに思えた。身内に障害者がいるとこんな得することもあるのかと、ヨシオを神と仰いだ時期を思い起こしたのだった。
車椅子用の通路は快適だった。ナメクジやカタツムリでも勝てそうな、動く気配が感じられない速度の人の塊の横を、ヨシオのミニカーが先導して通り抜けてゆく。段差や階段部分は敷板でスロープ状にしてあり、1メートル程の幅がある通路はヨシオやかみさんサトシらを錯覚させた。VIP扱いされているようで舞い上がる気分になった。昇りスロープで、かみさんやサトシがハンドルを握り押すのをヨシオは遮らなかった。ミニカーの馬力では苦しそうだから当然だった。
神社でのしきたりをこなしたミニカーの一行は、予定していたより早く済んで、帰宅の途中で年が変わった。
“こどもたち”の出迎えを受けてそれぞれの儀式を済ませ、呑み直したのだった。久しく記憶にないくらい三人とも上機嫌で、束の間、絶頂期に戻った気がした。“こどもたち”は三人があまりに朗らかに振る舞う為、競い合うように部屋中はしゃぎまわっていた。竜巻が襲ったようだ。ヨシオが小便でトイレに向かう四つん這いすらも、当人から笑い話に変えていた。明け方まで続いた宴は、長く続いた陰鬱を忘れさせ、これ以上は望めない元日になった。
二週間が過ぎた日曜日、ヨシオにとって最期の晩餐になった。
いつもの日曜日の様に、家族みんなとサトシと、いつもの晩餐のさなか、ヨシオは餅を飲み込みきれず、窒息死した。
その瞬間、サトシは、ヨシオの呻きの中に、呟きを聞いたような気がした。