去る日に
別れを言うべき時は来る。
季節外れの桜前線が、すぐそこまで迫っていた。しかしこの学校は山の近くにあって、桜の木はまだつぼみをほころばせる気はないようで、狂い咲きの1本を除き、満開どころか開花している樹でさえ敷地内にまだ数本くらいしかない。それでも虫や鳥は早くから活動を再開していて、春の到来がすぐそこまで来ていることはひしひしと感じられる。一年の学校行事の締め、卒業式が終わり、もうすぐ入学式という今の季節に、だれもが浮かれているようなこの時期に、しかし新荷はいつも通りの場所に当然の顔をして座っていた。
「春といえば、日本人なら桜を思い浮かべるものだという風に思われているが、日本においてもっとも有名な桜の品種ソメイヨシノが生まれたのは江戸時代だってことは知っているかい」
予備教室の窓際の席、その机に腰掛けて、いつも通りのにやにや笑いを浮かべながら、前ふりなくそんな話を振ってくる。新荷の背後の窓はカーテンが引かれていて、教室のなかは薄暗い。新荷はいつもこれくらい暗い場所にいる気がする。
「江戸時代、江戸の植木屋が集まる染井村ってところで品種改良して出来た、いってみれば人口の樹さ。日本の心だなんて言ってても、たかだか西暦1700年とかに生まれた品種だ。歴史も何もあった物じゃない。これが桜の代表格じゃ、西行法師も浮かばれまいよ」
「サイギョーホーシ?」
「おや、知らないか? 『願わくば 花のもとにて春死なん その如月の望月の頃』っていう歌を詠んだ歌人だよ。春満開の桜の下で死にたいなんて、ロマンチストなお爺さんだね。少女まんがの読み過ぎかもしれないな」
そう言って、くっくっく、と愉快そうに肩を揺らす新荷。口の端を上げ、指を一本立てる。
「さらに重ねて言うならば、花と言えば桜だが、花の兄と言えば梅だった。花札にも登場しているし、梅に鶯と言えば風流の代名詞だ。そして、トワ君みたいな学生にはなじみ深いあの菅原道真も、歌では梅の花を詠んでいる。かなりの市民権を得ていたと言っていい。それがいつのまにか桜にお株を奪われた感じだな。太陽と月の様なものだ。女性はかつて太陽だった、とは女性運動の有名な一文だが、この言葉、日本でこそふさわしい。なにしろ主神が女神でかつ太陽神という日本の神話はかなり珍しいタイプらしいからね。つまり、」
ここで新荷は立てた指を俺に向け、
「時代劇とかで表現されている男尊女卑の図は、もっと昔にはむしろ逆だった。婚姻制度もそうだし、社会体制は、時代によっていくらでも逆転するというわけだ。世の中すべて流転する。諸行無常の響きあり、なのさ。そして、桜はその象徴。日本人が桜をことのほか愛してやまないのは、この無常観に起因すると言っていいかもしれないね。散る姿こそ美しい、それは人の夢のように儚いものだから、日本人の感性にあっていた、ってことさ」
新荷は一気にそこまで言った後、自分の背後――カーテンを指差した。
「トワ君、この窓を開けたまえ」
当然のようにそう俺に命じる新荷。にやにやといつもの笑みを浮かべ、尊大に口の端を上げた。どう見ても新荷の方がその窓に近いのだが、自分で開けようとする気配がない、というか振り返りさえしない。俺は仕方なく、新荷の命に従って、窓を開けるべく立ち上がった。新荷の横に立って、手を伸ばす。
カーテンを開けた時。一瞬、息をのんでしまった。
季節外れの、満開の桜の花がそこにあった。それはまさに、校内にたった一本だけの、狂い咲きの桜だった。
「――気にいってくれたかな? この学校を去る君に、もはや私から君に何かをあげることはできないけれど、見せてやることはできるのさ」
横から新荷の声が聞こえる。俺はそちらを見ることができない。悔しいが、桜に見とれて、振り返ることさえ忘れてしまった。俺は無意識に、窓を開いた。桜の花びらが舞っている。
そう。今日は、卒業式だった。卒業式はもう終わって、俺の手には、卒業証明書の入った黒い筒が握られている。今頃クラスのみんなは部活や職員室にでも行って、最後の名残を惜しんでいるのだろう。しかし、おれは帰宅部なので、卒業を祝ったり惜しんだりしてくれる後輩も無く、ついでに成績も悪かったため職員室に用もなく、だからこうして久しぶりに新荷に会ってみる気になったのだ。そこに特段の意味はなくて、そもそも学校を楽しいともつらいとも思ったことのない俺にとって、卒業という通過儀礼の持つ意味は、まさに単なる通過儀礼でしかなかった。だから日常の延長としてこうして新荷と話をしていたつもりだった。けれど、そうか、今日が最後なのだ、とこの時初めて俺は気がついた。俺が卒業するということは、同時に、新荷を学校に残すということなのだ……
その途方もない孤独に俺は打ちのめされて黙り込んでしまった。そんな俺に、新荷は言葉をつづけた。
「だからこれが私からの餞だよ、トワ君。私は君の未来に興味はないが、しかし、そうだね、たまには学校にもどってくれると嬉しい。私の饒舌を聞きにまた遊びにおいで」
新荷のいつも通りの口調に、いつもと違う寂しさを感じたのは、俺の気のせいなのだろうか。俺はなにか返事をしなくてはと、新荷を振り返り。そして、今度こそ絶句した。
そこには誰もいなかった。
神出鬼没の、尊大で、饒舌な女子生徒の姿は、もはやどこにも、無くなっていた。現れたときと同じように、あっという間に。まるで最初からいなかったかのように。
そのとき。一陣の風がさっと吹き込んで、桜の花びらが数枚、教室に舞い込んだ。そして、呆然と教室を眺める俺の目の前を、からかうようにくるくると舞う。おれはそれを見て、ふいに悟った。
新荷とはきっとまたいつか会う。この教室で。初めて出会った時計塔で。この学校のどこかで。だから、俺はまたこの学校に来なくてはならない。楽しくも、つらくもなくて、だらだらと退屈で、面倒で、くだらないだけの日々を過ごした、この学校へ。
――新荷冬芽にまた会うために。
「饒舌シリーズ 饒舌」を本編として書いていた頃、想定していたエンディングの一つです。今となっては設定上、構成上不要なのでこのような形での投稿としました。