喫茶店にて2
同じ喫茶店で、別の日の話。
俺はボーっと頬杖をついて、季節外れの蝶がパタパタと頼りない動きで窓の外を横切っていくのを眺めていた。
待ち合わせ時間から30分が経っていた。冬芽が時間にルーズなのはいつものことで、もっと言えば俺だってタイトなわけではない。冬芽と俺が待ち合わせをすれば、時間ぴったりにそろうことなんかほとんどなくて、つまりこのくらいの遅れはお互いにいつも通りだった。だから俺としては特に文句はないのだが、しかしそろそろ店員の視線が痛い。注文を取りに来たウェイトレスから水だけ受け取って「ツレが来るから」と追い払った手前、分はこちらが悪い。そうは分かっているものの、俺が先に食べたり飲んだりしていたりすると、冬芽はなんとなく機嫌が悪くなるので俺も何となく注文しにくい。ぬるくなった水をちびちびとすすりながら窓ばかり見てしまう。だからいつもなら気にも留めないような小さな蝶一匹が気になってしまうのだろう。
そんな針のむしろ状態だったので、さっき蝶が横切っていった窓を、今度は黒髪が横切るのを見て、思わず安堵の息を漏らした。向こうは気がついていないようだが、特徴的なくるくる巻き毛は間違いない。
カフェの入り口の鈴を鳴らしながら入ってきたその客は、いつも通りの表情にいつもと少し違う服装の冬芽だった。冬芽は俺を見つけると、小走りに駆けよってきた。俺の前の席に座ると、かぶっていたキャスケットを脱ぎながら、いつものにやにや顔で、
「やあ、すまないね。待たせたようだ。もう少し早く来るつもりだったんだけれど、ま、諸般の事情ってやつで仕方なく遅れたのだ。大目に見てくれ」
「遅れた側の言うセリフかよ、それ……」
見計らったように素早くウェイトレスが割り込んできた。いやたぶん見計らったんだろう。どれだけウェイトレスさんの忍耐力に試練を味あわせていたのかが分かる。ウェイトレスさん、すまん。主に冬芽が悪いんだ。許してくれ。
俺はコーヒーとモンブランを、冬芽はショートケーキを頼んだ。来るまでの間にとでも言うように、冬芽はさっそく口を開いた。にやにやとした笑みを口の端にのぼらせながら、
「それにしても珍しいね。君が私より先に待ち合わせに来るなんてさ。今日は一体どういう風の吹きまわしなのか、ぜひとも聞いてみたいものだ」
「お前それ俺が毎回遅れてるみたいな言い方やめろよ」
むしろ俺が先の方が多いだろう。……だいたい6:4くらいで。
「じゃあなにかい? トワ君、君は、毎回遅れているのは私だと言いたいのかな?」
「いやそこまでじゃない」
「ならば私に罪を押しつけるような真似は止すことだね。大人しく罪を認めれば、情状酌量の余地もある。刑務所は隔離施設じゃなくて更正施設なのだ」
「なんで俺罪を犯したことになってんだ」
といつも通りに応酬をしている間にコーヒーとショートケーキとモンブランが運ばれてきた。さっきのウェイトレスさんだ。そのウェイトレスさんが「ごゆっくり」と営業スマイルで差し出すケーキとコーヒーを受け取った。しかし、さっきのこの人の視線の痛さを知っている分逆に怖い。
「おぉ、来たね。待ちわびたよ」
俺の背筋を流れる汗にはまったく気がつく様子も無く、冬芽ははしゃいだ声を上げた。受け取るなり、さっそくケーキを崩しにかかる冬芽の目は真剣だ。
「お前ほんとケーキが好きだな」
「今日は特別にね。朝ごはんを食べていないのさ」
口の中にケーキを頬張ったまま答える冬芽。いつものにやにや笑いが、うむ、大変嬉しそうである。こいつの笑顔はいつだって人を馬鹿にしたような、なにかをたくらんだようなそんな笑顔なので誤解されることも多いのだが、実際のところ冬芽のにやにや笑いにはいくつか種類がある。この差が見抜けないと冬芽と付き合っていくことはできない。
「空きっ腹にケーキかよ。甘いものがそんなに好きなのか」
コーヒーをちびちびと飲みながら俺がからかうと、冬芽は顔も上げないまま答える。
「甘いものが嫌いな生物はいないよ。そして苦いものが好きな生物もいない。甘さは栄養を、苦さは危険を表わすものだからね。例外は人間だ。そしてトワ君こそ、」
と、口にフォークをくわえたフォークを抜きざまに、その先端を俺に向け、にやりと笑う。
「その『生物学的に矛盾した嗜好』の代表と言うわけだね。そんな苦い飲み物を平気で飲むあたり特に、さ」
「お前、コーヒー苦手だったか?」
「苦手ってわけじゃないよ……嫌いなだけさ」
あれ、目を反らした。……ふむ。
「そういえば聞いたことあるな。子どもの味覚は苦いものを受け付けないって」
俺がためしに、そうからかうと、冬芽はごく落ち付いた様子で口の端をつり上げた。
「トワ君、安い挑発だね。そんなわかりやすい挑発に私が引っかかると思ってるのかい? 嫌いなだけだってこと証明してあげるから、ほらそれ一口頂戴」
って、いきなり引っかかってるぞ……。なんだこのちょろさ。こちらに手を伸ばす冬芽に、俺は飲みかけのコーヒーカップを手渡した。
「熱いから気をつけろよ」
「言われずとも。どれ、……熱ッ!」
冬芽は口をつけるなり小さく叫んで口元を押さえた。言わんこっちゃない。
「無理すんなよ、ほら、水のめ」
水のグラスを握らせると、冬芽はそれを素早く飲み、一息ついた。そうして俺を見上げ、にやっと不敵に笑って、
「ほらな、平気だったろう」
「今さっきの動画に撮って見せてやろうか?」
なに言ってんだこいつは。
「著作権、いや肖像権の侵害を宣言するのかい? 私は断固訴えるぞ」
「彼氏を訴えるなよな……」
「ふん。彼女の扱いも知らない男がなにを言うかね。裁判じゃ、女性の方が強いのだ」
「へいへい、分かってますよ。冬芽」
俺は肩をすくめた。そしてズボンのポケットを探って、小さな包みを取り出した。
「じゃ、俺のとびきりおっかない彼女に貢物だ」
ポンと冬芽の目の前にその包みを置いてやると、冬芽はきょとんとした表情で動きを止めた。
「ここでは開けるなよ、はずかしいからな」
俺は素早くそう念を押して、包みを押しやった。
「……いやはや、ほんと、どういう風の吹きまわしだ。明日は雪どころか槍が降るな。天変地異の前触れかもしれん。ふむん、防災グッズでも買っておくとするかね」
くっくっく、と含み笑いを浮かべながら、そう言った。セリフとは裏腹に、冬芽は包みを大切そうに胸に抱いた。このにやにや笑いの意味は、……言わずもがな、か。
「誕生日プレゼントくらい、普通に喜んで受け取れよな……」
やれやれとため息をつきたいのを抑えて、俺は代わりに、冬芽の頭をポンポン、と撫でてやった。
「何にせよ、だ。――誕生日おめでとう、冬芽」
俺の言葉に、冬芽は顔を上げた。その表情は――悪いね、俺だけの秘密だ。
残念ながら指輪ではないです。