vol.9
開放された移民紛争解決センターの門の前に、既に移民たちの姿はなかった。だが、一歩敷地内に踏み込むと、平日の朝とは思えないほどに大勢の移民が詰めかけている。カウンター内の職員に向かって自分の被害を声高に訴えている者や、一目で悪疫と分かる黄色くやつれた顔の病人が、受付前に所狭しと陣取っていた。
先頭の移民が何やら興奮した様子で喚き立てているため、列が動く気配は一向になく、臣吾は幾度となくあくびをした。
「失礼します」
後ろのほうから流暢な自国語が聞こえてきたのはそのときで、臣吾は何気なく振り向こうとしてぎょっとした。軍靴の音も高らかにリノリウムの床を進んでくるのはNSIの釘宮だ。整った面長の顔は角ばった灰色の制帽の下に死神のように冷たく映え、突き出した咽喉仏が詰襟の中に埋もれている。移民たちは突如闖入してきたNSIに一瞬のうちに静まり返り、皆が釘宮に道を譲っていた。
臣吾と目が合った瞬間、釘宮はニィと不気味な笑みを浮かべて立ち止まった。
「また、お会いしましたね。いいえ、実はあなたのお宅をお伺いしたらもぬけの殻になっていまして。やむをえず上がらせていただきましたところ、さる移民の民族衣装が発見されたのですよ」
「な……勝手に入ったのかよ」
立場も忘れて抗議した臣吾に、釘宮はぺろんと一枚の薄黄色い紙切れを見せる。家宅捜査令状、の文字が臣吾の目に刻み込まれるまでに、たっぷり十秒を要した。
臣吾の咽喉が詰まった。釘宮は自慢げに家宅捜査令状をひらひらと掲げてみせ、
「ラッキーなことに、親切なタクシー会社から通報がありまして。移民の子どもと自国民の少年が明け方に連れ立って移民紛争解決センターへ向かったらしい、とね。市民のご協力には感謝しなくてはなりません」
臣吾はタクシー運転手の不審げな目を思い出して歯噛みした。
――あの野郎!
傍らにたたずむ少女がおびえたように臣吾の開襟シャツの裾を握った。釘宮は初めて少女に気付いたかのように笑みを引っ込め、三白眼に冷酷な光を宿した。
「これはこれは……恋人というには少々お若いように見受けられますが」
「違う、こいつは……」
「セリータ・ゾイド・ソフィーさんでしょう」
釘宮の目は、まっすぐ少女に向けられている。視線でもって少女を射抜こうとするかのように、瑠璃色の眼光が燃えている。
「ソフィーさん、ご機嫌麗しゅう」
「ソフィー……?」
少女が戸惑ったように小首を傾げる。釘宮は足早に少女に近寄るやいなや、その頭から野球帽を剥ぎ取った。
色素の薄い栗色の髪がふわりと少女の肩に広がり、アッシュの瞳が落ち着かなげにまばたきする。釘宮は野球帽を床に捨てると、薄い唇をゆがませた。
「失礼ですが、ご足労いただいてもよろしいでしょうか」
「ちょっと待てよ」
見ていられず、臣吾は少女をかばうように立ちはだかった。
「どういう用件で連れて行くんだ。こいつが何をしたっていうんだよ」
「昨晩もご説明申し上げましたが、ソフィーさんは家出をされて親御さんから捜索願が出されていまして」
「嘘なんか聞きたくないッ!」
臣吾の激しい語調に、「おやおや」と釘宮が肩をすくめる。周囲の移民たちも固唾を呑んでこちらを見守っていた。
しばらく睨み合っていた二人の仲裁に入ったのは、意外にも、そうした移民の中の一人であった。
「警察の方かえ。お待ちなされえ」
赤銅色の肌に彫りの深い目鼻立ちを持つ老人が、いくぶんかしわがれた声で、しかしなめらかな自国語を喋った。壁際のソファからゆっくりと立ち上がり、曲がった腰を「よッ」と伸ばして釘宮を見上げる小さな目には、穏やかだが強い光が湛えられている。
「どういうご用件で来なすったんかは知らんが、ここはこの国のどんなお偉方も踏み込んでは来られないところじゃ。あなたがどんなに偉かろうと、その女の子を無理に引っ立てていく権利はない」
「そ……そうだ! ここは治外法権じゃないか!」
勢いづいて臣吾が詰め寄ると、釘宮は泰然と「そう熱くならずに。強制でなく、任意でご同行いただくつもりでおりましたから」と受け流した。
だが、一部始終を聞いていた移民たちは釘宮に敵意のある視線を送っていた。もともとNSIには散々おびやかされてきた連中である。相手が相手であるだけに騒ぎ立てることこそしないが、釘宮のぐるりをぎらぎらと輝く双眸が取り囲んでいる光景は圧巻だった。
釘宮は目を閉じた。
「分かりました。ここで手荒な真似をするのはよしましょう」
その口調には、言葉と裏腹の余裕が覗いている。臣吾は無意識に身構えたが、釘宮は鼻につくほど恭しく背を折って踵を返した。直線に象られた垂直の背中が遠ざかっていき、表通りに停めたNSIの車へと吸い込まれていく。その車が発進したところで、臣吾は安堵のあまりくたくたと崩折れて床に膝をついた。