vol.8
口から出まかせに言い放った「家宅捜査令状」とやらが、どのくらいで発行されるものかは分からない。だが、再び釘宮が押し入ってくるだろう朝までにはマンションを離れたほうがいいと思い、臣吾は少女を連れて深夜営業のタクシーに乗り込んだ。
人目を引くサリーは洗濯機に放り込んできた。代わりに着せたのは、臣吾が子どもの頃に着ていた黄色いTシャツとデニムの半ズボンだ。アッシュの目元を隠すために、頭には野球帽をかぶせた。臣吾自身も家に置いてあった父の伊達眼鏡で変装し、髪をくしゃくしゃにして印象を変えた。釘宮の目をどこまで欺けるかは分からないが、何もしないよりマシだ。
まず自分がタクシーの後部座席に腰を下ろし、つづいて少女を乗り込ませた臣吾は、移民紛争解決センターの最寄り駅の名を告げた。制帽をかぶった老年のタクシー運転手は胡散臭そうな目で年若い客二人を見比べる。
「ここからだと一万はかかるけど、いいですかね」
「大丈夫です。手持ちはありますから」
「ふぅん」
運転手はなおも不審そうに二人を見比べていたが、それ以上何も言わずに発車した。マンションが背後に遠ざかっていくと、臣吾はようやく安堵して座席の上でぐったりと身を寛がせた。
車の震動が心地よいのか、少女は座ったままこっくりこっくり舟を漕ぎ、やがて寝息を立てはじめた。臣吾はしらじらと明けていく空を車窓から見上げる。クラスの連中はまだ夢の中だろう。同級生の一人が正体不明の移民の女の子を連れてNSIに追い回されているなど、想像もしていないに違いない。
もしもNSIが臣吾の友達に行き先を訊いたところで、答えられる者は誰もいないはずだ。臣吾は頭をもたげてくる不安を懸命になだめる。自宅から一歩出ただけで、どうしてこんなに心細くなるのだろう。落ち着け、大丈夫だ、と言い聞かせる一方で、NSIの車が尾行してきているのではないか、上空から突然NSIのヘリコプターが姿を現すのではないかと、悪い想像が虻のように付きまとってくる。
少女は隣でくぅくぅと眠っていた。
――ひとりだけ気持ちよさそうに眠りやがって。
その寝顔を見ていると安心するよりムッとして、臣吾はちょっと少女の頬をつまむ。陶器のようにすべすべした肌で、少しくらいつままれてもまるで起きる気配はなかった。
――やれやれ。
吐息をついて、臣吾は前を向いた。
目的駅へは一時間弱で到着した。運賃を払ってタクシーを降りた臣吾は、まだ目の覚めきらない少女の手を引いて移民紛争解決センターまで歩き出した。
早朝の官庁街は閑散としてからりと涼しい。しかし、あと二時間もすればたちまち汗ばむほどの陽気になるだろう。
二階建ての移民紛争解決センターは周囲の近代的な庁舎と比べると野暮ったくて見劣りがするが、この地区には珍しく多くの緑に囲まれた自然豊かな環境だった。通称こそ移民紛争解決センターであるが、性質としては大使館に近い治外法権の施設で、庁舎と違って諸外国の連合による全世界民族共和同盟の管轄下に置かれているため、施設の周辺環境についても同盟による事細かな規定があったのかもしれない。
時間的にまだ開いていないはずだが、センターの門前には早くも移民が詰めかけていた。その数、ざっと二十人あまりはいただろうか。門が開かれるのをおとなしく待っている者は少数で、「開ケロー」と怒鳴りながら門を蹴飛ばす褐色の肌の大男や、原色のミニワンピースの裾も気にせずしゃがみ込む虚ろな目の中年女性がいて、見るからに荒んだ雰囲気が漂っていた。
「……そういや朝飯も食ってなかったな。センターに行く前になんか食べようか」
少女の手を引いてそう誘ったのは、こうした移民たちに混じって待つ気になれなかったためである。少女は喜んで臣吾の手を引っ張りかえし、「朝飯! 朝飯!」とはしゃいだ。恐らく朝食など口にしていないだろう移民たちが一斉にこちらを睨んだ気がして、臣吾はあわてて少女を連れてその場を立ち去った。
官庁街でも二十四時間営業のファストフード店はある。少女はトレイに盛られたプチパンケーキとチャイを前にしてご機嫌だ。食欲が湧かず、コーヒーをちびちび飲みながら、臣吾は少女がプチパンケーキをつつくのを静かに眺めていた。
「おいしいか」
「ふわふわしてておいしいの!」
無邪気に答えてシロップのかかったプチパンケーキを頬張る少女を見ていると、ふっと悲しみに駆られる。少女は記憶を失う前の生活で、パンケーキを食べたことがあっただろうか。以前の生活に戻ったとき、好きなときに好きなだけのパンケーキを食べられるだろうか。
臣吾はすぐに首を振る。
そんなこと、自分が悩むことじゃない。
「そろそろセンターが開くかな」
腕時計に目を落として独りごとを言うと、少女は「行くの?」と目をぱちくりさせる。
あまり長く一緒にいても情が移るだけだ。事務的に済ませたい。
「ああ、行くよ」
臣吾が席を立つと、少女は健気に自分でトレイを片付け、満足しきった顔でついてきた。臣吾は両手をポケットに突っ込み、早足で店を出る。出会って一日も経っていないのに、別れを寂しいと思う自分の心がふしぎだった。