vol.7
もはや一刻の猶予もならない。
ドアの前から国家特別捜査官釘宮の気配が消え去った後も、臣吾の緊張は解けることがなかった。
国家特別捜査局、通称NSIは主として公安事件の捜査機関で、法務省の管轄に属している。しかし、公的機関ながら悪評は絶えない。反政府組織構成員を逮捕、強制送還しているという噂はまだ優しいほうで、捕らえた組織構成員に対して取調べと称した拷問を科し、組織内部に協力者を仕立てるという卑劣なやり口で情報を得、さらには単なる軽犯罪法違反者に無実の余罪を着せ、本来ならば不要なはずの強制送還措置にするなど、手段を選ばぬ過激な移民排除から、自国民からさえ”移民狩り”と陰口を叩かれて距離を置かれていた。そんな捜査局が、迷子の捜索ごときで前面に出てくるはずがないのだ。
自分のベッドで平和に寝入っているはずの少女を思い、臣吾の胸には激しく動悸が打った。
NSIが大々的な捜査活動を展開しているとなると、あの無害そうな少女が何らかの公安事件に関わっている可能性はきわめて高い。テロ組織の一員? スパイ? 幹部候補生? それとも――暗殺者。
臣吾は戦慄した。まさかあんな幼い子が、と思う一方で、旧政府の政権末期に相次いだ殺人事件の報道が次々と思い出される。十代後半から二十代の青年将校らの決起。十六歳の愛国少年による要人暗殺。十代前半の少年少女による商店襲撃。毒薬も銃器もナイフもある現代において、「年少者に殺人は犯せない」という前提は成り立たない。
無防備なソファの上で、自然と身が硬くなる。
もしも少女が暗殺者だったとしたら――。
呼吸が急に速くなる。
記憶喪失のふりをして、社会的地位の高い住民の誰かを暗殺するつもりで、このマンションに忍び込んだのだとしたら――。
もしもそうだとしたら、少女にとって偶然姿を見られた臣吾は邪魔者――。
「うわあっ!」
突然首筋に冷たいものが触れ、臣吾は飛び起きた。「ふわっ」びくっと身を縮めた少女がソファの傍らに佇んでいる。臣吾は血走った目ですばやく少女の手元に視線を走らせた。銃、ナイフ、もしくは得体の知れない瓶を持っている様子はない。
それでも臣吾は気を緩めず、真向から少女を睨んだ。
「何だよ」
「怖い夢見たの」
「夢?」
真実か、油断させるための方便か、臣吾には分からない。だが少女は半べそを掻きながらソファの背もたれにしがみつき、
「夢……暗いところだったの。押し込められて動けなかったの。外からダッダッダって音がして怖かったの……」
すがってくる少女を目前にしていると、疑いも氷解しそうになる。それこそ少女の手口なのかもしれないが、泣き顔の少女を見て「こいつは暗殺者だ」と頑なに思い込めるほど、臣吾も鬼ではない。
――損な性分だ。
「分かったよ。ここにいなよ」
仕方なしに身体をずらして少女のためにスペースを空けると、少女はちょこんとソファに座った。背を凭せかけて楽な姿勢を取ってはいるが、夢の内容がよほど恐ろしかったのか、潤んできらきら光る目を虚空に向けたまま瞼を閉じようとしない。
曰くありげな少女を他人の手に託すことに、罪悪感がないとは言えない。しかし、自分が預かっていたら、どのみち釘宮に見つけ出されてしまうのだ。
臣吾はソファに深く腰掛けると、少女と目を合わせぬように項垂れた。目覚めてなお夢の余韻におびえている少女にどう話を切り出したものか迷ったが、目を合わせながらではとても言い出せない。
「俺……考えたんだけどさ」
一呼吸置いて、
「明日、移民紛争解決センターに行こう」
「……」
少女は何も言わない。その表情も窺われない。
相手の心の動きが分からないのをいいことに、臣吾は一気に告げた。
「お前、記憶喪失だろう? 家も、名前も、どこの民族かも分からないんじゃ、俺じゃ力になれないよ。期末試験もあるし……。やっぱさ、こういうの、専門的なところに任せたほうがいいと思うんだよね」
口を閉じても少女は何も返事をしない。眠っているのかとそろりそろりと顔を上げると、少女は相変わらず暗闇に目を見開いたまま、しかし先程より穏やかな表情をしていた。その表情を見て、臣吾はひとまずほっとする。
しばらくじっと明後日の方向を見つめていた少女の目に、少しずつ光が戻ってきた。「そうなの」とつぶやく声にも、臣吾を咎める響きはない。
「あ、でもさ、乗りかかった船だし、お前を安心して預けられるところは一緒に探すよ。やっぱり変なところにはやれないし、お前がちゃんと家に帰れるようにしてやるからさ。学校も休めるし、ちょうどいいや」
無理に強がって笑うと、少女も一緒になって笑った。その明るさが、臣吾にとっては救いだった。