vol.5
さて、連れてきたはいいものの、この少女をどうすべきか。
空調機のお蔭で室温はだいぶ下がり、汗もすっかり引いている。冷えた頭がようやく回転しはじめた。少女はリモコンにこわごわと触れ、でたらめにボタンを押しては喜んでいる。まるで三歳児のような無邪気さだ。
真先に思いついたのは警察へ連れて行くことだった。迷子だといえば預かってくれるだろうし、何らかの手立てを打ってくれるかもしれない。しかし、どうにも気が進まないのは、近年の警察が反移民寄りで中立的な捜査をしてくれないためだ。もし良心的な警察官にあたったとしても、自分がどこから来たかさえきちんと言えない子どもの家をわざわざ探してくれるとも思えない。
「そういえば」
臣吾は身を起こした。
「お前、名前は?」
名前は民族独自の文化だ。よほど代わった名前を付けられているのでないかぎり、ある程度まで民族を絞ることは可能だった。
だが、少女は困惑したように口をつぐむ。臣吾は少女がふたたび口を開くまでしばらく待ったが、不意にある可能性に突き当たって顔を上げた。
「もしかして、お前、記憶喪失なのか?」
「きおくそうしつ……?」
「憶えてるか? 住んでたところとか、家族の名前とか、通ってた学校とか……」
矢継ぎ早の質問に、少女は上目遣いに臣吾を見つめる。やや恨みがましいその目は、知らないの、と言っていた。臣吾ははっとして顔を伏せる。
「ごめん」
「ううん」
不器用に首を振った少女は、その場に漂ういたたまれない空気を吹き払うかのような明るい声で、
「咽喉渇いちゃったの! れいぞうこっていうの、ちょうだい」
「バカ。冷蔵庫は飲み物じゃないよ」
臣吾は苦笑して立ち上がる。少女の正体は依然として不明だが、臣吾に対する警戒心や敵意はもはや微塵も感じられない。くじいた足を投げ出して床に横座りし、飲み物を待ちわびる少女の姿はこのうえもなく可憐で、臣吾は父の単身赴任により余儀なくされた一人暮らしの空間に一輪の花を添えられたような気分になっていた。
キッチンにはちょうど朝淹れたチャイが残っていた。ほとんど塵芥に近い低品質のチャイから作られるこの甘ったるいミルクティは、もともとは移民の食文化のひとつだったが、今では自国民の食卓にも浸透している。尤も、ある程度の年配の自国民は「貧しい移民の飲み物」と蔑んで口にしないが、臣吾のような財布の軽い学生たちにはその手軽さゆえ親しまれているのだ。
既に冷えきっているチャイを温めなおしたものかどうか迷ったが、面倒になってそのままマグカップにそそいだ。少女のもとへ運んでいくと、「れいぞうこ?」と訊きながら少女がマグカップを両手で包み込むように捧げ持つ。
「冷蔵庫じゃないっての。チャイだよ」
「ちゃい?」
「そ」
チャイを知らないとなると、南アジア系の人種ではないようだ。マグカップで顔を覆うようにしておいしそうにチャイを飲む少女を、臣吾はぼんやり眺めた。自分の民族の文化にまつわるものを見せれば記憶がよみがえるかもしれないとふと思ったが、捜査対象となる民族は絶望的に多すぎる。そのうえ、移民の文化から発生していても自国民にカスタマイズされてしまった製品は少なくない。そんなものを見たところで記憶は触発されないだろう。
やっぱりだめか。
臣吾はふーっと息をついた。
「おいしいの」
口の周りにべたべたとチャイをくっつけたまま、少女はにこにこしている。無邪気な笑顔を見ていると、どうにかして記憶を取り戻させてやりたい、力になってやりたいと思ってしまう。
警察が頼りにならないならば、多国籍街の役所はどうだろう。少女が多国籍街の出身とはかぎらないが、日頃から色々な民族と接している役所の人間であれば、彼女がどの民族の子供であるかも分かるに違いない。もしもそこでだめなら、少し畑違いではあるが、移民紛争解決センターに連れて行ってみよう。これだけ多くの機関をまわれば、手掛かりくらいは掴めるかもしれない。
「あっ」
少女の手から突然マグカップが滑り落ち、残っていたチャイが少女の胸元を派手に濡らした。空になったマグカップが鈍い音を立ててカーペットに転がる。少女は呆然としていたが、「チャイ、こぼれた」とつぶやくなり、くしゃくしゃと泣き出しそうに顔をゆがめた。
「ごめんなさい……」
「ああ、いいって、いいって」
臣吾はあわてて座りかけたソファから腰を浮かす。父の気に入っているモスグリーンのカーペットにはチャイが点々と飛び散り、正直なところ、参ったな、と思っていたが、泣き出しそうな女の子を前にそんなことを言うわけにも行かない。キッチンから持ってきた布巾でカーペットを拭こうとした臣吾は、少女がきまり悪そうにもじもじと俯いているのに気付いて手を止めた。
チャイをこぼされて参ったな、とは思っていても、少女に対してふしぎと腹は立たない。むしろその胸元をべっとりと濡らすチャイが気になった。
「汚れちゃったな。お前、風呂入ったら?」
何気なく言った後で、臣吾は「風呂」という言葉につい赤面し、「あ、いや、その、俺、何ていうか、下心なんか、ってか年下興味ないし、その」としどろもどろに付け足す。少女は意味が分からないらしく、焦る臣吾を面白がって笑った。彼女の笑顔を見て、ようやく臣吾の肩の力も抜ける。
風呂を沸かし、少女を浴室に追い立てた臣吾は、胸底から深い溜め息をついた。今日は溜め息のつきどおしだ。幸いカーペットはじきに元通りになったが、少女のサリーに付着したチャイのことを思うとげんなりする。大量の砂糖が含まれたチャイは、こぼしてすぐならまだしも、一旦染み込んでしまうとなかなか取れないのだ。きちんと洗剤で洗う前に浸け置きしておかなければならない。
浴室からは湯の跳ねるぱちゃぱちゃという音が響いてくる。少女は浴室までは廊下の壁に捕まり立ちをして自力で歩いていったが、浴室内で転んだりしないだろうか。だが、耳を傾けていても、足を滑らせるような物音は窺われない。臣吾は何となく落ち着かない気分で、「さあ、洗濯だ、洗濯」と独りごちて立ち上がった。
玄関チャイムが鳴らされたのはそのときだ。
臣吾は反射的に時計を仰いだ。十時三分前。宅急便にしては遅すぎやしないか。
「夜分遅くに申し訳ありません。前嶋さん? お留守ではありませんよね?」
男の声がドア越しに呼びかけてくる。玲瓏たる、と表現したいような、冷たく澄んだ張りのある重低音だ。
だが、臣吾はその声の裏に漂う薄刃のような鋭い響きに気が付いていた。
「もしもし、前嶋さん? 開けていただけませんか?」
「いま行きますよ」
わざとぶっきらぼうに返事をした臣吾は、玄関に向かおうとしてガラステーブルに載せたままの金塊に目を留めた。何故かは分からないが、金塊をズボンのポケットに突っ込む。見られてはいけない、という心の黄信号はほとんど直感だった。臣吾は深呼吸し、騒ぐ胸を懸命になだめて、大股で玄関ドアへと近付いた。