vol.4
――損な性分だ。
結局、臣吾は少女を負ぶって家まで連れて帰った。背中に乗った少女は打って変わって楽しげで、「わあ、高い、高いなぁ」ときゃっきゃとはしゃいでいる。不安定な体勢にも関わらず足をぶらぶらと遊ばせるため、気を付けないと引っくり返ってしまいそうだった。
「ねえ、走れ、走れえ!」
甲高い声を無視して少女の身体を揺すり上げ、臣吾は黙々と階段をのぼる。
年齢のわりには中身が幼い。近頃の子どもは発育がいいから、十二、三に見えても実際は十歳そこそこといったところか。しかし、精神年齢は間違いなく六歳以下だ。
臣吾は溜め息をつきつつ、十三階まで非常階段をのぼった。ほんとうはエレベーターを利用したかったが、住民と鉢合わせする危険性が大きすぎたのだ。
骨折りのお蔭で帰宅するまで誰とも顔を合わせることはなかったが、その代償は肩と腰に直撃して、やっとリビングに辿りついた臣吾は少女を床に下ろすなりどっとソファに倒れ込んだ。全身汗まみれで気持ち悪いが、シャワーに立つ気力もない。せめて開襟シャツなりと脱ぎたかったが、子どもとはいえ女の子の見ている前で着替えをするのはどうにも気まずかった。
「とりあえず、ここまで来たら安心だ……親父はいないし、家には当分俺一人だから……はぁ」
何とはなしに吐息が漏れる。臣吾はガラステーブルの上のリモコンをまさぐり、空調機をオンにした。冷風の吹き出る空調機を、少女が目をまんまるにして眺めている。
「悪いけど、咽喉渇いてるんなら冷蔵庫からジュースでも何でも勝手に出して飲んどいて……俺、もうちょっと休みたい……」
「れいぞうこ?」
少女が小首を傾げた。ああ、そうか、と臣吾は横たわったまま少女に向き直る。
移民間の経済格差は自国民の比ではない。中には自国民すら及ばぬ大富豪の移民もいるが、一人の富豪を支えているのは二十万人とも三十万人とも謳われている極貧の移民たちである。土地代の安い多国籍街の、さらに不便な奥地のオンボロ長屋に住み暮らす移民を、臣吾はテレビで観たことがあった。
現代社会において、多国籍街はまるで三世紀も昔に取り残されてしまったかのようだ。水はすべて井戸から汲み上げ、火は釜戸で長い時間をかけて焚き、電気が通っていないために夜は眠るしかない人びとが、世の中には信じられないほど大勢いる。特に移民の三世、四世ともなると、狭い社会で育てられてきたために文明はいっそう縁遠いものになる。
この少女も恐らくその口なのだろう。
臣吾は節々の痛む身を起こすと、ソファに深く腰掛けた。注意して少女の身に着けているサリーにはところどころ煤けたような黒っぽい汚れが付いている。ほつれた裾にも修繕された形跡はなく、足の爪が真っ黒になっているのも痛々しい。
先程まで厄介者だと疎んでいたのも忘れ、臣吾は急にしんみりした。
「お前、なんか大変だったみたいだな」
少女はきょとんとして臣吾の顔を見つめてくる。室内灯の下で見ると、少女が移民だという確信はますます強まった。しかし、大抵の移民は顔立ちを見ればどこの出身か判じられる臣吾にも、少女の出自はまるで分からない。子どもながらに整った目鼻立ちは自国民とそう変わらない気もするが、肌の色は欧州人のそれに似ている。髪と瞳の色に至っては、これまで見たこともないものだった。
もしかしたらアルビノか混血だろうかと、臣吾は少女をじろじろ観察する。凝視が非礼にあたることを知らないのか、少女は嬉しそうに笑った。
姿かたちばかりでなく、常識や考え方も自国民とは違う。臣吾の疑念は増した。
「なぁ。お前、どこから来たんだ?」
「えっと……あっち」
少女は考え考え、西を指差す。
「そうじゃなくて、どこの民族だ? それとも多国籍街から来たのか?」
と臣吾が重ねて問いただしても、「タコクセキガイ?」とまた首をひねる。あまりの歯痒さに頭に血が昇りかけたが、真顔でふざけているわけでもなさそうだ。
「あっちのほうからなぁ」
黙り込んでいる臣吾に向かって、少女は西を指差したまま、
「走ってきたの。ずっと追いかけられて……すっごく怖かったの。高いところに逃げれば追いつかれないから、ここに来たの」
声は喋り方は見た目よりずっと幼く、どこかもどかしいような舌だるさがあったが、聞いていて決して不快ではなかった。それより、臣吾は「ずっと追いかけられて……」という言葉に耳をとめた。
「追いかけられてって、誰に追いかけられたんだ」
「あの……」
少女は記憶を探るような間を置いて、
「紺色の服を着た人がたくさん。みんな同じ色の帽子をかぶってたの」
要領を得ない説明に、臣吾は眉間に皺を寄せる。
確かに、出会った当初、少女は非常におびえていた。あのおびえようは演技ではないと断言できる。ずいぶん執拗に、しかも荒っぽく追いまわされたのではないだろうか。
臣吾はふと少女の投げつけてきた金塊のことを思い出した。もしかすると、少女を追っていたのは街にたむろする若者で、彼女の持っていた金塊が目当てだったのかもしれない。
「なぁ、さっきの金、ちょっと見せて」
「金? これ?」
少女は何のこだわりもなく気軽に金塊をガラステーブルに載せた。ごく小さなものだが、重さは三百グラムを下るまい。こんな幼い少女が、他人に投げつけるほど持っているはずがないのだ。
だが、少女は目をぱちぱちと無心にしばたたかせて、
「それがどうかしたの?」
と訊ねてくる。今日び、五歳の子どもでも知っている金の価値を、この少女は知らないのだ。
「……これ、すごく貴重なものなんだぞ」
生唾を飲み下して少女に説いても、少女は小ばかにするように「ふふん」と鼻で笑う。
「嘘だぁ、そんなの。どこにでもあるもん」
「ないったら」
「あるの!」
「ない!」
焦れた臣吾はテレビを点け、二十四時間放送されている金相場のチャンネルをまわした。
この一世紀というもの、あらゆる国で貨幣価値が大いに下がりつづけている。新貨幣の発行によって旧貨幣が紙切れ同然になった国もあり、ハイパーインフレによって貨幣が大量に出回った国もあった。政情の不安につれて経済もさまざまな変化をきたしていたが、近年では貨幣価値そのものを疑問視する声が上がり、にわかに金投資や純金積立に私財を注ぎ込む金持ちが増えはじめた。人気にともなって金の価格は青天井に高騰し、今では百グラムの純金が都心の庭付き一戸建ての価格に相当するとも囁かれている。
「つづきまして、各国における金相場……グラム……円、……グラム……ドル、……」
テレビの中でも、発音のきれいな女性アナウンサーが変動しつづける金銀の相場価格と今後の見通しを澱みなく述べている。以前はもう少し様子見のような緩やかな弧を描いていたグラフが、このところでは直角に近い上昇率を示していた。
「……財務省の発表によれば、現在金投資者は増加傾向にあり、金価格はさらに上がる見通しです……」
「な? すごいもんだろ」
テレビを消した臣吾は、少女に声を掛けた。少女は口をひらいてぽかんとしている。
「だから、やたらめったら持ち歩くもんじゃないって。大体、親とかどうしてるんだ? 捜してるかもしれないぞ」
臣吾の言葉が耳に入らないかのように呆けていた少女は、突如としてテレビを指差すと、満面の笑みを浮かべて「もう一回やって! もう一回!」とせがんだ。臣吾は面食らったが、冷蔵庫を知らない少女がテレビなど知るはずもないということに思い至り、面倒臭いもんを見せちまった、と後悔しながらテレビのチャンネルをまわしてやる。少女は次から次へと音声や映像が飛び出してくるテレビ画面を、目を輝かせて眺めていた。
アイドル歌手が跳んだりはねたりしながらアップテンポの曲を歌っている。
カフェでテーブルを挟んで向かい合った俳優と女優が、沈痛な面持ちで別れ話をしている。
「反政府組織”青い翼”が、新政府にコウラン村消失事件の解明を迫るデモを起こしました」
アナウンサーが反政府運動の模様を報道している。
他にも、スポーツ中継、バラエティ、ドキュメンタリー、画面にはさまざまな番組が流れては移ろっていった。
少女は特定の番組に関心を寄せることもなく、時折おっかなびっくりテレビ画面に触れては「うん?」とふしぎそうに自分の指先を見つめたりしている。
次第にバカバカしくなってきて、臣吾はぷつんとテレビの電源を落とした。「あっ」と声をあげた少女が、ぷうと頬をふくらませてこちらを非難がましく振り返る。臣吾はリモコンを乱暴に床に放り投げ、「見たきゃ自分で好きに見ろ」とソファにごろりと寝転がった。