vol.37
スーツケースをガラガラと引きながら、臣吾は航空券片手に空港内を彷徨い歩いていた。
「502便のゲートは、っと」
「エスコートしましょうか?」
「いえ、結構で……」
断りついでに振り向くと、腕を組んで柱に凭れかかっていた端整な顔立ちの男がこちらを見てニィと笑った。今日はNSIの制服でなくライトグレーのスーツ姿で、制帽がないためかいつもよりずっと若々しく見える。
「釘宮」
臣吾は約一ヶ月ぶりの再会に戸惑いつつ、
「何しに来たんだ」
「ご挨拶に参りました。前嶋さんは当分帰国なさらないとのことですし、私もいつ異動になるか分かりませんから」
顔を翳らせる釘宮を、臣吾はしみじみと見つめた。
一ヶ月前の青い翼による首都鉱山銀行立て籠もり事件は結局、何の実も結ばずに終わった。八名からなる犯行グループは突入したNSIにより全員逮捕、人質は無事に保護され、金や貨幣も手付かずだった。NSIがビル入り口付近を固めてマスコミ各社を近付かせなかったことから、ただひとり犠牲になった犯行グループの少女の存在も闇に抹消され、すべては元に戻るかと思われた。
だが、この事件が世間に与えた影響は計り知れないほど大きなものだった。
釘宮が目を細める。
「それにしても、航空券を買えてよかったですね。まさか物価が落ち着く日が来るなんて思いませんでした」
青い翼による銀行襲撃は世間を震撼させた。その場にあった金はすべて無事だったが、この一件により金の価値は一晩にして暴落したのだ。
一枚ずつ番号の振られている紙幣と違い、金は仮にナンバーなどを刻印していても溶かしてしまえば分からなくなるため、一度窃盗に遭えば後は泣き寝入りせざるを得ない。以前から知られていたことだったが、事件によってその認識と危機感はあらためて国民のあいだに浸透した。投資家たちや企業の手放した金がだぶつき、金の価格が大幅に下がって、現政府や金を取り扱っている銀行は買い支えに必死だ。
だが、金採掘に全精力を注いでいた現政府にとって、この出来事が大きな痛手になることは避けられまい。所詮は金で支えられていたにすぎない政府である。金に価値がなくなればどうなるかは、火を見るより明らかだろう。
「今は落ち着いてますけど、ただ、俺が帰国してくる頃までにまた暴動なんかが起こったら……」
「確かに、政府はこのままではいられないかもしれません。けれど、一連の政変や経済的な変動を通して、若い世代の方々にも政治志向を持たれる方が増えました。今すぐ変化が起こるとは思えませんが、先行きは決して暗くないでしょう」
「アレックスも拘置所で喜んでるかな」
何気なくつぶやくと、釘宮は呆れたような、そのくせ嬉しそうな吐息をついて、
「出掛けに彼女から伝言を託されましたよ。命を大事に、と。自分も決して命を粗末にしない、たとえ何があっても最後まで希望を捨てずに生き延びてみせるから、あなたも辛いことがあっても生き抜いてほしい……と」
その言葉の重みを噛み締めて、臣吾は深く頷いた。釘宮もしみじみと、
「自分には帰るところなどない、命など少しも惜しくないと言っていた女が……まったく、大したものです」
黙って耳を傾けていた臣吾は、くすりと笑う。
「素直なんだな。らしくもない」
「人間は変わるものですよ。アレックスもそうですが」
釘宮は淡々と言い放ち、ふと目を伏せる。
「以前までは、自分の仕事に忠実であることが私の唯一無二の正義でした。私はただ政府に仕えるだけの身の上。命令が正義か否かを判断することは私の職分ではない。ずっとそう信じていました。けれど、こうした盲目的な信念を突き崩し、真の正義にめざめる機会を与えてくれた人がいるとしたら……それはやはり、あなたということになるのでしょうね」
事件の起きたあの日のことを思い出し、臣吾は少し俯いた。
「ひとつだけ聞いていいか」
「何でしょう」
「結局、あの子はアレックスに撃たれて死んだのか? それとも……あんたの?」
釘宮はじっと臣吾の顔を見つめていたが、寂しげに笑んで首を振る。
「今さらそれを知ってどうなるのですか。アレックスも私も同時にあの子に銃を向け、同時に発砲した。どちらの弾丸が当たったのかなんて、どうでもいいことですよ」
「でも」
「私たちは――NSIと青い翼は、互いに相反する組織でありながら、よってたかってあの子を引き裂いたのです。あの子の死の責任はNSIにも青い翼にもあります。複合的な罪……とでも言うべきでしょうか」
「……」
「けれどあの子の魂は、きっとあなたに救われたことでしょうね」
瞼の裏に、少女の笑顔が揺れる。臣吾は目を閉じ、しばらくその優しい面影に浸った。
――お兄ちゃん。
どこかから呼びかけられたような気がして、周囲を見渡す。けれどそこには誰もいず、502便出航間近のアナウンスが流れ出した。
顔を上げた臣吾は、スーツケースを握りなおした。「行かれますか」と釘宮が姿勢をただす。
臣吾はふっと息をついた。
「なあ、釘宮」
「はい」
「俺はずっと、母と妹を殺した顔のない犯人を憎んできた。同時に助けられなかった自分のことも責めつづけてきた。でも……もうそろそろ、自分を許してもいいのかな」
「ご随意に」
気軽なようで、みっしりと重い釘宮の返事を聞き、臣吾はにわかに身の引き締まる思いがした。
「ありがとう。じゃあ俺、行くよ」
「ええ。お元気で」
釘宮がぴんと背筋を伸ばし、臣吾に向かって敬礼する。
敬礼を返した臣吾は、釘宮に、愛する祖国に、来し方のすべてのものに背を向けて、ゲートへの通路をゆっくりと歩き出した。