vol.35
「代わったわ」
「……」
「聞こえてる?」
少女の鈴のような声が怪訝そうに問いかえしてきても、干上がった咽喉からは何の言葉も出てこない。捜査官はまた何か言っているが、臣吾の耳に聞こえるものは、自分の心臓の音と少女の声ばかりだった。
「ねぇ」
焦れたように少女が声を出す。傍らに控えた捜査官は先程から身振り手振りで何か合図を出そうとしているのだが、その動きをすべて釘宮が制していた。
「何の用なの。説得のつもりなら切――」
「……った」
「え?」
「良かった。無事で」
気付けば臣吾の頬を熱い雫が伝っていた。捜査官がぽかんと口を開き、電話口の向こうでも戸惑ったような気配がする。
「――どういうつもり?」
「どうもこうもないよ。ただ、声を聞いて元気そうだなって……」
洟をすする音を聞きつけたのか、「泣いてるの?」と少女がためらいがちに問う。臣吾は力一杯に頷いたあと、この仕草が少女には見えないことに気が付いた。
「泣いてるとも」
「どうして」
「安心したし、嬉しかったから……」
「どうしてよ」
少女はいくらか腹立たしげに、
「アレックスが言ったでしょ? 私はもうあなたの知ってる記憶喪失のかわいそうな移民の子じゃないの。生まれ育った平和な村を政府によって壊され、何もかもを奪われて青い翼の同志に加わった、いわばあなたの敵で――!」
「……敵でもいいよ」
しゃくりあげながら臣吾は言った。
「敵とか味方とか思ってない。……君が元気でいてくれるなら……何でもいいよ」
「――」
電話の向こうで少女が絶句する。
臣吾は差し出されたティッシュで盛大に洟を噛み、目元を拭った。手を動かしていると自然と呼吸が整ってくる。
その間、少女は何も言わなかった。ただ優しい息遣いだけが、スピーカーからかすかに感じ取られた。
再度口を開いたとき、臣吾の口調もまた穏やかになっていた。
「実を言えば、俺がここへ呼ばれたのは君を説得するためなんだ。君を説得してほしいって釘宮からも言われたし、俺もできればこんな血なまぐさいことから足を洗わせたいと願ってた。でも君の声を聞いて、気持ちが変わったんだ」
「――」
「君はどうしたい?」
電話の向こうは沈黙している。
「青い翼の同志と一緒に現政府を倒したいか? それならそれでもいいだろう。けど、現政府が倒れた後は? 復讐を果たした後は? 君はその後に何を望んでるんだ?」
「――」
「まだ考えがまとまらないなら、俺の気持ちを言わせてもらえないかな」
電話の向こうで、「ええ」とか細い声がした。
臣吾は息をつくと、
「君とこの国を出たい」
息を呑む気配が伝わってくる。
「本気だ。この前、外国に単身赴任してる親父から連絡があって、家を買ったからこっちに住まないかって誘われたんだ。俺はひとりじゃ踏ん切りがつかない。でも、君と一緒なら行ける。君だって、この国への恨みや憎しみさえ忘れられれば、遠い国で自分の人生をやり直せる」
「前嶋さん……」
耐えかねて口を差し挟もうとした捜査官を、「黙って見ていなさい!」と釘宮が一喝する。だが、臣吾の耳にはそんなやり取りももう入らない。
なかば思いつきで口にしたまだ見ぬ異国の地が、話すうち臣吾の脳裏に豊かな絵筆で描かれていった。広々とした大地。誰も自分を知らない街。屈託のない少女の笑顔はその街によく似合うだろう。
「一緒に来ると言ってくれないか」
電話の向こうで少女は沈黙している。ただ、わずかに弾む息遣いが臣吾の鼓膜をくすぐっていた。
「君が俺の国を許せないなら……俺も、喜んでこの国を捨てる。だから……」
「ずいぶん余計なことを吹き込んでくれるもんじゃないかい、ええ?」
突然アレックスの声がなだれ込んできて、臣吾はビクッと身体を震わせた。
「あ、アレックスさ……」
「君が俺の国を許せないなら、俺も喜んでこの国を捨てる。そんなこと、いっぺん男に言われてみたかったネェ」
あざけるように笑ったアレックスは、一転して冷ややかな声になると、
「あのサ、あんたもそんな甘い言葉で年端もゆかぬ子をたぶらかしていい気になってんのかも知れないけど、そもそもこの子は自分の意志でここにいるんだ。邪魔しないでもらいた――え、何だって?」
え、何だって、という言葉は、臣吾に向かって言ったものではなく、受話器から顔を離して発せられたらしい。アレックスと何事かやり合っているのは、少女ではないだろうか。
臣吾は通信機器の感度を上げ、音量を最大にした。
多少耳障りなノイズが混じっているが、聞こえてくるのは確かに少女の声だ。柄にもなく、切羽詰った調子で懇願している。
「お願い、もう一度話をさせて」
「バカ言っちゃいけない。話してどうしようってんだい。あたしは二度と会えなくなるかもしれないからって情けをかけてやるだけのつもりで電話を代わったんだ。説得されるなんて言ってない」
「あなたたちを裏切るつもりはないわ。ただ声が聞きたいだけ」
「何だい、カマトトが。あんた、あんな乳臭い小僧にイカれちまったのかい?」
「違うわ!」
少女の悲痛なまでの叫びが、スピーカーから鮮やかに響いた。
「私を見てくれる人はこの世にもうあの人しかいないのよ!」
横っ面をひっぱたかれたような衝撃が走る。
「え……?」
「あなたたちが必要としてるのは私の記憶の中の真実だけでしょう。それは最初から分かってた。でも、政府への恨みを晴らせるなら、皆の仇を討てるなら、って強いて考えないようにしてたし、死んでもどうせ皆のところへ行くだけだからって思ってた。でも、私――やっぱり、生きていたい」
「……」
「あの人に淹れてもらったチャイが美味しかった。あの人の背中が温かかった。何度も気を失ったけど、目が覚めるたびあの人が傍にいてくれたから怖くなかった。――憎しみも恨みも忘れて過ごせた時間が幸せだった。あの時間を取り戻したい。何年、何十年かかっても――もう一度、あの人の傍で――」
「待てッ!」
すさまじい音がして電話が切れた。臣吾は思わず立ち上がる。四階の窓をあおいでも何も見えないのがもどかしい。
スピーカーを通して二人のやり取りを聞いていた周囲の捜査官たちもにわかに騒然とする。「仲間割れが起こったらしい」という声が遠巻きに眺めている報道陣にも伝わったのか、髪やメイクを直してカメラの前に立ったレポーターが、「今、犯行グループの中で何らかの動きがあったようです」と報じはじめた。
混乱の中でも迅速に警戒態勢が敷かれ、皆がビルの入り口に注目する。報道陣は騒がしいが、ビル周辺は緊迫感を孕んだ静寂に包まれていた。
タッタッタッ……軽やかな足音が少しずつ近付いてくる。
「来るぞ」
誰のものとも知れない囁きが風に乗って消えていく。
やがて、気の遠くなるほど長い時間をかけて、足音の主が階段を下りてきた。その姿を見た途端、臣吾はふらふらと幽鬼のように立ち上がっていた。
「ちょっと、どこへ行くんだ」
咎めようとした捜査官を、釘宮が制する。
身をかがめて待機する捜査官たちを押しのけ、臣吾はビルの入り口へと歩を進めた。少女がガラス越しにアッシュの瞳で臣吾を見つめ、顔を泣き出しそうにくしゃくしゃとゆがめる。大人びた表情を取り払った年相応の泣き顔に、臣吾は黙って笑いかけた。
臣吾が立ち止まると、少女は涙をこらえるように唇を軽く噛んで歩き出す。
が、入り口のガラス扉に手をかけたところで、不意に足を止めた。
「動くんじゃねぇッ!」
階段から現れたアレックスが、少女の背中にマシンガンの銃口を向けている。その銃口は震えていたが、アレックスの血走った目は本気だった。
少女は顔を蒼ざめさせたが、決然と目を上げると、ガラス扉を身体で押して勢いよく転がり出てきた。
タタタタンッ。
少女を狙うマシンガンが銃口から硝煙を吹き出したのと、背後から短い銃声が聞こえたのとが、ほとんど同時だった。
腕を広げて待っていた臣吾の胸へ、少女の華奢な身体がつんのめるように飛び込んできた。