vol.26
臣吾はバックガラスを拳でガンガン殴った。
「おい、まだみんながいるだろ! なに出発してんだよ!」
振り向いた男は、丈夫そうな真っ白い歯を覗かせて「ノープロブレム、ユー キャン エスケイプ」とたどたどしい英語で答える。
「そうじゃなくって!」
大声を出すと、少女が臣吾の服の裾を引き、「ね、ね」と何か訴えてくる。
「なんだよ」
つっけんどんに訊ねると、少女はおもむろに後続車を指差した。臣吾は振り返って目を細める。車内灯を消し、ひっそりとついてくるのは、まぎれもなく先程のNSI車だ。
――まさか、勘付かれてる?
「ア……アレックスさん……」
無駄と知りつつ、臣吾は屋上を見上げた。すがるような目に、屋上から墜ちてくる人影が映る。「あっ……」と声を発する間もなく、人影は重く鈍い音を響かせて地面に激突した。
「おい!」
荷台から身を乗り出し、精一杯声を張り上げても、人影はぴくりとも動かない。路傍に広がっていく黒々とした血だまりを目の当たりにして、臣吾の胸に冷ややかな絶望が差し込んだ。それでもトラックは止まらない。墜落した仲間を見捨てて、だんだん速度を上げていく。まだ温かい亡骸が少しずつ遠ざかっていく。
――あたしらにゃ、ここを捨てていく場所なんかねぇんだよ。
アレックスの言葉が思い出される。臣吾の鼻の奥につんと熱いものが突き上げてきた。
どうして気が付かなかったのだろう。アレックス以下、屋上にとどまった仲間たちには、最初から逃げる気などなかったのだ。少女を逃がす時間稼ぎのため、あくまでも踏みとどまって最後の一人まで銃を握り、徹底的に抗戦して死ぬつもりに違いない。
「バッ、バカヤロ……!」
思わず吠えかけたそのとき、ビシッ! とバネのはじけるような音がして、クッション素材が宙に舞った。すぐ傍らにいる少女が顔を顰めて短く呻く。二の腕を押さえた指の隙間から、見る間に血が噴き出してきた。
後続のNSI車の窓から、拳銃を構えた若い捜査官が顔と腕を出してこちらの気配を窺っている。銃口から立ちのぼる硝煙越しに臣吾と目が合うと、あざけるように笑ってさらに車を近付けてきた。
「危ないッ!」
臣吾はとっさに少女の背中に覆いかぶさった。ビッ、ピシッ、とあちらこちらから音がして、穴のあいたクッション素材が吹き飛ぶ。胸の下で、クッション素材に埋もれた少女の荒い息遣いが聞こえた。狙撃された傷は気懸かりだったが、悠長に怪我をあらためられる状況ではない。
だが、少女の動揺はいよいよ激しくなっていく。息遣いに泣き声が混じり、「……さん、お母さん……」と亡き母をしきりと呼んだ。
「大丈夫だから。な? 大丈夫だから」
ささやきかけた途端、突然車体が大きく揺らいだ。NSI車が荷台に追突してきたのだ。重量感のある、爆音に近い銃声がつづけざまに耳を打つ。
臣吾は頭を低くして身を縮めた。NSIは自国民には手出しができないはずだ。発砲もトラックを停めるための単なる脅しで、人を撃つつもりはないだろう。落ち着け。大丈夫だ。落ち着け。自分にくりかえし言い聞かす。
少女もいつのまにか大人しくなっていた。身体の震えも止まり、息遣いも元に戻っているようだ。
わずかな安堵をおぼえた次の瞬間、ドンッ、と銃声がして、頭上のバックガラスが粉々に飛び散った。
「わっ!」
トラックが急停車する。頭をぶつけて目の前に火花が散った。
「いってェ……っと、大丈夫か」
頭をさすりながら、かばっていた少女に目を落とす。
「――」
仰向けの少女は目を瞠ったまま瞬きひとつしない。両手をだらりと力なく垂らし、腕の傷も剥き出しにしている。流れっぱなしの血が痛ましく、臣吾は開襟シャツの裾でそっと拭った。既に汗に濡れていたそれは、血を吸い込んでたちまち上気した薔薇のような紅色に染みていった。
運転席に目をやると、男が顎をのけぞらせて座席に頭を凭せかけている。ひっ、と臣吾は咽喉の奥で悲鳴を上げた。バックガラスを破った弾丸は、同時に男の頭蓋骨をも貫いて、その生命を奪っていったのだ。
操縦者を失ったトラックの四輪が完全に動きを止める。
そして、恐ろしい静寂が立ち込めた。