vol.25
幾ばくもなくして臣吾は目を覚ました。はじめは夢心地のうちに遠く感じられていた地鳴りのような震動が、少しずつこちらへ近付いてくる。
辺りは相変わらずの暗がりだが、目が闇に慣れてくると、物の輪郭がおぼろげに察せられた。アレックス以下、青い翼の面々は各自武器を手にして身構え、一心に屋上の入り口の扉を凝視している。身を起こした臣吾は、自分がいつの間にかアレックスの膝の上から地べたに下ろされていたことに気付いた。道理で頭が痛いわけだ。
「起きたか。ちょうど良かった。思っていたより猶予がなさそうなんだ」
アレックスが切羽詰った口調で物々しく告げる。
「あの、今、どういう……」
「仲間に先導させるから、あんたはその子を連れて逃げてくれ」
ふと見れば、少女とおぼしき小さな影がすぐ傍らに横たわっている。さきほど注射された薬がまだ効いているのか、深い眠りについたまま身じろぎもしない。言われたとおりに抱き起こして背に負うと、柔らかな重みが背中一杯にじわりと熱く圧しかかってきた。
扉に向けて構えの姿勢を取っていた仲間の一人が立ち上がり、転落防止の囲いもない屋上の縁へと足をかけて「コッチ、コッチ」と片言で臣吾を手招きする。その指示に従おうとして、臣吾はアレックスを振り返った。
「逃げるのは俺たちだけですか? 他の人たちは?」
「後から行く。援護してやるからとっとと行きな」
階段から軍靴の高らかな音が聞こえてくる。怖気づいている暇はないと分かっていても、身体は自然と震えだす。しっかり閉ざされているとはいえ、屋上の錆びついた扉が稼ぎうる時間はごくわずかだろう。
臣吾は足音に追い立てられるように、少女を背負って屋上の縁へと走った。背中で少女が不安定にゆさゆさ揺れる。
――眠っていてくれよ、頼むから起き出さないでくれよ。
祈り、というにはあまりに烈しい、切実な思いが身を焼いた。
縁に立って見下ろすと、道路脇のトラックが遠望された。あれが逃走経路ということなのだろう。十メートルほど離れたところに停められているNSI車が気になったが、見張りとして置かれているのは運転席の若い捜査官だけのようだ。振り切って突破するのも難しくはないだろう。
「で……」
ひととおり目を配ったあと、臣吾は男に向き直った。
「どうやってトラックまで行くんですか?」
男は黙って親指でトラックを差す。命綱をつけて渡れとも、梯子があるとも言わない。臣吾がその仕草を訝しく眺めていると、男は業を煮やしたように、突然屋上からひらりと身を投げた。
「なっ! おい、待っ……!」
二、三秒の間を置いて、ボスッと気の抜けるような柔らかい落下音が聞こえてくる。臣吾は目を凝らしてトラックを見つめた。男はクッション素材が山と詰まれた荷台にうまく着地したようだ。飛び降りてすぐ体勢を立て直し、臣吾に向かって手をひらひらと動かした。
――俺にも飛び降りろっていうのか。……いや、ムリムリ!
臣吾は思わず後ずさりしたが、男は荷台の上で焦れったそうに腕を振る。臣吾はついNSI車の捜査官に目を向けたが、当然ながら気付かれることもない。
足を滑らせぬよう注意しながら、臣吾はこわごわとトラックを覗き込んだ。
――運よくトラックの荷台に落ちればいいが、目測を誤って車道に落下しやしないだろうか。風にあおられて建物の壁に叩きつけられる恐れもある。しかもこの子を背負っているとなると……。
だが、他に逃げ道はない。
臣吾はよろめく足を踏みしめながら屋上の縁に足を揃え、すーはーすーはーと落ち着かない深呼吸をし、いざ飛び立たんと腰をかがめて「一人前の男が何をぐずぐず迷ってんだい!」
「うわっ!」
いきなり肩をど突かれて、臣吾は抵抗するすべもなく真っ逆さまに墜落した。風を切る感触が頬に生々しく、地べたがぐんぐん近付いてきて、「うそっ、ちょっ、タイムタイムタイムあああーっ!」と上げた悲鳴もむなしく吹き散らされていく。
「ひぃやああぁあぁああ……!」
絶叫を迸らせながら、臣吾は固く目をつぶった。
ドスッ。
轢かれた蛙のようにぶざまな格好で腹打ちする。が、衝撃はふわふわした地面に吸収されて痛みはない。目を開ける勇気がなく、臣吾は手を伸ばして背中に乗っている少女をまさぐる。どうやらどこにも怪我はないようだが、さすがに半ば目が覚めかけているらしい。「ん……」と気だるい声を漏らして、背中の上でもぞもぞと身動きしている。
勇気を出して目を開けると、真先に一面のクッション素材が目に入った。次いで、運転席のバックガラスから覗く男の後頭部も。男がトラックを運転してうまく着地させてくれたのだと気が付くまでに長い時間はかからなかった。臣吾は心の底から安堵の吐息をついて、うつ伏せのままクッション素材の上に大の字に手足を伸ばした。
「……ここ、どこ?」
背中から転がり落ちた少女が、寝ぼけ眼で辺りを見回す。目を覚ますたびに違う場所にいるのだから、戸惑うのも無理はない。
臣吾はやっとの思いで身体を起こしたが、エンジンを鈍く吹かしはじめたトラックが進み出し、前につんのめりそうになる。徐行しているだけなので危険は少ないが、これからまた異動かと思うと、気分はたちまち滅入ってきた。
――でも、この子にそんなこと言えないしなぁ。
「これから安全なところへ行くんだ」
「安全なところ?」
「そう」
「どこ?」
臣吾が答えに詰まるのと、頭上から激しい銃声の応酬が聞こえるのとがほとんど同時だった。臣吾は弾かれたように真上を仰いだ。
NSIがサーチライトでも持ち出したのか、屋上からはどぎつい人工的な光があふれている。何の遮蔽物もない屋上で、照明に身を晒しながらマシンガンの引き金をひくアレックスたちが瞼に浮かんだ。
――早く、早く逃げて来い。何してるんだよ。
逸る気持ちを裏切って、トラックは少しずつ加速していく。