vol.22
「なっ……!」
さすがにぎょっとしたように振り向いたアレックスは、
「お前、いい加減に……!」
「あの子も一人で心細いと思うんです」
臣吾はあえて強気で言い募った。
「俺もあの子が何されてるか、ずっと考えて悶々としてるのは嫌だし……正直に言うと、目を離すのが怖いんです。お願いです。あの子と一緒にいさせてください」
「……ねぇ、あんたサ」
訴えを静かに聞いていたアレックスが、怪訝そうな、そしていくらか哀しげな声を出す。
「ずっとふしぎに思ってたが、なんであの子にそれほどこだわるんだい。別に肉親でも同胞でもないし、情婦ってわけでもないんだろう。あの子をわざわざここまで追ってくることもなかっただろうし、それ以前に、見つけた時点で警察にでも移民紛争解決センターにでも引き渡しときゃ良かったもんを……尤も、こちらとしちゃアそれが好都合だったがネェ」
「……俺、父子家庭なんです」
冷たい床に座り込んだまま、臣吾はぽつりとつぶやいた。
「母さんは俺が四歳の頃に死んじゃいました。当時母さんは妊娠して臨月を迎えていたんです。お腹の赤ちゃんも女の子だって分かってて、妹ができるぞ、って父さんから毎日聞かされてた。すごく嬉しかったし、早く産まれてきてほしいと思ってました。でも、母さん……交通事故で、死んじゃって」
アレックスは濃い眉を顰め、俯いて耳を傾けている。下手な相槌を打ったり、同情を示したりしないのが、臣吾にとっては何よりの救いだった。
胸の中に溜め込んできた澱を掻き出すように、臣吾は滔々と思いの丈を吐露した。
「犯人は今でも分かりません。でも分かったところでどうしようもない。どんな形で償ってもらったって、母さんはもう戻ってこない。妹だって産まれない。今まで三人で暮らしてきて……いずれ四人で住むつもりだった家が、一気に広くなっちゃったんです。だから、あの子が肉親を理不尽な理由で奪われたっていうのも何となく理解できる気がして……」
「それが理由か」
「理由、なのかな」
臣吾は力なく笑って首を傾げ、
「まあ、他に理由らしい理由もないですし、強いて言えばって感じですけど」
「ふぅん」
鼻の下を乱暴に擦ったアレックスは、何の興味もなさそうに頷いたが、その黒目がちな目はほのかに潤んでいた。
「ま……疚しいところがないなら、奴らに掛け合ってみないでもないけどサ。あんま期待すんなよ」
感情の昂ぶりを無理に押し殺した声がひずむ。アレックスは臣吾の肩を慰めるように軽く叩くと、革製のブーツに包んだ足をせわしなく運んで処置室へ入っていった。アクリルの窓越しに、アレックスが男となにやら話し合っているのが見える。手術台に腰掛けた少女は、唇をキッと結んで、アレックスと臣吾とを交互に眺めていた。
もし妹が無事に産まれていたら、今ごろはあんな少女に育っていただろうか。
そんな思いがふっと萌してくる。
あの悲惨な事故から既に十二年の歳月が流れている。臣吾もそのあいだに成長し、母という存在の欠落した生活がいつしか日常となって、悲しい、寂しいといった感情もだいぶ薄れてきた。だが、産まれてくるはずだった妹の顔を想像することは今でもある。ちゃんと産まれてきていればちょうど少女と同じ年頃だったはずの妹の面影を、少女と重ねて見ずにはいられなかった。
臣吾は少女から目を逸らして吐息をついた。
――なに考えてんだ、俺。
「おい」
処置室のドアから無愛想な顔を覗かせたアレックスが、
「いいってサ。来いよ」
と、ぶっきらぼうに告げた。
「は、はい!」
いきなり声を掛けられて、臣吾は急いで立ち上がる。「そんな大声で返事しなくたって聞こえてるよ。ここは軍学校じゃないんだ」とアレックスにたしなめられ、内面を見透かされたような気恥ずかしさに俯きつつも、臣吾の胸は喜びに熱くなっていた。
淡いクリーム色の壁に囲まれた処置室で、少女は再び手術台の上に横たわった。何度見ても痛ましい光景だったが、少女の顔が安らいでいるのがせめてもの救いだろうか。
投げ出された白い上膊がゴム紐できりきりと締め上げられ、薄い皮膚を通して血管が浮き上がる。マスクを着けた男が、その血管に注射針を突き刺した。
「……!」
表情をゆがめた少女が唇を噛む。臣吾も息を呑んだが、少女は強い意志で痛みに耐え、とうとう泣き声ひとつ、うめき声ひとつも口にしなかった。
注射器の中に少女の鮮血がひとすじ入り込んだが、男が親指を動かすと、その血ごと透明な液体がゆっくりと注入されていった。注射器の中身が押し込まれたのち、注射針が慎重に引き抜かれる。少女の身体がかすかに痙攣し、やがて力が抜けていく。
「何を注射したんですか」
「ちょいと眠ってもらっただけサ。いちいちビクビクしなさんな。NSIと違って、こっちはこの子を殺すことが目的じゃねぇんだからサ」
アレックスが口を出し、臣吾は黙った。青い翼に少女への害意がないと分かっていても、目の前で手術台に載せられたり、注射針を突き立てられたりするのは、やはり気持ちのいいものではない。そもそも、消毒薬の充満する処置室の中は、病院嫌いの臣吾にとっては決して居心地のいい場所ではないのだ。
医療用ワゴンからDVDプレイヤーに似た平べったい箱が取り出され、別の男の手によって二股に分かれたコードが設置された。コードの先端に取り付けられた丸い器具が、少女のこめかみよりやや上の部位に接着される。
「何を……」
「いいから、黙って見てな」
アレックスに叱られ、臣吾は首を縮める。指をくわえて眺めているのは辛かったが、見届けないのはもっと耐えがたいに違いなかった。
平べったい箱を操作していた一人の男が、一拍置いて周囲に頷きかける。他の者が首肯で同意を示すと、男はおもむろにボタンを押した。
何も聞こえない。少女も目覚めない。ただ、心電図モニターのグラフは大きく乱れ、ピッ、ピッという電子音の間隔が短くなった。何もできない臣吾は拳を破裂しそうなほど握り締め、歯を食いしばって佇んでいた。
男がボタンを押す。ピッピッピッ……電子音。再度ボタンが押される。ピッピッ。電子音。処置室は沈黙に浸されている。誰も言葉を発するものはない。ピッピッ。ピッピッピッ……。