vol.21
覚悟はしていたものの、実際に目の当たりにするとやはりショックだった。
無影燈に照らされたステンレスの手術台に、白いシュミーズ一枚の少女が横たわっている。だらりと意志なく伸ばされた四肢を見て、死んでいるのではないかと臣吾はひやりとした。だが、シュミーズの中の薄い胸郭はかすかに上下し、傍らに置かれた心電図モニターには少女の規則正しい脈拍が蛍光色のグラフになって示されている。
手術台の両脇には白衣を着た数名の男がいた。顔を大きなマスクで覆っているため、全員が移民であるかどうかは判断できない。彼らは心電図を見たり、聴診器を少女の胸にあてたり、緩慢ながらに多忙そうに動きまわっていた。
「何を……しているんですか?」
入り口には「処置室」のプレートが掲げられているが、その実手術室なのか診察室なのかさえ判じられない部屋をアクリル板の窓越しに眺めながら、臣吾は小声で訊ねた。
「治療サ」
「治療?」
「ああ。あの子の記憶を取りもどす治療」
腕を組みながら、アレックスは目を細めて難しい顔をした。
「残念ながら、ここにゃ満足な設備が整ってるわけじゃない。あの子の記憶喪失が心因性のものか、もしくは器質性……脳の機能に異常があって発生したものか、判断ができないんだ」
「これから何をするんですか」
「もう催眠療法は試しているはずだ。それで成果が上がらなかったから、ここへ連れてきたんだろう。何をするかはあたしに訊かれたって困るネェ」
口をへの字に押し曲げたアレックスは、それきり何も話してくれなかった。
しきりと少女の容態を確認していた白衣の男のひとりが、医療用ワゴンから注射器を取り出した。目を剥いた臣吾の前で、液状の薬品が入った瓶に注射針を差し込み、透明な液体を吸い上げていく。注射器に液体が満たされると、男は少女の横たわる手術台に向き直った。
「おい!」
こちらの声は聞こえない。臣吾は振り上げた両手の拳を窓のアクリル板に叩きつけた。
ガン、ガン、ガンッとアクリル板が揺れる。こちらを振り向いた白衣の男たちに、臣吾は精一杯大声を出し、アクリル板を殴りつづけた。
「よせ! その子は病人じゃない! 変なもの注射すんな!」
「おい、やめな!」
あわてたアレックスに手首をつかまれ、窓から引き離されそうになっても、臣吾は夢中でアクリル板を蹴り上げた。割れこそしないが、爪先にたわむようなアクリルの感触が響く。
臣吾はもう一度窓を蹴り上げた。白衣の男たちは既にこちらに興味を失い、それぞれ職務に戻ろうとしている。
アレックスに引きずられながら、臣吾は涙まじりに吠えた。
「チクショウ! チクショウ! ……人でなし野郎!」
少女の腕に今にも注射針を突き立てようとしていた男が突如動きを止め、次いで戸惑うように後ずさりする。他の男たちも当惑したように顔を見合わせた。何事かと、臣吾は霞んだ目をしばたたかせる。
手術台の上にぐったりと垂れていた少女の細い腕が動き出し、男の白衣の袖をつかまえた。乾いた桜色の唇がかすかに擦れ、何か言ったようだが、臣吾の耳には届かない。しかし、少女が意識を取りもどしたことは傍目にも明らかだった。
やがてゆっくりと身を起こした少女が、狐につままれたような面持ちで首をめぐらして周囲を見回した。開いていた瞳孔が、臣吾を見つけてふっと収縮する。
次の瞬間、少女は手術台から身を躍らせると、男たちの手を逃れてこちらのほうへ駆け寄ってきた。臣吾もアレックスの腕を振りほどき、アクリル板越しに少女と向かい合う。
少女は透明なアクリル板に掌をくっつけ、臣吾の顔をまじまじと見つめた。そのすがりつくようなアッシュの瞳には驚きと困惑、そして恐怖が浮かんでいる。口を開けて何か叫んでいるが、臣吾の耳には届かない。ただ、無意識のうちに少女の唇の動きをなぞっていた口からは、「いかないで……ひとりにしないで……」という言葉が漏れていた。
男たちが寄ってきて、少女の肩や腕をつかむ。少女は暴れて抵抗するが、男たちはびくともしない。同じ頃、臣吾も背中にマシンガンの銃口を押し当てられていた。
「約束どおり、会わせてやったんだ。もう未練はないだろう」
「せめて、話を……」
「顔見たら死ぬって約束じゃなかったかい?」
――もう逃げ道はない。
臣吾は目を閉じた。
――こんなところで。こんな理由で。
「処刑場まで行くが、逃げたらその時点で撃つ」
銃口が脅すように背中に触れる。臣吾は軽く頷き、階段へ向かって踵を返した。
異変があったのはそのときだ。
「ちょっと待ってくれ」
呼び止められて振り向くと、部屋から出てきた白衣の男がマスクを外して立っていた。マスクの下の顔は予想どおり移民のそれだ。知性の勝った面立ちは、しかし表情に乏しく、どこか冷酷な印象があった。
「その小僧を撃つのは一旦中止してもらいたい」
「何だって。どういうことだい」
臣吾の背中から銃口を下ろしたアレックスが、大股に男に詰め寄る。危難が去った安堵のためにその場にへたへたとしゃがみ込んだ臣吾は、アレックスと男が言い争うのをぼんやりと眺めていた。
「あの子からの伝言だ。そこの小僧に危害を加えるのなら治療には一切協力しない。もし思い出すことがあったとしても絶対に口を割らない、と」
「だけど、あの小僧を生かしておいたらチクられるかもしれないってのに」
「あんな小僧の一匹や二匹、いつでも殺せるだろう。不安なら縛っておいてどこかへ転がしておけばいい。あの子の記憶を引き出さない手はないのだからな」
アクリル板の向こうで、手術台に腰掛けた少女がじっとこちらを見つめている。男やアレックスの言い争いには興味を持たず、ただ臣吾だけに視線をそそいでいる。不安げでもなければ、心配しているようでもない。無表情の中に決意が垣間見られた。涙ひとつ零さない気丈さに芯の通った覚悟があった。臣吾も少女を見つめ返す。互いの目には互いしか映らなかった。
延々言い争って折れたアレックスが、マシンガンを背中に預けてこちらへ戻ってくる。
「命拾いしたネェ。あんたの処分はひとまず保留サ」
全身で溜め息をついた臣吾を、アレックスはキッと睨んで、
「だが、妙な気を起こしたらそれまでだ。そう思うのはあたしだけじゃないよ。あんたは同胞を裏切れないって言ったが、その同胞とやらを憎んでる移民がいっぱいいて、あんたを八つ裂きにしたがってるってこと、忘れてもらっちゃ困る」
「あの」
臣吾はおそるおそる口を挟む。
「あの子がどんな治療をされるのか、見ていちゃだめですか」