vol.2
細かい網目状になっている踊り場の隙間から、わだかまる黒い影が見えた。一瞬、いつもマンション近辺をうろついているドラ猫かと思ったが、それにしては影が大きすぎる――と思った瞬間、「このっ、このっ」と幼い声とともにばらばらと飛礫が降ってきた。
「んなっ!」
臣吾があわてて右腕をかざして飛礫を防ぐと、影はいきなり立ち上がって上階へと駆け出した。逃げていく小さな背中は子どものもので、コンコンコンと階段に響く足音も軽い。温厚な彼にも似ず腹が立ちかけたが、後を追おうとしてやめた。いたずら小僧の一人や二人、捕まえたところでどうしようもない。
ふーっと息をついた臣吾は、取り落としていたバッグを持ち上げようとして、ふと網目状のステンレスにきらきらと光る破片が落ちているのに気が付いた。バッグを取りしな破片もつまみ上げ、しげしげと眺める。暗闇の中でも粘りつくように重厚な黄金の輝きを湛えているのは、紛れもなく金だ。決して金メッキや塗装でなく、ごく小さな塊であるのに掌にずしりと重い。
臣吾の脇の下に冷たい汗が伝った。上階からはコンコンコンと微弱な足音が間断なく聞こえている。目的階があるのではなく、ただがむしゃらに上へ上へと向かっているようだ。臣吾は金塊を握り締め、「なぁ、待てよ」と声を掛けたが、足音はかえって速まっていく。臣吾は仕方なしに「なぁ、待てったら。別に怒りゃしないから」と声を掛けつつ子どもの後を追ったが、子どもは追いかけられていると悟ってますます焦ったらしく、俄かに足音に力が籠もる。ッタン! ッタン! と断続的に変わったのは、どうやら一段飛ばしで階段を駆け上がっているためらしい。
「怒らないって。なぁ、どうして逃げるんだ」
ッタン! ッタン!
「待てってば」
ッタン! ッタン!
「こっちだって……ラーメンが胃の中でバウンドしてんだからッ……」
ッタン!
「ちょっ、待てって……」
息切れがしはじめたとき、上階から「あっ」と柔らかな悲鳴があがり、ステンレスの階段に布袋を叩きつけたような浅い衝撃が走った。額から滂沱の汗を垂らした臣吾が息をあえがせながら見上げると、小さな影は階段で伸びている。言わんこっちゃない、と肩をすくめて足を止めた臣吾は、「おい……大丈夫かぁ」と絶え絶えの息の下から訊ねた。尤も、返事らしい返事はなく、「ん……」と不明瞭な言葉が落ちてきただけだったが。
臣吾は呼吸を整えつつ、一段一段ゆっくりと階段をのぼって子どもに近付いていった。子どもといっても、身体の大きさからして十一、二にはなるだろう。暗くて仔細には分からないが、筒状のワンピースを纏った華奢な体躯をうつ伏せにして、顔だけをこちらに向けているようだ。木の枝のように細い右脚が懸命にもがき、立ち上がろうとしているものの、階段を踏むには至らず虚しく空を蹴る。警戒と敵意をみなぎらせた身体は、それでも必死に臣吾から逃げようとしていた。
ふぅ、と吐息をついた臣吾は、子どもと目線を合わせて屈み込む。追っているときは気付かなかったが、腰まで届く長い髪が後ろでひとつに束ねられ、女の子だったのかと改めてその顔を見直した。だが、暗がりの中で窺われるのは荒い吐息と爛々と燃える大きな瞳ばかりだ。果たしてこのマンションにこんな少女が住んでいたかと記憶をたぐっても、どうにも判然としない。
「なぁ、お前……」
「来るなぁっ!」
近づけた顔は少女の鋭い爪でバリッと引っ掛かれた。「うわっ!」と鼻面を押さえて身を引くと、少女は身体を反転させて仰向けになり、息を弾ませながらこちらを睨みつけてくる。手で鼻先を覆うと、にじんだ血が掌に付着した。やれやれ、と臣吾は吐息をつく。よほど警戒されているらしい。
臣吾は少女を驚かさぬよう一歩後退し、慎重に言葉を選んで語りかけた。
「別に取って食いやしないよ。ただ、お前、さっきこれを投げてきただろ」
金塊を掌に載せておそるおそる差し出すと、少女はちらっと疑り深げに目を落としたが、興味もなさそうに視線を戻す。金の価値をまるで知らないかのような態度だ。臣吾はわずかに眉を顰める。
「これ、大事なもんじゃないのか?」
少女は何も答えない。なおも問おうとして無意識に前かがみになったとき、不意にパッと各階の非常灯が点き、非常階段は淡い光に包まれた。物の陰影がたちまちのうちに剥がされ、少女の姿かたちがあらわに晒される。