vol.17
暗闇の中で、自分の身体の重みを感じた。次いでどこからともなく人の声が聞こえてきた。じっとしていると、気を失う直前の記憶がするすると甦ってくる。スラム街の風景、腐りかけた魚や生肉の臭い、じりじりと焦げつく夏の陽射し。「おい……おい。そろそろ起きる頃か」人の声はますます鮮明になり、身体の感覚が冴えてくる。瞼を透かして、にじむような淡い光が見えた。
臣吾は目を開けた。靄がかった視界がゴムのように伸び縮みした。
「気が付いたかい」
朗々としなやかな、少し低い女性の声。
「アレックス……?」
「覚えててくれて光栄だネェ」
豪快に笑う声の主が、暗がりの中から浮かび上がってくる。
咄嗟に身を起こした臣吾は、貧血にふらついて前のめりになった。不意に口をつぐんだアレックスが歩み寄って来、臣吾を支えるように肩に手を置く。豊満な胸が薄いタンクトップ一枚へだてて今にも触れそうに近付き、臣吾は自分の爆発しそうな心音が聞こえるのではないかと気が気ではなかった。
アレックスは涼しい目元から感情という感情を削ぎ落としている。それでいて、顔つきは不思議と優しげに見えた。
「あんた、よくよくあの子にご執心のようだネェ。情婦ってワケでもないだろうに」
「なっ……!」
あまり直接的な単語を聞かされて返事に詰まる。アレックスは目を細め、濡れたように艶やかな声で、
「なぁ、あんた、青い翼に入らないかい?」
「え……」
「普段は移民じゃない奴相手にこんな勧誘は死んでもしやしないんだが……あんたは別サ」
耳にアレックスの湿った息がくすぐったく吹きかかる。臣吾は懸命に顔をそむけて、「どうしてですか?」とやっと問うたが、声には力が籠もらなかった。
ふふ、とアレックスが含み笑いをする。濃厚な、粘りつくような女らしさに、頭がくらくらする。
「あんたの持ってたケータイの履歴を見させてもらったよ」
「……!」
アレックスが近付きすぎた身を引く。とろんとした眠たげな瞳と、半開きの厚い唇がすぐ目の前にある。臣吾は何となく目をそらした。
「甲藍村消失事件について調べてたみたいじゃないか……ここまで来たらもう隠し立てはできないネェ。あんたの推論が真実に行き当たるのも時間の問題だろう」
「消失事件なんて……単に、甲藍金山が政府所有になったから、山麓の村が解散させられただけじゃないですか……」
柔肌から発せられる汗の香が鼻腔に快感をともなって染みわたる。アレックスはふんと鼻を鳴らし、
「それだけの事件じゃないことは、あんただって分かってるんじゃないのかい。それほど察しが悪そうには見えないが」
臣吾は俯いて黙り込む。アレックスの指が臣吾の顎の線をなぞり、首筋からうなじへと焦らすようにゆっくり伝っていく。爬虫類の皮膚のように冷ややかな肌だが、気を失っているあいだに火照った身体にはゾッとするほど快い。
頑なに目を合わせない臣吾に、アレックスが口元を緩める。
「移民の子を匿っていたからには、ばりばりの右翼小僧ってわけじゃないだろう。尤も、どんなにお国を愛していらっしゃっても、そのお国の本性を知りゃア気が変わるがね」
「……そりゃ、現政府は移民派だから……移民にとっちゃ暮らしにくい世の中だろうなって思うけど……」
ちょっと目を瞠ったアレックスが、また鼻を鳴らして身を離した。「ほんとうに何も知らないんだネェ」と、呆れとも侮蔑ともつかない言葉が臣吾の耳をひっぱたく。
「あんた、なんで軍部が反移民に凝り固まってるか知ってるか」
「……軍人が移民嫌いだから?」
「バカ」
肩をそびやかして苦笑したアレックスが腕組みをする。
「現政府が移民を排除したがる理由はただひとつ。移民が現政府の犯罪を知っているからさ」