vol.16
風がないため、タイヤの痕は鮮やかなほどくっきりと残っている。道々、容赦のない陽射しにいぶられながら、それでもここが未開発のスラム街の一角だったことを感謝せずにはいられない。タイヤの痕跡は途切れることなくスラム街を縦横にひた走り、住宅街や商店街を通りすぎて、やがて工業地帯へと入っていった。
二時間以上も走りづめに走り抜け、臣吾はやっと足を止めた。呼吸は荒く、全身の汗腺という汗腺から汗のしずくが噴き出している。邪魔な伊達眼鏡はとっくの昔に捨ててしまった。ざらつく地面に膝をつくと、どくどくと脈打つ心臓が妙に生々しく感じられる。
川沿いに建ちならぶ工場からは、スラム街の生活臭とはまた違った臭気があふれ出していた。件のジープは工業地帯入り口付近の駐車場に停められていたが、中を覗いても誰もいない。
臣吾は今度こそ途方に暮れた。
移動手段であるジープを置いたまま、人ひとりを引っさらって遠くへ行けるものではあるまい。少女は隣接する倉庫や工場のどこかで監禁されているのだろうが、手掛かりは何もないのだ。目撃情報を集めようにも、自国民を目の仇にしている移民相手に協力を仰げるとも思えなかった。
身体を休めるためと人目を避けるためにひとまずジープの日陰に落ち着き、臣吾は膝をかかえて項垂れた。無計画にここまで来てしまったものの、打つ手がないというのは悔しい。けれど、アレックスに面が割れてしまった現在、むやみに動きまわれるものではなかった。
それにしても、NSIの釘宮にしろ、青い翼のアレックスにしろ、どうしてあの少女ばかりを狙うのだろう。ほんとうに平凡な、どこにでもいるような少女だというのに。
「その子は、例のコウラン村消失事件の重要参考人なんだから……」
ふっと耳朶によみがえったのはアレックスの一言だった。――コウラン村? 記憶の底がかすかに疼く。臣吾は紺サージのポケットから携帯電話を取り出し、インターネットに接続した。
テレビ局や新聞といったマスメディアが現政府にことごとく従属し、メディアリテラシーに反した偏向報道も厭わない中で、インターネットは国民の率直な声を聞ける唯一の手段だ。たとえ玉石混交であっても、端から現政府の言いなりであるマスコミの情報よりはずっと信用が置けた。
右手の親指がひとつひとつの字を器用に打ち込んでいく。こ、う、ら、ん、む、ら。そのまま検索キーを押すと、液晶画面には検索結果一覧がずらりと並んだ。
「コウラン村――そうか、甲藍金山の……」
独りごとをつぶやいた臣吾の目つきは、画面をスクロールするごとに鋭くなっていった。
甲藍村とは、現在、政府の管轄下にある甲藍金山麓の集落である。いや、正確に言えば、「集落だった」と語るべきだろう。甲藍村という集落は既に国土から消失し、甲藍金山も名称を変えられている。その理由は不明だが、時期的には旧政府の倒壊と相前後しているようにも窺われる。尤も、両者の関係も不明、あるいは偶然の一致かもしれず、インターネット上の事典では詳細な事情は追及されていない。
臣吾は金山の沿革についての記述を注意深く読んだ。甲藍山に金鉱が発見されたのは今から二百五十年ほど前だが、当時、技術的な問題で金の採掘量は全国でも五指のうちには入らなかった。近代技術の導入によって増大した採掘量がたちまちトップクラスに踊り出したのはごく最近のことだ。現政府の所有となったのは、ちょうど政権交代の時期にあたる。
では、現政府に所有権が渡るまで、甲藍金山は誰の手によって管理され、二百五十年ものあいだ採掘をつづけられていたのか。
沿革に詳細な記述はない。だが、わざわざ現政府に所有権が渡ったことを明記されているからには、もともとの権利が国や軍部にあったのでないことは明らかだ。
しばらく液晶画面と睨み合っていたが、推理はそれ以上先に進まず、電池を消費するばかりで埒があかない。臣吾は一旦金山に関する情報収集を諦め、甲藍村の記述に目を通した。
甲藍村の項目に記された内容は、金山の項目に輪をかけて簡素なものだった。事典によれば、人口二百余名の小さな村だったらしいが、金山が現政府の管理下に置かれたため強制的に解散させられたとある。その大部分は海外に移送させられたとのことで消息不明。残りも多国籍街や地方に流れ、現在では一人として行方の知れる者はないという。
消失事件と題されているわりにはあっけない幕切れだ。臣吾は拍子抜けして肩を落とし、晴れた空を仰いだ。政府にとっては確かに外聞のいい話ではないが、反政府組織がわざわざ槍玉に挙げてやいのやいのと突っつくようなことだろうか。
――あいつらの考えることはよく分からん。
溜め息をついた臣吾は、ふと思いついて液晶画面にもう一度目を落とした。「甲藍村住民は政府によって海外移送……」「残留組も多国籍街や地方に離散したものと見られ……」という文章がなぜか引っ掛かる。
「そうか」
――甲藍村住民はみな移民だったのではないか?
事典の中の甲藍村の項目が、はっきり「移民村」と述べている文はない。だが、丁寧に読み込んでみると、ところどころにそれを仄めかすような記述が窺われる。
鉱山開発やダム計画等によって村を解散させるのはとりたてて珍しいことでなく、自国民の村であっても充分ありうることだ。しかし、自国民であれば最低限の生活の保障は国内で為されることだろう。少なくとも、村解散を理由に海外へ送るような真似はしないはずだ。自国民保護を謳っている現政府の政策をかんがみれば、「海外移送」「多国籍街や地方に離散」させるというのがどれだけ異常なことかが分かる。
すると、あの少女は甲藍村の出身なのだろうか。それなら、金塊を持ち歩いていたのも頷ける。
「えっと、甲藍村を構成していた民族は、っと……」
物陰でありながら、臣吾の額にはいつしか汗が滴りはじめている。検索画面に戻り、「甲藍村 民族」のワードを叩き込んだが、結果は芳しくない。そもそも移民であることすら公にされていないのに、どうやって調べればいいのだろう。
液晶画面を閲覧していると目が疲れてきた。炎天下を長時間走りつづけていたため、既に体中の水分という水分が蒸発している。親指の動きも鈍くなり、入力ミスを連発した。ぼんやりと霞がかった頭が重い。
――でも、守ってやるって決めたんだ。ここで放り出すわけにはいかない。
いつしか臣吾は携帯電話を握ったまま地面に倒れていた。周囲の景色が波立つように揺らいで見える。身体に力が入らない。
視界に、薄っぺらなサンダルを突っかけた毛むくじゃらの足が映り込んだ。不明瞭なわめき声が聞こえるが、異国語なので何を言っているのかさっぱり分からない。
――見つかっちまった。でも、ここで放り出すわけには……。
必死に伸ばした指が空を掻く。意識が急速に真っ白な光に包まれていき、じきに臣吾は何も知覚できない闇の中に沈んでいった。