vol.10
「……おっかねぇ」
NSIのバッジ以上に、釘宮には相対する者を緊張させる薄気味の悪い迫力があった。彼が立ち去ると張り詰めていたロビーの空気は一気に緩み、雑然とした賑わいが戻ってきた。それも臣吾を拒絶するたぐいの喧騒ではなく、居合わせた移民たちは、同じく移民の子を身体を張ってかばった臣吾に温かなまなざしを向けはじめていた。
床にへたり込んだままの臣吾の肩に、老人が皺だらけの厚みのある手を置いた。
「何か事情がおありのようじゃな」
見上げると、柔和に細められた目が臣吾に微笑みかけてくる。移民の瞳でありながら、臣吾は何故だか無性に懐かしさを覚えた。
老人は腰をかがめて少女に向き直る。少女は一瞬身をすくませたが、老人が手を伸ばしても逃げようとはせず、おとなしく頭を撫でさせていた。
「ええ子じゃ」
独り言のように呟いた老人は、再び臣吾を振り返ると「まさか肉親というわけではなかろう。どうしてここへ来なすった」
「その子、記憶を失って……迷子になっていたんです」
「おや、記憶喪失かえ」
目を丸くした老人は、少女に何事か異国語で話しかけた。だが、老人が何ヶ国語かを操ってみせても少女はまるで反応せず、老人の言葉の語尾をとらえて「あう」「うぃ」と面白そうに繰り返すばかりである。
「いや、言葉はどうも移民の言葉じゃないみたいなんです」
「ちゃんと喋れるの」
少女が口を利くと、老人はちょっと虚を突かれたような表情をしたが、すぐ顔を綻ばせて少女の頭を撫でさすった。そうか、そうか、偉いな、と声を掛けつつも、臣吾へは真面目な顔をして、「こりゃ厄介じゃな。名前や顔立ちからするとケルトあたりの血が入っていそうだが、その方面の言葉には何も反応しよらん。多国籍街生まれか、混血かもしれんが、いずれにしても本人に記憶がないことにゃ……」と不憫そうに口をつぐむ。臣吾は肩を落として、ここ最近でいちばん深い溜め息をついた。
そんな臣吾を気の毒そうに眺めていた老人は、少女の頭をぽんぽんと撫でると、
「なあ、あんた……爺と一緒に行かないかえ」
この申し出には少女より臣吾のほうが驚いた。声も出せずに固まっていると、老人は少女の肩に手を置き、臣吾を遠い目で見つめる。
「立場や身分も捨ててこの子と行動を共にしてくれたのは、民族は違えど移民としては嬉しいかぎりじゃ。……けど、いくらこの子のためとはいえ、移民でないお前さんが多国籍街やスラム街でこの子の身元を捜し歩くのは想像するよりずっと難しいことじゃ。お前さんのその肌、その髪、その言葉……お前さんがどんなに優れた、どんなに立派な人格であったところで、お前さんのその姿がどうしても気に食わないって奴が、世の中にはうじゃうじゃおる。お前さんが悪いんじゃない。移民たちでさえきっと悪くはない。そう、歪んでいるとしたら、我々のあいだに溝を作った歴史じゃろうて」
しんしんとした老人の声が肌に染みとおっていく。臣吾は膝をついたまま項垂れた。老人は臣吾の腕
を取って立ち上がらせる。だが、臣吾は顔を上げることができない。
見ず知らずの老人に少女を託していくのはむろん不安だった。その一方で、老人の言葉にも説得力がある。近年、自国民が面白半分に移民へ暴行をはたらく事件が急増している反面で、移民の側からも自国民を殺傷する事件が後を絶たなかった。
不当解雇を恨んでの自国民雇用主の射殺、金目当ての強盗殺人、隣人トラブルの末の刃傷沙汰、挙句の果てには「自国民なら誰でも良かった」という通り魔的なものまで、思い出すとゾッと身の毛がよだつ。
自国民の臣吾が移民の少女を連れまわせば、老人の言うとおり、余計に危険というものかもしれなかった。
臣吾は少女の顔を見つめた。少女は無心に見返してくる。
「お前、どうする?」
かすれた声で訊く自分を、臣吾は卑怯だと思った。
「この人についていけば、家に帰れるかもしれないんだ。この人がちゃんとお前の親を見つけ出してくれる」
「そう太鼓判を押されても困るが」
老人は呵々と笑う。少女はどこかぼんやりした目で臣吾と老人とを代わる代わる眺めていたが、軽く顔を俯けて老人の手を握った。「おう、一緒に来るか」と老人が明るい声を出す。
目を伏せかけた臣吾も、すぐ作り笑いをした。「離れたくない、一緒に来て」とごねてほしいと、心のどこかで期待した自分が恥ずかしい。少女にとっては、生まれた街へと安全に送り届けられるのが何よりの幸せなのだ。
「多国籍街にはワシの古い友人が何人もおる。この子を知ってるっちゅう奴もいるかもしれんし、探偵みたいな仕事を生業にしとる奴もおるから、ツテを辿れば何とかなるじゃろ」
「すみません」
深々と頭を下げると、温和に笑んだ老人は、「さ、行くかえ」と少女の手を優しく引いた。少女はいくらか硬い面持ちでこちらを見つめていたが、老人に連れられて素直にロビーの入り口へと歩を進めていく。何度も何度も振り返る少女は、唇をぎゅうっと噛み締めてまばたきもせず、ただ少しでも臣吾の顔を網膜に焼きつけようとするかのようにこちらを凝視していた。
重いガラス戸が老人の手で押し開けられる。つづいて少女が出ていく。彼女はもう振り返らない。夏の陽に隔てられ、少女の背中が陽炎のように揺らいで見える。
急に虚脱感に襲われて、臣吾はふっと下を向いた。……
唐突に、ロビーの柔らかな喧騒を貫くように、パン、と乾いた銃声が響いた。