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vol.1

 はいよッという威勢のいい掛け声とともに差し出されたラーメンのどんぶりからは食欲をそそる濃厚な匂いの混じった白い湯気が立ちのぼり、臣吾シンゴはおもむろに脂の乗ったチャーシューを割り箸の先でつまんだ。「創業三十年間変わらない味」が売りの店だったが、あまりに変化の乏しすぎる味が災いして、中学進学以降四年間、毎日通い詰めに通っているとさすがに飽きてくる。それでも他の店に行く気にならないのは、


「ほいッ、今日も勉強ご苦労様ァッ!」

 と親爺みずから野菜たっぷりチャーハンをサービスしてくれるためで、厚意でこんな大盤振る舞いをしてくれる親爺の店をむげにはできない。


 損な性分だ。


 麺を頬ばりながら溜め息をつく。こんな高等技術を習得したのはいつ頃だったか。


 壁に設置された小型テレビでは、女性キャスターが相も変わらず暗いニュースを報じている。事件の舞台となった多国籍街やスラム街の映像が、画面に次々と現れては消えていった。臣吾はラーメンのスープを啜りつつ、眠たげな細い目をテレビへ向ける。


 移民の受け入れに精力を注いでいた旧政府が倒れ、新たに軍が政権を掌握してからというもの、移民に対する国民感情は日増しに峻烈になりつつあった。かつて移民の受け皿となっていた地区は旧政府崩壊にともなって急速に治安が悪化し、旧政府の負の遺産として現政府支持者の轟々たる非難を浴びている。ことに旧政府崩壊以前から軍のシンパだったマスコミの反応は顕著で、テレビの中の女性キャスターも心なしか硬い声で移民によるデモ行進の模様を淡々と述べていた。


 画面にはさまざまな色の肌や髪を持つ移民たちが手に手に異国語のプラカードを持ち、老若男女、子どもまでもが声高に現政府への批判を叫ぶ映像が流されている。


 ちらと画面に視線をやった親爺が、「ああ、ああ、嘆かわしいねェ」と首を振った。

「うちの倅も今年卒業するんだが、就職口がなくて困ってるってのによォ。自国民も貧乏を強いられてるのに、移民の分まで回す仕事はないわなァ。お上も何をやってるんだか。デモ参加者は強制送還にでもすりゃアいいのに」


「そうですね」


 口先でこそ無難に相槌を打ちつつ、その実、臣吾は上の空だった。就職活動中の大学生や高校生の中には「ただでさえ少ない採用枠を、そのうえ移民に奪われるなんておかしいじゃないか」とデモ行進をして訴えたり、新聞の投書欄で焚きつけたりする者もある。世間もおおむね彼らに同情的だったが、まだ高校一年生の臣吾にとって液晶画面越しにしか見ることのない移民は遠い存在だった。個人的な恨みもなければ、当然ながら庇い立てをする義理もない。景気の冷え込みや失業率の高さは漠然と知っていたが、実感は湧かず、どこか絵空事のようだった。


 スープに浮いたもやしをつまみ、ほぼ空になったどんぶりを置く。

「ご馳走様でした」

 ラーメン一杯分の小銭をカウンターに置くと、「ありがとよッ、また明日な!」と力強い声が背中を押してくる。臣吾はてらりと愛想笑いをして、混み合ってきたラーメン屋からさっさと退却することにした。


 背を丸めて歩く夏の道は小ぢんまりとした商店や昔ながらの民家に挟まれてひどく狭苦しいが、この息の詰まりそうな住宅密集地を抜けると高層マンションの聳え立つ地区が現れる。いつも宵闇の迫る頃になると、マンション全体がぼうっと発光するかのように窓という窓が橙色の暖かな灯りをともすのだが、今日はどこも真っ暗なままひっそりと静まり返っていた。


 臣吾は肩に提げたバッグを揺すり上げ、はーっと深い溜め息をつく。

「忘れてた……」

 本日午後六時より輪番停電、つまり一部地域ごとに時間をずらして停電するという電力会社からの通知を、きれいさっぱり忘れていたのだった。残照の中に暮れかかるマンションはまるで巨大な怪物の両翼を広げて立ちはだかるがごとく、臣吾に黒い威容を見せつける。臣吾はうんざりしながらマンションの十三階を見上げた。縁起の悪い階数だから比較的安価で買えた、と父はえびす顔で報告してきたが、エレベーターの停まっている今となってはただひたすらに恨めしい。


 臣吾はしばらく迷った。駅前まで引き返せばコンビニエンスストアやファストフード店もあり、時間をつぶすには事欠かない。一方で、いつ停電が終わるとも知れず、また駅前までの徒歩二十分を延々歩かなければならないと思うと気が滅入ってくる。


 暑さのために茹だった頭をフル回転して考え込んだが、十三階まで階段で行くのも、ここから駅まで往復するのも、思えば大して変わらない。臣吾は既に汗だくになった開襟シャツの半袖をさらに肩まで捲り上げ、バッグをぴたりと脇につけると、ほッほッと短い声を掛けながらステンレス製の階段を駆け上がった。カンカンカンと高らかな音が響くのが妙に耳に爽やかだ。十三階という高さも、のぼってみるまでは目の眩みそうな心地がしたものの、実際に足を動かしてみるとすぐ四階、五階と辿りついてしまう。


 この調子なら意外と楽勝かもしれない。


 胸のうちでどくどくと快く脈打つ心臓を感じながら階段を上がっていた臣吾の頭に、突然こつんと軽く硬いものが当たったのは、ちょうど七階と八階のあいだの踊り場に着いたときだった。痛みこそなかったが、臣吾は頭をさすりつつ反射的に上階を見あげた。


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