「魔王を倒せば帰れる」と、誰が確認したんですか?~勇者召喚に巻き込まれましたが、討伐せずに帰ります~
床が冷たい。
最初に分かったのは、それだけだった。
頬に触れているのは石だ。目を開けると、白い天井の中央に、見たことのない文字が円を描いて浮かんでいた。
ずいぶん手の込んだ天井だと思った次の瞬間、俺は跳ね起きた。
「成功です!」
白い服を着た男が叫んだ。
広い部屋だった。床には金色の線で巨大な円が描かれ、その周りを十人ほどの男女が囲んでいる。全員、映画の撮影でしか見ないような長い衣を着ていた。
俺の隣では、二十歳そこそこに見える青年が尻もちをついていた。
「ここ、どこですか」
青年より先に俺が聞いた。
白衣の男は胸の前で両手を組んだ。
「異界より招かれし勇者様。どうか、我らの世界をお救いください」
その言葉を聞いて、青年が俺を見た。俺も青年を見た。
少なくとも知り合いではない。
「二人とも勇者なんですか」
「いえ。神印を授かった勇者様はこちらの方です」
男が青年を示す。
青年の右手の甲には、剣の形をした青白い紋章が浮かんでいた。俺の手には何もない。
「では、俺は?」
「おそらく、召喚の範囲に偶然入られたものと」
おそらく。
いきなり不安になる言葉が出てきた。
「元の世界へは帰れますか」
相手を問い詰めたい気持ちはあった。だが、怒鳴ったところで状況は分からない。妻と子どもたちはどうしている。向こうでは何時だ。俺が消えた場所はどこだった。
知りたいことは多かったが、まず確認すべきなのは帰れるかどうかだった。
「ご安心ください。魔王を討伐した暁には、お二人を元の世界へお返しいたします」
青年が息を呑んだ。
「魔王……」
「はい。北の地より軍勢を率い、すでに三つの町を滅ぼしました。この国だけでは、もはや民を守りきれません」
男が頭を下げると、周囲の神官たちも一斉に続いた。
「勇者様。どうか、我らにお力をお貸しください」
青年は戸惑いながらも、自分の右手を見つめた。
「俺に……できるんですか」
「神より聖剣と加護を授かった勇者様にしか、魔王は倒せません」
困っている人がいて、自分にしかできないと言われたら、断りにくい。
青年はしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「分かりました。俺でよければ」
神官たちの顔が明るくなる。
俺はもう一度、床の召喚陣を見た。
円の中には、複雑な文字と図形が並んでいる。俺には意味など分からない。ただ、内側と外側に似た形が向かい合わせで描かれているのが妙に気になった。
「一ついいですか」
「もちろんです。私は召喚の儀を預かりました神官、エルネと申します」
「直人です。鈴木直人」
青年も慌てて名乗った。
「俺は高橋悠真です」
エルネが俺を見る。
「それで、ナオト様。ご質問とは?」
「魔王を倒せば帰れるというのは、誰が確認したんですか」
部屋の空気が止まった。
エルネは笑顔のまま、二度まばたきをした。
「それは……古くから、そのように伝えられております」
「過去に魔王を倒して帰った人がいるということですか」
「いえ、魔王は代替わりを繰り返しておりますので」
「では、帰還の手順は分かっていますか。倒した瞬間に帰れるのか、ここへ戻って儀式をするのか」
「神殿にて、しかるべき儀式を行います」
「その儀式は、今はできないんですか」
エルネの視線が揺れた。
「魔王を討伐することが条件です」
「何が討伐済みだと判断するんでしょう。魔王の遺体をここまで運ぶんですか」
「それは……神がお認めになります」
「神が認めたことは、誰がどう確認するんです?」
「直人さん」
悠真が困った顔で俺の袖を引いた。
責めすぎたかもしれない。
「すみません。嘘だと決めつけているわけではありません」
俺はエルネに向き直った。
「ただ、命を懸ける条件としては説明が足りないと思います。出発する前に、召喚と帰還についての記録を確認させてもらえませんか」
エルネは答えず、奥に立つ年配の神官を見た。
年配の神官は迷った末、うなずいた。
「閲覧を許可しましょう。ただし、勇者様の訓練を遅らせることはできません」
「俺は勇者ではないそうなので、俺が調べます」
そう答えると、なぜか誰も反対しなかった。
◇
俺たちは神殿に用意された部屋へ案内された。
窓の外には石造りの町が広がり、遠くに城が見えた。馬車が行き交い、広場の屋台から煙が上がっている。どう見ても日本ではない。
悠真は窓辺に立ち、右手の紋章を眺めていた。
「直人さんは、怖くないんですか」
「怖いよ」
「そう見えません」
「怖いから確認してる。分からないまま考えても、余計に怖くなるだけだから」
悠真は少し黙った。
「俺、大学の帰りだったんです。駅前を歩いていたら急に光って。直人さんは?」
「仕事帰り。駐車場で車に乗るところだった」
「家族、いるんですよね」
「妻と子どもが二人」
「じゃあ、早く帰りたいですよね」
「ああ」
迷う理由はなかった。
「でも、この国の人たちも困ってるみたいです」
「それも分かる」
「なら、一緒に戦ってくれませんか。俺一人じゃ、何をすればいいかも分からないし」
悠真の声は切実だった。
俺はすぐには答えなかった。
「できることなら手伝う。ただ、俺には力がない。何をどこまでやるのかは先に決めたい」
「そこまで決めないと駄目ですか」
「何でもやりますと言ったら、本当に何でもやることになる。こっちの常識も分からないのに、それは無責任だろ」
悠真は納得しきれない顔をした。
若い頃の俺なら、もう少し勢いで返事をしたかもしれない。だが、頼まれた仕事を断らずに引き受けていると、いつの間にか、それが最初から自分の仕事だったことになる。
命が懸かっているなら、なおさら曖昧にしたくなかった。
◇
翌朝、悠真は城の訓練場へ連れていかれた。
俺も適性を見るというので同行した。
結果から言えば、何もなかった。剣を振れば騎士に三秒で転ばされ、魔力を測る水晶に触れても、かすかな光しか出ない。治癒術も索敵も、荷物を多く持てる加護さえなかった。
ここまで何もないと、かえって分かりやすい。ただの四十歳だった。
「本当に、ただ巻き込まれただけのようですね」
訓練を担当した騎士が気まずそうに言った。
「そうみたいですね」
「ですが、勇者殿を支えることくらいはできるでしょう。武具の管理、行程の調整、野営の準備。役目はいくらでもあります」
「支えるのは構いません。でも、何をどこまでやるのかは先に決めてください」
「は?」
「何でも、では困ります。できないことまで引き受けて、肝心なところで倒れたら迷惑をかけますから」
騎士は変わったものを見る顔をした。
隣では悠真が聖剣を振っていた。
一振りするたびに青い光が走り、離れた的が真っ二つになる。見守る兵士たちから歓声が上がった。
悠真は照れたように笑っていたが、休憩に入るとすぐ、次は何をすればいいか教官に尋ねた。
真面目なのだろう。
頼まれたことに応えようとする。期待されれば、その分だけ頑張ろうとする。
だからこそ、帰れるという説明が本当なのか、先に確認しなければならないと思った。
◇
神殿の記録庫は、地下にあった。
石造りの部屋に木の棚が並び、革張りの本や巻物が隙間なく詰め込まれている。紙と埃の匂いがした。
「本当に、すべてお調べになるのですか」
案内役のエルネが、棚を見上げて言った。
「全部読むつもりはありません。知りたいところを絞ります」
「ですが、古語で書かれたものも多くございます」
「そこはお願いします」
「私もですか?」
「召喚の担当者ですよね」
エルネは口を開きかけ、そのまま閉じた。
まず、過去の勇者召喚の記録を出してもらった。
この国では、魔王の勢力が拡大するたび、異世界から勇者を召喚してきたという。残っている記録は三回分だった。
初代勇者は戦死。二代目は遠征中に消息不明。三代目は重傷を負い、王都へ戻ったところで記録が終わっていた。
「帰った記録はないですね」
「魔王を討伐できなかったからです」
「つまり、帰った実例はない」
「神託に記されております」
「その神託もあとで見せてください」
俺は召喚の実施記録と、勇者に支給された物資の帳簿を見比べた。
文字は読めなくても、名前と数字はエルネに聞けば追える。三代目の召喚記録に、おかしな点があった。
「この二という数字は、召喚された人数ですか」
「はい。そのはずです」
「こちらの遠征名簿には一人しかいない」
「勇者様だけが遠征されたのでしょう」
「もう一人は?」
エルネが別の帳簿を探した。
神殿の滞在記録には二人分の部屋と食事が計上されている。ところが、召喚から二十三日目を境に一人分へ減っていた。
「亡くなった記録は」
「見当たりません」
「神殿を出た記録は?」
「それも……」
エルネの声が小さくなる。
「帰った可能性はありませんか」
「そんなはずはありません。魔王は討伐されていませんから」
「逃げたのかもしれないし、別の土地で暮らしたのかもしれない。まだ決めつけません」
俺が言うと、エルネは意外そうな顔をした。
「神殿が嘘をついているとお考えなのでは?」
「疑ってはいます。でも、自分に都合のいい記録が一つ出ただけで決めるのは、そちらと同じでしょう」
エルネは何も言わなかった。
その日は日が暮れるまで記録を調べた。
翌朝、続きを調べようと記録庫へ入ると、三代目召喚の滞在記録だけが棚から消えていた。
「昨日はここにありましたよね」
「はい」
エルネは空いた場所を見つめたまま動かなかった。
「誰かが移したんですか」
「……私です」
「エルネさんが?」
「昨夜、上司から命じられました。古い帳簿を別の保管庫へ移せと。理由を尋ねましたが、傷みが激しいからとしか」
「今までずっと置いてあったのに、俺が内容を確認した日の夜に?」
エルネがうつむく。
「申し訳ありません」
「謝るより、今どこにあるか教えてください」
「それは……」
「命令に逆らえば、エルネさんにも立場があるのは分かります。ただ、昨日まで知らなかったのと、何かがおかしいと気づいたあとで隠すのは別です」
エルネは何度も指を組み直した。
「帳簿は神殿長の管理室です。私には、もう持ち出せません」
「分かりました。ほかに調べられる場所は?」
長い沈黙のあと、エルネが顔を上げた。
「立入禁止になっている旧記録庫があります。ご案内すれば、私は神官でいられなくなるかもしれません」
「そこまでしてくれとは、俺からは言えません」
「いいえ。これは私が確認すべきことです」
記録庫を出たところで、リディア王女が待っていた。
召喚の日にもいたらしいが、話すのは初めてだった。俺より少し若く見え、髪を後ろでまとめている。
「お時間をいただけますか」
案内された小部屋には、簡単な食事が用意されていた。
「調査を続けていると聞きました」
「はい。問題がありますか」
「止めに来たのではありません。私も、帰還については魔王討伐が条件だと教えられてきました」
「王家も知らない?」
「少なくとも私は。ただ、あなたの質問によって、王宮でも過去の記録を調べ始めました」
王女は北部の地図を広げた。赤い印が、国境から王都へ向かって少しずつ伸びている。
「我が国が勇者を必要としていることに、嘘はありません」
「分かっています」
「なら、調査を終えたあとも、ユウマ様を説得していただくことはできますか。この国に残り、戦っていただくように」
「それはできません」
「なぜです。あなたの言葉なら、ユウマ様も耳を傾けます」
「だからこそです。俺が説得したら、今度は俺が悠真さんに責任を押しつけることになる。帰れると分かったあとは、本人が決めるべきです」
「我が国の民が死ぬとしても?」
「その聞き方はずるいですよ」
王女の顔が固くなった。
「悠真さんが帰れば人が死ぬ。そう言われたら、帰ることを選びにくくなる。でも実際に戦うのも、死ぬかもしれないのも悠真さんです」
「では、私は何も頼むべきではないと?」
「頼むのはいいんです。危険も期間も条件も話して、その上で頼めばいい。断られても責めないことです」
王女はしばらく地図を見ていた。
「あなたは、我が国を嫌っているのだと思っていました」
「知らない国を好きにも嫌いにもなれません」
「では、避難民を見ても、心は動きませんでしたか」
「避難民?」
「本日、北部から城門へ到着しています」
別れ際、王女は神託の原本を閲覧できるよう、王家からも神殿へ要請すると約束した。
王国側にも話の通じる人はいる。それが分かっただけでも助かった。
部屋へ戻る途中、悠真とすれ違った。肩で息をし、訓練着は汗と土で汚れていた。
「まだ調べてたんですか」
「ああ。そっちは?」
「これから魔物との実戦訓練です」
「朝からやってただろ」
「時間がないそうです。北の砦が長く持たないって」
悠真はそう言って笑った。
疲れているのは見れば分かる。
「休むように言われてるか」
「勇者の加護があるから、普通の人より回復が早いらしいです」
「答えになってない」
「大丈夫ですよ」
そう言って、悠真は騎士たちの待つ中庭へ向かった。
止める権利は俺にはない。
ただ、本人が大丈夫と言えば、周りは本当に大丈夫だったことにする。その光景には見覚えがあった。
訓練場を出ると、城門の前が騒がしかった。
荷車が何台も連なり、泥だらけの人々が門兵の指示を待っている。荷台には毛布にくるまれた老人と子どもが乗せられていた。
北から来た避難民だった。昨日、国境近くの村が魔王軍の配下に襲われ、逃げられた者も家や畑を残してきたという。
一人の少女が荷車から降りるとき、足を滑らせた。近くにいた俺は反射的に体を支えた。
「大丈夫?」
言葉が通じるのは召喚の影響らしい。少女はうなずき、胸に抱えていた木彫りの人形を握りしめた。
「勇者様?」
「違うよ。勇者はあっち」
俺が訓練場を指すと、少女の母親らしい女性が深く頭を下げた。
「どうか、勇者様にお伝えください。北へは、まだ行かないでください」
予想していた言葉と違った。
「助けてほしいんじゃないんですか」
「もちろん、助けていただけるなら。でも、先代の勇者様も、来てすぐ北へ送られたと聞きました。何も知らない若者を、また死なせてしまうのは……」
女性はそこで口を閉じた。
後ろにいた老人が、代わりに言った。
「この国の者が戦わず、異界の若者だけを戦わせるなら、救われても胸を張れん」
城の兵士が困った顔で老人を制した。
俺は何も答えられなかった。
この世界の人間が全員、勇者を都合のいい武器だと思っているわけではない。俺はいつの間にか、王国全体を一つの相手として見かけていた。
少女へ城の使用人から水が渡された。少女はすぐに飲まず、荷車の上にいる弟らしい子どものところへ持っていった。
助ける必要がないとは思わない。
それでも、助けるかどうかを決めるために、嘘を受け入れる必要はなかった。
その夜、悠真へ避難民の話をすると、彼は唇を結んだ。
「俺、明日その人たちに会ってきます」
「訓練は?」
「午後からに変えてもらいます。守る相手の顔も知らないまま戦うのは、何か違う気がするから」
悠真は疲れていたが、その目だけは昨日よりはっきりしていた。
俺は止めなかった。
◇
三日目、エルネが神託の写本を持ってきた。
一般に知られている文には、こう書かれているという。
『魔を退けし勇者に、帰るべき道は開かれる』
「これが根拠です」
エルネは少し安心した顔で言った。
「原文は?」
「こちらです」
横に並べられた古い羊皮紙には、まったく違う形の文字が記されていた。
「同じ意味なんですか」
「古語には複数の解釈があります」
「直訳すると?」
エルネの指が止まる。
「直訳では意味が通りません」
「それでもお願いします」
エルネは時間をかけ、一語ずつ紙へ書き出した。
境界。越える。招く。者。来た道。戻す。門。備える。
「つなげると、どうなります」
「境界を越えて招かれた者には、来た道を戻す門が備えられる……でしょうか」
「魔王はどこに出てきます?」
「古語の『境界を乱すもの』が、魔を指すと解釈されております」
「その言葉はどれですか」
エルネは羊皮紙を何度も見た。
「……ございません」
俺たちは顔を見合わせた。
「召喚陣をもう一度見られますか」
儀式の間へ戻り、床の円を調べた。
初日に気になった、向かい合う二つの紋様を指す。
「これは何です?」
「こちらが異界から対象を引き寄せる術式です。反対側は……同じものではありません。魔力の流れが逆です」
「引き寄せるのと逆なら?」
エルネはその場に膝をついた。
指で線を追いながら、何度も首を振る。
「戻す術式……しかし、そんな説明は一度も……」
「使えますか」
「一部が削られています」
見ると、床の外周に不自然に新しい石がはめ込まれていた。召喚陣の補修だと聞いていた場所だ。
「直せば使える?」
「分かりません。私一人では判断できません」
「誰なら分かります?」
「神殿長です」
エルネは答えたあと、青ざめた。
◇
その夜、俺は悠真の部屋を訪ねた。
悠真はベッドに腰掛け、自分の腕へ包帯を巻いていた。
「怪我したのか」
「魔物に少し引っかかれただけです。治癒術でほとんど治ってます」
「治ってるなら、なぜ包帯を?」
「見た目が結構ひどいので、明日の謁見で心配させないようにって」
誰を心配させないためなのか。
俺は向かいの椅子に座り、調べた内容を話した。
過去の召喚者が一人消えていること。神託の原文に魔王討伐という条件がないこと。召喚陣に帰還用と思われる術式があること。
悠真は黙って聞いていた。
「まだ確定じゃない。でも、神殿の説明が正しいとは思えない」
「エルネさんの訳が間違っている可能性は?」
「ある。だから神殿長に確認する」
「昔の人が一人いなくなったのも、逃げただけかもしれませんよね」
「その可能性もある」
「だったら、今は訓練を続けたほうがいいんじゃないですか。北の砦では、本当に人が死んでるんです」
「訓練をやめろとは言ってない」
「でも、直人さんは帰ることしか考えてない」
責めるような声だった。
「家族がいるからな」
「俺にだって家族はいます」
「なら、なおさら帰れるか確認すべきだろ」
悠真は唇をかんだ。
「直人さんは何も感じないんですか。俺たちが帰ったら、この国の人たちはどうなるんです」
腹が立った。
何も感じないから帰りたがっているわけではない。ここへ来てから、泣きながら頭を下げる人も、訓練場へ運び込まれた負傷兵も見た。
それでも、声を荒らげるのは違うと思った。
「感じているよ」
俺は悠真を見た。
「でも、困っている人がいることと、俺たちを騙していいことは別の話だろ」
「騙したって決まったわけじゃない」
「だから調べてる。助けたいと思って残るなら止めない。でも、帰れないと思い込まされたまま戦うのは違う」
「俺は、自分で決めました」
「帰れないと言われた上でな」
悠真が立ち上がった。
「何が言いたいんですか」
「選択肢を一つ隠された状態で選んでも、自分で決めたことにはならないと言ってる」
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「今日は帰ってください」
悠真が言った。
「分かった」
説得しようとはしなかった。
事実が分かっていない段階で、俺が悠真の答えを決めることでもない。
◇
翌日、エルネは俺を神殿の地下二階へ案内した。
旧記録庫の扉には、赤い封印が貼られていた。エルネが神官章を押し当てると、封印が焼け落ちる。
「これで、私が開けたことは神殿長にも伝わります」
「今からでも戻れますよ」
「昨日、帳簿を隠したことのほうが間違いでした」
扉の先には、処分される前の記録が積まれていた。俺たちは埃をかぶった箱を一つずつ確かめた。
数時間後、召喚術式の図面に挟まれた一冊の日記を見つけた。
表紙には、三代目勇者とともに召喚された人物の名前が記されていた。
セイジ・クロダ。
俺と同じ巻き込まれ人だった。
日記には、勇者だけが訓練を受け、自分は雑用をしていたこと、帰還の説明を疑ったことが記されていた。そして召喚陣は、呼び寄せる術式と送り返す術式を組み合わせた往復式だと突き止めていた。
しかし、帰還前と思われる最後の数ページは破り取られていた。残っていたのは、その直前の二つの記述だけだった。
『神殿長は、私だけなら帰してもよいと言った。ただし、勇者には帰還できることを伝えないでほしいと頼まれた。彼が帰れると知れば、戦う理由を失うからだという』
『私は彼に伝えるべきだと言った。しかし神殿長は、北部で焼かれた村の名を一つずつ読み上げた。私には、この世界の人々を見捨ててでも真実を話す勇気がなかった』
その先は、紙の根元しか残っていない。
「これだけでは、実際に帰った証明にはなりません」
「はい。ですが、昨日の帳簿、神託の原文、召喚陣の逆向きの術式。この日記だけが間違いだと考えるほうが不自然です」
どれか一つなら別の説明もできる。だが、帳簿と神託と日記が同じ答えを示していた。
「帰還術式は、存在した」
エルネが震える声で言った。
「そうですね」
「神殿は、勇者様を……」
「エルネさんまで知っていたわけではないでしょう」
「ですが私は、同じ説明をしました」
「教えられたことを信じて説明した。それと、知ったあとも隠すことは別です」
エルネは日記を抱え、長く目を閉じた。
「神殿長へ面会を申し入れます」
「お願いします」
「もし拒まれたら?」
「そのとき考えます。まずは説明する機会を作りましょう」
日記を持って国王の前へ乗り込むこともできた。町で言いふらせば、神殿は批判されるだろう。
だが、俺が欲しいのは神殿を潰すことではない。
家へ帰ることだ。
◇
面会は、その日の夕方に決まった。
通されたのは、神殿の最上階にある小さな応接室だった。
神殿長バルガスは七十歳近くに見えた。白髪を短く整え、深いしわの刻まれた顔で俺たちを迎えた。
悠真と王女リディアも同席していた。
悠真とは昨夜からまともに話していない。彼は俺を見ようとせず、聖剣を膝の横に立てていた。
「お話はエルネから聞いております」
バルガスは穏やかに言った。
「古い記録の解釈に、疑問を持たれたとか」
「疑問だけではありません」
俺は用意した紙を机へ置いた。
「確認したいのは三点です。魔王討伐と帰還は本当に関係があるのか。帰還術式は修復できるのか。そして、その事実を悠真さんへ説明する意思があるのか」
「帰還術式と呼ばれているものは、召喚の失敗を防ぐための補助陣です」
「では、三代目勇者と一緒に召喚されたクロダ・セイジさんは、どうやって消えたんですか」
バルガスの目がわずかに細くなった。
「古い時代のことです。記録が失われていても不思議ではない」
「滞在費は二十三日目まで二人分。その翌日から一人分です。死亡記録も、町へ出た記録もない」
「帳簿の誤りでしょう」
「本人の日記があります」
エルネが日記を机へ置いた。
バルガスは表紙を見たまま、触れなかった。
「神託の原文にも、魔王討伐という言葉はありませんでした。召喚陣には逆向きの術式がある。外周の一部だけ、後から削られている」
「術式の知識を持たないあなたに、何が分かるのです」
「分からないから、分かる人に確認しました。エルネさん、説明を」
エルネは緊張した顔で立ち上がった。
エルネは原文と訳文の違い、魔力の流れ、削られた箇所を直せば帰還できる可能性を説明した。話が進むほど、バルガスの顔から穏やかさが消えていく。
「もう一度聞きます」
俺は言った。
「魔王を倒さなくても、俺たちは帰れますか」
長い沈黙が落ちた。
窓の外から、夕刻を告げる鐘が聞こえた。
「帰れます」
バルガスが答えた。
「ただし、今回召喚された者全員の帰還が完了すれば、召喚陣は内側から崩壊します」
「どういう意味ですか」
「今回の召喚によって、陣にはお二人それぞれの帰路が残されています。ナオト殿だけが先に帰っても、ユウマ殿の帰路は消えません。しかし、お二人とも帰還した時点で陣は崩れ、二度と使えなくなります。我が国は勇者を失い、さらに魔王軍が迫っても、新たな勇者を招くことはできません」
部屋の空気が重くなった。
リディア王女が息を呑み、悠真は床へ視線を落とした。
「それでも、帰還を求めますか」
俺もすぐには答えられなかった。
帰れると証明すれば終わりだと思っていた。だが実際には、俺たちが帰ったあとに残る人間がいる。
「その話が事実なら、なおさら最初に説明すべきだったでしょう」
「答えになっておりません」
「俺は帰ります。ただし、悠真さんの答えまで俺が決めるつもりはありません」
「国が滅びる可能性を知っても?」
「それを含めて、本人が選ぶことです。結果が重いから選択肢を隠していい、とはならない」
悠真の手から聖剣が滑った。
硬い音を立てて床へ倒れる。
「どうして……」
悠真の声がかすれた。
「どうして、嘘をついたんですか」
バルガスは目を伏せた。
「かつて、我々は真実を話しました」
数十年前の召喚では、神殿は帰還できることを隠さなかった。病気の母親がいた勇者は、一晩悩んで帰還を選んだ。
その後、王国軍は大敗した。七つの村と二つの町が滅び、バルガスも故郷を失ったという。
「あの勇者が残っていれば、救えた命があった」
「それは分かりません」
リディア王女が静かに言った。
「殿下は、あの戦いをご存じない」
「存じています。記録も読みました。ですが、召喚された方一人へ敗戦の責任を負わせるのは違います」
バルガスは答えず、俺を見た。
「真実を伝えれば、誰が見知らぬ世界のために命を懸ける?」
責めるというより、問いかける声だった。
俺はすぐに答えられなかった。
故郷を失い、同じことを繰り返したくなかった。その気持ちは理解できる。
「あなたたちが追い詰められていたのは分かります」
バルガスの表情が少しだけ緩んだ。
「でも、それで俺たちの人生を勝手に使っていいことにはならない」
「世界が滅びようとしているのです」
「だから助けてほしいと頼めばいい。条件を示して、断る自由も渡したうえで。それで断られたなら、命を懸けてもらえる頼み方ではなかったということです」
「そのような悠長な交渉をしている時間はない」
「時間がないことも、最初に言えばいいでしょう」
「勇者が拒めば?」
「自分たちで戦うしかない」
冷たい答えだとは思う。
だが、ここで言葉を濁せば、結局は誰かを騙して戦わせる話に戻る。
「異世界の人間なら、家族がいないとでも思ったんですか。こちらで人が死ぬのは悲劇で、向こうで突然家族を失うのは仕方がないんですか」
バルガスは何も言えなかった。
◇
話し合いのあと、悠真は訓練場の隅に座っていた。
聖剣は地面に置かれている。
「こんなもの、いらなかった」
悠真は俺を見るなり言った。
「全部、嘘だった。俺が勇者だから助けてくれって言われたと思ってた。でも、帰れないようにして戦わせたかっただけじゃないですか」
「助けてほしかったのは本当だと思う」
「神殿長をかばうんですか」
「かばってない。嘘をついたことと、助けを必要としていたことは両方本当だと言ってる」
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
「俺に聞くなよ」
悠真が顔を上げた。
「直人さんが調べたんでしょう」
「帰れるかどうかは調べた。でも、帰るかどうかを決めるのはお前だ」
「直人さんなら、どうしますか」
「帰る」
迷わず答えた。
「家族がいるからな。こっちの事情で置いてきたわけじゃない」
「俺にも家族はいます」
「なら――」
「家族がいるから帰るって言いますけど、家族がいない人なら残るべきなんですか」
言いかけた言葉が止まった。
俺は自分が帰る理由を説明したつもりだった。だが悠真には、家族を理由にできない人間なら残るべきだと言われたように聞こえたのかもしれない。
「違う」
少し考えてから答えた。
「家族がいてもいなくても、帰りたいなら帰っていい。俺は自分が帰りたい理由を言っただけだ。お前が残る理由を決めるつもりはない」
「直人さんでも、すぐに答えられないことがあるんですね」
「当たり前だろ。分からないまま答えたら、また誰かの選択を勝手に決めることになる」
「でも、俺が帰ったら」
「残ってもいい」
「どっちなんですか」
「どちらでもいいんだよ。帰れないから戦うのと、帰れると知って残るのは、同じように見えても全然違う」
悠真は両手で顔を覆った。
「分からないです」
「今すぐ決めなくていい」
「北の砦には時間がないんでしょう」
「それでも、一晩くらいは考えろ。世界を救うかもしれない決断を、疲れ切った頭で決めるな」
俺は聖剣を拾い、悠真の横へ置いた。
「誰かに渡された役目じゃなく、自分でやりたいことを決めればいい」
◇
翌朝、王城で会議が開かれた。
国王、王女、騎士団長、神殿長、俺、悠真、エルネが長い机を囲んだ。
神殿長の処分を求める声も出た。だが、それを決めるために来たのではない。
「罰を決めるのはこの国の問題です。ただ、いつか別の召喚陣が作られたとき、同じことを繰り返されては困ります」
「何をお求めになりますか」
リディア王女が尋ねた。
「今後は、最初に帰還できると説明してください。魔王討伐は命令ではなく依頼にする。残るなら、期間、報酬、治療、帰還の手順を先に決める。巻き込まれた人を、同意なく戦わせない」
「すべてを明文化せよ、ということですか」
「口頭だけだと、あとで言った言わないになりますから」
騎士団長が苦い顔をした。
「勇者とは、本来、使命を背負う者だ」
「そちらがそう呼んでいるだけでしょう。本人が選んだ役目ではありません」
「ナオト殿は、この国を救う気がないのか」
「俺には救える力がありません。できない約束をして安心させるほうが無責任です」
国王が重い息を吐いた。
「そなたの世界では、取り決めがなければ誰も危険な役目を引き受けぬのか」
「いいえ。曖昧なまま引き受ける人も大勢います。ただ、一度始めると途中で無理だと言いにくくなる。最初は今回だけでも、続けば最初からその人の役目だったことにされます」
「我らを信用できぬか」
「信用と確認は別です。国が苦しい今だから決めておきたい。戦況が悪くなれば、約束を守る余裕もなくなるでしょう」
王女が静かにうなずいた。
「父上。ナオト様は、我が国を救うなと言っているのではありません。助力を得たあとも、我々が約束を守るために必要な条件です」
騎士団長はまだ納得していないようだったが、反論はしなかった。
ここで曖昧にして、悠真が三か月後も帰れなくなるのは嫌だった。できる範囲で片づける。それ以上は背負うつもりはない。
「条件を受け入れよう」
神殿長が顔を上げる。
「陛下」
「我らは勇者を得るため、勇者にふさわしくないことをした。このまま戦わせたところで、国への信頼は戻らぬ」
国王は悠真を見た。
「ユウマ殿。帰還術式は修復させる。そなたには帰る権利がある」
悠真は膝の上で拳を握った。
「その前に、一つ確認させてください」
「申せ」
「北の砦は、あとどれくらい持ちますか」
騎士団長が答えた。
「長くて三月。魔王本人が出れば、ひと月も持たぬ」
「俺がいれば、勝てますか」
「必ずとは言えない。だが、魔王に傷を負わせられるのは聖剣だけだ」
「俺一人が戦えばいいんですか」
「いや。我々も戦う」
昨日までなら、同じ答えでも違って聞こえただろう。
悠真はうなずいた。
「少し考えさせてください」
◇
三日後、帰還陣の修復が終わった。
召喚されたときと同じ儀式の間で、金色の線が光っている。
俺は王国から用意された服を断り、召喚時に着ていたスーツへ着替えた。ポケットには車の鍵もスマートフォンも残っていた。画面の時刻は、召喚された直後から一分も進んでいない。
悠真も最初に着ていた服で現れた。
聖剣は持っていなかった。
「置いてきたのか」
「はい。帰ります」
悠真は俺の隣へ立った。
王女も騎士団長も、止めなかった。国王が交わした約束どおり、帰還を考え直せと言う者はいない。
エルネが術式へ魔力を流す。
床の文字が一つずつ光り、足元に暖かい風が巻き起こった。
「帰還術式を起動します。お二人とも、円の外へ出ないでください」
悠真は目を閉じた。
これでいい。俺もそう思った。
光が膝の高さまで昇ったとき、悠真が目を開けた。
「止めてください」
「ユウマ様?」
「一度、止めてください」
エルネが慌てて魔力を切る。光が弱まり、悠真は自分の意思で帰還陣の外へ出た。
王女が何か言おうとしたが、唇を結んだ。引き止めてはいけないという約束を、最後まで守ったのだ。
「残るのか」
「まず三か月だけ」
悠真は王女へ向き直った。
「魔王を倒すとは約束しません。北の砦の防衛に三か月だけ協力します。そのあと帰るか、続けるかを、もう一度自分で決めます」
「理由を伺っても?」
「騙されたことは許せません。でも、村が焼かれたことも、怪我をした兵士がいることも本当です。帰れる状態になって、それでも何もしないで帰ったら、俺は後悔すると思いました」
「その条件で構いません」
王女は深く頭を下げた。
「王国から、ユウマ様へ正式にお願いいたします。三か月間、我々とともに北部を守っていただけませんか」
「引き受けます」
悠真が一枚の羊皮紙を差し出した。
「さっき作ってもらいました。直人さん、最後に見てもらえますか」
俺は受け取って読んだ。
この世界の文字の横に、エルネによる日本語訳が添えられている。
活動期間、報酬、治療、住居、帰還の手順。以前とは比べものにならないほど具体的だった。
それでも二か所に印をつけた。
「ここ。“国が必要と認める間、活動に協力する”は削除。必要かどうかを決めるのが向こうになる」
「三か月って書いてありますよ」
「その下にこれがあると、三か月後も必要だと言われるかもしれない」
「そこまでします?」
「すでに一度、帰還条件を隠した相手だぞ」
「確かに」
「それから、“正当な理由なく任務を放棄した場合は帰還を認めない”も駄目だ。正当な理由を誰が判断するか書いてない」
悠真が苦笑した。
「直人さんが残って交渉役をしてくれたほうが、役に立つ気がしてきました」
「嫌だよ。俺は帰る」
迷わず答えると、悠真は初めて声を上げて笑った。
修正された契約書へ、悠真と国王が署名した。
契約では、活動期間は三か月。途中帰還も可能で、延長には悠真の再署名が必要になる。王国は軍の再編と周辺国との同盟を進め、魔王を倒せなくても帰還を妨げない。
完璧かどうかは分からない。
だが少なくとも、帰れないと思い込まされて戦う状態ではなくなった。
俺は帰還陣の中央へ立った。
見送りに来たエルネが頭を下げる。
「ナオト様。あなたが疑問を口にしなければ、私は何も知らないまま、同じ説明を続けていました」
「俺が言わなくても、いつか誰かが気づいたと思います」
「いいえ。私たちは、教えられたものを正しいと思い込んでいました」
「なら、次から確認してください」
「はい」
リディア王女は、帰還術式と召喚記録を王家と神殿の双方で保管すると約束した。
バルガスの姿はなかった。
処分はまだ決まっていないらしい。俺が決めることではない。
悠真が帰還陣の外から手を差し出した。
「直人さんがいなかったら、俺は選んだつもりで、選ばされていました」
その手を握る。
「三か月で一度、ちゃんと帰るか考えろよ」
「はい」
「延長したいなら、そのときもう一度考えろ。今の気持ちだけで何年分も決めるな」
「分かってます」
「本当に分かってるか?」
「たぶん」
「ならいい」
「そこは確認しないんですか」
「三か月後の自分の気持ちまで、今確認しても仕方ないだろ」
足元の光が強くなる。
俺は結局、魔王の姿すら見なかった。
剣を握ることも、特別な力を手に入れることもなかった。
ただ、説明の分からないところを聞き、書かれていることを確かめただけだ。
視界が白く染まった。
◇
次の瞬間、俺は会社の駐車場に立っていた。
右手には車の鍵。左手にはスマートフォン。
画面の時計が、一分進んだ。
周囲を見回しても、金色の光も神官もいない。いつもの車が並び、少し離れた道路をトラックが走っている。
夢だったのかと思った。
だが、スーツのポケットには、エルネから渡された小さな石が入っていた。帰還陣を修復したときに取り外した、古い石の欠片だという。
俺は車へ乗り込み、エンジンをかけた。
家へ帰ると、妻が玄関から顔を出した。
「おかえり。……どうしたの、その顔」
時計の上では、一分しか経っていない。それでも、俺の顔を見て何か感じたらしい。
「ちょっと、仕事を断ってきた」
「何それ」
妻が笑う。
居間から、どちらが先に風呂へ入るかでもめる子どもたちの声が聞こえた。
俺も笑いながら靴を脱ぎ、いつもの家へ上がった。




