「当たり前」だと思われていた令嬢は、婚約解消を選びました
「繊維系の産業か」
公爵令息のロードリック・セルヴァインは、手元の資料を見て首を捻った。
「そうなの」
侯爵家の次女であるエリーゼは、婚約者のロードリックに熱心に説明を続ける。
「あなたの領地で新素材の開発が進んでいるみたいで、いずれ領政に関わるわたしたちも知識を深めておいた方がいいと思うの」
「そうか……俺は繊維の素材にはあまり興味が持てないな。この話はきみに任せるよ」
ロードリックはそう言うと立ち上がった。
「あ、わかったわ。頑張ってみるね」
「ああ、じゃあ俺は行くよ」
ロードリックは無表情のまま淡々と言うと、足早に図書館から出て行った。
エリーゼは「よし」と頷くと、机に広げた資料や書籍と睨めっこを始める。
しばらく勉強を続けていると、エリーゼの前にコップが置かれた。
優しいレモングラスの香りが鼻孔をくすぐった。
顔を上げると、エリーゼやロードリックの親友であるアルベルトが微笑んでいた。
「やあ、頑張ってるね」
「アル」
エリーゼもアルベルトに笑顔を返した。
「リックならもう行っちゃったよ」
「そうなんだ、今日、3人で夕食はどうかな?」
「うーん、リックは学園の外で会食があるって言ってたわよ」
「あ、今日だったっけ。じゃあリックが行ける日にしよう」
「そうね。わたしも勉強したいし」
エリーゼは机に積んだ本に視線を向けた。
「……頑張り過ぎないようにね。手伝えることがあれば言って」
「ありがとう」
エリーゼはアルベルトの言葉に頷いた。
アルベルトがエリーゼの机から離れると、他の学生がアルベルトに話しかける声が聞こえてきた。
「あ、アル様、ごきげんよう……」
「こんにちは。勉強がんばってね」
「アル先輩! ちょっと見てほしいのがあって」
「なに? 俺にわかるといいけど」
アルベルトは伯爵家の三男で、卒業後は市井に降ると公言している。
しかし、人当たりがよくてセンスもあり、男女問わず人望が厚かった。
エリーゼはちらりと後ろを振り返る。自慢の親友がみんなに囲まれている姿を見て、優しく微笑んだ。
ハーブティーを一口飲むと、本に向き直って勉強を再開した。
やがて時間が過ぎ、図書館の利用者は次々と退館して寮に帰っていった。
エリーゼはひとり机に向かっていた。顔には疲れが見えたが、目は活き活きとしており、熱心にメモを取る手を動かしていた。
アルベルトはそんなエリーゼを心配そうに見つめていた。
――――――――――――――
図書館の前でエリーゼは困ったように立っていた。
エリーゼは勉強に集中するあまり、寮の門限が迫っていることに気づいていなかった。
司書に声をかけられると、慌てて立ち上がって礼を言った。
数冊の本を手に図書館から飛び出したが、外は雨が降っていた。
「どうしよう、本が濡れちゃうわ」
待っていても雨は弱まる気配がなく、時間ばかりが過ぎていく。
本を返しに戻ろうか迷っていると、後ろから声がかけられた。
「エリー、傘いる?」
エリーゼが驚いて顔を向けると、アルベルトの柔和な笑顔があった。
手には2本の傘を持っている。
「あ、アル! ありがとう、困ってたの」
エリーゼは紺色の傘を受け取ると、本を落とさないように注意して傘を開いた。
アルベルトと並んで歩きだす。
「こんなに遅くまで頑張ってたんだね」
「ううん、全然足りないぐらいだよ。お父様たちも期待してくれてるし、わたし自身も公爵夫人としての未来が楽しみなんだ。もっと頑張らないとね」
エリーゼは傘を揺らして元気な声を出した。
「うんうん。毎日頑張ってるもんね。公爵領の仕事は難しいだろうけど、エリーならきっと幸せな未来を掴めるよ」アルベルトも声の調子を合わせて言った。
「それにしても」エリーゼはいたずら気な表情を見せた。「傘を2本も持ち歩いてるなんて。どんなときでも準備万端だね」
「さすがでしょ? どこで雨宿りしてる令嬢に会うか、わからないからね」
アルベルトの言葉に、ふたりは笑い合った。
「まあ、偶然だけどね。前に学舎に置き忘れてた傘を、たまたま持ってただけさ」
「そうなの? でも、ありがとう。ほんとに助かったよ」
「運がよかったね。さあ、寮まで送っていくよ」
――――――――――――――
「うそ……」
エリーゼは街の大通りで立ち尽くしていた。
身体から力が抜けそうになったところを、隣にいた友達に両側から支えられた。
「エリちゃん……」
友達の心配そうな声が聞こえたが、エリーゼは言葉を返すことができなかった。
なんとか自分の身体が倒れないようにすることだけで、精いっぱいだった。
エリーゼはたまの気分転換に、友達と3人で大通りのスイーツ店に来ていた。
特大ケーキを出すことで有名な店を選び、美味しいケーキをシェアして、おしゃべりを楽しんだ。
「エリちゃんはいつも勉強ばかりだから、たまには思いっきり楽しまないとね」
エリーゼは友達の言葉に、ケーキで口をいっぱいにしながら幸せそうな表情を浮かべた。
そんな帰り道に、親密そうに身を寄せ合って歩く、ロードリックと令嬢の姿を目にしてしまった。
ロードリックたちは、ときおり立ち止まって顔を寄せ合うと、何かを囁き合った。
そのたびに微笑みを浮かべながら、唇を交わした。
ふたりは周りの人々のことなど目に入っていない様子で、エリーゼたちに気づくことがなく、幸せそうに高級なレストランに入っていく。
「リック……」
エリーゼは動くことができず、見送ることしかできなかった。
3人とも何も言えず、しばらくレストランを見つめていた。
「じつは……」
友達のひとりが、言いづらそうに小さな声を出した。
「わたし、噂で聞いちゃったの。ロードリック様が、側室候補を探してるって」
「側室」エリーゼは言葉の意味がすぐには理解できず、ただただ聞こえた単語を繰り返した。
「うん。高位貴族は側室なんて珍しくないとは思うけど……学生のうちにだなんて、他に聞かないよね」
「エリちゃんは何も相談されてないの……?」
反対側から身体を支えてくれている友達が、エリーゼの顔を覗き込んで、心配そうに問いかけた。
「リックからは領地経営の話ばかりで、わたし、何も聞いてないよ……」
「そうなんだ……」
「それに」エリーゼは言葉を短く切って、うつむいた。「わたしはあんなふうに、一緒に歩いたことない」
友人たちはエリーゼを支える腕の力を強めた。
「エリちゃん……」
「わたしにはあんな笑顔、見せてくれたことないよ……」
エリーゼは歩き出すことができず、しばらくその場にとどまっていた。
学園に戻るまで寄り添ってくれた友人に感謝しながら、エリーゼは肩を落としてとぼとぼと寮に帰った。
――――――――――――――
翌日、エリーゼはロードリックをサロンの談話室に呼び出した。
約束の時間になり、エリーゼはひとりサロンに向かっていた。
ふと廊下の窓から外を見ると、どんよりとした空から、雨が降り始めていた。
エリーゼは足を止めて、窓枠に手を置いた。
ひとりで歩いていると、心の中が不安でいっぱいになってくる。逃げ出してしまいたいと、弱い気持ちが顔を出す。
「でも、話をしないと……」
エリーゼは自分を奮い立たせるようにつぶやくと、再び歩き出した。
――――――――――――――
エリーゼが談話室の扉を開くと、ソファに座っていたロードリックと目が合った。
ロードリックは何も言わず、口を斜めにした。
エリーゼはためらいがちに談話室に足を踏み入れた。
ロードリックが座るソファの向かいに、静かに腰を下ろす。
エリーゼが何も言えずに下を向いていると、ロードリックが口を開いた。
「この前話していた新素材について、情報収集は順調か?」
ロードリックの淡々とした声に、エリーゼはかっとなって顔を上げた。
「わたしには、そういう話しかしてくれないのね」
エリーゼの言葉に、ロードリックは不思議そうに首を傾げた。
「なんだって?」
「わたしはあなたの何?」
「急になんだよ。きみは俺の婚約者だろ」
「そうだよね。わたしはあなたと結婚するんだよ。それなのにいつもお仕事の話ばかりで……どうして愛してくれないの?」
「……どうしたっていうんだ?」
「昨日、街であなたを見かけたわ」
ロードリックは少しだけ逡巡するような表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「ああ、街にいたのか」
「他の女の人と寄り添って歩いていたわね。それに、何度も、キスをして……」
「別に」ロードリックは視線を下に向けて吐き捨てるように言った。「あれはただの側室候補だ。正妻はきみだよ」
「わたし、そんな話聞いてないわ。なぜ、そんなに大切なことを相談してくれないの? わたしが正妻なんだよね」
「正妻になるきみとすべき話はしてきたはずだ」
「わたしとすべき話? 公爵夫人として生きていくわたしに関係ないなんてことない」
ロードリックは首を振った。
「俺は公爵令息だ。別に側室だなんて珍しいことではないさ」
エリーゼは思わず立ち上がった。
「わたしだって知ってるわ! そんなことが不満なんじゃない。わたしには、あんなにやさしい顔を見せてくれたことないじゃない……」
「貴族には役割があるんだ」
「公爵夫人の役目を果たすために、わたしだって努力してるわ。でも、わたしだって幸せになりたいのに」
「公爵領を統治していく。貴族として大変名誉なことだろう」
「それだけのために努力してきたわけじゃない! リックと手を取り合いながら、一緒に頑張っていきたいって言ってるの」
「さっきから努力努力って、当たり前のことを何度も口にするなよ。それがきみの役目だろう」
ロードリックの言葉に、エリーゼは心の中で何かが壊れる音が聞こえた。
身体から力が抜け、ソファに身を預けた。
「もう、あなたとはやっていけないわ。側室をつくることが不満なんじゃない。わたしをひとりの人間として見てくれない、そんなあなたとの未来は、もう思い描けない」
「こちらこそ、きみが公爵家の婚約者として相応しくないことがよくわかったよ」
ロードリックは無表情のまま、扉を手で示した。
「公爵令息との婚約を解消したと噂がたったら、きみの将来によくないだろう。実家には俺から婚約を解消したと連絡する。さあ、もう話すことはないだろう」
「ほんとに」エリーゼは涙を浮かべながら、言葉を絞り出した。「ほんとに、これっぽっちも愛してくれていなかったのね」
ロードリックは何も言わず、手を扉に向けたまま、身動きひとつ取らない。
エリーゼは立ち上がると、よろめきながら扉に向かって歩き、静かに談話室から出ていった。
――――――――――――――
「やあ、ちょっといいかな?」
アルベルトは、エリーゼの友人たちに声をかけた。
「あ、アル様……」
エリーゼの友人はアルベルトと目が合うと、顔を赤らめて視線を下に向けた。
「急にごめんね。その、昨日はエリーとお出かけしていたよね? エリーが元気がなさそうなんだけど、何か知らないかと思って」
アルベルトは柔和な微笑みを浮かべて、ゆっくりと問いかけた。
「あ」友人たちは言葉を漏らすと、視線を合わせて押し黙った。
「なにか、あったんだね?」
「その、昨日、街でロードリック様を見たんですけど……」
ふたりはためらいがちに、昨日街で目撃したことを説明した。
ふたりの言葉を聞いたアルベルトは、口を結んで表情を歪めた。
「あの、アル様はロードリック様と親しいですよね? 何か、聞いていないんですか?」
アルベルトは寂しそうに首を振った。
「俺は友人だとは言われているけどね……貴族の立場は昔に捨てているから。リックは、俺に将来の話はしてくれないんだ」
「アル様、その、実は……エリちゃんがロードリック様に話を聞くって、ひとりで行ってしまって」
アルベルトは顔を上げると「エリーがひとりで?」と呟いた。
「ふたりとも、急にごめんね。ありがとう」
アルベルトは踵を返して、駆け出した。
――――――――――――――
アルベルトはサロンの談話室に入ると、あたりを見回した。
部屋の中にはロードリックの他には誰も居なかった。
アルベルトは、ソファに身体を預けて下を向いているロードリックに歩み寄った。
「エリーは?」
ロードリックはアルベルトの言葉に、けだるげに顔を上げた。
「アルか……さあ、寮に戻ったんじゃないか?」
「そうか……」
アルベルトは一度扉の方を振り向いたが、すぐにロードリックに視線を戻した。
「リック、どういうことだ」
アルベルトの剣幕にロードリックは肩をすくめた。
「なんだ、アル。感情を表に出すなんてらしくないな」
「俺のことはどうでもいい。エリー以外の女性と関係を持つだなんて」
「ああ、アルも聞いてるのか……別に彼女は、側室候補として扱っただけだ」
「エリーの気持ちを少しは考えろよ。そんな大事なことを相談もしないなんて。それに健気に頑張ってるエリーに、いつも冷たくして……もっと優しくできるだろ」
「俺が冷たくした? 別に正妻になる女性として軽んじた気はない。俺もあの娘も、役割があった」
「……エリーを道具みたいに言うなよ」アルベルトは苦しそうな表情を浮かべ、静かに言葉を絞り出した。
「道具だよ」
「おまえ!」ロードリックの言葉に、アルベルトは語気を強めて身体を前に傾けた。
「あの娘も、俺もな」
一瞬だけ自嘲するように笑ったロードリックの表情を見て、アルベルトは動きを止めた。
ロードリックはアルベルトに、真っ直ぐな目を向ける。毅然とした声色で言葉を続けた。
「自由なんていうのは、自分から立場を投げ出したアル、おまえみたいな者だけに許された特権だ。俺たち貴族には、役目がある」
「……だからって、婚約者との接し方はおまえ次第だろう」
「あの娘は純粋すぎる。高位貴族には側室も珍しくない。公爵家の婚約者としては相応しくなかった」
アルベルトは目を見開いて軽くのけ反った。拳を強く握りしめた。
「詭弁だよ。おまえはエリーの気持ちを裏切ったんだ」
ロードリックは、アルベルトから目を逸らして小さく息を吐いた。
「アルがあの娘を好きなのは知ってた」
ふたりは押し黙り、部屋には窓を叩く雨音だけが響いた。
「最後に聞きたい。本当にいいんだな? エリーの献身も、努力も、エリーとの未来も。……手放すんだな?」
「献身に、努力? 公爵に嫁がんとする女性だぞ。当たり前のことを、いちいち恩着せがましく言ってくるな」
「当たり前だと? ……よくわかった……時間を取らせたな。もう聞きたいことはない」
そう吐き捨てると、アルベルトは扉に向かって歩き出す。
「あの娘のところに行くのか? あの娘はもう自由だ。アルと同じ、な」
背を向けていたアルベルトは、ロードリックの言葉に身体ごと振り向いた。
「あの娘あの娘って、1回でいいから、エリーって呼べよ」
アルベルトの言葉に、ロードリックは首を振った。
「もう俺たちは他人だ。俺は公爵令息だ。関係のない令嬢を愛称で呼ぶことはできない」
アルベルトは目を閉じて少し上を向くと、ため息を吐いた。
踵を返すと、振り返ることなく足早に部屋を出ていった。
――――――――――――――
エリーゼは学舎の玄関口で、降りしきる雨を眺めていた。
扉を通って軒下に出たものの、雨の中を走って帰る元気は湧いてこず、肩を落として立ち尽くしていた。
雨は本降りに変わっており、無人の玄関口には雨音だけが響いていた。
婚約者としての役目を果たすために、何年間も努力してきた。
彼に対して愛情を持っていたか、今となってはわからない。
ただ、婚約者として尽くすことを、それが当たり前だと思っていた。この気持ちも、彼の言う「当たり前」なのだろうか。
厳しい教育に嫌気がさし、すべてを投げ出したくなる日も多かった。そのたびに両親から貴族令嬢としての幸せな将来を諭されて、自分自身もそれを信じて頑張ってきた。
それが、こんな結末を迎えるだなんて……
先ほどのやり取りを思い返すと、自然と目頭が熱くなってくる。
涙を流すと自分の決断を否定してしまうような気がして必死に我慢しようとするが、止めようとすればするほど、涙はあふれ出てきてしまう。
エリーゼは気分を変えようと声を出した。
「雨、強いなあ」
膝を軽く曲げて、軒下から空を覗くようにした。
軒下の向こう側には、灰色の分厚い雲が広がっている。
エリーゼは小さくため息を吐いた。
そのとき、目の前が紺色の壁でふさがれる。
「わ」エリーゼは声を上げた。
「やあ、傘いる?」
エリーゼが慌てて振り返ると、そこには柔和に微笑むアルベルトの顔があった。
アルベルトは紺色の傘を広げている。
反対側の手には畳まれた傘を持っており、エリーゼに見せるように軽く揺らした。
「一緒に帰ろうか」
アルベルトは口を閉じてにっこりと笑うと、エリーゼの言葉を待つように少しだけ首を傾げた。やわらかな銀髪が、端正な顔の横で少しだけ揺れた。
「あ、アル……」
エリーゼは慌てて手で涙を拭くと、無理やり笑顔を作った。
「……ふふ、アルはいつもわたしが帰る時間をわかってるみたいね」
アルベルトは、目を細めて口を開いた。
「ああ、いつも、つい目で追っちゃうからね」
アルベルトは世間話をするように淡々と言った。
「え?」
エリーゼは頭が追い付かずに聞き返すが、アルベルトは答えずに目を閉じて小さく首を振った。
「さあ、帰ろうか。寮まで送っていくよ」
「うん、そうだね……あ、友達に心配させちゃうかな」エリーゼは目をこする。
アルベルトは微笑んだまま息を吐くと、背を向けて紺色の傘を閉じた。
エリーゼが顔を上げると、2本の傘を傘立てに挿し込んでいるアルベルトの後ろ姿が見えた。
「あれ、どうしたの?」
「涙も隠せるし、濡れながら帰っちゃう?」
アルベルトはいたずら気な表情を見せると、歩き出した。
動作は颯爽としており、エリーゼが止める間もなく雨の中に踏み出てしまう。
「アルまで濡れる必要は」
エリーゼは言いかけるが、最後まで言い切れずに言葉を止めた。
アルベルトは身体を反転させてエリーゼに向き直ると、優しい笑顔を向けた。
「俺もちょっと頭を冷やしたくて、濡れて帰ってもいいかなって思ってたんだよね。雨の中をひとりで歩いてるのは恥ずかしいし、もしよかったら付き合ってくれない?」
口を半開きにしながら聞いていたエリーゼは、たまらず苦笑した。
「わかったよ」
エリーゼも雨の中を歩き出す。「ありがとう」と小さく言った。
アルベルトは聞こえてないような様子で、気持ちよさそうな表情で銀髪をかきあげた。
気づけばエリーゼの涙は止まっていた。
エリーゼはアルベルトの方をちらりと見ると、微笑みながら上を向いて、雨を顔で受け止めた。
――――――――――――――
婚約解消の話は瞬く間に学園中に広まった。
公爵家の跡取りが関わっていることもあり、学園内だけではなく国中の貴族に知れ渡っているようだった。
ロードリックの「側室候補だった令嬢」は高位貴族であり、ロードリックの取り巻きたちからも自然に受け入れられている様子だった。
いくつかの家も婚約者候補に名乗りを上げているらしく、水面下では熾烈な争いが繰り広げられているらしいことを、友達から噂で聞いた。
エリーゼは公爵令息との婚約が取り消しになったことで社交界での再出発は容易ではなかった。
しかし、友達は態度を変えずに接してくれたこともあり、エリーゼは平穏な学園生活を送っていた。
「エリちゃん大丈夫?」
教室から出ていくロードリックや取り巻きの背中を見ながら、友達が口を尖らせた。
「大丈夫だよ、ありがとう」
「ねえ、週末にさ、みんなで大通りのスイーツを食べに行こうよ」
「いいね! 新商品の特大ケーキをシェアしよう」
他にも変わらないことがあった。
「はい、これ、割引券ね」
「あ、アル様……」友達のひとりが顔を上げると、はっと息を呑んだ。
通りかかったアルベルトが、エリーゼたちに割引券を差し出していた。
アルベルトは公爵令息のロードリックと行動することはなくなったが、いまだに人気は健在だ。
もともと男女ともに人望が厚く、いつも多くの友人に囲まれていた。
エリーゼとは、ふたりで食事をすることもあるなど、以前と変わらない関係を続けていた。
アルベルトを見て赤面する友人たちに苦笑しながら、エリーゼは礼を言って割引券を受け取った。
「アルも行く?」
「俺も女子会に参加してもいいの?」
アルは大げさに驚いた反応を返すが、顔を赤くして俯いてしまった令嬢たちを見て、柔和に微笑んだ。
「せっかくだけど、みんなで行ってきてよ。じゃあまたね」
そう言うと、男友達と連れ立って教室から出ていった。
「ああ、アル様かっこいいわ」
「はあ……なんで市井に降ってしまわれるのかしら」
「ほんとにね……わたしが貴族のひとり娘じゃなかったらアル様と……」
「わたしだって……」
友人たちはアルベルトが部屋を出たことを確認すると、顔を寄せて悩ましげな声で囁き合った。
エリーゼはそんな友人たちを見ながら、週末のお出かけのことを想像してにっこりと微笑んだ。
――――――――――――――
ある日の夕方。
エリーゼは今日も図書館にいた。
婚約解消する前は、公爵家に嫁ぐために必死で勉強に明け暮れていた。
今ではその目的を失ってしまってはいるが、授業後の学習は習慣付いており、日々図書館に足を運ぶ。
エリーゼは婚約解消してから、家族と何度も将来について話し合いを重ねていた。
手紙を何度もやり取りし、連休の際には実家に戻って話をすることもあった。
両親は次の縁談を勧めてきたが、エリーゼは自分の考えが変わっていることを辛抱強く家族に伝えた。
エリーゼが「家を出て、自分の力で生きていきたい」という思いを伝えると、両親からは猛反対にあった。
しかし、「家のことは自分に任せてくれ」と言ってくれた兄の言葉と、何よりも縁談という言葉が出るたびにエリーゼが泣きそうな表情をするのを見て、両親も首を縦に振った。
「いつでも戻ってきていい」という両親の言葉に、エリーゼは泣きながら感謝を伝えた。
婚約のための勉強。
自立のための勉強。
目的は異なるが、エリーゼは日々やりがいを感じていた。
しかし図書館にいると、ふと、領地経営のための書籍がまとめられている本棚に目をやってしまうことがあった。
エリーゼは、そのたびに過去を思い出して悲しい気持ちになった。
今日も同じことを繰り返してしまい、ひとりでため息をついていると、レモングラスの香りが漂ってきた。
振り返ると、コップを持つアルベルトの姿があった。
「お疲れ様。きりがついたら一緒に夕食に行かない? 普段は東側ばかりだよね? 西側の食堂に、エリーが好きそうな新メニューが出たらしいんだ」
エリーゼはほっと息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
「そうなの? ちょうどひと段落ついたところ。ぜひ行こう」
――――――――――――――
食堂からの帰り道、ふたりはいつもよりも言葉少なく歩いた。
エリーゼはそんな沈黙を、心地よく感じながら歩いていた。
エリーゼの寮に着くと、ふたりは別れの挨拶をして、エリーゼは寮の扉をくぐった。
寮内に入ると、カウンターから扉の外を見ていた寮母のアンネが「おかえり」と言った。
「ただいま」エリーゼも挨拶を返す。
「いい男だね、アル君は」
アンネの言葉にエリーゼは首を傾げた。
「アンネさん。アルがどうかしましたか?」
アンネはエリーゼに笑顔を向けた。
「元気そうでわたしも安心してるけど、あんたも大変だったんだろ? 前にアル君に、気にかけてくれって頭を下げられたんだよ。お礼言っときなよ」
エリーゼはアンネの言葉に、はっと息を呑んだ。
口に手を当てて、しばらく動きを止めていたが、やがて真剣な表情でアンネの顔を見た。
「アンネさん」
「ん」
「ちょっと行ってきます!」
アンネは笑顔で頷くと、威勢よくエリーゼを送り出した。
「行ってきな! 門限は守るんだよ!」
エリーゼは走りながら、アルベルトとのやりとりを思い出していた。
困ったときはいつもアルベルトがそばにいてくれた。
記憶の中のアルベルトは、どんな場面でもエリーゼに優しい表情を向けてくれていた。
「当たり前のことなんかじゃないんだ」
息を切らしながら、エリーゼは呟いた。
並木道を曲がると、男子寮に向かって歩くアルベルトに追いついた。
エリーゼは足を止めて息を整えた。
アルベルトは並木道に咲く花々を見ながら、ゆっくりと歩いていた。
夕方の優しい風が、並木やアルベルトの銀髪を小さく揺らしている。
アルベルトの優しげな横顔を見たエリーゼは、たまらず目に涙を浮かべた。
「アル!」
エリーゼはアルベルトに後ろから呼びかけた。
振り向いたアルベルトは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの優しい表情を見せた。
「エリー? どうしたの?」
「わたしもだ」
エリーゼは両手を胸の前に組みながら、申し訳なさそうに表情を歪めた。
「ん? 何が?」
「わたしも、あなたのやさしさを、当たり前って、気づけてなかったから」
エリーゼは言葉に詰まりながらも、懸命に言葉を絞り出した。
「いいんじゃない?」
アルベルトはすべてを察したような表情で、軽快に答えた。
「そんなところも好きだから」
「え?」
「自分がやらないといけないことに集中して、よそ見せずに一生懸命頑張る! そんなところも俺は大好きなんだ」
「アル」
エリーゼは、アルベルトの言葉に胸がいっぱいになった。
目にためていた涙が、あふれ出して頬を伝った。
アルベルトは「本当は言うつもりなかったのにな」とおどけたように言った。
「俺じゃあ、ダメなんだ。俺は兄さんたちの邪魔にならないように、もうとっくの昔に、貴族の立場は手放してしまっているから」
アルベルトは表情を変えずに明るく言葉をつづけた。
「だから、貴族令嬢として頑張っているきみの横には立てない……公爵家の将来を邪魔できないと思って身を引いてきたけど、これからも、少し遠くからエリーのことを見守るよ」
エリーゼは涙を流したまま、微笑んだ。
「わたし、家を出ることにしたの」
「え?」
「わたしは貴族としての将来を思い描くことができなくなってしまったの」
アルベルトは驚いた表情でエリーの顔を見つめた。
「だから、両親と話をして、家を出て自分の力で生きていくことに決めたんだ」
「そうだったのか……」
「今までいっぱい勉強してきたからね。今からでは卒業には間に合わないかもしれないけど、何か商売を始めてみようかと思って」
アルベルトは視線を少しだけ下に向けたが、やがて真剣な眼差しをエリーゼに向けた。
「エリー、俺はずっと市井に降るための準備をしてきたから、もう商会を立ち上げてるんだ」
「うん、すごいと思う」
「でもさ、やっぱり難しくて、助けてくれるパートナーが必要なんだ」
アルベルトは、エリーゼの前に片膝をついた。
「さっき言った通り、俺はエリーのことがずっと大好きだったんだ。もしよかったら、俺と婚約してほしい。そして、一緒に新しいことに挑戦して、ふたりで幸せになりたい。きっとふたりで頑張れば、やっていけると思うんだ」
エリーゼは涙をこぼしながら、アルベルトの顔を見た。
「あなたは……あなたは一緒に、頑張ろうって言ってくれるのね」
アルベルトは優しく微笑んだ。
エリーゼはアルベルトの手を取ると「ぜひ、わたしと婚約してください」と呟いた。
アルベルトは立ち上がると、エリーゼを優しく抱きしめる。
「あ、こんな、外で、ダメよ」
「誰も居ないよ。それに、ずっとエリーのことだけを想って生きてきたから、我慢できないんだ」
「もう……でも、うれしいわ」
しばらく抱き合っていたふたりは、お互いに身体を離した。
「さあ、遅くなってしまうから、今日は寮に帰ろうか。アンネさんは怖いし。送っていくよ」
エリーゼは涙を拭くと、アルベルトの言葉に頷いた。
――――――――――――――
その後エリーゼとアルベルトの商会は順調に成長を続けた。
エリーゼはアルベルトとの挑戦に、今までにない充実を感じていた。
友達からの祝福も嬉しかった。
予定していた週末のスイーツ店で、友達は「アル様となんてずるい」と笑いながら口々にエリーゼを非難したが、その後は涙を流しながらエリーゼの幸せを喜んでくれた。
その後、ロードリックは側室候補だった女性と婚約した。
卒業式の日、ロードリックはアルベルトとすれ違う際に、思わずアルベルトに声をかけた。
「アルまで俺から離れていくんだな」
ロードリックは言ってから、恥じるような表情をした。
アルベルトはいつもの柔和な笑顔で、「違うよ」と首を振る。「おまえがエリーと俺から離れていったんだよ」と言った。
「アル!」
そのとき、エリーゼが足早にアルベルトに駆け寄ってきた。
エリーゼはロードリックに気づくと、表情を一瞬だけ固めるが、すぐに微笑んで挨拶をした。
「そうだ、セルヴァインさん、これを」
エリーゼはロードリックに1枚の紙を差し出した。
「これは?」
ロードリックの問いかけに、アルベルトが答える。
「今度、貴族を対象にして、春の目玉商品のお披露目パーティを企画してるんだ」
エリーゼはアルベルトの言葉に頷いた。
「新商品には、セルヴァインさんの領地で最近開発された生糸を使っている物もあるんですよ」
「うちの領地の?」
「はい。ご都合が良ければ、ぜひセルヴァイン家の皆さんでお越しください」
「あ、ああ」
ロードリックはぎこちなく頷いた。
「それではセルヴァインさん、また」エリーゼはニッコリと笑って別れの挨拶を口にした。
エリーゼとアルベルトは恭しく一礼すると、手を取り合って幸せそうに歩き出した。
ロードリックは招待状に目を向ける。
ふと、エリーゼの「セルヴァイン家の領地で新開発された生糸」との言葉が頭に響いた。
「当たり前の努力か」と、小さく呟いた。
ロードリックは胸がぴりっと痛んだが、表情に出さないように慎重に息を吐いた。
振り返って歩きだす。
少し離れたところにいる婚約者や取り巻きたちに、自分の感情が乱れていることを勘づかれないよう、ロードリックは細心の注意を払って身体を動かした。




