第2話『記録されなかったこと』
それは、
本来なら記録されてもおかしくない出来事だった。
昼休みが終わる少し前、
教室の後方で小さな音がした。
椅子が机に当たっただけの音だ。
誰かが立ち上がり、
誰かが視線を向け、
それで終わった。
教師は来なかった。
注意もなかった。
授業は予定どおり始まった。
彼はその一連を見ていた。
正確には、
見ていたというほど強く意識してはいない。
ただ、
「何かが起きた可能性」が
一瞬だけ浮かんで、
すぐに消えた。
それ以上の情報がなかったからだ。
授業中、
彼のノートには板書だけが並んでいた。
空白はほとんどない。
だが、余白は残されている。
そこに何かを書き足すことはなかった。
放課後、
委員会室の前を通った。
扉は開いていた。
中には誰もいない。
机の上には、
まだ使われていない用紙が重ねられていた。
白い紙。
同じ書式。
同じ項目。
彼は足を止めなかった。
あの音について、
記録する理由は見つからなかった。
対象が曖昧で、
経過も短く、
結果もない。
特記事項に書くことがない以上、
提出すべきものではない。
それは、
以前から共有されている判断基準だった。
帰り道、
掲示板に一件だけ新しい書き込みがあった。
「今日、ちょっと変じゃなかった?」
それだけの文だった。
主語もなく、
具体性もない。
返信はついていなかった。
彼はその文を、
最後まで読んだあと、
特に何も感じなかった。
変だ、という評価は、
基準が共有されていないと成立しない。
基準がなければ、
それはただの感想だ。
アプリを閉じる。
そのとき、
一瞬だけ、
教室の音が頭をよぎった。
だが、
その二つを結びつける理由はなかった。
結びつけなかった、
というより、
結びつける手順を思いつかなかった。
家に着いてから、
机に向かう。
ノートを開き、
空白のページを見る。
以前、
ここに何かを書こうとした記憶がある。
だが、
何を書こうとしていたのかは残っていない。
残っていないものは、
扱いようがない。
彼はページをめくり、
何も書かれていないことを確認してから、
ノートを閉じた。
今日の出来事は、
どれも処理済みだ。
処理済み、
というより、
処理する必要がなかった。
問題が起きていない一日として、
今日も記録されないまま、
終わった。
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