色のない世界にさよなら。 葵side
喉の渇きを覚えリビングへと降りたとき、ソファの前へ座って苦しそうな表情を浮かべている燎くんを見つけた。
その視線の先にはいつもよりも血色の悪い、綴さんの姿。
当初、僕は少し離れた所から二人の様子を見ていたのだが、普段ならすぐに他人の気配に気付く燎くんが僕の存在に気付かないことが、少し気にかかった。
「……綴さん……どうかしたの?」
そんなふうに声をかければ、彼は何かを言いたげにはするものの、言葉が見つからないのか声にはならないみたいで。
「……体調よくないの?」
そう聞けば、少し焦ったように風邪かもしれないとだけ燎くんは言った。
「……そうなの」
僕はそう返して、綴さんの顔を覗き込む。
――彼はまた、無理をしたのだろうか。
とにかく体を温める方がいい。そう考え、血管の集まる首の辺りから、手首にかけてを覆うように自分が着ていたカーディガンを掛けた。
普段から柔らかい雰囲気の奥に、どこか儚さを滲ませる彼は、目を閉じているとさらに脆く見えて、ふとした瞬間にどこかへ消えてしまいそうに見える。
二人のそばを離れて、すぐにはその場を立ち去れなかった。キッチンとリビングの境目、半歩引いた場所で立ち止まり、もう一度だけソファの方を振り返る。
――昔なら、こんなことはしなかった。
そんな考えに至ったとき、胸の奥が僅かに軋んだ。
温かいという感覚。誰かを気遣う行動。
それらは僕の中で、ずっと無縁なものだった。
思い出そうとなんてしていないのに、勝手に浮かんでくる声。
◆
「お前が生まれたせいで、私の人生は狂ったのよ」
「あんたなんか、産むんじゃなかった」
その言葉たちは今もなお、僕の周りを漂っている――。
理由もわからず、何度も言われた言葉たち。
物心ついた時すでに、僕の世界には母さんしかいなかったが、その人が僕に興味を示してくれることはなかった。
何かを求めても応えてくれることはなく、食事はいつも不規則でまともに与えてすらもらえず、口を開けば僕への罵詈雑言の嵐。
お前はいらない子。
生まれてこなければよかったのに。
あんたさえいなければ……。
ずっと、そんなふうに言われ続けてきた。
僕が七歳になる頃には母さんは、殆ど家へと帰ってこなくなった。
一週間に一度ほどの頻度でふらりと男を連れて戻ってきては、家の中へとコンビニの袋を投げ入れて、またどこかへ出かけていく。
廊下に男の笑い声が響き、その声が完全に聞こえなくなるまで布団の中にこもり世界から身を隠すようにして過ごす。
そして嵐が去った後――。
僕は袋の中に入っている僅かな菓子パンやおにぎりを、時間をかけて少しずつ食べて空腹を紛らわせる。
生きるのに必死で、味を楽しむ余裕なんてなかった。
ゴミが溜まり、空気の悪い部屋の中。掃除なんてしていなかったから、日中でも薄暗い。
静かな世界は寂しくて、母さんに会いたくて。でも顔を合わせると決まって同じ言葉と、冷たい視線。
「出来損ない」
「お前はいらない子」
その繰り返し。それらの言葉は僕の皮膚から体の奥へとじわり、じわりと染み込んで、心に大きな穴を空けた。
それでも幼い僕は、どこかで信じていた。信じていたかった。そうしていれば、ほんの一瞬だとしても、母さんが僕に優しくしてくれる日が来るかもしれないと。
そんなふうに僕は、母からの愛情を期待した。ただ、母さんの優しい声が聞きたかっただけ。
――叶うのなら、あいしてほしかった。
そんな奇跡が起こる可能性が僅かにでもあるのなら、どんな事にでも耐えられるような気がした。
だから僕は空腹と寂しさを抱えながらも、母さんの帰りをただひたすらに待ち続けた。
ある時ふと、僕の方から会いに行けばいつも出来損ないだと罵る母さんも褒めてくれるのではないか――。
僕への言葉を取り消してくれるのではないか――。
愛してくれるのではないか――。
そんな思考が降ってきて、僕は母さんの大きなサンダルを履いて、外の世界へと飛び出してみた。
それはアスファルトから立ち上る熱気が肌を焼くような、その場にいるだけで額に汗が滲むほどに暑い夏の日のこと。
初めて見る外の世界は眩しくて、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
まともに食べていないせいで足元はすぐにふらつき、見るものすべてが遠く感じられてしまう――。
僕は母さんを探すために、ただただ当てもなく彷徨い歩いた。
家の周り、商店街の通り、公園。どこでもいい。母さんの声が聞こえるなら、どこでも。
だけど子供の足では行けるところなんて知れていて、すぐに足が痛くなってしまって。
親指の付け根のところは靴擦れをおこし、皮がめくれて血が滲んでいた。
けれどここで止まってしまったら、母さんには会えない。
だから僕は必死に足を前へと動かし続け、そうしてふらふらと歩いていた所を巡回中の警察官に保護され、優しい声で名前を尋ねられた。
その人は僕の前へとしゃがみ込んで、視線を合わせてくれる。
初めて見る母が連れてくる男以外の大人が、僕は怖くて何も言えなかった。
だけどその人は冷たいジュースの缶を買ってきてくれて、ふたを開けてくれた。初めて飲むジュースは甘くて。
不思議と心が温かくなって、目の前に広がる世界が少しだけ明るく見えた。
警察官のお兄さんは椅子を持ってきてくれて、字の読み書きや簡単な計算なんかを教えてくれた。
他にも信号の渡り方や時計の読み方など、生活に必要な基礎的なこともこの時教わった。
知らない事ばかりだったけれど、僕が答えを当てるたびにお兄さんは笑ってくれる。
初めて見る温かくて、優しい笑顔に心のどこかでこれが母さんだったら、なんて考えてしまう。
時間が経つにつれて、今なら母さんは迎えに来てくれて、抱きしめてくれるかもしれない。
そんな、小さく淡い希望が過ぎる――。
だけど何時間待っても、外の世界が赤く染まり始めても、母さんは迎えには来てくれなかった。
完全に世界が闇に覆われた頃――。保護者の迎えも来ず、引き取られない僕はそのまま児童養護施設へと預けられることに決まった。
僕がいなくなれば、少しは母さんの意識がこちらに向くのではないか――。
心配してくれるのではないか――。
本当はそう、期待していた。
交番の前を通っていく親子のように、手を繋いで歩ける日が僕にも来るはずだと。
そう信じていないと、頑張れなかった――。
だけどそんなのは僕の幻想でしか無かったと思い知らされて、心の奥に大事にしまっていたが何かが、大きくひび割れる音。
ぱきっ――。
それは透明で、脆くて、大切にしていたもの。
からんと音を立てて、落ちていく破片は星の様に煌めいたけれど、冷たさしかなくて。
ぷつん――。
それが見えた時、頭の中で糸が切れたような音が聞こえて、僕は何も感じなくなった。
悲しい、辛いと泣くわけでも、叫ぶわけでもなく。ただ目の前にある現実だけが、重くのしかかってくるような感覚。
車に乗せられて辿り着いた、施設の質素な部屋でひとりになったとき。
急に体が重くなり奇妙で気味の悪い違和感に包まれて、幻覚でも見ているかのような遠い感覚に襲われた。
漠然と気持ち悪くて仕方がなくて、簡易机に突っ伏して不快感をやり過ごす。
少し落ち着いてきた頃、顔を上げた視界の端ではコップと鉛筆がふわふわと僕の周囲を漂っていた。
音もなく重力が歪み、その光景をまるで画面越しに見ているような、そんな不思議な感覚。
――ついに、脳のほうも砕け散ってしまったのだろうか。
そんな自嘲的な思考すら浮かび、手のひらには何かが這うような気持ち悪さがまだ残っていた。
これは幻覚ではない。そう、思った瞬間に僕の体へ能力が染み込み、定着したような気がした。
そしてそれから次第に僕の周りの物が、重力のルールを無視し始めていく。
あとから知ったのだが、あの違和感の正体は引力操作能力の覚醒によるもの――。
物質間に働く万有引力を用いて、物を操る事が出来る力。
だけどそんなことすら、もうどうでもよかった――。
母が来なかったことを受け入れた後に、手にした力に対して何の喜びも、恐れもなくて。
この力は何の意味を持つのだろうか。力が目を覚ましたとして、僕の心は壊れたままなのに。
幸いというか施設には本がたくさんあり、文庫本をはじめ図鑑に絵本など種類は多く、棚にぎっしりと詰まった背表紙は、僕にとって新しい世界の扉のように見えた。
当初ページをめくるたび、意味のない記号の羅列にしか見えず、文字をまともに追うことすらできなかった。
けれどいつの間にか理解できるようになっていて、知らなかった言葉の世界が、僕の中へと広がっていくことは心地よくて――。
一枚、また一枚とページをめくれば、遠い国の物語や誰かの生きた証に触れられて、疑似的にそれを体感することができる。
そうしている間だけは、僕の空っぽで無彩色な心の中にも、物語の色が差し込む。
読み進めていくうちに僕はいつしか本の中でだけなら、自分を忘れられることを知った。
現実では重くても、本の世界では誰かの悲しみも、苦しみも形を変えて、少しだけ軽くなるような気がして。
思いのほか能力は、重い本を運ぶのに便利だった。思った通りに物が動き、触れずに持ち上げる事ができる。
言葉の意味を調べるための辞書や、分厚くて重たい百科事典の山をまるで風に乗せるみたいにふわりと棚に戻せば、微かな達成感を得ることができた。
そこからは毎日が淡々と過ぎていき、読んだ本のページがめくられていくように、何も変わらず時間だけが過ぎていく。
外の世界の匂いを忘れかけた頃、母さんと離れてから季節は一周していた。
うだるように暑い、夏の日のこと――。
施設に黒ずくめの男が数人、現れた。鋭い目をした大柄な男たちはまるで、品定めをするかのような視線をこちらへと向けてくる。
そしてお眼鏡にかなったのか、僕を含め数人が指名され、半ば強制的に別の施設へと連れてこられた。
僕は抵抗せず、従った。無駄なことをして、痛い思いをするのは嫌だったから。
連れていかれた先でも、特に何の変哲もない生活。規則的な食事に、最低限の寝床。ただ、そこに本はあまりなくて、退屈だった。
そこの空気はいつも重く淀んでいて、一週間に一人ずつ、どこかへと連れて行かれる。
当初はたくさんいた年の変わらない子も日に日に減り、その殆どは戻ってこない。
戻ってこれたとしても、目の奥の光は消えていて一言も話さなくなる。
そしてその様子は、言い表すことの難しい違和感としてその子の周りを漂っていて、同じ「人間」であるはずなのに、どこか遠い存在に見えてしまう。
何か良からぬことがこの施設で行われているのだということは、嫌でも理解できた。
ひとり、またひとりと日を追うごとに人数は減っていく。
だが抵抗する気力もなく、叫ぶことも、逃げる力もない。諦めの感情が先に来て、体は言うことを聞かなくなる。
――いつかは、僕の番がくるのだろう。
まぁ、それもいいかもしれない。自分で、人生を終わらせるほどの勇気は持ち合わせていないし、面倒。
手間をかけて自分の事を傷付けるよりも、誰かが僕の事を殺してくれるのならそれが楽でいい。
痛い思いをするのは、少し嫌だけど。
そんな考えが当たり前のように僕の頭の中には転がっていて、誰からも愛されない僕に生きる意味なんてない。
期待も、信頼も裏切られてきたこの手のひらでは、何も掴めない。
諦めることには慣れているし、その選択肢しか僕には存在しないのだから。
あれからさらに二人連れて行かれて、残りは僕を含めて三人――。
そしてその矢先、ついに僕の番が回ってきた。薄暗い部屋へと連れて行かれ、冷たい台の上に押し伏せられる。
抵抗なんてしていないのに強く手足を押さえつけられて、次々と体のあちこちに管が差し込まれ、僕はよくわからない機械へと繋がれた。
金属の冷たさや管が肌に触れる感触は不快で、息を吸うたびに薬品の匂いが喉を突いてくる。
残りの二人も連れてこられたようで、同じように台へと拘束され身体を震わせていた。
そんな様子など気にもとめず、白衣の男はディスプレイを操作し始めていて、感情のないその顔はモニターの光に冷たく照らされたことにより、不気味さを増している。
室内に響くのは機械の音と、男たちの小さな囁き声だけ。
別の白衣の研究員がもってきた点滴のパックの中には、淡い蒼白の液体。気味の悪いそれは、かすかに光を帯びて揺れていた。
針が腕に刺さり、冷たい液体が皮膚の下を通って体内へと流れ込む。
それからすぐに無数の針が、内側から突き破るような痛みが走る。
キィィーン――。
不愉快な高い音が頭の中に響き渡り、世界の音が遠ざかっていく。
視界が揺れはじめ、目の前に広がる光景が現実なのか、幻なのかの判別がつかなくなってきて、その境界線は溶けて曖昧になってくる。
――もう、ここからは逃げられないんだ。
そんな諦めの感情が、浮かんでは消えていく。
誰かの指示と共に、機械が唸りを上げたそのとき。
大きな音を立て、勢いよく開いた扉から光が一気に流れ込んできて、人影が押し寄せてくる。
慌ただしい足音が辺りに響き渡り、研究員たちが次々に何かを叫んでいた。
「おい! お前ら、直にリヒトの連中がくる。被験体を殺し、ここを放棄しろ」
ぼんやりとしてきた意識の中でひとつだけ、はっきりと言葉が流れ込んできた。
――ようやく、殺してもらえる。やっぱり痛いのかな。
――でも……今なら、逃げられる? 何かが変わる?
相反する二つの感情が、頭の中を通り過ぎていく。
そんな事を漠然と思考している間にも、研究員たちは書類を必死に掻き集めていて、誰かがぶつかった拍子に僕の腕に刺さっていた点滴の針が勢いよく抜けた。
冷たい薬液の滴が床に飛び散って、針の抜けた痕からは、じわりと血が滲んでいて、僕はその滴る赤をぼうっと眺めている。
他の子は縛られた手首を血まみれにしながら必死に抗っていたけれど、僕は動かなかった。
逃げるだけの気力も、勇気も残っていなくて。
「おい! 相手は子供だ、さっさと殺せ! 時間はないぞ!」
研究員が見せた一瞬の隙を狙い、目の色を変えた彼は飛びかかるようにして銃を奪い取った。
その刹那、乾いた銃声が狭い部屋に響き渡り、白衣の男の胸元が赤く染まる。
崩れ落ちる音とともに、研究員は床に倒れた。
衝撃的なその光景に世界の何もかもが止まったように見えて、少し遅れてきた硝煙の匂いが鼻をついた。
「ははっ、ざまぁみろ」
そんな悪役のような言葉を置いて、そいつはもう一人の女の子の拘束だけを解いて、その手を引き扉の外へと飛び出していった。
なぜあの二人が助け合うのか、どうしてそんな言葉が飛び出すのかも僕には理解できない。
そして直後、逃げた二人の悲鳴と銃声が二発――。
「お前は、大人しくしてろよ……」
眉間に、冷たく硬い金属の感触。僕はどこか他人事で、一拍おいてから拳銃を突き付けられていることに気がついた。
――あぁ、ようやく死ねる。
男が引き金に指をかけて引こうとした、その時。
物凄い音と共に、僕に拳銃を突き付けていた男が吹き飛んだ。
そして人が壁にぶつかる重い音と男の呻き声を最後に、光が溶けていくように世界が薄れて、そこから僕の記憶は途切れている。
◆
次に意識を取り戻した時。足元には冷たい感触があって、ゆっくりと視線を落とした先には大量の死体が転がっていた。
濃い血の匂いと、少し乾き始めた赤色。僕以外の生きている人間の気配は、ここには感じられない。
――これは、僕がやったのかな。
――殺してもらえなくなっちゃったなぁ。
――まぁ、どうでもいいか。
そんな事を考えていた時、僕より少し年上らしき男が二人現れる。
この人たちは、僕の事を殺しに来たのかな。
「ねぇ、僕のこと殺してくれるの」
間違いなく今のは、自分の声のはず。
なのにその言葉は驚くほど冷たく聞こえて、まるで遠くで誰かが言っているのを聞いているかのような、奇妙な感覚がした。
僕は一体何に期待をして、この言葉を発したのだろうか。
自分の事なのに、わからない。楽にしてほしいのか、それとも勇気が出ないから、誰かに託したいのか。
自分の心がどんどん透明になって、本心すら曖昧になってきている。
「これは、君がやったのか?」
どうだろう……本当にわからない、何も。もう考える事すら面倒――。
「……そうだ。って言ったら殺してくれる?」
自分が今どこにいるのか、誰であるのかさえ不明。心という物が存在するのであれば、それがどこにあるのか僕にはわからない。
「殺さない」
僕の問いに対しての答えはとてもシンプルなもので、目の前の人は言った。
君の事を保護するために来たのだと――。
僕を保護する?
実の母親にすら愛してもらえないのに?
誰も必要としてくれるわけがない。だって僕は出来損ないなのだから。
「なんで? 母さんが言ってたから。僕が生まれたから、僕のせいで人生が壊れたんだって」
無価値の証明を、自分自身で重ねていく。
周りの死体も、瓦礫も。そのすべてがその言葉を裏付ける証拠の様で、僕自身が生み出した力によって人を壊した。
価値なんて、どこにも残っていない。
「俺は、綴。ねぇ、君の名前聞いてもいいかな?」
名前……僕の名前は、何だっただろうか。記憶の奥底を探ってみると、小さくなったそれを見つけた。
「……葵」
「葵か……綺麗な名前だね」
初めて、自分の名前を呼ばれた気がする。今までただの記号でしかなかったそれが、形になったのは不思議な感覚で。
「葵は何が好き?」
それは僕を思い留まらせるために、言っただけだったのかもしれない。
だけど目の前のこの人の声は、なぜか聞き入ってしまうような、謎めいた音を含んでいて。
「……本」
口が意志とは関係なく、勝手に言葉を紡いでいた。
「じゃあさ、これからいっぱい好きな本が読めるね」
その言葉は僕にとって、初めてのものだった。ずっと死を望み、自分を捨てることで苦しいだけのこの世界から解放されるのではと考え、それを願っていた。
何かを望むことなんて僕には許されないことで、ならいっそこの世界から消してほしいと。
だがその願いはいとも簡単に打ち消され、差し伸べられた手が一瞬だけ救いに見えてしまった。
「だからね、俺たちと一緒に来てくれないかな? 俺、葵と友達になりたい」
粉々に砕けたと思っていた破片を、この人たちはひとつずつ丁寧に拾って、くっつけようとしてくれる。
僕と友達になりたいなんて言う変わり者のこの人に、少しだけ興味が湧いてしまった。
なんで僕なんかに構うのかと聞けば、もっと知りたくなったから? なんて疑問形で返してくるこの人の事をを、信用してみたいと思ってしまった。
「なんで疑問形なの……変な人だね」
そんな言い方をしたのに、なぜか嬉しそうに笑う。「花笑み」という表現は、この人のためにあるのかもしれない。
だけど気付けば差し出された手を、僕は取っていた。
その手は、とても温かくて。
この出会いが救いなのか、罠なのかはわからない。
本当に信用してもいいのか。
この手を本当にとっても大丈夫なのか。
壊れている自分を、さらに砕いてしまうことにはならないのか。
恐怖と期待が同じくらいの大きさで、のしかかってくる。
僕が必要のない人間なのは変えられない事実。母に必要とされなかった記憶は、僕の骨の奥にまで染み付いていて、溶かすことは出来ない。
誰かの手を取るのは、怖い。
その手がなくなってしまったとき、温もりに対しての依存だけが残るから。
そして次にそうなった時、きっと耐えられないことを僕は知っている。
「葵、行こぉー」
「ほら、葵」
だけど二人は僕の名前を呼ぶその音が、なぜか凄く大切な宝物のように思えて。
向けてくれる二人の笑顔は温かくて、幼い僕が求めてたものに似ているような気がする。
無条件で向けられるもの。理由や代償なんてものがなくても、自分がそこにいてもいいのだと許してくれるような表情。
それは長い間、僕がどれだけ手をのばそうとしても手に入らなかったもの。
二人の手は、僕の心のひび割れてしまった部分をひとつ、ひとつ埋めてくれるようで。
泣きたくなるくらい温かく、大切なものにふれるみたいに優しく僕の手を包み込んでくれた。
死にたいという声は、今も僕の中で低く囁いてくる。それでもほんの少しだけ、生きてみようと思わされてしまった。
何も感じなければ、楽で。期待しなければ、裏切られることはない。
欲しがらなければ、失わずに済む。
だから僕は感情を閉じたはずなのに、この人たちといると、なぜかそれが難しくなってしまう。
綴さんの花の咲くような笑顔をみると心が温かくなるし、調さんの作ってくれる料理は優しい味がする。
それが「人間らしさ」なのだと、僕は彼らに教えてもらった。
さっきだってカーディガンを掛けるとき、起こしてしまわないかと僅かに心臓の鼓動が大きくなった。
そしてその心配が大丈夫だと確認できたとき、凄く安心した。
失っていたと思っていた感情が、確かに戻ってきていることを僕はまたひとつ認識した。
僕は自分の部屋へと戻り、後ろ手に扉を閉じれば、床から天井にまで続く、大きな本棚が目に入る。
背表紙の色も大きさもまちまちで統一感はないが、不思議とその光景は落ち着く。
僕がこのアジトへと来る前。実験の影響によって体に異状はないかを調べるため、数日の入院が必要になった。
綴さんも、調さんも僕に対して無理に干渉してくることはなかったけれど、お見舞いの際は必ず新しい本を置いていってくれる。
退院の日も当たり前みたいに二人が病院まで迎えに来て、ここが僕の部屋だと案内された時も、すでにここにはたくさんの本が置かれていた。
誰かがこうして僕のことを考えてくれるということ自体、初めての経験で当時の僕はそれをうまく自分の中に落とし込めなくて。
じんっと胸の奥が熱くなって、呼吸が少しだけ苦しくなる。
それが「嬉しい」という感情だというのを、後になってから知った。
だからかな。あの時の本だけは、今も大切にしている。
読み返す頻度が高いわけでも、特別に内容が好きというわけでもない。
けれど、手放せなかった。
あれはただの「本」ではなくて、僕に向けられた二人の心だと思ったから。
――誰にも、言っていないけれど。
大切な本の背表紙を僕はそっと、指でなぞる。
この気持ちを言葉にするのは、まだ少し怖くて。だけどいつかちゃんと、伝えたいと思う。
僕がここにいてもいいと思えたその始まりが、優しい人たちがくれたこの本たちだったから――。




