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未完成なイデア  作者: 綴 朔哉


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7/33

守られる側から守る方へ。 燎side



 静かな寝息が、すぐ側で聞こえる。綴の顔色は俺がここへ来たときよりかは、幾らか良くなっているように見えた。




 遡ること約二時間――。任務もなく、特に予定もない日の朝。久々に少し遅い時間まで眠った俺は、半分くらい寝ぼけたままリビングへと降りてきて、いつもの定位置であるソファの方へと向かう。

 そこには、ブランケットに包まれた人影。


 ――また悠が映画でも見ながら、ここで寝落ちしたのか……?


 そう思って静かに覗き込むと、想像していた銀色の髪ではなく、そこにいたのは苦しそうに眉間を寄せて眠る綴の姿だった。


「燎、起きたんだな」

 背後から聞こえた声に、びくりと体が跳ねる。


「お、はよう……調……驚かせないでよ」

「驚かせるつもりはなかったんだけど……」

 振り返って見た調は少し困ったように笑っていて、その手には冷却シート。

 

「……綴、体調悪いの?」

「あぁ……またこいつの悪い癖が出ててな」

「……そう」

 調が持ってきた冷却シートを貼り変えると、強張っていた綴の表情は少し緩んだように見えた。

 

「燎、今日の予定は?」

 綴の前髪をそっと直しながら、調は立ち上がって言う。

 

「特に何もない」

「……綴のこと、頼んでもいいか?」

 もう少ししたら任務のため家を出ないといけないという調に代わって、俺が様子を見ることになった。 


 綴は、柔らかい雰囲気を持つ柔らかい人――。


 調は、少し近寄りがたいが芯のある強い人――。


 二人の印象は、初めて出会ったときから二十年近く経つ今でも変わることはない。 



 

 あれは俺がギフトとして覚醒する、約半年前――。


 今になって思えば、あの頃の自分はどうしようもなく幼かったと思う。


 ある日突然、父さんが俺と母さんを置いて家を出ていった。そしてそれからしばらくして母さんの涙によって、その理由が浮気によるものだったと知った。

 

 母さんは俺と二人で暮らすようになってからパートの仕事を増やし、殆ど休みなく働くようになった。

 働き詰めで疲れているはずなのに、俺にそれを見せることはなく、いつも優しく笑いかけてくれる。

 

 そんな母さんを尊敬していたし、俺に苦労させないようにと頑張ってくれていることは理解していた。


 だけど俺はずっと……さみしかった――。

 

 俺は一人っ子で兄弟もおらず、学校から帰れば家の中には誰もいない。

 祖父母も父方は健在だったが殆ど会ったことはなく、母方の方はすでに他界していて、母さんには兄弟もいなかったから、俺に母さん以外の身内はいなくて。


 両親が離婚するまで俺が帰ってくる時間には、母さんが家に居てくれた。

 父さんがいなくなってからは、母さんが仕事の前に作り置きしておいてくれたご飯をレンジで温めて、一人静かに食べることが当たり前になった。

 

 宿題をするときもひとり。学校で友達と話をしていたバラエティー番組を見る時もひとり。


 夜の九時頃まで、母さんが帰ってくるのをひとりで待っていないといけないのは、心細くて――。

 

 母さんは俺に何度も「大丈夫?」と聞いてくれていたのに、その度に俺は笑って「平気」だと答えた。

 本当は全然平気なんかじゃなかったのに。

 

「寂しい」なんていうのは、俺の我儘だとわかっていたから。大好きな母さんを困らせたくなかったから。

 理由なんて、単純なもので。疲れた顔を、さらに曇らせてしまうことをしたくなかった。

 だからずっと、言えなくて。


 母さんはいつも俺を大切に思ってくれていて、優しくて。だからこそ俺は、その優しさに甘えられなかった。

 何でもないふりをして自分の気持ちを必死に押し殺し、寂しさを我慢することしかできなくて。

 

 そして能力暴走によって、火災を起こしたあの日――。


 俺は前日の夜から、三十九度近い高熱に魘されていた。体の倦怠感が強く、頭も割れるように痛くて、寒気も止まらなくて。

 ただ辛くて、しんどくて……布団の中で何度も呻いた。

 だけどそれ以上に、母さんがずっとそばにいてくれることが、俺は嬉しくてたまらなくて。

 冷却シートを貼ってもらうときの、ひんやりとした感触。

 作ってくれた温かいお粥を食べさせてくれる、母さんの優しい声。


 元気な時だったらきっと恥ずかしくて出来ないけれど、俺は体調不良を理由にたくさん甘えた。


 苦手な薬を飲めた俺を母さんは「えらいね、頑張ったね」っていっぱい褒めてくれる。

 その言葉が嬉しくて、熱で苦しくて仕方がなかったはずなのに、不思議とその時だけは辛さが少しだけ和らいだ気がした。


 やがて薬が効いたのか強い眠気に襲われ何度も、瞼が落ちてくる。

 その間も母さんはずっと俺の手を握ってくれていて、温かい手のひらがそこにあるだけで、世界のすべてから守られているような気さえした。


「おやすみ、燎。ゆっくり眠ってね」

 大好きな声が聞こえて、優しく頭を撫でられた俺はそのまま眠りに落ちていく。

 

 そして、次に目が覚めたとき――。


 視界は赤と橙の色に包まれ、耳を裂くような炎の音。


 驚きで飛び起きた瞬間、耳元で金属音のような高い音が鳴り響く――。

 その不快な感覚の後、目の前がぐわんと揺れて、さらに追い打ちをかけるように耳鳴りが頭の奥を突き抜ける。

 膝が折れてベットへと逆戻りするように、体勢が崩れた。


 体感にすれば数分だけど、実際は数秒くらいだったのかもしれない。

 ようやく音が遠ざかり、必死に辺りを見渡す。


「……母さん?」

 俺がいるベットのすぐ隣で、母さんは眠っているように目を閉じていた。

 

「母さん! ねぇ、起きてよ母さん!」

 縺れる足でそばへ行って、必死に揺さぶる。涙で前が見えなくて……声も震えてしまう。

 そのとき母さんの瞼がゆっくりと、酷く重そうに開いた。

 

「か、がり、に……げて」

 掠れた声。意識は朦朧としているようで……。

 

 温もりの残る指先が優しく頬を撫でてきて、母さんは静かに微笑んだ。

 

 俺に大丈夫だと伝えるみたいに――。

 

 だけどその刹那。腕からは力が抜けて、ぱたりと音を立てて落ちる。


「……母さん? おきて」

 理解……できなかった。何が起こったのか。どうして母さんが返事をしなくなるのか。

 ただ怖くて、寂しくて、どうしようもなくて。涙が溢れるままに、泣き叫ぶことしかできない。


 ふと気付いた時、視界は赤から白へと変わっていた。一面の銀世界には、俺の嗚咽だけが響く。


 そんなことすらどこか他所事で、泣くことしかできなかった小さな俺は、目の前の母さんが起きるまで必死に呼んで、縋り付いた。

 何をすればいいのか分からなくて、誰かに助けを求めることなんて思いつきもしなくて。

 

 その時、綴に声を掛けられた――。


 耳に届くその声は、柔らかくて不思議と安心をくれる。涙で滲んだ視界の中に、見慣れないけど温かな眼差しがあった。


 あの日、絶望の真ん中にいた俺を綴と調は確かに掬い上げてくれたのだ。




「……かがり」

 そんな小さな声が聞こえ、読んでいた本を閉じてから振り返ると、ぼんやりと揺れる目と視線が合う。


「……起きた?」

 そう聞けば、ゆらゆらと瞳が何かを探るように彷徨っている。

 

「あれ……ゆめ……?」

 夢と現実の境目が曖昧な時に見せる綴の表情に、胸の奥が少しざわついた。


「……どうしたの。なんか、嫌な夢でも見た?」

 綴は少し考えてから、無理をして笑う。小さい頃の燎が夢に出てきてね、なんて言いながらわざと軽い調子で言う声。

 周りを心配させないようにするための、綴の悪い癖。

 本当は気付いているけど、俺はそれに気付かないふりをして、同じように返す。

 そうすることが、今の最適解だと思ったから。

 

 そうしていれば綴はほっとしたように体の力を抜き、緊張が解けたみたいにふにゃりと笑う。


 ――本当にずるい。そんなふうに笑っているところをみてしまったら、俺は何も言えない。

 

「小さい頃はいっぱい助けてもらったから、次は俺の番なの」

 いつもは、なかなか伝えられない本音。だけど恥ずかしくて、どうしても顔は見られなかった。

 

「……大きくなったね」

 噛みしめるようにして、紡がれた言葉。だけど振り返った先で見た綴が無意識なのか、鼻先にふれた仕草に、喉がきゅっと締まる。

 

「……もぉ、からかわないでよ」

 そんなふうに返すのが、俺の精一杯だった。ブランケットに手をかけて、体が冷えてしまわないように肩まで覆う。


「……過保護だなぁ」

 綴はまだ体が辛いようで、呼吸はいつもより浅い。

 

「誰のせいだと思ってるの」

 やっぱりそれを気付かないふりをして、努めて俺はいつも通りを装った。

 

 睫毛が伏せられて、呼吸がゆっくりと静かになる。そんな綴の表情に心臓が、どくり。と音をたてた。


 力の抜けた輪郭。血色の薄い顔。


 それが、嫌でも重なってしまう。




 

 あの時もこうして、目を閉じていた。今から三ヶ月ほど前のこと。

 

 あの日は朝から綴の姿が見えなくて、調や和に聞いてみても「どこかに遊びに行ってるんじゃないの?」くらい。

 確かに綴は自由気ままな人で、ふらっと出かけたりして姿を消すことも珍しくなかったから、その時は俺も特に気にはしていなかった。


 だけど時間が経つにつれて、どうしても胸騒ぎが収まらなくなってきて、それを振り払うように気分転換のつもりで、アジトの屋上へと向かった。

 

「……っ!」

 目に飛び込んできた光景に、心臓が止まりかける。


 そこにいたのは血に濡れた状態で横たわる、綴の姿――。

 鼓動が耳の奥で、爆音のように鳴り響ている。頭が真っ白になって、縺れる足を必死に動かして駆け寄った。

 

「綴っ! 目を開けて!」

 俺は慌てて抱き起こし、膝を付いて体を支える。口元から伝う赤い筋に、全身が凍りつき震えてしまう声で何度も名前を呼んだ。


「ねぇ! お願い、しっかりして」

 必死に揺さぶり、何度も呼びかける。微かに瞼が震え、ゆっくりと開いたその目はどこか虚ろに見えて。

 いま瞬きをしたら、綴は消えてしまうのではないか。そんなどうしようもない不安に駆られた。

 

「ん……ぁ……かがり?」

 咳き込んだのか掠れた声がして、緩慢に綴の唇が動く。その瞬間、心の奥にあった恐怖と安堵が同時に押し寄せてきて。

 

「どうしたの……なんでこんな……はやく、和のとこ……行かないと」

 声が震えてしまって、うまく話せない。


「ごめ、んね……心配かけて……能力を使い過ぎ……ただけ……から、だいじょうぶ」

 苦しそうなのに、無理をして笑う。鼻血と吐血の痕が全部を赤色に染めていて、綴が大切にしている服まで濡らしているのに「大丈夫」なんて言葉を信じられるわけがない。

 それにこの状態が問題ないとは、とてもじゃないが思えなくて。


「でも……!」

 綴は必死に腕を伸ばしてきて、俺の袖を掴んでくる。

 

「燎……おねがい……み、んなには秘密に、して……心配かけちゃうから……」

 その瞳は切実で、俺の抗いを許してくれなかった。納得なんてできるはずもない。

 だけど綴の縋るようなその表情に、俺は渋々頷くしかなかった。

 

「……燎、悪いけど……そこのタオル取って……」

 綴が指差した方向にはあらかじめ用意していたであろう、たくさんの黒いタオルが置いてあって。

 

 一枚取って渡せば、手慣れた様子で綴は血を拭う。それを見て、先ほどの大丈夫の意味をやっと理解することができた。

 

「ごめんね、びっくりさせちゃって……。新しい武器を創ってみようとしてたら、加減間違えちゃった」

 青白い顔でへらりと笑う、綴。


「……武器?」

 確かに辺りには綴が能力で出したであろう、拳銃や刀などが散乱している。

 けど加減を間違えたとして、こんなに出血するというのには違和感があって。


 この屋上には基本、綴以外は来ない。偶に湊がここで昼寝していることもあるみたいだが、みんな外に出たい時は中庭に行くことの方が多い。

 綴はそれをわかっていて、あえてここを訓練場所に選んだのだろうか。

 

「……調は? この事、知らないの?」

「……知らないよ、話してないから……」

 

 ――なんで、話さないの……。

 

「燎、今日……見たことは……俺との秘密」

 綴にしては珍しく少し圧のある物言いと、真剣な瞳に射抜かれて、俺は動揺してしまう。


「……言ったら……みんなに、心配……かけちゃうでしょ……」

 

 ――そこまでして、隠す必要があることなのか。


 ――それは何らかのサクリファイスによるものじゃないのか。

 

 みんなは言ったところで、疎んだり遠ざけたりなんて絶対にしないのに。

 それでもなお、必死に覆い隠してしまおうとするその姿を理解できなくて、それが怖くて。


 感情は、ぐちゃぐちゃだった。


「……わかった。俺、みんなには……ちゃんと秘密にする……だから、俺にだけは隠さないって約束して」

 綴は少しの間黙り込んでから困ったように笑ったけど、視線が合うことはなかった。

 

「……ごめんね、燎……出来るだけ気を付けるから……」

 その、ごめんは何に対しての謝罪なの?


 約束を守れないこと?


 それとも、血濡れた姿を見せてしまった事?

 

「さぁ……燎、一緒に戻ろう」

 そう言った綴はいつも通りに戻っていて、それ以上は何も聞くことが出来なくて。





 優しくて誰かのためなら、簡単に身を削ってしまう人。 

 だけどその優しさのまま、いつかこの人はどこかへ行ってしまうんじゃないか。

 誰も手の届かない場所へ。 

 

 そう思うと、怖くなったんだ。あれから一度も、綴が出血したところは見ていない。

 任務中も、アジトにいる時も。


 それに今、目の前にいる綴からも血の匂いはしないし、服だってあの時のようには汚れていない。

 なのに胸の奥のざわつきは、なくならなかった。 

 

「……綴さん……どうかしたの?」

 静かで少しだけ無機質に聞こえる声が、音のないリビングに響く。


「……(あおい)

 綴の事をなんて説明すればいいのかわからなくて、咄嗟に口を開いたけれど、音にはならなくて。


「……体調よくないの?」

「……そう……その、最近忙しかったから……風邪引いたのかもって……」


「……そうなの」

 そう言って葵は、綴のそばへ静かに近付いた。一瞬だけ顔を覗き込んでから、自分が着ていたカーディガンを脱いでブランケットの上からそっと掛ける。


「……末端を温めるといいらしいよ」

 呟くように言って葵はもう一度、綴の顔の方へと視線を向けて、それから一歩、後ろへ引いた。


 俺はそんな葵の行動に少し驚き、それと同時に嬉しさが心の中に浮かぶ。 

 綴と調が葵を連れて帰ってきたとき、彼はまるで人形のようだった。

 

 リヒトに所属するメンバーには、俺をはじめ特殊な事情からここへ来た子が多い。

 ギフトの能力が影響を及ぼし、普通の生活を送れなくなった和や、ギフトの起こした事件により母を亡くした桜。

 エニスキシ実験の元被験体である弥や、両親の虐待によって施設へと入り、そこでも冷遇されてしまって自ら逃げ出した悠。

 とある施設で、奴隷のように働かされていたという湊。


 葵もあと一歩で、人体実験の被験体にされかけた所を、綴と調に助けられたらしい。

 

 そして昔は、食事のときですら姿を見せることがなかった。

 少し独特な雰囲気を纏う葵が食卓に現れないのにも、何か理由があるのだろう。

 当時の俺はそうは思っていたが、葵自身が常に部屋へ籠りっぱなしで、殆ど交流もなく詳しいことはわからず、二人に聞くのも詮索するようで気が引けてしまって。

 

 調がお盆に葵の分のごはんをのせて部屋まで持っていくのを、いつも視線で追っていた。





 葵がリヒトへ来てから数年が経った、ある日の夕方。リビングへ降りるといい匂いがしていて、キッチンの方を覗くと調が一人で晩ごはんの準備をしていた。


「あ……燎、ちょうどいいところに……これ運んでくれる?」

 調理台の空いたスペースにはすでに、人数分の生姜焼きとねぎ塩ダレの冷奴、さつまいもの甘露煮が盛り付けられてあった。

 調が、かき混ぜている鍋の中には、ふわふわのかきたま汁。


 甘露煮は、俺が大好きなおかず。


 人数分のカトラリーを食器棚から取り出して、順番に配膳していた時。いつも通り葵の分を調がお盆へと並べていて、ふと俺たちの分とはメニューが少し違うことに気付く。


 生姜焼きはキャベツと一緒にパンで挟みサンドイッチにされていて、甘露煮にはお弁当用の可愛らしいピックが刺さっていた。

 冷奴は蓮華に乗せられて一口サイズだし、かきたま汁はスープ用の口の広いマグカップに入れられている。


「……サンドイッチだ」

「そう。出来るだけ簡単に食べられるようにね」


「どうして?」

 俺は純粋に浮かんだそんな疑問を、調へとぶつけた。


「葵ね……本が好きで、読み始めるとお腹すいたりとか、眠たいのも忘れちゃうんだって」


 ――忘れちゃう?

 

「……そう、なんだ……ねぇ、調……なんで、葵はいつも降りてこないの?」

 

「うーん、……葵は食べることが、苦手なんだって。人数が多いと、落ち着かないのかもしれないな」

 

 ――食べる事が、苦手……?


 元々好き嫌いの激しい桜でも、食べることそのものが苦手だと言っている所は見たことがない。

 それに和や悠、綴……調だって多少の嫌いなものはあっても、食べることそのものに苦手意識を抱くという人は今までいなかった。

 殆どの人が当たり前にしていることだと思って、そんなことを考えたこともなくて。


 うまく……自分の中で処理できなくて、少し困惑してしまう。

 

「そんな顔するな、燎。まぁ今は無理して連れて来るよりも、安心出来る場所でゆっくり食べられるほうがいい」

 調はそう言って、手元のお皿を見て凄く優しい笑顔を浮かべてから、頭を撫でてくれた。


「ふふ、燎のもサンドイッチにする?」

「……サンドイッチも食べてみたいけど、今日はごはんがいい」

「そうか、じゃあまた今度、お昼ご飯にでも作ろうかな……」

 なんかちょっとだけ、俺は泣きそうになってしまう。

 

「わー! めっちゃいいにおいする!」

 そんな時、明るい和の声――。俺と調しかいない静かな空間もその声によって、すぐに賑やかな雰囲気へと変わる。

 

「ほんとだぁー。いいにおいするねぇ、お腹すいた」

 それに続いて、綴の声も聞こえる。


「ぼくも、おなかすいた!」

 どうやら桜もいるみたいで、一気に場が明るくなった。


「燎、これ持っていってくるから、あと頼んでもいい?」 

「……ねぇ調、それ俺が持っていってもいい?」

 少しでも調の負担が減らせたらと。

 

「え、いいの? ……じゃあ、お願いしようかな」

 調の声は少し驚きに揺れたが、俺が頷けばそっとお盆を渡してくれた。


「ありがとう、こぼさないように気をつけてね」

 お盆を持って階段を登り、廊下を歩く。こぼさないように細心の注意をはらいながら、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じていた。

 

 ――ただ、ごはんを持ってくだけ。


 ひたすら、そう自分に言い聞かせる。


 葵の部屋の前に立つと、今までの何よりも緊張した。


 こんこん――。


 軽くノックしてみたが、返事はない。物音の聞こえない部屋の気配に緊張はピークに達し、自分の心臓の音だけがやけに響く。

 

「……葵?」

 意を決してそっと扉を開ければ、大量に積まれた本の山。


「……なに」

 とても、静かで抑揚のない声――。

 

 部屋に置かれてあるソファに座り本を読んでいた葵は、ちらりと俺の方に視線を向けてくる。


「……あ、急にごめんね。ごはん……持ってきた」

 そう言って机にお盆を置けば、すぐに葵は本へと視線を戻す。


 ――思っていたよりも、普通……だ。

 

 少しの沈黙の後。

 

「……ありがと」

 聞き間違いかと思うほどに小さな声だったし、葵は本に視線を向けたまま顔を上げようとはしなかったが、俺の耳にはしっかりと届いた。

 

 その一言に思っていた以上の強い感情が生まれて、すぐに言葉が出なくて。


「……どういたしまして」

 ようやく絞り出せたのは、それだけ。


「……じゃあ、冷めないうちに食べてね」


「……わかった」

 部屋を出て扉を閉めた途端、笑みがこぼれた。時間にすれば、凄く短かったと思う。

 だけどその短時間で、俺の中でイメージしてた葵の印象が大きく変わった。


 ――どうやってこれから、葵と仲良くなれるだろうか。そんなことを考えるのは、楽しくて。

 

 それから数回。こうしてご飯を運ぶことを続けていれば、葵は少しずつ心をひらいてくれているのか、ちょっとした会話なら交わしてくれるようになった。

 

「葵、入るよ?」

 いつも通り軽く声をかけてから部屋へ入ると、葵は窓際にいた。

 手元には、文庫本――。


 机の上に置いていた昼食の食器は、半分ほどしか減っていない。


 俺は少し眉を寄せて、いま持ってきたお盆を机に置く。

 

「……あまり、お腹空いてない?」

 責める意図はなかったのだが、ついそんな風に聞いてしまった。


 葵は少し逡巡したような様子を見せてから、ゆっくりと本を閉じる。


「……僕、食べるの苦手なの」 

 聞こえるか、聞こえないかくらいの小さな声――。


 調の言っていたことは、本当だったのか。

 

「食べない」のではなく「食べられない」


「……苦手って、味が嫌いとかみたいなこと?」

 そっと聞き返すと、葵は首を横に振る。

 

「……食べものをみると……孤独だったことを思い出す」

 葵の言葉は思っていたよりもずっと、重くて。


 俺の過去とは比べられないかもしれないけれど、その気持ちを少しだけ分かってしまった気がする。

 

 ――俺も、一人で食べるごはんが嫌いだった。一人だと、どこか味気なくて。

 

「……じゃあさ……俺もここで、たまに食べてもいい?」

 俺がした行動で葵の食べ物への認識が変わるかはわからないし、葵からすれば俺の申し出は迷惑かもしれない。

 だけど、このまま何もせずにはいられなかった。

 

「え……?」

「もし葵が嫌じゃなかったら、だけど……どうかな?」


「……僕はどっちでもいいから、好きにしなよ」

 葵は驚いたように瞬きを繰り返した後、顔をふいっとそらして言った。

 その言葉はどこか突き放すような響きだったけど、それが拒絶じゃないということは声音で分かった。

 

 駄目とは言わないその言葉は、葵なりの精一杯なんだろう。

 

「素直じゃないな……」

「……うるさい、はやくリビングで自分の分食べてきなよ」

 葵がちらりと、視線を寄越す。その目はまだ少し警戒心を帯びていたけど、ほんの少しだけ柔らかくなっているように見えて。

 

 俺はリビングへと戻り、準備をしていた調を手伝いながらそのことを伝える。

 調は手を止め、俺をじっと見てから、ふっと笑った。

 

「そうか、それは燎らしいな。きっと葵にとってもいいきっかけになると思う」


「……だといいな。だから、調もその……背負いすぎないでね」


「……ありがとう、燎。明日から、お願いしますね」

 調は驚いたように少し目を見開いてから、すぐにふわりと笑って俺の背中を軽く叩いた。


 そして次の日――。

 

 俺はいつも通り、葵の部屋をノックする。


「葵、持ってきたよ」

「……どうも」

 机にお盆を置いても、葵が本から視線を外すことはない。


「今日は俺も、ここで食べるね」

 しばらくしてページをめくる手を止め、ちらりと机の上に置かれた食事を見た葵は一瞬、眉をひそめたが昨日「好きにしなよ」と言った手前、強くは断れなかったみたいで。


「……勝手にすれば」 

 そんな小さな呟きは、聞こえた。


「やっぱり素直じゃないな……ねぇここにある本、どけても大丈夫?」

 俺は葵の了承を得てから、机の上へ大量に積まれた本を移動させ、空いたスペースに二人分の食事を置く。

 あえて正面ではなく、横並びになるように。


 そして俺は、葵の隣に腰を下ろす。こっちの方が、対面する圧迫感はないし、色々な負担が少ないのではないかと思ったから。

 

「ほら、冷めないうちに食べよ?」

 今日のお昼ごはんは、おにぎり二つと卵焼きに蓮根のきんぴらが乗っているワンプレート。

 その隣にあるシンプルなわかめと豆腐のお味噌汁からは、ふわふわと湯気が上がっている。

 

「いただきます」

 俺が特に気にせず食べ始めれば、葵もつられるように箸を取り、卵焼きへと手をのばす。


 一切れを小さく箸で切って、ひと口――。

 

「……おいしいね、これ」

 なぜか不思議そうな表情を浮かべた、葵。 

 

「調のごはん、美味しいよね。好きな味だった?」

「……いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 何かを言いたげな、葵。

 

「……誰かと食べると、ごはんっておいしいんだね。知らなかった」

 唇をきゅっと結んで、少し間をおいてから葵は答えた。

 その言葉に強がりや皮肉なんてものは混じっておらず、とても素直で凄く純粋なものだった。

 

「……なら、また一緒に食べよう」 

 そんな葵の様子になぜか俺のほうが泣きそうになってしまい、思わずそう口にしていた。


「……たまになら、別に」

 そんな素直じゃない返事――。

 

 だけど全然嫌な感じはしなくて、少しだけ葵と距離が縮まったような気がした。





 それ以来、俺は一日一食は必ず、葵と一緒に食べるようにしている。


 最初の方は食事中も葵は本から視線を外すことの方が少なかったが、次第に一緒に食べる時には、ぽつぽつとではあるが、話をしてくれるようになった。


 長い時間を一緒に過ごしてきた今でも、必要最低限の行動だし、感情の表現は他の人よりも少ない。

 だけど少しずつではあるが、人間らしさを取り戻す葵の姿に、みんなが安心してる。


 今回だって自分の着ていたものを使って「元気になってほしい」なんて言葉にはしないけれど、ちゃんと行動に移している。

 それは明らかな優しさだった。


「優しいな、葵」

「……別に」

 葵は視線を逸らし、腕を組んだ。

 

「……綴さんが元気じゃないと、みんな暗いからね」

 淡々とした声だけど、言い方にはどこかぎこちなさが含まれていて、その言い慣れてなさに、俺はくすっと笑ってしまう。


「それを優しいっていうんだよ」

「……合理的だと言ってほしいな」

 そんなことを言いながらも、視線は綴の方を向いている。

 ツンとした態度の裏にある心配が、隠しきれていない。

 それが可笑しくて、だけど嬉しい。


「綴が聞いたら、きっと喜ぶよ」

「聞かせる必要はないよ」

 即答だった。そんな言葉に俺はまた、小さく笑う。


 ――優しい顔。本当に変わったな。


 ここまでくるのに、すごく長い時間が掛かった。だけどきっとその変化そのものが、ここがちゃんと葵の居場所になっている証拠なのかもしれないと俺は思う。

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