過去の記憶と現在の日常。
俺は、夢を見た――。
過去の記憶――。
「そうと決まれば、アジトまで早く戻ろうか」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなったような気がした。
縁は掴み所のないとても不思議な空気を纏う人で、あの時の俺に明確な根拠なんてものはなかったが、この人は信用できる。なぜかそう、思った。
俺たちは真っ暗な山道をアジトへと向かうため、懸命に進む。
だけど、一歩進むごとに体は沈むように重くなって、足元が覚束なくなっていく。
目の前は少しずつ白んできて、それを自覚した時には耳に届く音もぼんやりとしていて。
「……綴」
低く耳障りの優しい声だけがはっきりと聞こえて、次の瞬間には体がふわっと浮き上がり、俺の体は温もりに包まれていた。
「うぁ……なに、」
「……無理はしなくていい。お前、今目ぇ回ってるだろ。だから、素直に甘えとけ」
俺よりも大きな体に軽々と抱き上げられているのは、守られているようで凄く安心できた。
「……もう、大丈夫だ」
布越しに伝わってくる体温は心地よくて、規則正しい鼓動が微かに響いている。
「……あったかい」
気づけば、声に出してしまっていた。さっき調が手を繋いでくれた時にも感じたが、人はこんなにも温かいということを俺はずっと知らなくて。
知ることが、できなかった――。
あれ……視界がぼやけて見える……なんで?
堰を切ったように温かいものが、頬を伝っていく。
自然と強張ってしまっていた肩の力が抜けて、無意識に縁の服をぎゅうっと掴んでしまっていた。
「そうだろ」
短く返されたその一言は、くすぐったくなるほどに優しくて。
頭を撫でられてしまえば、どうしようもなく涙が溢れてしまう。
「しらべ、えにし、ありがとぉ……」
思いの外、小さくなってしまった俺の声は届いたのだろうか――。
二人が優しく笑ってくれたような気がして、俺はしがみつく手を強め、静かに泣いた。涙が落ちても縁は何も言わず、ただ抱きとめてくれて。
とれくらい、そうしていたのだろう。縁の胸元に耳を預けていれば、徐々に瞼が重くなってくる。俺はそれに抗うことなく、目を閉じた。
――あたたかい。
俺はこの時初めて、こんなにも穏やかに眠ることができたんだ。
◆
そしてその出来事から、三年ほどの月日が経った頃――。
十五歳になった俺は制服に腕を通し、学校へと通っていた。
「任務も大切だが、子供の頃にしか出来ない経験は貴重だからちゃんと学校には行っておけ」
そう言って縁が勧めてくれた、ギフトにも理解のある学校。初めてその話を聞いた時、凄く胸が高鳴った。
これまで夢にすら描くことが出来なかった「普通の生活」を調と一緒に経験できるのだと思うと、わくわくして眠れなかったくらい。
だけど、調はあまり乗り気ではなかった。
普段から少し難しい顔をしつつも、俺が楽しそうにしていれば、どこか安心したように目を細め優しい表情を向けてくれる調。
「……綴が行くなら、俺も行く」
最終的には少し素っ気ない言い方だったけど、そう言ってくれたのを今でもよく覚えている。
教室のざわめき、窓から差し込む光。黒板に書かれた文字をノートに写すことすら、俺にとっては新鮮で目新しくて。
朝、学校へ行って、授業を受ける。休み時間は、なんてことのない雑談をして、一緒にお弁当を食べたり。
そんな小さなこと全部が、かけがえのない宝物で。毎日がとても楽しくて、仕方がない。
ギフトとしての訓練があったから、部活動には所属していなかったけれど、学校が午前で終わる日なんかには、決まって調と一緒に寄り道をして帰った。
その日も靴を履き替えて昇降口から出ると空は高く澄んでいて、自然と足取りも軽くなる。
校門を出て、隣を歩く調に声をかけた。
「ねぇ調! クレープ食べにいかない?」
「クレープ?」
調は軽く首を傾げる。
「うん! いつものところのやつ!」
「いいけど……綴、本当にあそこのクレープ好きだな」
少し呆れているような声音ではあるが、その口元は緩んでいる。
「だって、初めて食べた時めっちゃ感動したもん! こんなに美味しい食べ物があるんだって!」
思わず声が弾んでしまい、俺のその様子に調が目を細めて笑う。
「ふはっ、わかったから。ちゃんと付き合うよ」
その言葉が、妙に嬉しかった。
同じ制服を着て、街まで並んで歩く。あの甘い味を想像するだけで心がふわっと温かくなって、こんな時間が当たり前に続いていく。
店先が近付くと、甘い匂いが漂ってきて自然と足取りも軽くなる。
看板には色とりどりのクレープの写真。
――全部、美味しそうなんだよなぁ。
「どれにしよう……いちご……でも、期間限定の抹茶のやつもすてがたい……」
――こうして迷うのも楽しいんだよなぁ。
「……お前が食べたいやつ二個にしたらいいよ」
そんなふうに視線を彷徨わせていたら、俺が決めるのを静かに待っていた調は軽くため息をつきながらも、そう言ってくれた。
「えっ、いいの?」
調の方を見れば、同じようにメニュー表をみていて、聞けば小さく頷いてくれた。
「俺は何でもいいから、綴が迷ってるの両方食べてみたらいいよ」
「ありがとう、調!」
結局、俺がいちご。調は、期間限定の抹茶。
「はい、ひとくち」
そう言って差し出されたクレープに、迷わず俺は口をつけた。
「あ……これ、おいしい!」
一口食べて、自然と笑みがこぼれる。生クリームの甘さと、抹茶のほろ苦さが調和していて幸せな味。
「よかったな、綴」
調はそう言って、どこか満足そうに微笑む。
「ありがとう、調。ごちそーさま」
短いやり取りだったけど、甘やかされるってこういうことなのかもしれない。そう思うと、胸の奥を生クリームのようなふわりとしたものに包まれる。
目の前の調はいつもの表情に戻っていて、自分の分を静かに食べていた。
何でもない、幸せのひととき――。
◆
他にも二人で少し寄り道をした後、駅へと向かうため住宅街を並んで歩く道中、他愛もない会話に花が咲く。
その時突然、重く体の奥底にまで響くような轟音が響き渡り、わずかに間を置いてから、視線の先で空を切り裂くほどの炎の柱。
「炎?!」
「……やばいな……とにかく向かうぞ、綴」
赤黒い光が青空を一瞬にして塗りつぶし、焦げた匂いが風に乗って流れてくる。
ギフトの仕業なのか、それとも事故なのか。轟音が現実だったのかすら、判断がつかない――。
ただ嫌な予感だけが背筋を撫でて、離れてくれなかった。
「綴、縁に連絡とって」
「わかった」
震える手でスマホをポケットから取り出し、縁の番号を必死に探す。
呼び出し音が、やけに長く感じた――。
「はやくでて……」
走りながら息を荒げていると、通話がようやく繋がる。
「どうした、綴……」
「縁……住宅街で炎が……ギフトによるものか、事故なのかはわかりません……だけど、規模が……」
俺は焦りと息切れで言葉が途切れ途切れになってしまうのに、スマホ越しの縁の声はとても落ち着いていた――。
「綴、とにかく状況を確認しろ。状態によっては消火し、人命救助に当たれ。ただし命を優先しろ、絶対に無理はするな。いいな?」
「……わかった」
「取り敢えず、近くを巡回中しているはずの纏を向かわせるから、その到着を待て」
電話を切り角を曲がった瞬間、視界を埋め尽くしたのは建物の二階部分が真っ赤な炎に包まれている一軒のお家――。
火の粉が風に舞っていて、思わず喉が詰まる。
昼間だというのに、辺りは不気味なほどに静まり返っている。
平日の住宅街、誰もいないはずなのに炎の音だけが生き物のように耳を支配していた。
人はいない、だから安心していい。そう頭では理解しているはずなのに、胸の奥にはざわめきが走る――。
調は俺の手首を軽く引いて後ろへ下がらせると、一歩前へと出て、短く息を吐いた。
「下がっていろ、綴。今はどちらか分からないが、これ以上騒ぎになる前にとにかく鎮火した方がいいだろ」
その声は驚くほどに落ち着いていて、俺の鼓動の早さとは正反対だった。
調の足元から冷気が立ち上ると、地面に氷の筋が走り、建物に到達すると氷の結晶が幾何学的に組み上がりながら、凄まじいスピードで二階部分へと駆け上がる。
炎がうねりを上げたが、調の氷はその勢いごと包み込むように凍らせた。
大胆なのに、繊細な調の氷操によって赤が白へと瞬く間にして変わり、焦げた匂いが薄れていく。
ちらりと見えた調の横顔はとても冷ややかなのに、不思議と安心をくれた。
燃え盛っていた二階部分はすっかり沈黙し、かすかに白い蒸気が立ち上っている。
包み込んだ炎の熱によって氷が溶け始め、その水滴が落ちる音だけが辺りには残っていた。
その時――。空気を震わせるような翼音が響き、金色の髪を後ろで緩く束ねた細身の人影が、地面へと降り立つ。
その姿が見えたとき、張りつめていた緊張の糸が僅かに緩むのを感じた。
現れたのは、縁の直属の後輩にあたる纏さん――。
とても紳士的で、誰に対しても敬語を崩さない人。
背中から生えた大きな翼が薄暗い空に広がり優雅に羽ばたいていている姿は、絵画のように美しい。
「綴くん、調くん。状況は?」
「纏さん!」
「二階部分だけが燃えていたので、能力を使い火は消し止めました」
空から飛翔して降りてくる纏さんの姿に少し安心する俺と、そんな俺とは違い冷静に現状を報告する調。
「ご対応ありがとうございます、調くん。綴くんも無事でよかったです」
その一言に、胸の奥にあった不安が溶けていくのが分かる。
「私は上から周辺を調べます。なので二人は下から建物内を確認し、生存者がいた場合は保護をお願いします」
「わかりました」
「はい」
俺たちは目を合わせ、頷く。
◆
リヒトに来てすぐの頃に纏さんの戦い方を初めて見たのだが、あまりの鮮やかさに驚いた。
手にした刀で敵の攻撃を受け流し、それを利用して畳みかけるように斬り込み、細身の体からは想像できないほどの力で、敵を薙ぎ倒していく。
一連の動きのすべてに無駄がなく、正確無比。
それはさながら、空を切り裂く竜巻そのもの――。
そして驚くのはその見た目だ。俺や調と変わらないように見えるのに、目の前に立つその人の年齢は当時で二十九歳だと後に縁から聞いた。
その容姿はサクリファイスによるものだというが、圧倒的な力と類まれなる戦闘センスに圧倒されてしまい、翼を自在に扱うための背中が空いている奇抜な服や纏う空気の鋭さ、醸し出す雰囲気も相まって怖い人だと思っていた俺は一方的に苦手意識を抱いていた。
だけど纏さんの担当任務へと同行した時、その印象は覆された――。
――どうしよう……手が震えちゃって、うまく……創れない……。
その日はいつも一緒の調もおらず、凄く緊張していて、焦れば焦るほどに状況は悪化していく。
「綴くん、落ち着いて。君なら大丈夫ですよ」
そんな時、纏さんは俺の背中に手を置いた。その優しさと温かい手に俺はとても安心感を覚え、勝手に抱いていた印象は変化していった。
そしてその後の戦闘も纏さんはその翼を生かし、自由自在に空を舞う。
予測不可能な動きから繰り出される攻撃と、目で追えないほどの速度での飛翔。
ひとつひとつの攻撃の破壊力がとてつもなく高く、全方位からの攻撃に対応でき、隙のない連続攻撃で相手を圧倒し、一気に勝負を決めてしまったんだ――。
◆
そして今この状況でも纏さんは、冷静に指示をしてくれるから、俺は心を落ち着けられた。
「……ただ、絶対に無理はしない事。何かあればすぐに私を頼ってください」
纏さんは俺たちにそう念押して、風を切るようにして広い空へと飛び立っていく。
「綴、行こう」
調は爆風の衝撃で割れてしまったであろう、一階の窓を指差す。
俺たちは身を低くし、ガラスの破片が散乱している所から建物内へと足を踏み入れる。
そこに人の気配はなく、重苦しい空気が辺りを流れていた。
煤と物が焦げたような匂いに顔を顰めつつ、俺たちは足音を殺し慎重に進む。
軋む階段を一段ずつ上がっていくにつれて空気は変わり、目の前には調の能力によってつくられた、一面の銀世界が広がっていた。
吐く息は白く、肌を刺すような冷気が充満していて、廊下や壁際に設置された家具までもが凍りついている。
窓ガラスは凍結によって、きらきらとした氷の結晶に覆われていて、それにより外光が曇り鈍い銀色に沈む様子はまるで、異世界のようだった。
そんな静寂の中――。
「か……さ……きて、お……が……」
「声……?」
「しーっ」
調に、口を塞がれる。首を縦に動かし、手振りだけで謝罪を伝えた。
警戒をしつつ、声が聞こえた部屋へと近付く。
「……さん、起きて? おねがい、ねぇ……ん……」
僅かに開いた扉の向こうには、俺より年下であろう男の子の背中。
その子は、懸命に誰かへと話しかけている。その様子に危ない気配は感じなくて――。
「ねぇ、どうしたの?」
気づけば足が動いていて、俺は思わず声をかけていた。
「おい、綴……」
調の瞳は珍しく、驚きに揺れていた。
「大丈夫だよ、調。俺に任せて」
俺は調の前に手を出して、止める。
「だれ……?」
幼さの残る瞳が俺を捉え、ゆっくりと言葉を発した。
「俺は、綴。君の名前を教えてくれる?」
「……かがり」
名前を口にした瞬間。燎の顔は歪み、大粒の涙を溢し始めた。
「母さんが、起きてくれないの。助けて……」
その表情に、胸が締め付けられる――。
「燎、お母さんの様子見たいからそっちに行ってもいいかな?」
問いかけると、燎は迷ったように唇を噛んだ後、小さく頷いた。
「……うん」
「調、お母さんの方お願いしてもいいかな?」
「わかった」
調は俺の考えていることを察してくれたのか、燎のお母さんのもとへ近付く。
その背中は落ち着き払っていて、頼もしさすら感じる。
「燎、まず怪我はない?」
「ない……」
「そっか、よかったぁ……いくつか聞いてもいいかな?」
少しでも安心させてあげたくてにっこりと笑いかけてみれば、燎の体から少し力が抜けたように見えた。涙も止まったようで、俺の問いかけにも小さく頷いてくれる。
俺は上着を脱いで、燎の肩にそっと掛けた。建物ごと凍っているから、部屋の温度は低い。
「さっきの炎は、燎の能力?」
「わからない……おれ、昨日から……具合がわるくて……母さんは、ずっとそばにいてくれて……」
小さな声が、揺れた。俺は頷きながら、その言葉をひとつも落とさないように、耳を傾ける。
「でも……起きたら、部屋が……火に包まれてた……」
嗚咽が混じり、言葉が途切れる。
「母さん……そのときには、倒れてて……」
――体調不良……目覚めたら、炎。
おそらく、覚醒による能力の暴走……。そして、それによる火災。
「そうなんだね……教えてくれてありがとう、燎」
話を聞きながら横目で、燎のお母さんの傍らに膝を付いた調の方を見れば、ゆっくりと首を横に振られた。
今は言うな。その意味を痛いほどに、理解した。その氷のように澄んだ瞳に、俺も小さく頷き返す。
――言葉はいらなかった。
「燎、ここは寒いから俺と一緒に外へ出ようか。お母さんの事は、あっちのお兄さんに任せてくれないかな?」
燎は俺と調を交互に見て、その瞳には迷いの色が滲んでいたが、ゆっくりと頷いてくれた。
「……うん、わかった」
「ありがとう、燎。じゃあ、行こうか」
おいで――。そう手を伸ばせば、素直に手を握り返してくれて、俺へと着いてきてくれる。
「調、あとお願いします」
「任せろ」
俺は燎をつれて、凍りついた部屋を後にした。階段を降りて一階を通り、割れた窓から外へと出た。
そこには纏さんと、縁の姿もあった。二人は状況を把握し終えたところらしく、こちらへ視線を向ける。
だけど燎はその視線に気付いた途端、びくりと肩を揺らして、俺の後ろへと隠れた。
小さな震えと、体温が背中越しに伝わってくる。
「だいじょうぶだよ」
俺は燎を安心させるために、手のひらへと意識を集中させた。
空気がざらりと揺れて光が集まり、手のひらに収まるほどの小さな車の模型が現れる。
角張ったフォルムに、丸いタイヤ。鈍い銀色が光を受けて、静かに輝く。
「これ、燎にあげる」
差し出すと、燎はそっと受け取ってくれた。
「……くるま?」
こくりと頷いて見せると、燎はゆっくりと手をのばす。
「……まほう?」
「これはね、俺の能力だよ」
「のうりょく……?」
燎は不思議そうに小さく首を傾げる。
「そう、俺にだけある特別な力なんだ。それでね、燎にも特別な力があるかもしれないから、お医者さんに診てもらいたいんだけど、俺と一緒に来てくれる?」
車の模型を抱きしめながら、少し躊躇う様子を見せた後、小さな声で言った。
「……綴が、一緒に来てくれるなら」
「ありがとう、燎」
その時、耳に装着していたイヤホンから調の冷静な声が響く。
「母親の死因は恐らく、火災による一酸化炭素中毒だ」
――心臓が、大きな音を立てる。
声を出しかけて、すぐに口をつぐんだ。隣にいる燎は、不安げに俺の袖を掴んでいる。
――この子に、今は言えない。
俺は小さく息を吐き、燎の手をぎゅっと握った。
苦しんだ様子が見受けられなかった事と、唇の色が異様に赤く染まっていることからして、高濃度の一酸化炭素を吸い込んだことにより意識不明に陥ったのではないかとの見解。
燎が同じ環境にいて平気だったのは、恐らく能力による身体耐性があったからではないかと。
◆
そしてその後、やはり燎は病院で正式にギフトとして覚醒していると診断された。
体調の方は微熱がある程度で、大きな異常は見られなかったのだが、覚醒直後は不安定なこともあり一時的にリヒトで保護する運びとなる。
アジトへと一緒に帰ってきてしばらくして落ち着いてきた頃、燎を呼び寄せた。
「燎、落ち着いて聞いてね……燎のお母さんはもう、目を覚まさない……」
すぐには理解が追いつかなかったようで、燎はきょとんとした表情で首を傾げる。
「……ねてるだけ?」
「……ううん」
胸の奥がぎゅっと潰れそうになったが、視線を逸らさず首を横に振った。
「お母さんはね……亡くなった」
俺がそう告げた瞬間、燎の目は大きく揺れてその瞳からぽたぽたと大粒の涙をこぼす。
「ねぇ、うそでしょ……? 綴……母さん起きるよね……? 俺のこと看病してくれて……一緒にいるよって……言ってくれたんだよ」
言わなくてもよかったんじゃないか……。そんな迷いが一瞬、脳裏を過った。
「やだ……やだやだやだっ……」
そんな燎の悲痛な心の叫びに、胸が苦しくなる。だけど燎にとって、母親の死は変えられない現実で……いつかは誰かが、伝えないといけない事。
そしてその事実からは、逃げられない。燎は息が詰まるほどに体を震わせて、声を上げて泣いた。
必死に縋る力が、痛いほど伝わってくる。
「大丈夫だよ、燎。俺がいるからね、泣きたいだけ泣いていいよ」
言葉をかけながら抱き上げるようにして座り、一晩中泣き続ける燎のそばにずっといて、小さな背中を撫で続けた。
何も解決しないとわかっていても、俺はその手を止められなくて。
やがて嗚咽は小さくなり、力が抜けていく。
俺の腕に縋ったまま意識を失うようにして眠ってしまった燎の目の下は、涙によって赤く腫れ上がってしまい、それがとても痛々しくて。
俺は燎を抱えたまま、身動きが取れずにいた。そんな時、静かに部屋の扉が開く。
「……綴、大丈夫か?」
「調……うん、俺はだいじょーぶ」
「……そうか」
「桜は、ちゃんと眠れた?」
「多少、泣いたが問題なかったよ」
「そっか……よかった。ごめんね、任せちゃって」
「それは問題ない、燎の事とりあえずベットへ寝かせよう」
そう言われ、調に協力してもらう。首元まで柔らかい手触りの布団を掛けてから、眠りに落ちたその寝顔を見つめる。
――いきなり知らないところへと連れてこられて、知らない人に囲まれて、怖かったはずだ。
その上、最愛の母親が亡くなったなんて聞かされて、平気でいられるはずがない。
それからせめて少しでもよく眠れるようにと頭を撫でて、音をたてないよう慎重に部屋を後にする。
部屋の外の空気がやけに冷たく感じて、心の奥の熱を少しだけ和らげてくれた気がした――。
「……燎の家は母子家庭らしくてな……纏さんが親族に連絡を取ってくれたみたいなんだが、引き取りを断られたらしい」
「……そう……なんだ」
燎の父親は新しい家庭があるから、二度と連絡してこないでほしいと言ってきたそうだ。
「綴、辛い役目をお前だけに任せてしまって、すまない」
「ううん、俺が燎のことを……放っておけなかっただけだよ」
そう返せば、調は僅かに目を細めて俺の方を見た。
「桜の事もあるし、一人で背負いこみすぎるなよ。泣き続ける子に付き合うのは、思っているより体力を削られる」
「……うん、ありがとう。そうね……でも、燎が泣いているのを……知らないふりはできなかったから」
調は小さく息を吐いて、静かに微笑んだ。
「……お前は変わらないな」
短いやり取りだったけど、その優しい声音に少しだけ涙があふれてしまいそうになった。
◆
それから数時間後、日が昇って暫くした頃――。
様子を見に部屋を覗くと、燎はすでに起きていて布団の中からこちらを見上げていた。
「おはよう、燎。起きてたんだね」
声をかけながら近づき、額にそっと手を当てる。昨夜とは違い熱は下がっているようで、安堵の息を漏らす俺に、燎は小さく頷いた。
「体調はどう?」
俺はベットの脇に腰を下ろして問いかければ、燎は少し考えてから答える。
「……ちょっと、頭痛い」
「そっか、しんどいね……薬、持ってくるね」
だが燎は布団の端をぎゅっと握りしめて、首を横に振った。
「いらない、薬……やだ」
「じゃあ先に、ご飯にしようか。薬飲むのは、お腹に何か入れてからの方がいいし」
布団に顔をうずめていた燎は、ゆっくりとこちらを見る。
「……ごはん?」
「うん、雑炊があるよ。食べられそう?」
「……うん」
「よし、持ってくるから、ちょっと待っててね」
こういう時、俺には秘策がある……。
キッチンへ行って調が作ってくれていた雑炊を運んでくると、燎はまだ半信半疑な顔をしていたが、一口食べるとその表情は少し和らいだ。
「……おいしい」
「でしょ? ゆっくり食べてね」
燎は少しずつ食べ進めて、その器が空になったところを見計らい、俺は小皿を取り出した。
「実はね、この中にお薬が入ってるんだよ」
小皿を見つめて固まる、燎。
「二歳の子でもこれなら飲めるから、燎ならもっと上手にできるよ」
少しの沈黙の後。
「……ほんとに、にがくない?」
まだ半信半疑な様子に、俺は笑って見せる。
「だいじょーぶだよ。ほら、試してみよ?」
小さなスプーンに服薬ゼリーをひとすくいして、燎へそっと差し出せば、目を瞬かせてから戸惑ったようにこちらを見つめてくる燎。
「……自分で……」
「いいから、今日は俺が食べさせてあげるよ」
ゆっくりと口元へと近づければ、燎は観念したように小さく口を開けた。
「……あ」
スプーンをそっと差し込み、口の中へとゼリーを入れてあげると喉の奥へと滑り落ちる。
驚いたように目を丸くした後、恐る恐る飲み込んで、ぽつりと言葉を漏らす。
「にがくない……」
その様子に俺は、ほっと息をついた。
「ね、言ったでしょ?」
もう一口すくって差し出すと、今度は最初よりも素直に口を開けてくれた。
最後の一口を飲み込んだ燎は、ほっとしたように小さく息をつく。
「……ありがとう、綴」
「どういたしまして、よく頑張ったね」
にっこりと笑って見せると、燎は照れくさそうにごそごそと布団へと潜り込む。
――その様子に、俺は凄く安心した。
器を片付けるために立ち上がろうとした時――。裾がくんっと引かれ振り返れば、布団から伸びた手が俺の服をぎゅっと掴んでいた。
「……いかないで……つづり」
――か細い声に、胸が締め付けられる。
「大丈夫、俺はどこにも行かないよ」
しゃがみこんで目線を合わせれば、僅かではあるが安心してくれたように見えた。
それでも手を離そうとはせず、俺の存在を確かめるように握りしめたまま。
――俺と三歳しか違わない。だけど今は年上として、この子を守らなければいけない。
ベッドの横へと腰を下ろし寄り添っていれば、燎の呼吸は次第に穏やかな寝息へと変わる。
安心してくれたのか、その寝顔は幼さの残る無防備なものだった。
俺も緊張の糸が切れたのか、肩の力が抜けていくのが自分でもわかる。
握られた手をほどくことも考えたが、燎のぬくもりは俺にとっても心地がよくて。
「少しだけ……」
背中を壁に預けて、瞼を閉じたのだった――。
◆
そこでふと意識が、浮上する。そっと目を開けると、そばには燎の姿。
「……かがり」
呟くように行った声は、掠れてしまう。
「……起きた?」
振り返った燎の姿は、さっき見ていた時よりも成長していて。
「あれ……ゆめ……?」
幼い頃の面影を少しだけ残した、大人の燎。
――そっか……俺、調にここまで運んでもらったんだ……。
過去の記憶と現在が、俺の中で静かに分離していく。
朝とは違って、体は随分と軽くなっていた。
「……どうしたの。なんか、嫌な夢でも見た?」
あれは夢じゃなくて、確かに存在した時間――。
「そうじゃないよ……夢に小さい頃の燎が出てきてね、起きたら成長してたから、ちょっとびっくりしちゃった」
心配そうに眉をひそめる燎を安心させてあげたくて、へらりと笑ってみる。
「そう。小さい頃の俺は可愛かった?」
「可愛かったよ、薬飲めなくて泣いちゃう燎」
「ねぇっー。俺、泣いたことまではないでしょ」
「そうだったかなぁ」
燎は唇を尖らせて不満そうな表情を浮かべていたが、小さく息を吐いてからこちらを見る。
「小さい頃はいっぱい助けてもらったから、次は俺の番なの」
燎はそう言いながらも恥ずかしくなったのか、顔を正面へと戻す。だけど、耳が赤いのは隠せていない。
「燎、そんなこと思ってたの?」
「……普段は言わないだけ」
声も背中もあの頃とは変わってしまったし、身長だって俺よりも高くなった。けれどそんなふうに拗ねたみたいな口調は、小さい頃と変わらなくて。
「……大きくなったね」
「……もぉ、からかわないでよ」
そう言いながらも、ずれてしまったブランケットを肩まで掛け直してくれる。
「ちゃんと起き上がれるようになるまでは、ここにいて。調にもそう言われてるんだから」
「……過保護だなぁ」
「誰のせいだと思ってるの」
呆れたように言いながらも、声音は優しい。俺はソファに身を潜めたままもう一度、素直に目を閉じた――。




