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未完成なイデア  作者: 綴 朔哉


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4/33

永遠の世界から救い出してくれたヒーロー。



「綴、お前体調よくないだろ」

 

 調が帰ってきてすぐ、桜から聞いた動画の件を共有したのだが、これからの流れをさっと決めてしまった後、少し呆れた様子でそう言われた。

 

「……なんで、調は気付いちゃうかなぁ」

 桜が出迎えてくれたことで七割くらい飛んでいったと思っていた体の倦怠感も、頭の痛みも薬の効力が切れてしまう頃には、完全に戻ってきてしまっていた。


 ――今回はうまく隠せてると思ったんだけどなぁ……。

 そう思っていてもなぜか調には、いつもすぐに気付かれてしまう。


「何なら、食べられそう?」

「うーん、そうだなぁ……うどんが食べたいかな」


「ん、わかった。ちょっと待ってて」

 気付けば俺はソファへと座らされていて、ご丁寧に毛布まで掛けられていた。


 少しそっけないと感じる態度の中にある、大きな優しさ。

 出会ってから変わることのないその温かさに、こういう時はとても安心させられる。

 調はもしかしたら、俺のことを俺よりわかっているかもしれない、なんて。


「綴、出来たよ」

「ありがとう、調」

 ことん。と音を立てて置かれた小さめの器からは、ふわりと温かな湯気が立ち上っている。

 

 控えめに盛り付けられたうどんの上には、鮮やかな緑色の葱が散らされていてかつお出汁の優しい香りが、鼻をくすぐってきて心まで温かくなる。

 

 俺が体調を崩した時に作ってくれる、変わらない優しい味。


「ねぇ、何で調は俺が調子悪い時、すぐ気付くの?」

「それを言ったら、お前はそこを隠そうとするから教えない」 

 ふと不思議に思ってそう聞けば、ぴしゃりと言われてしまった。


 ――まぁ、確かにそれはそうかも。


「綴は、人に甘えることを覚えろ」

「えー? 俺、十分みんなに甘えてない?」


「そうだったら、体調悪いの隠したりしねぇんだよ」

「……だって、いらないは心配かけたくないんだもん」


「ったく、わかってないなお前は……」

 呆れた表情を浮かべ調は諦めたように、キッチンへと戻っていく。





 調とは、俺が昔いた孤児院で出会った。


 孤児院といっても、それはあくまでも表向きのもので、実情はギフトを人工的に生み出すための研究施設。

 

 そして俺は元々、能力覚醒をしていなかった。

 

 俺の持つ「物質形成」は能力付与のためのディナミス実験によって得たもの。

 人為的なもので、強引に体へと植え付けられた。

 

 だから純粋に覚醒した他の八人とは、少し勝手が違うことも多いが、幸いと言うべきか今はそれも何とかできている。

 

 俺の一番古い記憶は、研究室の水槽の中。気付いたときには冷たい世界が当たり前で、自分がいつからここにいるのかもわからなくて。


 時間の感覚なんてものは、全くなかった。


 ガラスの向こうには、ぼんやりと白い服を着た大人の影。

 

 ――さみしい。

 

 ――つめたい。


 膝を抱えて丸まっていても体に貼りついた管や電極は冷たく、水を漂うたびに肌が引っ張られて痛い。


 口と鼻を覆うマスク。それに繋がれた管が今の俺の命をつないでいる。


 自分の呼吸が気泡となって浮かんでは消えて、その音が耳の奥にごぽ……ごぽっと響く。


 息を吸うたびに、薬の苦い匂いが肺まで染み込んでくるようで気持ちが悪くて。外したい、だけど外したら、ここで息は出来なくなる。


 何度も「出して」って叫んだけれど、声は水の中では音になどならず、吐きだす息と一緒に泡となり消えていく。


 ぱちっ――。


 刹那、全身を貫く電流。心臓が潰れてしまいそうなほどの苦しみ、手のひらから血の泡が浮かび上がり、体が痺れる。


 ――痛い、苦しい。


 声を出そうとしても、水の中ではただ喉を震わせることしかできない。


 何度も、何度も……。何度も繰り返される地獄。


「まだ反応が弱い。出力を上げろ」

 

「壊れるかもしれないぞ」

「問題ない。替えはいくらでもいる」

 

 すぐそばに大人がいるのに、誰も助けてなんてくれず、淡々と交わされる会話。

 流れる涙は水に溶けて、誰も気づいてくれることはない。


 俺は必死に水の中で藻掻く。だけど誰も、こちらのことなんて気にも留めない。


 ずっと暗い水の牢獄に閉じ込められて、俺は気付いた。自分にはなんの価値もなく、ただ「消費」されるだけの存在なのだと。


 一度そう思ってしまったら、感情というものは日が経つにつれて薄く、弱くなっていく。


 泣いたり、怒ったり、恐怖を感じたり。そんな感情がなくなってしまえば、少し楽になった。

 

 そしてある日、必死に手をのばしたとき。手のひらから小さな金属片が発生し、カランと小さな音を立てて水槽の底へと落ちていった。


 その瞬間、俺は怖くなって手を引っこめる。今起こったことが、上手く理解できなくて。だけど、外の大人たちは初めて俺の事をちゃんと見た。


「……成功だ」


 水の中ではこもって聞こえる声に、喜びが滲んでいるのが分かる。


 物質形成の能力が目覚めたことにより、俺は水槽の中から解放され、少しは自由になれたんだと思っていた。


 だけどそれは解放なんかではなくて、また新しい苦しみに()()()()だけだった。

 

 それからは何もない真っ白な部屋に入れられて、指示されたものを創り出す毎日。

 

 日に何十時間もやらされて、頭が朦朧とする中、気絶するように眠りにつく。


 失敗すれば、やり直し。成功すれば、次。それを何度も、何度も……。

 

 そんな途方もなく長い時間を、永遠に繰り返す。


 震える手をのばし目の前に物質を形作ると、こめかみの辺りの血管が激しく収縮し強い痛みを伴う。


 視界は霞み、ぐわんと回る。

 

 頭が痛くても、手が震えても、作らなければいけない。


 ――それが絶対。

 

 何かを考える余地なんて俺にはどこにもなく、辛いとか苦しいという、感情は忘れてしまったと思っていた。


 そんな辛い実験の中でも時々、ほんの少しだけテーブルと椅子のある小さな部屋に入れられることがあって。


 俺にとって、何もしなくていい時間というのはとても貴重だった。だからそこでは、ただ座って体を休めることができる。


 そこで過ごす時間が、唯一の救いだった。


 いつ、そこへ行っても数人は部屋の中にいたが「話すな」と言われたわけでもないのに、不思議と口を動かす気にならなくて。いつも部屋の隅に座り、じっとしているだけ。


 けれど、ある日。

 

「……名前は?」

 不意にかけられた、そんな言葉。声の方向を向けば、雪のように白い肌に、少し青みがかった黒髪の男の子。年齢は多分、同じくらい。


 名前……なんだっけ。


「いつからここにいるの?」

「……わかんない」


 ――あ、そうだ……。

 

「なまえ……は、えっとつづり……」

 その音を口にしたら、とても懐かしい感覚がした。


「綴は、ここに連れてこられたわけじゃないのか?」

「わかんない……おれ、そとのせかい……しらない」

 

「え……」

 俺、何か変なこと言ったのかな。


「じゃあ……ここで、何をしてるの?」

「……つくるだけ……ここからでたらだめだって、おとながいってた」

 目の前の子は一瞬だけ顔を不思議そうに顰めたけど、すぐにその表情は元に戻った。


 しばらく何かを考えた後、彼は少し声を落として聞いてきた。


「綴、どうしてお前は此処にいるのか、少し考えてみろよ」

「なんで、ここにいるのか……?」

 

 どうして――?

 

 その言葉に、僅かに心が揺れた。そんなこと……考えたこともなかった。いや、無意識下で考えないようにしていたのかもしれない。

 

「そう、何で此処にいないといけないんだと思う?」

 

 命令に従うため?

 

 だけどずっと水槽の中で痛い事をされて、寂しくて――。


 考えれば考えるほどに、胸はざわついて違和感のようなものが広がっていく。


「なんで、だろう? おれは、なんで……ここにいるの?」

 この子はなんで俺に、そんなことを聞くんだろう。


 考えているうちに頭の中の何かが、ひび割れていくような音が聞こえた、その時――。

 

「おい! 二十四番、時間だ! 早くこっちへ来い!」

 扉が開き、白い服の大人たちが数人入ってくる。

 

「どけっ! 邪魔だ!」

 目の前の彼は、俺へと手をのばしてくれたが突き飛ばされてしまう。


 大人の強い力で俺の肩を掴み、座っていた椅子から乱暴に引きはがされる。

 

「あっ……ゃだ、たすけて」

 咄嗟に出た本音――。まだ俺は、彼に質問の答えを返せていない。せっかく俺なんかに声をかけてくれたのに。


 遠ざかっていく視界の中で、彼の目だけが俺の事を見ていて。


 その瞳が俺の脳裏へ妙に、焼き付いて離れてくれない。


 俺は、答えを出すことが出来なかった。また真っ白な部屋に戻されて、同じように命令を下される。


 いつも通りの決められた形を創り出す、単純な指示。


 ただそれだけ。


 いつもなら迷いなんてなく形作るのに、なぜかどうしてもそれが上手く出来ない。


 ――綴、どうしてお前は此処にいるのか、少し考えてみろよ。


 その言葉が耳の奥で、何度も再生される。


 どうして? 俺は何でここにいるの?


 息が上手く吸えているのかが分からなくなってきて、手がいつもとは違う理由で震えてしまう。


 創り出したものはいつもより少し歪んでしまい、周りの大人たちは眉を顰め、手元のバインダーに何かを記入しているのが見えた。


「集中しなさい」

 無機質で、温度の感じられない声。


 それに従おうと必死に目を閉じても、先程のあの子の問いが頭から離れてくれない。


 ――俺は何のために、ここにいるのか。命令されて言われたものを創り出すため?


 ――それとも間違ってるの?


 答えは出ないのに、胸のもやもやは大きくなるばかりで……。

 

 結局、あの問いかけの答えを見つけられないまま、時間は過ぎていった。


 ――どうして、ここにいるのか。


 一度、それを考え始めれば胸の奥が締め付けられるように痛くなる。


 ただ与えられる命令をこなす日々に疑問を抱いてしまった今……あの子と会う以前のように、静かに心を鎮めることが出来なくなってしまった。


 今までは苦しいと思う前に体が慣れて、考えるより先に手が動く。

 それが生きるということだと思っていた。ただ、時間が過ぎるのを待つだけの日々。


 だけどあの時の彼の言葉が、俺の心をこの世界へと引き戻し、繋ぎ止めようとする。


 彼と、もっといろんな話をしてみたい。あの時の強い光を放つ瞳を忘れることが出来ない。


 次、あの子に会えるのはいつか分からないし、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。

 

 だけど抱いてしまった希望は、胸の奥でずっと眠っていた感情をいとも簡単に起こしてしまう。

 

 ――どうして、俺は従わないといけないのだろう。


 ふと、そう思ってしまったらもうだめだった。

 

 感情がじわじわと戻ってくるような感覚がして、苦痛を思い出した俺はそこから逃げ出した。


 もう限界だと思った――。寒くて、痛くて、寂しい。そんなのは、いやだ。


 廊下に出て無我夢中で走り、気付いたら俺の手には金属製の棒。それを使って、制御システムの核になる機械を目一杯の力で叩き壊す。


 ――これで、他の子も逃げられるはず……。


 警報が鳴り響き、研究員たちが慌てふためく中、俺は必死で走りその場から離れた。


 全身が恐怖で震えてしまい、心臓の鼓動が耳元でガンガン鳴っているのが聞こえる。


 身を隠しながら、必死にあの子の姿を探す。背後からは、怒鳴り声と複数人の足音。


 次の瞬間、破裂音のようなものと共に俺のすぐ横の壁が砕け散った。


 ――銃だ。


 心臓が、喉元までせり上がる。


 俺は咄嗟に応戦しなければと同じものを創り出したけど、撃つことが出来なくて……。

 これは、使い方を間違えれば、人を殺してしまうかもしれない凶器。

 

 その銃口を人に向けることが怖くて――。


 俺は何とか銃弾を交わしながら物陰へと隠れ、荒くなる息を抑えて必死に考える。


 どうすればいいか考えろ……どこへ逃げれば――。

 

「綴……!」

 その時、声がした。俺の名前を呼ぶその音だけが喧騒の中でもはっきりと聞こえて、顔を上げたそこには、会いたかった彼の姿。

 

「あっ……」

「無事でよかった……大丈夫だから、大きい声は出すな」

 俺はこくりと、首を縦に振った。

 

 また、会えた――。


 息を切らしながらも、あの時見たような強い光を宿した瞳がこちらに向けられる。


 ――彼も俺のことを、探してくれていたのかな。それだったら嬉しい……なんて。


「君は……」

 そこまで言って言葉が止まる。彼の名前を俺はまだ知らない。


 だけどそんなこと、こんな状況で聞いてもいいのかな……。

 一瞬の躊躇。でもその僅かな時間で、彼は気付いたらしい。

 

「……調だ」

 重さや躊躇いなんて一切ない、声。それはまるで、最初からそういうつもりだったみたいで。


「俺の名前」

 胸の奥がじんっ、と熱を持つ。

 

 ――しらべ。


「ここから逃げるぞ、綴」

 命令じゃない、だけどそれが当たり前の前提みたいな言い方。

 

「……どうして……どうして調は、俺を助けてくれるの……?」

 調はなぜ、こんな俺の事を気にかけてくれるの?


 ――何で、俺を助けてくれるの?

 

「さぁな、俺にも分からない。けど、ひとつ言えるのはお前だから……かな」

 その言葉に、初めて誰かから存在を認めてもらえたような気がした――。


 視界が滲んでしまい、俺は咄嗟にそれを隠すため下を向く。

 

 あの日、あの時。俺の世界にヒーローである調が現れてから、俺の時間の流れは永遠じゃなくなった。


 俺はずっと物を創り出すだけの道具で、能力入れておく器で……誰にも望まれてなんていなかった。


 なのに今、目の前にいる調だけは違う。俺はここにいてもいいのだと、その瞳に言われているみたいで。


「とにかく今は逃げよう、綴」

「そうだね……行こう、調」

 

 ――あの瞬間、俺は初めて誰かに必要とされた。名前を知って、呼べる相手ができた。

 

「綴っ! こっちだ、行くぞ!」

 俺はのばしてくれた手を離すまいと、必死で握り返す。

 その手は物理的には少し冷たいのに、なぜか不思議と温かくて。




 

 あの時の調の手のぬくもりを今でも俺は、忘れることができない。

 もし、調が声をかけてくれなかったら。きっと、今の俺はここにはいなかった。


「ねぇ、調。あの時、俺に声をかけてくれてありがとね」

「何だ急に……礼なんていらねぇよ。俺が綴と話してみたかっただけなんだから」

 調は一瞬、きょとんとした顔をしてから、すっと視線をそらす。


 耳が少しだけ赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。

 

「ほんと、調は俺のこと大好きだねぇ」

「……勝手に言ってろ」

 即答。思っていた通りの、素っ気ないやつ。

 

「そこは、素直に好きって言うところでしょー?」

 だからわざと伸ばした声でそう言えば、調はこちらを向いて、ため息をひとつ落とし、呆れたような顔を見せてくる。

 

「はいはい、好きですよ、綴くん」

 面倒くさそうで、でもどこか楽しそうで。

 

「もぉー雑!」

「綴、うるさい」

 そう言い合った次の瞬間、二人して吹きだす。声を抑えきれなくて、肩が揺れる。

 こんなくだらないやり取りですら、楽しくて――。


 俺がここにいられるのは、間違いなく調のおかげ。


「……綴、お前のそれ……」

「なぁに?」

 俺はうどんを口に運びながら視線を上げれば、そこには探るような、何かを言いたげな調の目。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 きっと……調は原因に気付いてる。

 

「もうなにぃー? 凄い気になるじゃん」

 話したい……だけど心配もかけたくないから、俺は分からないふりで誤魔化す。

 

「……何でもねーよ。さっさとそれ食べて、薬飲んで寝ろ」

 少し強めな口調なのに、その手には俺がいつも服用している鎮痛剤と水の入ったコップ。

 本当は凄く心配してくれているのが、わかる。

 

「ごはん食べられるから、だいじょうぶだよ」

「はいはい。そういうことにしとく」

 それきり調はそばにはいてくれるけど、何も聞いてくることはなかった。


「……ありがと、調」

 小さく言うと、一瞬だけ調はこちらを見る。


「聞こえない」

 そう言って、調は持っていた資料に目を落とす。そんな姿が、俺にはひどく優しく見えて。


 薬を飲んで、布団へと潜り込む。


 ――綴。

 

 意識が沈む直前、調の声が聞こえたような気がした。





 次に目を開けた時、そこは真っ白な部屋だった。壁も、床も、天井も境目が曖昧で音もない。


 寒くも、暑くもない不思議な空間は、気味が悪くて。 

 佇む俺の足元には、数えきれないほどたくさんの煌めく星。そこでは毎回、決まってその星をひとつ、手にしている。

 淡く光るそれはいつも大きさが違っていて、手のひらサイズから、飴玉くらいの大きさまでまちまち。色や形も、微妙に違う。


 能力を使わなかった日はここへ来ることはないし、少し無理をした日でも夢を見ないこともある。

 だけど限界を超えて能力を使った日は、必ず決まってここに立っている。

 

 色とりどりの美しい見た目のそれらは、拾い上げると軽いのに、ふれた指先に伝わる感触は、妙に生々しくて気持ちが悪い。

 口に入れると甘さなんてものはなくて、微かに血の味がする。ざらりとした舌触りの奥にある、顔を顰めてしまうほどの強烈な苦味。

 飲み込むたびに胸の奥が軋んで、泣いている自覚なんてないのに、じわりと視界は滲む。


 この星たちの正体が一体、何なのか。俺は、はっきりとわかっているわけではない。

 ただ、なんとなくそうじゃないかと思っているだけ。

 食べなければ、目覚めることは出来ない。それがこの夢の絶対――。


 ある時、ふと足元に転がる星が少なくなっているような気がしたが、その数を数えたことはない。

 もし数えて、本当に減ってしまっていたら、俺はその恐怖に足がすくんでしまって、きっと何も出来なくなってしまう。


 研究室にいた頃、この夢を見ることはなかったのは、薬の影響なのか、そもそも夢を見る余裕自体がなかったのか。

 真相はもう分からないが……今はただ、力を使った分だけここへ来る。

 強い倦怠感に襲われて、立ち上がるのが億劫な朝も増えた。

 怠さが一日抜けなくて、視界が眩んだりすることも多くなった。

 それでも、動けないほどのものじゃない。だからまだ大丈夫なのだと、思うようにしている。

 泣き出してしまいたいほどの恐怖も、体の不調もみんなのそばにいれば、不思議と和らぐから。


 俺はこの夢のことを、調にすら話したことはない。言葉にしてしまえば、その瞬間に確かな形を持ってしまいそうで。

 そうなればきっと、俺は大好きなみんなに縋ってしまうと思う。


 真っ白な部屋に散らばる星と軋む心を、ずっと俺は見ないふりをし続けている――。





 ふと明るい光を感じて、目を開けた。視界に映った天井は滲んでいて、現実の世界へと戻ってきたことを理解するまで、少し時間がかってしまう。

 

 瞼の裏にはまだ夢の白が残っていて、寝返りを打とうとした体は重く、指先まで鉛に変えられたみたいで。


 喉の渇きを覚え、ゆっくりと上体を起こす。その拍子に温かいものが鼻を伝い、俺は咄嗟に手で押さえた。


 ぽたり――。


 手の甲だけではおさえることの出来なかった赤が、手のひらを伝って布団へと染み込んでしまう。

 そばに置いてあるティッシュを適当に数枚掴んで、押し当てながら深く息を吐くが、なかなか血は止まってくれない。

 ようやく止まって立ち上がろうとすると、見ている世界が一瞬だけ揺れた。

 だけど倒れるほどでもない。壁に手をついていれば、ちゃんと立っていられる。


 ――だから、問題はない。大丈夫。


 すこしふらつきながらも辿り着いた洗面所で薄く残った赤を洗い流し、それと一緒に洗顔まで済ましてしまう。

 冷たい水にふれると気持ちが良くて、少しだけ頭の中がすっきりした。


 今、鏡に映っている俺は、少し顔色が悪い程度。無理をした翌日には、よくあること。これくらいなら、たぶん大丈夫なはず。


 そんな事を考えながら、出しっぱなしにしていた水が排水溝へと吸い込まれていくのをただぼんやりと見ていた。

 ふと、夢の中で足元に散らばっていた星を思い出す。


 ――また、数が減っていたような気がする。


 その時、背後にある扉の開く音。その音によって、一気に現実へと引き戻された。


「……しらべ」

 正面にある鏡越しに、目が合う。


「綴……お前、体調良くなってないだろ」

 そう言って調は、俺のおでこへと手をのばしてくる。ぴとっとふれてきた手はひんやりと冷たくて、思わず擦り寄ってしまいそうなほどに気持ちがよかった。


「……はぁ、昨日より悪化してるな……」

 そんなふうに言われてしまえば、誤魔化そうとしていた体の不調を見て見ぬ振りが出来なくなってしまう。


「……だい、じょうぶ……だよ」

「本当に大丈夫なやつは、そんな顔しねぇんだよ。素直に認めて、看病されてろ」

 調の存在によって、いとも簡単に張ろうとしていた虚勢が崩れ去る。

 今まで隠しきれると思っていたはずのしんどさが、体の奥から一気に浮き上がってくる。


 頭は重いし……視界も揺れる。気分だって良くないし、体が怠くてこうして立っているのも辛い。

 

 まるでそれが合図だったみたいに、洗面所の床が遠のく。

 咄嗟に踏ん張ろうとしたけど、足に上手く力が入らなくて、体が全く言うことを聞いてくれない。


 ――倒れる。


 そう思った時。腕を掴まれ、気付いたら調の腕の中へ仕舞われていた。


「ほら、言わんこっちゃない」

 少し呆れたような声。だけど、支えてくれる腕に迷いはなくて。

 今の俺はそのまま体を預けるしかできなくて、情けなさに喉が詰まる。

 

「……ちゃんと寝たし……薬ものんだよ……?」

 そう言った自分の声は、驚くほどにか弱いものだった。言い訳みたいで……疑問形になってしまったのは、きっと自信がなかったから。


「お前は普段から、無理をしすぎなんだよ」

 いつもみたいに反論しようとしたけど、回り続ける視界に、ひとつも言葉なんて思いつかなかった。


「歩けるか」

「……がんばる」

 そんな俺の言葉に、調はため息をひとつ――。


 次の瞬間には、俺の視界の位置が変わっていて足が床から離れていた。

 

「え、ちょ――」

「大人しくしてろ」

 気付けば背中と膝裏に腕を回されて、抱き上げられていて、情けなさと安心感が同時に込み上げできていて、俺は何も言えなくなる。


「……軽すぎ」

 そんな調の小さな呟きが、なぜだか凄く胸に刺さった。


 部屋に運ばれ、ベットが見えたところで不意に恐怖心に襲われる。

 

 ――ひとりになるのが、怖い……。


「……しらべ」

「どうした」

「……その……」

 言葉を探しているうちに、心細さだけが俺の心から溢れ出す。


「……ひとりは、ちょっと……」

 自分でも情けなさすぎて、視線をそらす。

 

「布団じゃなくて……」

 だけど今は、それが精一杯で……。


「リビングのソファなら、大丈夫か?」

「……うん」

 子供のようなことを言っているのはわかっているが、今はどうしても誰かの気配がほしかった。

 調はそのまま方向を変えて、リビングへと連れて行ってくれる。


 ソファへと下ろされて、毛布をかけられると体の力が一気に抜けた。


「……何か食べられそうか?」

「……いまは、食欲ない」

「そうか……ちょっと待ってろ」

 それだけ言って調はキッチンの方へと向かい、少ししてマグカップを手に戻ってきた。


 ふわりと湯気と一緒に、甘い香りが漂ってくる。


「……これなら、いけるか?」

 差し出されたマグカップを受け取って、両手で包み込むと、じんわりと熱が伝わってきた。

 ひと口飲むと、ほっとする甘さが広がる。


「……おいしい」

「それ飲んだら、薬飲めよ」

 冷えてしまっていた体の奥が、ぽかぽかと温かくなって、少しずつ瞼が落ちてきてしまう。


 そのまま調は何も言わず、そばにいてくれる。それにすごく安心して、俺はソファへ身を預けたまま、意識がゆっくりと沈んでいくのを感じた。

 最後に覚えているのは、マグカップをそっと取り上げられる感触と、調の優しい声だった――。

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