穏やかな日常を送れる幸せ 調side
いつも通りに朝食を葵の部屋へと持っていき、リビングへともどってきたら……綴が、和と桜に挟まれていた。
少し久々に見るが、特に珍しい光景でもなかったから、そのままキッチンへと戻る。
「二人とも、重いよぉ……」
そんな綴のふにゃりとした幸せそうな声が聞こえたのは、偶然だった。
昨日……弥が久々に発作を起こしたことで、綴の心にどんな影響を及ぼすか少し心配で、俺は静かに綴の様子を見ていたのだが、特に問題はなかったみたいで胸をなでおろす。
――これも、桜と和のおかげかな。
手元で作業を進めながらも、つい口角が上がってしまう。
少し拗ねたような桜の声、和の誂うような楽しそうな声、綴の穏やかに笑う声。
そんな三人の少し賑やかなやり取りを聞いていると、ふと桜が小さい頃のことを思い出す。
桜は誰よりも甘えたな子で、小さな頃は綴のそばから何があっても離れようとしなかった。
◆
桜の呼吸が、落ち着いてきた頃――。
抱きしめていた体勢から横抱きに変えて、涙に濡れた瞳を覗き込むようにして声をかける。
「桜、少し外に出てみる?」
少しでも気分転換になればと、思って提案した思いつきのようなこと。
「……そと?」
桜の睫毛が震え、涙がきらきらと光る。泣きはらした目は赤くなってしまっていて、痛々しい。
「……ぼく、いっていいの?」
その一言が、引っかかる。なぜ桜はそんなことを聞くのか。
どこか体調がよくないのか……それともまだ気持ちが揺れているのか。
「……? うん、いいよ?」
俺は少し困惑したまま、桜を見つめる。
「……でも、はるかが……」
「悠……? あぁ、今は燎と一緒におでかけしてるからいないよ? 今日はもともと和と行く予定だったんだ」
そこで俺はようやく、桜の言いたいことが理解できた。桜は、悠がよく俺の手伝いをしてくれていることを知っている。
それ故に自分が綴を悠に取られたくないように、悠から俺を取ってしまうんじゃないかと、考えたのかもしれない。
「……なごみ?」
「そう。和も今日、時間が空いてるらしいからお願いしてたんだ。買わないといけないもの多くて、荷物いっぱいになりそうだったからね」
俺は膝をついて桜の目線に合わせ、優しく言った。
桜が抱く不安の理由さえわかれば、あとはゆっくりそれを解いてあげればいい。
桜のまばたきが一度止まり、少しずつ表情がほどけていく。
「……はるか、から……しらべをとったことに、ならない?」
桜は胸の前でそっと手を握りしめ、小さく頷いた。
「ならないから、大丈夫」
「……ぼく、いきたい」
「もちろん。桜が行きたいなら、一緒に行こう」
嬉しそうに微笑むその姿に、ようやく桜らしい温度が戻ってきた。
クローゼットから洋服を取り出し、着替えさせてからそのまま桜を抱き上げて、廊下へと出る。
小さな手は俺の服を掴んで離さない。その体温を感じながら、俺は外へ出るための準備を始めた。
「調ー! 桜ー! 準備できたの?」
リビングへと降りると和はすでに待っていて、俺たちに気付いた瞬間、満面の笑みを浮かべる。
「よし、じゃあ行こうか」
桜と手を繋いで玄関を出ると、桜が左右を見比べるようにして、結局どちらの手を取るか決められないまま立ちすくむ。
「じゃあ僕、こっちの手ー!」
和がふわふわと笑いながら、桜の左手を取る。
「じゃあ俺はこっちだな」
桜は一瞬、驚いた顔をしたが、それからぎゅっと握り返してくれた。
右手が俺、左手が和。
桜の指先はまだ少し冷たくて、不安の余韻が残っているのがわかった。
「桜、寒くない?」
「……うん、だいじょうぶ」
暫く歩いてスーパーに着くと、入り口の自動ドアが開いて冷気が体を包む。
俺はかごをカートへとセットして、進む。
「桜。迷子にならないように、和と手を繋いでてね」
「……うん」
桜は俺の手を少し名残惜しそうに離したが、和がその手を優しく引くと、すぐにそちらへ寄り添った。
「まずは野菜から見に行こうか。桜は何、食べたい?」
「……あったかいものがいい……つづり、さむいのだめだから……」
「温かいものか……」
――何がいいかな……鍋、シチュー、おでん……もう少し、食べやすいものがいいかな……。
スープだったら綴も、桜も食べやすいか……同時に栄養も摂れるもの……。
「じゃあ、ミネストローネなんかどう?」
「……とまとのやつ?」
「そう。綴も好きなトマトのスープだよ」
「……ぼく、それがいい」
「僕も! 調のミネストローネ食べたい!」
嬉しそうな桜。和はにこにこと楽しそうで、二人の手はしっかりと繋がれている。
――微笑ましい光景とは、こういうことを言うのだろうな。
そんな素直な二人に、つい頬が緩んでしまう。
「じゃあ、二人で人参とじゃがいも取ってきてくれる?」
「はーい! 行こ、桜」
繋いだ手を揺らしながら歩く二人の背中を、俺はカートを押しながらゆっくりと後を追う。
本当に和は、桜を安心させるのが上手い。
「しらべ、にんじんこれでいい?」
「うん。いいのを選んでくれたね」
キャベツを選んでいた俺はありがとう、と言いながら人参を受け取る。
「調、これじゃがいもね」
そう言って和はかごにじゃがいもと、玉ねぎを入れた。
「さすが仕事が早いな、和」
「えへへ、でしょー」
ふわふわと嬉しそうに笑う様子に、こちらまで穏やかな気持ちになる。
「ねぇ、しらべ。つぎは、なにがいるの?」
「そうだな……じゃあ次は、ホールトマト缶をふたつとってきてもらおうかな」
「わかった。なごみ、行こ」
まるで宝探しでもしているかのように、楽しそうにしてくれる桜。
――ふふ。いつもは、俺がお手伝いしてって言ってもしてくれないのに。
俺は二人が戻ってくるまでに、次のミッションを考えとかないと……なんて微笑むのだった。
そして殆ど必要なものが、揃った頃――。
俺は振り返って、少し後ろを歩いている桜に声をかける。
「桜。和と一緒に、お菓子えらんでおいで」
「……うん」
桜の頭は小さく揺れた。
「そうだ、二つ選んでいいからね」
小さな頭を撫でながらそう伝えると、桜は少し驚いたように目をぱちぱちさせてから言った。
「ほんとに、ふたつえらんでいいの?」
――そんなに、驚くのか。少しだけ複雑……。
「うん。今日だけ特別」
そう言って優しく笑えば、ぱあっと嬉しそうに微笑んで小さく頷く桜。
「和もお菓子、選んでいいよ」
「え、僕もいいの? 子ども扱いしすぎじゃない?」
和は口ではそんな事を言っているが、その表情はどこか嬉しそうで。
「たまには、ね。それにいつも、桜と一緒に食べてるでしょ?」
「……まぁ、そうだけど」
十九歳にもなってと本人は言うけれど、俺からすれば和だって、桜や悠たちとかわらず可愛い子だ。
だから、こうして同じように甘やかしてしまう。
「なごみ、おかしのところ行こ?」
「そうだね、行こっか」
その瞬間、桜の顔がぱっと明るくなる。和はそれを見て少しだけ照れたように笑い、桜の歩幅に合わせてゆっくり歩き出した。
俺は二人の背中を見送りながら、カートの取っ手に手を置いた。
桜の小さな手を、自然に引いてやる和。そして桜はその手を握って安心したように、軽く揺らす。
年の差はあれど、二人は友達のように仲がいい。よく一緒にいる所を見かけるし、好きなものも似ているから気が合うのだろう。
和の放つ変わらない安心感が、桜は好きなのだと思う。
二人の後ろ姿を見つつ、俺はゆっくりカートを押しながら、残りの必要なものを揃えるために歩き出した。
頭の中でざっと献立を考えつつ、鮮魚コーナーで並んだ魚を見ていると、背後から小さな声が飛んでくる。
「しらべ、ぼくこれにする」
振り返ると、桜が両手で大事そうに二つのお菓子を差し出していた。
ひとつは、桜が気に入ってよく食べてるグミ。もうひとつは綴が疲れたときに、甘いものがほしいと言って食べているチョコレート菓子。
その組み合わせに、胸の奥が緩むのを感じる。
――やっぱり、桜だな。
自分の好きなものをふたつ選ぶのではなく、大好きな綴のためにもお菓子を選ぶ。
そんな健気さと素直さが愛おしい。
俺は桜から受け取ったお菓子をそっとかごに入れて、声をかける。
「ねぇ、桜。今日の晩ごはんは魚にしようと思うんだけど、どれがいい?」
「おさかな?」
桜は鮮魚コーナーに並ぶパックを、真剣に見つめる。あまり魚が好きではない桜だが、白身魚なら食べてくれる。
「しらべ、これ……おいしいやつ?」
並べられた切り身をじーっと見比べて、俺の袖をくいっと引っ張って聞いてくる。
「そう。これは煮ても、焼いてもふわふわなやつ。桜好きでしょ?」
「……すき」
その短い返事に思わず笑ってしまい、俺はそれを買い物かごへと入れた――。
無事に買い物を済ませ、買ったものを袋にいれていく。
「これ落とさないでね」
そう言って、お菓子だけを小さな袋に分けて持たせると桜は目をまん丸にして、そのあとぎゅっと大切そうに抱きしめた。
「……ありがと、しらべ」
「どういたしまして」
短い言葉だけど、桜がどれだけその袋を大事に思ってるかは表情を見ればすぐにわかった。
その姿に俺も自然と口元が緩む。和も隣で見守りながら、ふっと柔らかい笑みを見せた。
「綴の喜ぶ顔、楽しみだね」
「うん……はやく、わたしたい」
和の言葉に桜はむぎゅっと袋を抱きしめ直し、呟いた。
そのやり取りがあまりに微笑ましくて、俺は二人の頭をまとめてそっと撫でた。
「さ、帰ろう。晩ご飯作らないとね」
そう言うと、桜は袋を大事に抱えたまま俺の手をぎゅっと握る。
和もそっと桜の隣に立って、歩く。とても穏やかな、あたたかい帰り道だった――。
◆
夕方、家へ帰ってきてから……綴が降りてこないまま、時間は静かに過ぎていった。
俺はキッチンで手を動かし続けながら、時々リビングの方へと視線を向ける。
晩ごはんは鰈のハーブソテーに、ミネストローネ。かぼちゃのサラダと、主食はバゲットにしてみた。
買い物から帰った後、桜は少し元気を取り戻したようで、今も和と湊と一緒にテレビを見たりといつも通りに過ごしている。
「……いただきます」
桜は夕食をきちんと食べてくれたのだが、その後はずっと小さな袋を抱えたまま、リビングで静かに綴の事を待っていた。
「桜、体冷やさないようにこれ使って」
小さな肩にブランケットを掛けてやりながら声をかけると、桜は素直に頷いて体をすっぽりと覆うように包まる。
「……つづり」
さっきまで抱えていたお菓子の袋を、自分の顔のそばへとそっと置いた後……そんな小さな声が聞こえ、しばらくして桜はソファへと横になった。
いつも綴と楽しそうに見ている番組が始まっても、桜は静かだった。
普段の桜なら、綴のもとへと向かうくらいの時間……だけど今日……桜は待つことを選んだ。
待っていれば、綴が来てくれるかもしれない。そんな期待がきっと桜の中にはあって、待つことでまだ自分が綴に愛されているのかを、無意識のうちに確認したかったのかもしれない。
だけど、綴は来なかった――。
綴の大変さもわかっているからこそ、もどかしい。
毛布に包まって伏せた睫毛が揺れ始め、桜の瞼が段々と重くなっていく。
このまま無理をさせるわけにもいかず、片付けの手を一旦止めて、濡れた手を拭いてから桜のもとへ向かう。
ソファの隣へしゃがみ込んで、そっと声をかけた。
「桜。眠いなら、お部屋行こう」
桜の目が一瞬だけこちらを捉えたけれど、すぐ泣きそうに歪められる。
俺は小さな頭をそっと撫でた。桜は何も言わず、ほんの少しだけ唇を噛んで、また瞼を落とす。
その仕草が、我慢の限界を無理やり押し込めている子どものそれで。
「……だっこ」
俺はその言葉通り、そっと身体を抱き上げた。腕の中で微かに綴の名前を落としながら、ぎゅっと俺の服を掴む手に、このまま綴の所へと連れて行ってやりたくなる。
――だけどそれは、桜の望むことではないのかもしれない。
逡巡の末。俺は桜の部屋に向かい、小さな体をベットへと横たわらせる。
うとうとしながらそれでも綴を呼ぶその姿に、心が痛くて。
少しでも穏やかに眠れるようにと、お腹の辺りを優しく叩いて呼吸を落ち着かせてあげれば、桜の瞼は次第に下がっていく。
「……つづりに、おかし……あげるの」
迫りくる眠気に抗うみたいに、俺の手を掴む小さな手を握って、優しく伝える。
「そうだね。明日、綴が会いに来てくれるよ」
寝息が聞こえてきて、眠ったことに少し安心した。
「おやすみ、桜」
ぱたん――。
そうして暫く寝顔を見守ってから、桜の部屋を出た時――。
そこには、綴の姿があった。
「……桜、寝ちゃった……よね……」
「……あぁ……綴、お前は大丈夫なのか」
廊下の明かりに照らされた綴の表情には、隠しきれないほどの疲れが滲んでいる。
「まぁ……そうだね……なんとか」
そんな状態でも、いつものように笑おうとする綴。だが、その笑みは形になりきらず視線が床へと落ちた。
「今の弥には、俺がついていないと……」
言葉の途中で、綴の声が微かに震える。綴の中で、張り詰めていたものが限界を迎えたのかもしれない。
「……綴」
声をかけて、一歩踏み込んだ瞬間だった。綴の肩がかすかに震えたように、俺には見えて。
俺の顔を見ようとしたのか、少しだけ顔を上げた綴の目が、僅かに濡れていた。
「……ぁ……ごめん……調……」
本人は誤魔化すように笑ったつもりなのだろうが、声の震えは隠せていない。
「気を張ってたのに……桜も、弥も……俺がしっかりしないとって……」
ぽたり――。
涙が一粒、綴の頬を伝って落ちた。
――泣くほどに、追い詰められていたのか……。
――俺はそれにもっとはやく、気づいてやらないといけなかったのに。
その後悔を噛み締めながら、そっと綴の手を取って、そのまま抱き寄せる。
「……綴、大丈夫だ。俺がお前のことを隠してやるから」
その瞬間、綴の呼吸がふっと乱れた。
「……っ……調……」
綴は俺の胸元へと額を預けるようにして、寄りかかってくる。
肩が震え、必死に押し殺そうとしていた涙がはらはらと静かに溢れていく。
俺はただ、黙ってその小さく震えている背中を支え続ける。
背中越しに伝わるその振動が、綴の限界を物語っていた。
その細い背中に体温が伝わるようにと手を当てれば、俺の服を掴む綴の指先に僅かに力が入る。
「……綴、ゆっくり息しろ。大丈夫だ」
言葉に合わせ、優しく擦るようにしてゆっくりと肩甲骨のあたりから腰へと一定のリズムで、背中をそっと撫でた。
安心させるように、落ち着かせるように。
次第に綴の震えは、少しずつ小さくなっていく。
「……っ……調……ごめ……」
「謝らなくていい。今のお前はそれくらい、頑張ってるってことだよ」
撫でる手の動きは止めずに、俺は囁くみたいにして静かに伝える。
誰よりも無茶をして、誰よりも他人の痛みに敏感なこいつは、いつも自分のことだけ後回しにしてしまう。
昔から変わらない、綴の悪い癖だ。
「俺はお前のそういうところが好きだし、尊敬もしてる。だけど時々……すごく不安になるよ」
――こいつのこの優しさが、いつか……綴自身をどこか遠く、俺の手の届かないところへと連れて行ってしまうのではないかと気が気でない。
誰よりも自由が似合う綴の、足枷にはなりたくない。だけどその手を離してしまえば、二度と俺のもとには戻ってこないのではないか。こういう時、そんな思考がいつも頭を過ぎる。
「……だから綴、お前はもっと周りに頼れ」
そんな一方的な我儘のようなことを言いながら、さらに綴を俺の方へと引き寄せれば、抵抗されることはなかった。
ぐっと近くで感じる、綴の呼吸――。
乱れはまだ完全には収まっていないけれど、さっきよりずっと深く、ゆっくりになっていた。
「……っ、調……ごめ……ね」
いつも明るく響く綴の声は、涙に濡れていて。
「悪い、責めるつもりはないんだ。ごめんな……綴が弥のためにも、桜のためにも頑張っているのを知ってたのに……」
湊に偉そうにあんなことを言ったのに、綴の事になると俺はやはり上手く出来ないのが、少し情けなくて。
「綴が落ち着くまで、こうしてるから……」
俺は静かにそう伝えて、何度も背中を優しく撫で続けた。
◆
綴の呼吸が正常に戻り、落ち着いてきた頃――。腕の中の体をそっと、支え直す。
「……綴。昨日からまともに食べてないだろ。ミネストローネ作ってるから、食べないか?」
「……ぇ?」
綴が顔を上げ、泣いて少し赤くなってしまった目元が僅かに、驚いたように見開かれる。
「泣いて体も冷えてるだろうし、そこでゆっくり話をしよう」
リビングへと降りて、ソファの方へと俺は綴を座らせた。
それからキッチンへと向かい、コンロの上に置いたままにしていた鍋を火にかける。
鍋の縁に沿って、小さな泡が静かに現れ始めた頃。
火を止めて、スープカップに注ぐ。
「……熱いから、気を付けて」
両手で包み込むようにして受け取った綴はそっとカップに口を付け、一口こくりと飲み込む。
「……あったかい」
上下する喉元。少し掠れた声でこぼすように言った綴の言葉に、無意識のうちに僅かに入ってしまっていた肩の力が抜けた。
温かいスープのおかげか数口飲んだ後、綴の指先からも余計な力が抜けたように見える。
ふと綴の視線が、そわそわと揺れた。
「……ねぇ、調……桜……どうしてる?」
弥の事を気にしながらも、ずっと綴の胸の片隅に引っ掛かっていたんだろう。
隠す事でもないから、俺は真正面から綴の顔を見て答える。
「……桜は今日、ずっとお前の事を待ってたよ」
綴の眉が僅かに下がり、胸を締め付けられたような……苦しそうな表情を浮かべた。
「……そっか……やっぱり……そう、だよね……」
「でも、悲しい顔ばかりじゃなかったよ」
綴の視線が少し戻ったのを確認して、俺はゆっくりと続ける。
「買い物にもついてきてくれたし、和ともいつもみたいに仲良く話してた。お菓子も自分の分と……お前の分を選んでたよ」
綴の目元が、大きく揺れた。
「……え……俺の?」
「あぁ、綴が好きなやつだからって理由らしい」
あの時、お菓子を大切そうに持ってきた桜の事を思い出しながら伝えると、綴は唇を噛んで小さく肩を震わせる。
その姿は泣きそうに見えて。だけど、泣くまいと必死に抗っているようだった。
「……桜、そんなの……たぶん、あの子は自覚してないんだろうけど……ずるいよ……ほんと」
その綴の声音には、申し訳なさと愛おしさ。それに少しの安堵……その全てが混ざっている。
「桜なりに、頑張ってたよ。ちゃんとご飯も食べてくれたし、珍しく手伝いもしてくれた」
綴は、顔をそっと自分の手で覆う。
「そっか……桜も頑張ってくれたんだね……」
「大丈夫だよ、綴。桜もお前が頑張ってるのは、わかってくれてる。たけどまだ寂しいという感情を上手く処理できなくて、自分の中で折り合いをつけられないだけだ」
――裏を返せばそれは、あの子にはまだ子供らしい感情があって、綴を心から信頼している証拠だと俺は思う。
「それに桜は、誰よりもお前の事を信じてる」
俺たちが今の桜と同じ年の頃は、嫌でも大人にならなければ生きていけなかった。
子供が子供らしくいられる世界――。それが、綴の守りたいもの。
「……ありがと……やっぱり調は優しいね……初めてあった時から、変わらない」
綴は、そう言って少し弱々しく笑った。いつもと違う、しおらしい様子がどこか不思議で。
たけど少しでもその顔に、笑顔が戻ったことに俺はひどく安心した。
「……弥を助けた時ね、何とかしてこの子を助けないとって思ったんだ。それから無我夢中で弥を外に連れ出した時、あの子……星空を見て泣いたんだ」
綴は少し視線を彷徨わせた後、ぽつぽつと話し始める。
「きらきらしてる星を、初めて見たって。僕のこと助けてくれてありがとう、って言ってくれたんだよ」
口調こそ嬉しそうで穏やかだけど、その表情の中には苦しさのようなものも混じっているように、俺には見えた。
――もしかしたら、綴は少し……あの時の自分と弥を重ねたのかもしれない。
あの日、施設から逃げ出て見た、綴の笑顔越しの夜空の美しさを俺は今も忘れることはない。
だからきっと、弥にとっても大切な記憶になると思う。
「これ以上、この子みたいに苦しむ子を絶対に出したくない」
それが、綴の決意――。
「だけど、俺ができることなんて多くはないでしょ? それで考えれば考えるほど、上手く立ち回れない自分にどうしたらいいかわからなくなってきちゃって……」
「……俺は、無理して上手く立ち回らなくてもいいと思う」
綴と視線が絡む。
「確かに個人で出来ることは、多くはないと思う。だけど、多くはなくても綴がしたことは弥にとっても、桜にとってもすごく大きいことだと思うよ」
「……そう、なのかな……」
「それに、お前の優しいところをみんな知ってる」
俺の言葉に少し目を見開いて、それからすぐにふわりと笑った。
「……ありがと、調」
そう言いながら照れ隠しのつもりなのか、具材をスプーンですくって食べる姿が綴らしくて。
「俺も寂しいから、はやく桜に会いたいな……」
溢すように言ったその言葉は、綴の本音なのだと思う。
「……そうしてやれ。桜も喜ぶよ」
温かいスープの湯気の向こうで、綴の表情が儚く綻んだ。
綴のお腹も落ち着いた頃。俺は自室、綴は弥の部屋で眠りについた。
◆
そして翌朝――。
俺が弥の部屋を静かに開けると、綴は弥にぎゅうっと抱きつかれたまま、動けずにいて。
綴は、ちゃんと桜の部屋へ行くつもりだった。だけど腕の中の弥は、眠りながらも必死に綴を求めていて。
「……おはよう、綴。様子はどうだ?」
俺がベットへと近付きしゃがみこんで、小さな声で話かけると、綴は愛おしそうに……だけど少しだけ困ったように目を伏せた。
「……おはよう、調。よく眠れてるみたい」
「そうか。とりあえずは、一安心だな」
「……うん……だけど……」
「……桜のことか?」
「うん。でもおれ今、動くわけにはいかない……どうしよう」
すごく小さな声が、静かに響く。
「お前は今、その子を優先してやれ。桜のことは、俺がなんとかするから」
桜のもとへ行かせてやりたいが、今の綴は弥を離せない。
だけど、桜を悲しませたくもない。そこに嘘はひとつもなくて。
桜と弥の二人には、今はどうしても綴の存在が必要なんだ。
だけど今……綴がその両方を取ることは、難しい。
だから泣く泣く、どちらかを選ばないといけない。だがその選択によって、どちらかが泣いてしまうことが綴にとっては、何よりも苦しいのだろう。
「ありがと……調。いつも……頼ってばっかでごめんね」
「俺が好きでやってることなんだから、綴は気にしなくていい。それに昨日の夜も言っただろ? もっと周りを頼れって」
「……うん」
「朝食は弥も食べられそうなものを用意するから、大丈夫そうだったら連れてきてあげて」
「わかった、ありがと……」
申し訳なさそうな表情を浮かべる綴の額の辺りを軽く突いてから微笑むと、少しだけ驚いた表情を浮かべたあとすぐに、綴特有のふわふわとした笑みに変わった。
そのまま綴の部屋から出て、頭の中で今日一日の段取りをざっと整理しながら桜の部屋へと向かい、様子を確認する。
そっと近付いて覗き込めば、静かな寝息を立てている桜の姿。
少しはだけてしまった布団をそっと掛け直してから、部屋を後にする。
今はまず、朝食の準備をしなければ。今日もそれぞれ任務や私用があり、それらに遅れないよう送り出さないといけない。
――弥が食べやすいようにスープを作って……それから、他の子たちが食べるものをどうするか……。
とりあえず時間のかかる、弥のスープから取り掛かった。人参とじゃがいもを小さめに切って、鍋へと入れてコンソメと一緒に火にかけ、煮込んでいく。
その間に三口あるコンロの二つ目にも鍋を置いて火にかけ、味噌汁用の具材を切って投入する。
だし巻き卵を作り、常備菜として置いてある蓮根のきんぴらとほうれん草のおひたしも、器に盛り付けた。
――食べ盛りの子が多いから、これだと足りないかもしれないけど……冷蔵庫には納豆や漬物なんかもあるし大丈夫かな……。
殆ど朝食が完成した頃――。
「おはよう、調」
「おはようございます」
和と湊が、降りてきた。
「丁度よかった。和、悪いんだけど桜の様子を見てきてもらってもいい? 俺まだ、手が離せなくて」
「わかった。桜、まだ綴とは会えてないの?」
「あぁ。綴が今、弥から離れられなくてな……まだ会えてないんだ」
「そっか……とりあえず、行ってくるね」
「助かるよ、ありがとう」
そう言ってくれた和の背中を見送り、視線をコンロへと戻す。
後は、弥のスープだけ。野菜が柔らかくなったところで火を止め、粗熱を取ってからハンドブレンダーでなめらかになるまで撹拌していく。
「調さん、俺も何か手伝います」
湊の申し出をありがたく受け取って、用意したものの配膳をお願いする。
そんな時、まだ眠そうにしている悠が燎と一緒に起きてきた。
「おはよう、悠。昨日は良く眠れた?」
「……うん。かがりがいっしょにねてくれたから、よくねむれたよ」
「そうか、よかった」
悠の小さな頭を撫でると、気持ちよさそうにそっと目を閉じる。
その姿が、まるで猫のようで心が和む。
「もう少しでご飯できるから、待っててね」
「……おてつだい、できることある?」
「今日は湊が手伝ってくれてるから、大丈夫。悠の気持ちだけもらっておくね」
ありがとうと伝えると、悠はにこりと笑って燎のいるソファの方へと向かっていった。
――悠は、成長するたびに少しずつ性格が明るくなってきたように思う。
ここへ来たばかりの頃は、怯えた様子を取ることも多かったが、最近は子供らしくはしゃぐことも増えてきた。
それを見ると、本当に嬉しく思う。
「……調」
そんな事を考えていた時、ふと後ろから声をかけられる。
振り返った先には、和。
「……桜、どうだった?」
「…………結構、限界っぽい感じだった……」
「……そうか」
誰も、綴の代わりにはなれない。それは桜にとっても、弥にとっても。
だからこそ、どうすることもできない自分が悔しくて、苦しい。
「食欲もないみたい……」
「……とにかく……できるだけ早く、綴が行ける時間を作らないとな……」
そんなことを、話していた時――。
静かにリビングと廊下を隔てる扉が開き、綴と弥が手を繋いで入ってきた。
「……弥?」
いち早く気付いた和がそちらへ向かい、弥の目の前にしゃがみこんで話しかける。
綴はきょろきょろとリビング全体を見渡し、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。
――桜を、探しているのか……。
綴は誰よりも、人の感情に聡い。そして綴本人は自分が誰かを支えているという自覚はないのに、その感受性の高さからか殆ど無意識に相手の心に寄り添おうとしてしまう。
そしてそれは本人に余裕がなくても発揮されてしまい、時に自分自身をも追い込む。
綴自身も任務の夜から決して余裕がある状態ではないはずなのに、自分のことより桜や弥を優先しようとする。
二人のことが気掛かりで、まともに眠れていないはずなのに。
それらは綴の長所でもあり、同時に短所にもなってしまう。
「……綴」
俺は綴が収納棚にブランケットを取りに行くタイミングで、湊が弥の様子を見てくれていることを横目で確認し、静かに声をかける。
「……調……その……桜は?」
一見、いつもの通りふわりと笑ったように見えたが、瞳には迷いのようなものが一瞬、ちらついて見えた。
「……部屋にいるよ」
本当は、綴にばかり負担を背負わせたくない。だけど今の桜に何かしてあげられるのは、綴しかいないのも事実で。
「……そっか。できるだけ早く行かないとだめだね」
「……俺にできることがあれば、何でも言ってくれ」
「……うん、ありがと。すごく心強い」
そう言って綴は、毛足の長いブランケットを持って弥の方へと戻っていった。
俺もキッチンへと戻り、小さめのお皿に出来上がった人参のポタージュをよそい、湊に運んでもらう。
胃に負担が出来るだけかからないように、調味料は殆ど使っていないが、野菜の甘さが感じられるような薄めの味付けは、苦手だと食べられないかもしれない。
――ちゃんと味見もしたが、どうだろうか。
スープをひと口食べた弥は、静かに涙を器に落とした。
「……ぼく……こんなおいしくて、あたたかいごはん……はじめて……」
その言葉が胸に刺さる。どうやら俺の心配は杞憂だったようだが、食事ひとつで涙が出てしまうほど……この子はずっと飢えていた。
弥に関する詳しい情報がまだ届いておらず、詳細は分からないが、誰かが作った料理というものにすら、もしかしたらふれたことがなかったのかもしれない。
綴がそっと弥の頭を撫で、その仕草に安心したのか弥はさらに涙をこぼし、スプーンを握りしめたまましゃくり上げた。
俺は静かにその光景を見守りながら思う。
――守らないといけない。
誰も傷つけず、誰も泣かせずに済む方法なんてわからないし、俺が手を伸ばせる範囲は決して広くはないのかもしれない。
だけどせめて小さな子が、温かいものを温かいまま受け取ることが当たり前の世界にしたい。
湯気をたてる温かいスープを弥は泣きながら、それでも次の一口を口に運んだのを見て、どこか安堵の感情が広がっていくのを感じる。
しばらく様子を見守った後。俺は葵の部屋へと朝食を届けるために二階へと上がる。
そしてその足で桜の部屋へと向かったのだが、扉の前に立ちドアノブに手をかけた所で、開けることを躊躇ってしまった。
――もし桜が起きていて……今、俺が入っていけばまた、綴じゃないとがっかりさせてしまうかもしれない。
もっと……辛い思いをさせてしまうことになるかもしれない。
――俺が綴の代わりになれるわけじゃない……。
そんな考えが一気に押し寄せてきて、指先が動かなくなってしまった。
――今、桜が待っているのは俺じゃない。
結局、俺は様子を覗くことができなかった。音を立てないように離れて、リビングへと繋がる階段を降りる。
そして俺がリビングの扉を開けると丁度、綴と弥が部屋へと戻ろうとしているところだった。
弥の手を引いて進む綴の背中を見送り、俺も朝食を摂る。
冷めてしまった珈琲を片手に、流れている情報番組のニュースをぼぉーっと見つめていた時、声をかけられた。
「……調」
「綴? 弥はどうした?」
「……調が作ってくれたスープのおかげで安心してくれたみたいで、今はよく眠ってくれてる」
「そうか……よかった」
――やはり温かいものは、効果があるのかもしれないな。
そんなことを考えていたら、綴が隣に座ってきた。
「……どうした?」
そう声をかけると、綴は一瞬だけ視線を彷徨わせる。
言うべきか迷っている時の、こいつの癖だ。
「……あのね、調。その……一緒に来てくれないかな……」
その言葉は、少し意外だった。お願いというよりかは、どこか縋るような声音。
「……俺も一緒でいいのか?」
そう問い返せば、綴は華奢な指先をぎゅっと組む。
「……情けないんだけどね、俺ちょっとだけ自信なくて……だからね、調についてきてほしくて……」
だめかな……? なんて言われてしまえば「断る」なんていう選択肢は消えてしまう。
先ほど桜の部屋の前で立ち尽くした自分を思い出し、その情けなさが熱のようによみがえってくる。
その不安を言葉にできる綴は、俺なんかよりもずっと強いのかもしれない。
「……わかった……だけど、俺は部屋の前で待ってるから、お前は桜とゆっくり話せよ」
「うん……ありがと、調」
綴と並んで立ち上がり、ただ流していただけのテレビを消す。
一瞬で静まり返ったリビングには、俺たちの心臓の音だけが大きく響いているような気さえした。
それほど長くない廊下を歩きながら綴は、俺の袖をきゅっと掴む。
その仕草は最近では珍しく、滅多に見ることはなくなっていたものだ。
学生時代、よく綴が不安を感じるとしていたもの。理由をしっかりと聞いたことはないが、それはどうやら俺がちゃんと、自分の隣にいるのかを確認する目的らしい。
「……緊張してるのか?」
小声で聞くと、綴は少し困ったように笑った。
「……うん、すごく緊張してる」
誰よりも綴が好きで素直な子だというのはわかっていても、今の桜の心に触れるのは思っていた以上に怖い。
それに人の心はすごく複雑で、難しい。多感な時期にある桜とのすれ違いが、これ以上起こってしまわないようにと、細心の注意を払う必要がある。
桜の部屋の前に着いて一度立ち止まった綴は、深く息を吸った。
その動きに、今度は俺のほうが袖を軽く引く。
「綴と桜なら、大丈夫だ」
俺がそう言うと綴は目を細めて小さく頷いてから、そっと扉を開けた――。
◆
「……桜?」
俺は、扉の外で静かに待っていた。
「……つづり、だっこして」
綴が部屋へと入ってからしばらくして、初めてはっきりと聞こえた桜の声。
桜が発した言葉に、俺はつい頬が緩んでしまった。
――よかった。ちゃんといつもみたいに、甘えられたんだな。
これ以上は俺の出る幕ではない。あとは二人に任せて大丈夫だ。
そんな安心が心の中に広がって、先程とは全く違う温かい気持ちで、俺はその場を後にしたのだった――。
◆
「……変わらないな」
つい笑みがこぼれ、牛乳を温めるために鍋へと注ぎ火をつけ、お茶の粉を溶く。
泡立てると、抹茶の香りがふわりと広がった。
カップを三つ並べて、注ぐと静かな湯気が立ちのぼる。
俺はそれをお盆に乗せ、もう一度リビングの方を見ると、楽しそうな話し声。
「抹茶オレ作ってみたけど、飲むか?」
俺はお盆を持って、声をかける。
「飲むー!」
「僕も!」
「わぁーありがと、調」
そんな三人の賑やかな声が、リビングに響く穏やかな日常だった――。




