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未完成なイデア  作者: 綴 朔哉


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28/33

お揃いのブランケットと、宝物のお菓子。



 規則正しい寝息が、静かに部屋へ溶けていく――。

 

 弥だってもう大人だからと、自分の部屋に戻ろうかとも考えたが、体調の悪い時に大人も子供もないなと思い、そのまま残ることにした。


 この子がリヒトに来た頃は、大変なことも多くて。フラッシュバックを起こすたびに乱れる呼吸。穏やかそうに過ごしていても、ちょっとしたきっかけで……それは突然……弥を蝕むように訪れる。

 大粒の涙をこぼし、笛のような音が喉から漏れて、苦しそうに呻く。

 うまく眠れなくて、夜通し泣き続けるような日もあった。


「だいじょうぶだよ、あまね」

「ここは、安全だからね」

 そんな言葉を何度言っても、うまく伝わらないことも多くて。

 だけど、それも無理はないこと。

 

 弥が今までいた世界の大人は痛みを連れてくる存在で、実験で受けた痛みは恐怖でしかない。


 俺のことは怖くないと言ってくれても、パニックを起こせば意識は混濁し、正常な判断は難しくなる。


 そんな弥が、怯えて泣くことが少しでもなくなるよう……穏やかに過ごせるようにと毎日必死だった。

 

 加えてあの頃、和は大学に通っていたし、湊や葵も高校生で桜や悠も小学生でまだまだ小さくて。燎も調について、俺よりもたくさんの任務を受けていた。


 調や燎、和の協力もあったが、基本的には小学生組の登校を見届けてから任務に赴き、戻ったら報告書を書く。

 夜になって桜や悠が眠ったのを見届けた後、弥のもとへ向かう。

 そんな毎日の繰り返し。

 

 二人の学校行事の日は、何とか時間を調整してひとつも欠かさずに参加した。

 悠は学校があまり得意でなかったから、行ける日とそうでない日もあったりして。


 朝起きてベッドから起き上がることすら出来ない日や、着替える際に洋服の袖を通したまま動かなくなる日もあったし、玄関まで来てから黙り込んでしまう日もあった。

 何とか頑張って行けても、途中で早退してくることも少なくはなくて。

 

「……今日は、お休みする?」

 無理をさせたくはなくて、そう声をかけると悠は少し迷ってから小さく頷く。

 その頷き方が、いつも申し訳なさそうで。必要以上に悠が気にしてしまわないように俺はなるべく、明るく言うようにしていた。

 

「じゃあ今日はお休みして、ゆっくりお昼寝でもしようね」

 調も悠が休むという選択肢を止めることは、一度もなかった。

 

 ある夜、二人で話したことがある。

 

「無理にでも、行かせるべきだったりするのかなぁ……」

 俺がそう言うと、調は少し考えてから首を振った。

 

「……もちろん甘えはよくないが、学校に行くことだけが正解ではないと、俺は思う」

 調の言葉が、妙に腑に落ちる。世の中には出来ることが当たり前だとされることがあって、学校に行くことや、友達を作ること。そういったことが普通だとされている。

 だけどリヒトにいる子たちは、それが当たり前ではなかった子が多い。

 

 まず、生きていていいと思えること――。

 

 それから少しずつ、外の世界に触れればいい――。

 

 それが俺と調の見解。


 弥の場合もそう。落ち着いて学校に通えるまで回復しても、めまいや耳鳴りと言った症状に悩まされたり、傷が多く残っているから肌を露出させるのを嫌がった。

 それを一番気にしていたのが、和。

  

「最近の傷は全部治せた。だけど……古い傷は完全には消えてくれなかった」


 あの壮絶な任務後、弥の応急処置の際。和の言ったその言葉を、弥の傷を見るたび思い出す。


 暗い自室のベットの上で目を閉じると、頭の中で何度も再生される――。


 ◆

  

 あの時も和が配慮してくれて部屋へと戻ってきたのに、弥のことが気になってしまい、結局殆ど眠ることはできなくて。

 俺は早々に諦めて、外の空気でも吸おうと寒い廊下に出た。

 

「いやっ、やめてっ……こないで!!!」

 三階にある自分の部屋から出て、下の階へと続く階段を降りた時、そんな声が微かに聞こえた。


 俺は慌てて弥の部屋へと向かい、勢いよく扉を開けて中へ入る。


 そこには、困ったように両手を上げて距離を取ろうとする和と、酷く怯えた様子の弥。


「……っ、たす、けて……!」

 掠れる声で俺の名前を読んだ弥は、そのまま覚束ない足取りで必死に手を伸ばしてくる。

 

「おねがい……もう、……あそこ、には戻りたくないの……」

「たすけて……おねがい……もういたいのはいやなの……」


 弥が溢す言葉たちに、俺は心臓を締め付けられるような心地がした。


 ――いたいのは、いやだ。たすけて……さむいよ。つめたいよ……だれか……おねがい……ここからだして……。


 そんな、在りし日の記憶が勝手に甦ってくる。震えてしまいそうになる手を必死に隠して、弥の体を抱き上げた。


 ――もう大丈夫。ここは安全だから。


 弥にかけた言葉は、もしかすると俺自身が誰かにかけてほしいものだったのかもしれない。


 いつも通りに……。普段の俺ならどうするか。ざわざわと波立つ心に必死に蓋をして、穏やかに……弥が安心できるように声をかける。


 その甲斐もあってか、充電が切れるようにそっと目を閉じた弥に、俺は胸を撫で下ろす。


「ごめん、綴……僕が驚かせちゃった……」

 眉を下げ、申し訳なさそうにする和。


 ――和は何も悪くない。悪いのは、弥に酷いことをしたあいつらだ。


「和のせいじゃないよ」

 俺はそう言って弥の事をそっと抱え直し、再びベットへと寝かせる。

 放っておくと少し目に掛かってしまう髪をよけつつ、壊れ物を扱うようにふれた。


「弥の体はもう何年も、限界の上で耐えてきたんだ……」

 静かな部屋に響いた和の声。その声音には、行き場のない怒りのようなものが含まれていた。


 ――和の気持ちは、俺も痛いほどわかる。


「……大丈夫だよ、もう怖くないからね」


 ――もう二度と怖い思いをしなくていいように、俺が守るからね。


 縁や調がくれた温かさを、俺が次は弥に渡す番なんだ。


 振り返ってみた和の顔は、苦しそうに歪められていた。


 和の能力上、どうしても辛い役回りを任せてしまうばかりになる。


 四個も年下なのに俺なんかよりも断然しっかりしている和に頼りっぱなしで、本人はそれが嬉しいなんて言うが、和本人も気付かないうちに負担にをかけてしまっていると思う。


「……ごめんね……いつも、辛いことを任せてしまって」

 そんな気持ちが言葉になって、口からこぼれ落ちてしまった。


「……やめてよ」

 悲しそうに歪められた和の表情を見て、俺は自分が言葉選びを間違えたことに気付いた。

 

「僕は……綴に謝られないといけないようなことを、しているわけじゃない。それに、嫌々やってるわけでもない」

 そして和が涙の滲む声で言った言葉によって、自分の発した言葉の残酷さに気付かされる。


「僕は綴がいてくれるから、ここにいられる。任務に行けない僕の居場所を作ってくれたのは綴なんだよ」

 和はそんな風に思ってくれていたのに、俺はそんな和の気持ちを踏みにじるようなことを言ってしまった。

 優しい和に辛い思いをさせてしまうことが、苦しくて。少し泣きそうな表情で、点滴が抜けてしまったところを治癒する姿を見ているのが辛くて。

 少し考えればわかったはずなのに、言ってはいけない言葉を俺は軽率に口にしてしまった。


 ――俺、最低だ。和のことを考えているつもりで、本当は自分のことしか考えてなかったのかもしれない。

 

 和に辛い思いをしてほしくなかったのは、ほんと。だけど、だからこそ慎重に言葉を選ぶべきだったのに、自分が傷つくのが怖いからって、言ってはいけない酷いことを言った。


 後悔の念が心の中に渦巻いて、心臓が黒く変色していくような錯覚を起こす。


 心臓が不自然に脈を打って、口内が乾いて言葉が喉にはりついてしまう。

 何か言わないといけないのに、うまく音にならない。


「……そう、だね……俺、和の気持ちを考えてなかった」

 ようやく形にできた音は、少し歪なものだった。弥がいた悲惨な光景をみてから、俺は俺じゃないような気持ちの悪い感覚がずっとあって、それに押し潰されてしまいそうで怖くなる。


 ――正解が、今の俺には……わからない。

 

「ごめんね……ありがとう。和がいてくれて、よかった」 

 その言葉が音になってから、さらに和の顔は涙を堪えるように歪められて、唇を噛み締めてしまう。


 和の少し小さいけど、綺麗に整った形の唇が傷ついてしまうのが嫌で、殆ど無意識に伸ばそうと上げた手をそっと取られた。


 その手をそのまま優しく引いて、腕の中に俺より背が高くなったのに、華奢なままの和の体を腕の中に収めて守るように抱きしめる。


 和の優しい体温に、俺の方が安心させられた。


 ――はやく、いつもの俺に戻らないと……。和を安心させられる俺じゃないと……。


「和。ここは俺が変わるから、ゆっくり休んでおいで」

 本当は名残惜しいけれど、この子を少しでも早く休ませてあげなければ……。

 そんなことを考えて、泣く泣く俺は和から体を離した。

 


 ◆

 


 和が部屋から出てしばらくして……弥の寝息しか聞こえない静かな部屋で、呟く。


「……もう、大丈夫だからね」

 それは弥に言った言葉のはずなのに、まるで自分に言い聞かせているような気分になった――。

 


 弥のそばで軽く微睡み、少し眠っては……起きてを何度も繰り返す。

 その中で俺は、短い夢を見た。


 俺は冷たい水の中に再び閉じ込められて、目の前にはみんながいる。

 なのに誰の目にも俺の姿は映らなくて、助けてほしくて必死にそこから名前を呼んでも、水の中では音にならず、誰も気付いてくれない。


 調が俺に背中を向けて、去っていく。


 ――まって、しらべ……たすけて。おねがい……ここからだして……。


 腕には管が巻き付いていて、逃れられない。音にならない声が泡となって視界を埋め尽くし、冷たい世界に俺はまたひとり、取り残される。


 ――俺を……たすけて。


「……しらべ」 

 現実世界に引き戻されて目を開けたのに、見えている世界はぼんやりと歪んでいて、はっきりとしない。


 不思議に思って頬に触れると、濡れた感触。


 ――なんで俺……泣いてるの。

 

 慌てて涙を拭うと、ようやく意識が覚醒してき始める。

 不自然な体勢で眠っていたのが祟ったのか、強張ってしまった体をゆっくりと起こすと、ずしりとした倦怠感が首から背中にかけて落ちてきた。


 ――寝た……というよりも、気絶に近いような感じだったのかもしれない。

 

 自分のものじゃないみたいに重たい体は、腕に力を入れようとすると、じん……と痺れた。


 ――体が凄く重い……。


 だけど動いた拍子にふわりと優しい匂いがして、俺の肩にブランケットが掛けられてあることに気付く。


 ――もしかして……これ、調が掛けてくれたのかな。


 昔、初めての報酬を使ってお揃いで買ったもの。任務の帰りに立ち寄ったお店で見つけた、幾何学模様のデザインに一目惚れした。


 俺は紫色が好きで、調は赤色が好き。

 

 その二色の同じデザインの色違いがお店の棚には並んでいて、少し運命のようなものを感じたというのは今も俺だけの秘密。


「俺、調とお揃いにしたい!」 

「……お揃いにする必要があるのか?」

「あるよ! 俺が調とお揃いがいいんだから!」

「それは、お前の願望だろ」

「……まぁ、そうだけど。でも調は叶えてくれるでしょ?」

「ふはっ、なんでそんな自信満々なんだよ……」

 調は口ではそんなつれないことを言うが、いつも最後には優しく笑って俺の希望を叶えてくれるのだ。


「調と色違いのお揃い! 俺、宝物にするね!」

「大げさだな、綴は……」

 そう言った調の嬉しそうな表情を見れることが、俺はとても幸せだった。


「……綴。そっちの紫、俺に頂戴。こっちの赤をあげるから」

「え、いいけど……紫でいいの? 調、赤のほうが好きでしょ?」

「……まぁ、何となく」

 そう言って俺のほうに来た赤色と、かわりに調のもとへといった紫色。

 

「ふふ。これで見るたびに、調とお揃いだって嬉しくなるね」

 綺麗に畳まれたブランケットが入ったショッピングバッグを、大事に抱える。

 

 それは、俺の大切な宝物のうちのひとつになった。

 

 そして今、掛けられているのは紫色。きっと調は、様子を見に来てくれたんだろう。

 体を包み込むように掛けられたブランケットを、きゅっと掴むと調が気に入って使っている柔軟剤の匂いが強くなった。


 ――調に会いたい。


 帰りの車中で、こっそり調に電話したことを思い出す。


 ◆

 

 任務後、B班だった二人とは報告事項の関係で別行動になったので、後部座席には俺と湊と弥の三人しかいない。

 運転手さんもいるが、比較的広い車内で少し声を潜めれば聞こえることがないくらいには、運転席まで距離がある。


 シートを倒して横になった湊からは寝息が聞こえていて、弥も泣きつかれたのか起きる様子はなかった。


 ――眠っていても、傷が痛むのだろうか。それとも……怖い夢でも見ているのだろうか。


 少し苦しそうにして自分のことを守るように体を丸めて眠っている弥に掛けられたブランケットから覗く、細く痩せた腕には、夥しい数の傷。

 新しいものは、消毒をして簡易的な手当ては施してある。

 だけど見た目以上に辛く、苦しかった記憶を少しでもどうにかしてあげたくて。


 弥を起こしてしまわないように、そーっと小さな手を優しく包み込む。低い体温に、僅かにでも熱を分け与えてあげられるように。

 

 そして反対の手をポケットに入れて、スマホを探す。


 並んだ宛先から和の名前を探して開いたけれど、文章を打ち込もうとする手が、画面の上を彷徨う。


 とっくに日付は超えてしまっている。


 ――迷惑に決まってる。それに起きてないかもしれない。


 だけど隣で眠る弥の姿を見て、俺は腹を決める。

 

 送信ボタンを押すことを最後まで迷ったけれど、俺はメッセージを二件送った。


 ブブッ――。


 両手で持っていたスマホが、五分と経たずに通知を知らせる。


「わかった。準備しておくから、気をつけて帰ってきてね」

 和らしい簡潔で優しいメッセージを確認し、俺は静かにスマホの電源を落とした。


 そんな和とのやりとりによって、張り詰めていたものが僅かに緩んだような気がして。


 アジトに着くまでには、まだ三十分以上はある。体は疲れているはずなのに、目が冴えてしまって眠れず、流れていく車窓の景色を何となく眺めていた。


 傷を消しても、心の痛みそのものはなくならないことはわかっている。


 ざわざわと、心が音を立てて波打つ。気持ちの悪いその感覚をなんとか鎮めようと内心では、必死だった。


 深く息を吸い、意識的に呼吸を落ち着けようとするけど、全然上手くいかなくて。


 ――調の声が、聞きたい。


 ふと、そんな思考が頭を過っていった。


 だけど時刻は、深夜一時五十八分――。


 確か調は今日も任務だったから、こんな遅い時間では疲れて眠っているはず。

 唯でさえ、翠階級の調は引く手数多で忙しい。


 ――いっそ眠ってしまえれば、気持ち悪いこの感覚も、起きたときには消えてくれるかもしれないのに。


「……綴。任務が終わったら、遅くてもいいから絶対に連絡をくれ」

 そんな昔の約束が、頭の中で再生された。


 ――調なら、きっと大丈夫。それに約束したから。そんな誰に言うでもない、ひとりごとを並べる。


「無事に任務、終わったよ。ひとり男の子を連れて帰ります」

 そんな当たり障りのないメッセージを、送ってみた。


 メッセージを送ってすぐについた既読の文字。少し驚くと同時に、心の中にあったざわざわが温かいもので包みこまれるようだった。

 

 思わず電話してもいい? なんて聞いてしまった後、少しだけ冷静さを取り戻した頭には「後悔」の二文字が浮かぶ。

 だけどそんな後悔の時間はたぶん…一秒くらい。

 

 数秒も経たずに掛かってきた電話にやっぱりまた驚いて、反射的に出たはいいものの、話すことなんて何も考えていなくて。


「……しらべ」

 頭をフル回転させてようやく絞り出せた声は、そんなか細いものになってしまった。


「お疲れ様、綴」

 いつもと変わらない、耳心地のよい低音の声。調はずっと、俺のことを守ってくれる。


 それを思い出すと、どうしても会いたくて。こういう時、自分にとって調という存在がいかに大きいかを思い知らされる。


 だからこそ、今。心が揺らいでしまっているこの瞬間に、そばにいてほしいと思ったんだ。


 少しだけ電話で調と話してから、名残惜しさはあったけれど……これ以上、調に迷惑をかけたくなくて、俺の方から電話を切った――。



 

 ◆

 


 ――今、弥は眠ってる。少しくらいなら、離れても大丈夫だろうか。


 気付けば体の重さなど忘れて、ふらつく足で扉の方へと向かっていた。


 一段ずつゆっくりと、手すりを握って階段を降りていく。

 心がざわざわして息がしづらいのに、足は止まらなかった。


 ――しらべ……。


 どこか願いのような気持ちを抱きながら、リビングに繋がる扉を開けた。


 だけどそこに人の気配はなく、誰もいなかった。


「……あ……そっか……」

 声にならない声が、喉につっかえてしまう。


 調はいつも、何かしらみんなのためを思って行動していて、俺よりもたくさん任務をこなしている。


 本当は、そんな気軽に会える存在ではない。すべては、調の影での努力によるもの。


 そんなこと頭ではわかっていたはずなのに、心がぎゅっと締まる。


 ――少し、会いたかっただけなのに。


 誰にも……調にすら言うことのできない、子供のような感情が胸に残って、しばらくその場に立ち尽くす。


 ――今は、弥のことを一番に考えないと。


 そう自分に言い聞かせるようにして、俺は弥のいる部屋へとまた時間をかけて戻った。


 崩れ落ちるようにしてベッドのそばへと座り込み、弥の小さな手にふれる。

 そのまま暗闇に飲み込まれるようにして、俺は意識を失った――。



 ◆

 

 


「……つづ、り……つ、づり」

 俺の名前を呼ぶ、桜の声が聞こえた気がして、目を開ける。

 だけどそばに桜の姿はなく、辺りは真っ暗で、静かで、空気は冷たい。


「……いっ……たぁ……」 

 ゆっくりと身体を起こすと、こめかみの辺りに鈍い痛みが走り、顔を歪ませてしまう。


 桜に……会えていない。今の今まで、そんなことに気付けなかったほど、余裕がなかった。


 スマホを手繰り寄せ電源を付けると液晶の光が目に染みる。日付は変わり、殆ど一日が経過していた。


 ――とりあえず……薬……頭が痛い。


 ずきずきと痛む所を押さえながら立ち上がり、静かに部屋を出て、薬箱を置いているリビングへと少し覚束ない足取りで向かう。


 思考が霞み始め、調の気配を辿るようにしてキッチンへと足を踏み入れる。

 いつも調が薬を入れている戸棚を、開けた。


 ――あれ……薬、どこだったっけ……?


 ――調ならすぐ見つけるんだろうな……。


 そんなことをぼんやりと考えながら手探りで箱を探していた、その時だった。


「……綴?」

 背後から呼ばれた名前に、心臓がひくりと跳ねた。振り返るとそこには、心配そうな表情を浮かべる和の姿。


「……あ、なごみ……」

「どうしたの? 顔色凄く悪いよ……」


「……ちょっとね……頭、痛くて……」

 なるべく平気そうにへらりと微笑んでみたつもりだけど、上手く出来たかな……。

 和に……俺のことでいらない心配かけたくない……。


「薬……探してたの?」

「……うん、なんかうまくみつけられなくてさ」

 あくまでも軽い調子を装う。僅かな腕の震えも、視界の揺れも悟られないように、背中で組んだ手を強く握って隠した。


 和は、じーっと俺のことを見ている。見透かされてしまいそうな、その視線が少しだけ居心地悪くて、俺は顔をそらす。

 

「……綴。薬、僕が探すから……座ってて」

 ふっと息を整えてから、和は優しく言った。その声の温かさに、意図的に込めていた体の力が抜ける。


 ――こういうときの和は、少しだけ強引になる。


 だからその言葉に従って、俺は大人しく座って待つことにした。


「……これ、飲んでね」

 それからすぐ、目の前にコップに入ったお水と薬が差し出される。

 それを素直に受け取ると、和は俺が薬を飲み下すまで目をそらさなかった。


「……ありがと、和」

 俺がそう言うと和は少しだけ視線を落として、呟くように言った。


「……綴、あのね……」

「ん?」


「……その……昨日のこと、弥が落ち着いたら……直接、謝りたくて」

「ん。わかった、タイミングをみて弥に伝えておくね」

「……ありがとう」

 和は知性に溢れ、思慮深い。

 

 人を傷つけないようにと常に慎重に行動し、誰よりも相手の立場になって考えられる子だ。

 だからこそ一拍遅れた反応になってしまうのを、本人は気にしている。


「……弥に会うの怖い?」

 そう聞いた時。和は目を伏せて、少し間を置いてから正直に答えてくれた。


「……うん。怖い……だけど、だからって逃げたくない」 

 初めて会ったあの日。不安そうにしていた子は、さらに優しく強くなった。


「和らしいね」

「え……褒めてないよね? それ」

「えぇ……褒めてるよぉ、ちゃんと」

 いつもの少し冗談まじりの楽しいやり取りに、空気が少し明るくなる。


「……ちゃんと休んでよね。綴が倒れちゃったら、みんな心配で眠れなくなるんだから」

「あはは……。みんな俺に対して、過保護すぎたよ……でも気を付けるね、ありがと」


「……うん。おやすみなさい、綴」

「おやすみ。和も暖かくして眠るんだよ?」

「……はーい。綴も、僕に対して過保護じゃん……」

 むぅっと唇を突き出して、子供扱いしないで。みたいな感じの和だが、その表情はどこか嬉しそうで。


 そんなどこか子供らしさの残る和に、俺はふわりと微笑んだ。


 和と別れて、俺は桜の部屋へと向かう。その頃にはプラセボ効果なのか、はたまた服用した薬の即効性なのか、はっきりとした理由はわからないが、痛みは少しましになったような気がして。


 桜の部屋の前に辿り着いた頃には、胸の奥がもう重たくて仕方なかった。

 扉がほんの少し開いて、中から調が出てくる。


「あ……」

 咄嗟に、なんて言ったらいいのかわからなくて。


「……桜、寝ちゃった……よね……」

 そんな言葉が、口からこぼれ落ちた。

 

「……あぁ……綴、お前は大丈夫なのか」


 ――そっか……俺……少し、遅かったんだ……。


 罪悪感が胸の奥で、ぐらぐらと渦を巻く。


「まぁ……そうだね……なんとか」

 自分が大丈夫なのかなんて……正直、わからなくて。


 会えて嬉しいのに、やっぱりいらない心配はかけたくない……そんな気持ちが、何とも言えない曖昧な返答を作り出す。


 だけど調の姿を見た瞬間から、張り詰めていた心が、緩んでしまうのは止められなくて。


 本当は思い切り縋って、つらい、しんどいと言って甘えてしまいたい――。


 でもそれを言ってしまったら……俺はきっと、真っ直ぐ立っていられなくなってしまう。


「今の弥には、俺がついていないと……」

 それに今、あの子をひとりにしていい状況じゃない。

 弥は、俺の声や気配ひとつでやっと落ち着くようになってきたばかりで……俺が離れたら、また不安にさせてしまうかもしれない。


 俺がだめで桜にも一日会えなかったのに、調に甘えようなんて……そんなこと許されるのかな。


 頭の中でいろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、息が詰まりそうになる。


「……綴」

 調の声――。あまりに優しいその音に、心が揺れた。


 じわっと目に涙が集まってきてしまって、見ている世界が少しずつ滲んでしまう。


 凄く会いたくて、本当は助けてもらうばかりじゃなくて、調の前でも格好良くいたい。なのに、いつもこの人の前ではできなくなってしまう。


「……ぁ……ごめん……調……」

 声がやけに弱く、震えてしまった。 


「気を張ってたのに……桜も、弥も……俺がしっかりしないとって……」

 とうとう表面張力に耐えられなくなってしまった涙が、俺の目から溢れ落ちてしまった。


 ――はやく涙を、止めないと……。調を困らせてしまう。


 少し冷たい手がふれた瞬間――。気付いたら俺は、調の腕の中にいた。


「……綴、大丈夫だ。俺がお前のことを隠してやるから」


 ――え……あ、れ……。


 僅かに遅れてやってきた体の感覚器官が調の体温と、匂いを伝えてくる。


 それらを感じてしまったら、もうだめだった。


 その胸元に額を寄せた瞬間、必死に我慢しようとしていた涙が止まらなくなってしまって、体から力が抜ける。


 啜り泣く俺の背中に手を当ててくれて、優しく擦るようにして撫でてくれる。


 俺の幸せは永遠に続くことのない、期限付きのもので、いつ終わりがくるかわからない。


 それが本当はずっと不安で、怖くてたまらなくて。

 

 そしてそれを口に出してしまったら、冷静に行動出来なくなってしまうような気がして。

 

 だから、必死に飲み込んだ。

 

 たくさん考えないといけないことがあって、頑張らないといけないのに、調のすべてが俺が欲しかった「安心」そのもので。


「……っ……調……ごめ……」


 ――離れたくない。だけど……それじゃだめで。

 

「謝らなくていい。今のお前はそれくらい、頑張ってるってことだよ」

 落ち着かせるように撫でてくれる手と、優しい声に本当に甘えてしまってもいいのかと迷っていた頭は少しふわふわとしてくる。

 

「綴が落ち着くまで、こうしてるから……」

 

 ――もうすこしだけ……このまま。


 しばらく安心できる腕の中で過ごした俺は、調に連れられて、リビングのソファに座っていた。


 キッチンへと向かう調の後ろ姿を何気なく、ぼぉーっと見ていると、ほわほわと湯気の立つマグカップが目の前に差し出される。


 慎重にそっと受け取ると、掌からじわりと温かさが伝わってきて、心の奥で絡まっていた糸が少しずつ解けていくようで。


「……ねぇ、調……桜……どうしてる?」

 本当は少しだけ、聞くのが怖かった。だけど聞かないままにするのは、苦しくて。


 それに調なら誤魔化したりせず、本当のことを教えてくれると思ったから。


「……桜は今日、ずっとお前の事を待ってたよ」

 調は普段と変わりない口調で、俺の質問に答えてくれた。

 そこに俺を責めたりするような色は、どこにもなかった。


 桜は俺のことを待ってくれていた――。


 その事実に、心の奥の方がぶわっと熱いものに包まれる。


 ――少しでもはやく、桜に会いに行かないと……。


 俺のためにお菓子を選んでくれた話。調のお手伝いをしてくれた話。

 桜がたくさん頑張った話を、調は教えてくれた。


 話をしている時の優しい表情は、出会った頃から変わることはない。


「……俺は、人付き合いはあまり得意じゃない」

 調はよくそう言うけれど、冷艶な彼が本当は凄く優しいことを俺は知っている。


 あの日、俺を冷たい世界から連れ出してくれた時、一緒に見た夜空。

 

 月がとても綺麗な夜で、星は殆ど見えなかったけれど、あの輝きを忘れることはないと思う。


 弥の事を見つけた時、手を差し伸べずにはいられなくて、俺が調にしてもらったように、冷たい世界から連れ出してあげたかった。


 夜空の星を見て泣いたあの子に、俺がもらったみたいな幸せを経験してほしくて……。

 生きていて良かったと、思ってほしくて。


 だけど考えていくうちに、それは俺のエゴなのではないか。

 何もしてあげられないのに、ここへと連れて帰ってきて、弥が幸せだと思えるのだろうか。


 気付けばそんな思考で頭の中は、埋め尽くされていた。


 桜のことも、弥のことも、どちらもうまくできない自分が情けなくて、どうしたらいいかわからなくなって。


 ――俺は守りたいだけなのに、どうしてこんなに不器用なんだろう。


 知らないうちに溢れてしまった弱音を、調は丁寧に拾い上げて俺に言葉をくれる。

 

「お前の優しいところをみんな知ってる」

 その一言が、俺の心にすっと落ちてきた。


 ――調がいてくれるから、俺は前に進める。


 スープの湯気で少し滲む視界の中、俺は小さく息を吐いた。

 

「俺も寂しいから、はやく桜に会いたいな……」

「……そうしてやれ。桜も喜ぶよ」

 調の声は、どうしてこんなにも安心するんだろう。空腹を刺激する美味しそうな匂いに、食事を摂ることすら忘れていたことに気付く。


 スープを飲み進めるあいだにも、体の芯がじんわりと温かくなっていくのがわかった。

 肩に入っていた力が抜けたせいか瞼が重くなって、心に安心が少しずつ染み込んでくるみたいな感覚。


 ――眠くなってきちゃった……。


 調の前だから、気が抜けちゃうのかな。俺がどれだけ弱音をこぼしても、調は引いたりしない。

 ただ静かにそばにいてくれて、俺が落ち着くまで待ってくれる。


「……もう戻るのか?」

 スープを飲み終えたところで、そう聞かれた。


「うん……弥が起きてそばに俺がいなかったら、不安にさせちゃうかもしれないから……」

 立ち上がると視界が一瞬、ぐらりと揺れて少しだけよろめいてしまった。


 足元がふらついたのは想定外で、情けなく小さく息をのむ。

 それを、調がさりげなく腕を支えてくれる。


「……っと、大丈夫か」

 強く引き寄せるわけでもなく、けれど離れる気もない、その絶妙な距離。


「……ごめ……ちょっと、くらっとしちゃった」

「……そうか」

 こんなときの調は、本当にずるい。

 

 だけど抱きとめてくれた事実が、たまらなく嬉しかった。


「……ありがと、しらべ」

 自分でも驚くほどに掠れた声。

 本当はもう少しだけ……そばにいたかった。調の手の温度に、甘えていたかった。


 ――まだ、離れたくない。だけど……。


 ふわりと調の匂いがして、俺はそのまま腕の中に仕舞われてしまう。


「……無理しすぎるな」

 耳元で、低く静かな声が落ちた。


 時間にすれば、たった数十秒にも満たなかったと思う。

 だけど、その腕の中は誰よりも安心をくれた。


 俺はやっぱり離れたくなくて、そっと体重を預けてしまう。


 調はほんの一瞬、俺の背中を支えるように手を添えてから、静かに腕を離した。


「……おやすみ、綴。ちゃんと休めよ」

 その声が、あまりにも優しくて。


 それに俺はうまく返事ができなくて、ただ小さく頷くしかできなかった――。

 



 

 弥の部屋へと戻ると、薄灯りの中で弥は自分のことを守るように丸くなって眠っていた。

 呼吸は規則的で、先程の怯えた表情はどこにもない。


 ――よかった……。


 胸がじんわりと温かくなって、不安から安心に変わったことによって、少し引っ込んでいた眠気が一気に押し寄せてくる。


 そっと弥の布団を直してから、ベットの横の椅子に腰掛ける。

 眠っているはずの小さな手が、俺の手を探すようにしてふれた。


 思わず息をのんだ俺は、そのままその手をゆっくりと包み込む。


 まるで、離さないでと言われているみたいで。弥が俺のことを必要だと、選んでくれたみたいで。


「……大丈夫だよ。俺がそばにいるからね」

 そんな微かな声が、自然にこぼれた。


 そのまま俺の意識は、弥の寝息に合わせるように静かに沈んでいった――。


 

 ◆

  


 ふと空気が動いたような感覚に、意識が浮上する。ゆっくりと目を開けると、弥は起きていた。


 さっき起きた時とは違い、落ち着いた様子の弥に安心する。


 それから少し二人でお話をして、そのまま一緒のベットで眠ったのだった。



 ◆

 


 朝の光が、優しく部屋に差し込み始めた頃――。


 小鳥の囀りが窓の外から聞こえてきて、温かい気配で俺はふと目を覚ます。


 部屋に付けられた、オレンジ色のカーテン越しの朝日が部屋をふんわりと照らしている。


 腕の中には弥がいて、その優しい体温が心地よい。


 睡眠時間としてはそこまで長くなかったと思うが、弥のおかげで少し眠れてすっきりした気がする。

 

 まるで俺の腕の中が、世界で一番安全なところなのだとでもいうように、眠っている姿が愛おしくて。


 だけどそれと同時に、いつも腕の中にいる桜のことを思い出し、重ねてしまう。


 ――かわいいんだけど、これじゃ動けないな……どうしよう。


 そんな時、静かに扉が開いて調が来てくれた。桜のことは、俺が何とかするから大丈夫だと。

 朝食は弥も食べれそうなものを用意するからと、そう言ってくれた調がたくさん考えてくれたのがわかって。


 いつもみたいに優しく微笑んでくれた調に、俺はひとりじゃなくて……頼ってもいいのだと思えた。

 

「あまね」

 調が部屋から出ていった後、俺は弥に声をかける。

 

「……ん……つづ、りさ……?」

 寝起きの、少し掠れた声。呼ばれた名前を確かめるように、俺の胸元へ額を押し付けてくる弥。

 

「あ、起きた。よく眠ってたね」 

 そろそろ起きれそう? なんて聞けば、少し目を閉じて考えるようにしてからこくりと頷く。


「……おきれ……る」

 髪を梳くようになでると猫みたいに気持ちよさそうにすり寄ってきて、だけど目を覚まそうと柔らかい毛布に顔をうめて小さく唸っている。

 

 そんな可愛らしい様子からしても、まだ眠気に引っ張られているのは明らかで。


 頑張って起きないといけないという意思だけが、健気に主張していた。


 ――桜は、ひとりで起きられるかな。


 ふと、そんなことが頭を過ぎる。

 

 桜も朝が苦手で、あまり寝起きは良くない。だけど起きたくなくて少しぐずる様子も可愛くて、起きるまで時間の許す限りゆっくりと待つのが、俺の朝の楽しみのひとつだったりする。


 その後、ゆっくりと起き上がった弥と一緒にリビングへと降りたが、そこに桜の姿はなくって。


 一瞬、弥のことを湊に任せて、収納棚へブランケットを取りに行った時、調が桜の様子を教えてくれた。


 ――はやく、桜のところにいかないと。


 弥の足元にブランケットを掛けながら考えていると、湊が運んできてくれたスープが弥の目の前にそっと置かれた。


「……これ……たべていいの?」

 そんな許可を求めるような言葉。俺も昔、同じように思ったことがあるのを思い出した。


 俺が初めてこのアジトに来た時――。


 縁が出してくれた、温かいスープ。コンソメで味付けられたシンプルなもの。

 ほわほわと湯気が上がっていて、凄く美味しそうな匂いがした。

 お腹が空いていた俺はスプーンを手にしたけど、直前で手が動かせなくなってしまった。

 

 自分なんかが、本当に食べてもいいのか……こんな温かいものを食べてしまって、その幸せを知ってしまったら。

 もし、また冷たい水の中に戻らないといけなくなったら?

 俺はもう二度と知らない頃には戻れないことが、怖くてたまらなくて。


 俺はぐるぐるとそんなことを考えてしまって、手を付けられないでいた時に、調が隣で何事もないように食べ始めたのだった。


「……綴。大丈夫だから、ひと口だけでも食べてみろ」

 調が言った大丈夫は何に対してのものだったのかは、わからない。

 だけど調が言うのなら、俺が不安に思ったことは本当に大丈夫な気がして。


 そして初めて食べた温かいスープに、俺は涙した。


 涙をうまく止められない俺の背中に、調は手を当ててくれて、泣き止むまでずっとそばにいてくれた。

 縁も向かいの席で優しい視線で見守ってくれていた。 

 あの時、俺は食事とはこんなにも心が温かくなって、幸せなものなのだと初めて知れた。

 

「……ぼく……こんなおいしくて、あたたかいごはん……はじめて……」

 だから、それを弥にも知ってほしかった。


 ゆっくりとスープを口に運ぶ弥の隣で、俺も調が作ってくれた朝食を食べる。

 小さめのおにぎりと、小鉢が数種類。調の優しさと配慮が感じられる幸せの味。


 弥はスープを完食はできなかったけれど、俺が思っていたよりは食べることが出来て、一安心。

 俺は食器を片付けてから、弥と一緒に部屋へと戻る。


 弥はお布団に入ってすぐに、眠ってしまった。


 ――これも調の、魔法のスープのおかげかな。

 

 穏やかな寝顔と寝息を確認してから、俺は静かに部屋を出る。

 

 俺が少し緊張しているからか廊下の空気は、胸に冷たく刺さるようだった。


 俺は少し迷ってから、リビングへと足を向ける。音を立てないように開けた扉の先には、テレビを見ている調の後ろ姿。


「……調」

 一度小さく息を吸ってから、その名前を呼んだ。 


「綴? 弥はどうした?」

 調が静かにこちらを振り返り、優しい眼差しが向けられる。

 

 俺は返事をしながらそっと調のそばまで歩み寄って、隣に座った。


 弥が無事眠れたことを伝えた時の、調の反応は短いものだったけれど、嬉しさが滲んでいるのがわかる。


「……どうした?」

 隣に座ったのに何も話さない俺に呆れるわけでもなく、柔らかく心の奥にそっとふれるように聞いてくれる調。


 ――桜の部屋へ、一緒についてきてほしい。


 なのにそれを言葉にしてもいいのか、ここまできて臆病な俺は躊躇ってしまう。

 だけど昨日から調にたくさん甘やかしてもらっている俺は、優しい視線を向けられるともう……だめだった。


「……わかった……だけど、俺は部屋の前で待ってるから、お前は桜とゆっくり話せよ」

 俺の弱さを調は認めてくれて、静かに寄り添ってくれる。二人で立ち上がり、桜の部屋へと向かう。


「……緊張してるのか?」

 調の隣を歩いていると、ふいに声をかけられた。一瞬、言われている意味が理解できなくて調の方を見ると視線は腕の方に注がれていて……。


 俺は無意識のうちに、調の袖を掴んでいた。


 ――あ……俺……。


 離さないと。そう思うのに、それがどうしても出来なくて。

 調は嫌がるような素振りなんて一切見せずに、そのまま進む。


 正体のわからない焦燥感と桜を泣かせてしまった罪悪感が入り混じり、俺の心臓を覆い尽くす。

 なんて声をかけるべきなのか、桜は俺のことを許してくれるのだろうか。


 ――泣かせた後で、どんな顔をすればいいのか。


 そんな迷いを抱えたまま、俺は廊下を進む。

 

 桜の部屋の扉の前について、体の中の不安を外に全て出してしまうようにして、俺は深く呼吸する。

 くいっと小さく袖を引かれて、そちらをみると優しい表情の調。


「綴と桜なら、大丈夫だ」


 ――そうだ。桜に合う前にひとりでいくら悩んだって、仕方がない。

 

 俺も桜のことを信じている。だけどちょっとだけ不安はあって……けれど調が言うなら絶対に大丈夫だと確信が持てた。


 俺は意を決して、扉を開けた――。


「……桜?」

 その名前を呼んだ瞬間、ベットの上の小さな膨らみが少し動く。


「……つ、づり」

 聞こえるか、聞こえないかくらいの本当に小さな声。

 だけど顔は見せてはくれなくて、俺は桜の意志で布団から出てきてくれるまで待とうと、そばにしゃがみ込む。


 自分の言葉で伝えたくて、少しずつ言葉を紡いでいたが、それは桜にとっては言い訳にしかならないことに気付く。


 ――俺は、桜に何を伝えたかったんだろう……。


 自分の言いたいことが、段々わからなくなってしまって。

 そんな時、目の前の膨らみが動いて桜がそっと目元だけを出してこちらを覗く。

 その大きな瞳には涙の膜が張っていて、目の縁は赤くなってしまっている。


 ――きっと、俺がたくさん泣かせてしまったんだな……。


「……つづり、だっこして」

 小さな両手を目一杯のばして、俺のことを必要としてくれる。

 俺は迷わずその手を取って、どんな宝物よりも大切に抱きしめた。


 それから暫くは、俺と桜の間に言葉はなかったけれど一緒にいるだけで、すれ違ってしまった時間を取り戻すようだった。

 


 ◆


 桜の呼吸が、落ち着いた頃――。突然、俺の膝の上に乗ったままで体を捻って、一生懸命に手をのばす。


「……あの、これ、ね……つづりに、あげたくて……」

 そう言って、お菓子を差し出してきた。小さな手には、俺がよく食べてるチョコレート。


 ――本当は桜をだっこしている時に、見えちゃった。それに調から、先に聞いてしまっていた。


 だけど俺のためにと選んでくれたお菓子は、どんなものよりも価値があって、このまま一生宝物にしたい。


 懸命に抱きついてくる少し高い体温が心地よくて、愛おしくて。

 桜のことを大事に抱えたまま、ゆらゆらと体を左右に揺らす。


 少しずつ瞼が重くなってきた様子の桜。眠気に抗うように、少しぐずる姿ですら可愛くてたまらない。なんて思う俺は、いつかくるこの子の親離れに耐えられるのだろうか。


 そんなまだ見ぬ、未来の心配すら浮かんでくる。


 ずっと俺の腕の中にいてほしい。けど、大きく成長していく桜を見ているのも幸せ。

 そんな相反する感情。


「もう、どっかいっちゃやだ……」

 その切実な声音に、胸が締め付けられた。俺は桜に、どれだけの寂しい思いをさせてしまったのか。


「行かないよぉ……俺は、ちゃんとここにいるからね」

 初めて桜が俺の名前を呼んでくれた時、この子のためならどんな辛いことも乗り越えられると思った。

 どんなことからも守れる盾になってみせる。


「……つづり、すき……」

「俺も大好きだよ、桜」

 俺は大切でたまらない宝物を大事に抱えたまま、改めて、そう誓ったのだった――。



 ◆


 桜は幼いなりにも、当時は必死に弥に起きてる現状を理解をしようとしてくれていたんだと思う。

 それでも桜は怖くて、たまらなかったはずだ。そんなあの子を俺が、たくさん不安にさせてしまった。


「僕が子供だっただけだよ」

 桜はそう言うが、俺のせいでさみしい思いをさせた事実が変わることはない。


「それに綴はちゃんと、僕のところにきてくれたからね。おかげで、弥とも出会えたし!」

 そんなふうに笑う桜に、彼が大人になった感慨深さと、少しの寂しさを感じたのだった――。

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