花束と一枚の絵 和side
かたん――。
そんな、本当に小さな音。だけど予期せぬそんな事態にも、普段から戦闘に赴くメンバーはすぐに気が付いた。
一瞬、空気が張り詰める――。
「……あ……ごめん」
その後に聞こえた声が誰のものかを認識した瞬間、背筋を冷たいものが流れていく。
「……弥」
唖然とするしかない状況で、言葉なんて何ひとつ浮かばなくて、綴が彼を呼ぶ声で僕は我に返った。
「……人を溶かす能力のこと、僕……知ってるよ」
予想すらしていなかった言葉に数秒、思考が止まってしまう。
――弥が知っているということは……やはり……。
今回の事件には間違いなく、オメガの被験体が何らかの形で関わっている。
「昔……実験室の奥で研究員が話してた……完成するかもしれないって」
研究員が話していた。ということは……弥がいたあの施設は、限りなくオメガの中枢に近かった可能性がある。
当時、任務の際に実験に関する全て焼却しろという指示が出ていた。
弥と同じタイミングで湊が保護してきたという砂化のギフトであった、叶。
彼の能力はこの世にある全ての物を砂化出来るため万象砂解と言う名前で認定され、白夜棟と呼ばれるリヒト直轄の医療施設で数年ほど療養していた。
僕は当時、一度だけ心神喪失状態の彼に会いに行ったことがある。
今後の治療方針共有のため、医療班として同行したもので、面会と言うよりは経過確認といった感じだった。
消毒液の匂いと静かすぎる部屋の中で、彼の腕には能力を強制的に無効化できる「能力抑制リング」が嵌められている。
安全確保のための、一時的な処置。
「……こわさないと……こわさないと」
叶はまるで誰かに命じられているかのように、窓の外を見ながら、ただその言葉をひたすら繰り返していた。
呼びかけには反応せず、彼の呟きだけが静寂を緩やかに壊す。
あのとき僕は、初めて理解したんだ。能力が危険なんじゃなくて、使わされ続けた時間が人を壊すのだと。
「……彼はまだ、洗脳が深いようで」
僕の隣りにいた医師は、そう言った。
彼の目には何も映っておらず、喜びや悲しみ、恐怖……何の色も見えない。
だから僕は、彼の病室に花束と一枚の絵を飾ることにした。真っ白な部屋では、味気ないと思ったから。
花は、淡い色合いのものを選んだ。鮮やかすぎる色は疲れてしまうかな……って。
薄い額縁に入った絵は、木々が多い茂る外国の家と青い空を描いているものを選んだ。
見なくてもいいし、覚えなくてもいい。
目を開けた時に、少しでもこの子にとっての世界が、優しく見えるように。ただ、それだけ。
願わくば……世界が本当は美しいものなのだと、いつかは知ってもらえるように。
あの時、叶が回復する保証はなかった。医師でさえ「長い時間が必要かと……」としか言えなかったくらいだ。
能力による精神侵食――。
長期間の洗脳――。
触れれば崩れる力と、壊れかけた心――。
例え僕の力が怪我を治せるとしても、心の傷までは治せない。それを治すには膨大な時間と、本人の意思が必要になると分かっていたから。
それから僕は、定期的に叶宛に花を贈った。
直接会いに行かなかったのは、彼の硝子のような瞳をもう一度見るのが少し……怖かったから。
面会をしてから数ヶ月後に届いた報告書を、僕は今でも覚えている。
意識反応、回復傾向――。
暴走反応、著しく減少――。
自発的会話、確認――。
思わず、何度も読み返した。それからさらに年月は経ち、彼は現在別のアジトに身を置き「蒼」の等級として、任務を受けている。
強い能力を持つ彼が「蒼」の理由はサクリファイスが、「記憶の風化」だと確認されたから。
当初、実験の後遺症と考えられていた記憶の抜け落ちが、回復した後も減らず……決まって能力使用後に起こることからそう判定された。
それでも彼は、自らの能力を今は守るために使っていて、無理のない範囲で頑張っている。彼の能力のおかげで、実験の痕跡を完全に消滅させるための破壊がとても容易になったという。
少し前に彼に会ったとき、温厚篤実な人物へと叶は成長していた。
今も念のためのお守りとして、手袋は必要だと本人は言うが、素手でも完全に能力を制御できるまでになっている。
定期的に医療班所属ギフトへと届く報告の中に、叶の名前を見ることは殆どなくなった。
任務成功率、安定した精神状態、制御精度の向上。文字として見れば淡々としているはずなのに、不思議と温度を感じる。
あの病室で何も映していなかった瞳を思い出すたび、これは奇跡に近いことなのだと思う。
だけど弥の場合は少し違っていて、綴が保護をした時点では叶よりも衰弱こそしていたが、精神侵食も暴走の危険も弥にはなかった。
保護からは、もう十年近くの月日が経つ。身体の損傷はとうに回復しているし、能力制御も問題ない。
日常生活に支障をきたすことは殆どないし、本人の意思で車の免許を取得し、悠や桜が高校生の頃には学校まで送り届けてあげたりと、色々なことができるようになった。
だがそれでも繊細で感受性が強い弥は、今でも過去に引き戻されることがある。
昔に比べるとその頻度はもちろん減ったが、生まれつきの気質も影響しているのか、いまだに彼の中には実験の記憶が深く根を張ったまま残っているようだった。
もちろん回復の速度は、人それぞれ違う。頭では分かっているのに。それが少しだけ、もどかしい。
今も過去の記憶に苛まれて、発作を起こし眠ってしまった弥を見ると、胸が苦しくなる。
「だいじょうぶだよ、怖くないからね」
――綴の声は、魔法みたい。
安心させるような綴の声が鼓膜に届くと、自然と力が抜けていく。
弥が発作を起こすたびに、あの時の記憶がよみがえる。
◆
星が綺麗な夜――。いつもより調子が良くて、そろそろ寝ないとなんて思いながらも、ノートを走るペンは止まらなかった。
すらすらと白い紙が、文字で埋まっていくのが楽しくて。
気付けば時計の針は、十二時から二周ほどしていた。
――うわぁ、流石にやり過ぎた……。そろそろ本当に寝ないと、まずい。
部屋の照明を消して、ふかふかの布団へと潜り込む。
目を閉じればわりとすぐに、眠りの世界へと繋がる扉が見えた。微睡みながら、その扉に手を掛けようとしたその時――。
ピコン――。
スマホが、通知を知らせる。
「……こんな時間に……だれ?」
手探りで起動したディスプレイの眩しさに顔を顰めながら、確認すると綴からのメッセージが二件。
被験体だった男の子をひとり連れて帰るから、容態を見てほしい――。
遅い時間にごめんね……もうすぐお家につきます――。
というメッセージ。文章が綴らしくて、つい笑みがこぼれてしまう。
「もぉ……綴からじゃなかったら、無視してるくらいの時間だよ……ほんと」
僕は身体を起こしお気に入りのカーディガンを羽織ってから、静かに部屋を出る。
出会った頃から憧れで、いつも優しい綴が僕のことを頼ってくれるのは純粋に嬉しくて。
甘やかすのが上手で天然人たらしの彼が、弱音をはいているところを僕は見たことがない。
だから綴のお願いなら、僕は何でも聞くと決めている。
一度、リビングへと降りて眠気覚ましの珈琲を淹れるために、食器棚からマグカップを取り出す。
――今回は時間の余裕もないから、インスタントの珈琲にしよう。
お湯を沸かしている間に綴へと返信をして、マグカップと糖分補給用のお菓子をいくつか手にして空き部屋へと向かい、綴が連れてくる子を迎え入れる準備を始める。
僕が準備を終えてから五分ほどで、綴は湊と揃って帰ってきた。
綴の腕の中には、痩せ細った小さな男の子。体中には、夥しい実験の痕跡。
とりあえずベットへと寝かせてもらって、軽く傷の程度を見させてもらう。
実験の為に着せられていたであろう、簡易的な服からのぞく細い腕には、数年前につけられたであろうものから、ここ数日間の間につけられたであろうものと様々で……。
悠や湊のときも、傷はたくさんあった。だけど目の前のこの子には、その比にならないくらいの傷が見て取れて、ぱっと見ただけでも重症だということが容易に分かってしまう。
「ここはとりあえず僕だけでも大丈夫だから、二人はその間にお風呂へ入ってきたら?」
「……え、でも……」
「……わかった。そうさせてもらうね」
少し戸惑う様子の湊と、渋々と言った感じで頷く綴。
「……湊。今、俺たちにできることはないから、ここは和に任せよう」
「二人とも、心配しなくても大丈夫だよ。一回さっぱりしてから、詳しい話を聞かせてほしい」
「わかった……ありがとう、和」
綴の言葉の後、湊もぺこりと頭を下げてから二人は部屋を出ていった。
湊はせっかくのイケメンが台無しなくらい汚れているし、綴も顔に煤がついていた。
それにこの子のことを心配して、強張ってしまっている二人の顔をこれ以上見ているのが、僕には辛くて。
お風呂に入って体を温めれば、その強張りも少し解けるのではないかと考えた。
この子の様子から見ても、きっと大変な任務だったのだろう。
僕は任務に出ることができないから、その大変さを本当の意味で理解できるわけではなく、想像することしかできない。
それを歯痒く思うこともあるけれど、無理なことを悩んでも仕方がないからと、最近は前向きに考えてその気持ちとうまく付き合えるようになった。
――そういえば、僕がそう考えられるようになったきっかけも、綴だったな。
◆
昔、任務で大怪我をした綴は、血だらけで帰ってきて玄関へと倒れ込んだ。
その日僕は偶々起きていて、物音が聞こえて向かった玄関で見た、照明に照らされたその姿に……世界が止まってしまったような錯覚を起こした。
「……あ、れ……なご……み?」
また心配かけちゃうね……なんて口では明るく言いながらも、苦しげに眉を寄せて静かに目を閉じている。
着ていたトレーナーの袖は破け、そこから見えている腕には赤い線。
脇腹の辺りには、深い切り傷。顔にも一筋、赤が滲んでいる。
――止血も、できてない。
頭がパニックを起こしかけて段々と白んでいくが、なんとか必死に意識を繋ぎとめる。
止まらない血とそれによって広がる赤い染みに、僕は泣きながら能力を使った。
自分のことなんて頭になくて、必死に裂けてしまった皮膚を繋ぎ合わせていく。
それでも傷の程度が酷くて、一瞬でも力を緩めれば傷口からはすぐに血が滲んできてしまう。
「なんで……なんで、お願い……塞がってよ」
声が震えて、涙がぼろぼろと頬を伝っていく。段々と、ぼやけてしまう視界で僕は無我夢中で治癒を発動させた。
――綴に傷が残らないように……痛くないように。
力になれない自分が情けなくて、もし綴がいなくなってしまったら……そんな不安に飲み込まれたあの時の僕の心は、キャパシティを超えてしまったのだと思う。
何とか全ての傷を治し終えた後――。綴が僕の方へそっと、手をのばしてくる。
「……ありがと……心配かけてごめんね、和」
横たわったまま、少し困ったように目元を下げる綴に、僕はぶんぶんと音がしそうなほど大きく頭を振ることしかできない。
「和のおかげで、もう痛くないよ」
いつもみたいに、にこりと笑ってくれた綴の様子に少し安心して、立ち上がろうとした瞬間。
ぐらり――。
知らず知らずのうちに体のほうに限界が訪れていたのか、世界がぐにゃりと歪んだ。
――まずい。やりすぎた……低血糖だ……。
体が前に傾いて倒れそうな時、ぐっと引き寄せられて温かいものに包まれる感覚。
至近距離まで近付かなければわからないほど微かに香る、綴の香水の匂いがふわりと鼻に届いて、その体温だけがやけに、鮮明に感じられた。
「……なごみ?! し……か、りし……」
綴の声が段々と遠くなって、見ている景色が暗くなってくる。
「……つ、づり……だ、め……ま、だ……うごいちゃ……」
体に力が入らなくて、呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかった。
治癒を終えられた安堵と、能力の代償である低血糖が引き起こす倦怠感が、一気に押し寄せてくる。
――なんで僕のほうが、綴に心配かけちゃうんだよ……。
大丈夫だよ、心配しないで。なんていう言葉は、喉に張り付いてしまったようで、掠れてうまく音にならない。
熱が引いて世界の色が遠ざかり、体は震えてしまう。こういう大切な時に、ちゃんとできない自分がむかつく。
唇に何かがふれた感覚がして、次の瞬間には甘いものが喉をゆっくりと流れていった。
――ガムシロップ……?
その甘さは凍りついてしまっていた体の熱を、僅かに取り戻してくれる。
前に緊急時に使おうって言って、綴や調と少し練習をしていた応急処置方法のうちのひとつ。
そしてその後、実際に僕はこれで何度か助けてもらっている。
――ここまで重度なのは、流石に初めてだけど……。
「……つづり、ちゃんと……もってて……くれたの?」
「和に何かあった時、絶対に必要だからね」
大好きな綴の、優しい声。
僕がいるわけじゃない任務のときにすら持っているということは、本当にずっと常備してくれているのだろう。
優しく頭を撫でてくれる感覚の後、温かい体温に包まれる。
「……ありがとう、綴」
僕は最後にもう一度、綴の香りを確かめるように息を吸って、その温もりに包まれたまま意識を失った――。
ふとまぶたの裏にうっすらと光が滲んで見えて、目を開けると夜の名残を溶かすような朝の光。
見慣れた天井をどこかぼんやりとした意識の中で見つめながら、ざっと記憶を整理しようと思考を巡らせる。
――僕の部屋……?
――そうだ、僕……能力を使いすぎて、低血糖を起こしたんだ……。
毛布の端に触れる指先は、自分のものじゃないみたいに重い。
――っ……綴。
ぼやっとしていた意識が一気に覚醒して、気怠い頭を動かして周囲を見回すと、ベッドのすぐそばでうたた寝をしている綴の姿を見つけた。
椅子に座ったまま腕を組んで上体を前に傾けている綴の胸の辺りは、ゆっくりと規則的に上下している。
それに僕は、泣きたくなるほど安心した。
「……ねぇ……綴、起きて……」
声は掠れてしまったし、自分でも驚くほど小さくて。
「んぅ……?」
なのに綴はすぐに反応してくれて、美しく生え揃った長い睫毛を震わせる。
「……なごみ、おきたんだね……よかった」
眠たげな雌雄眼は一瞬で焦点を取り戻して、すぐにふにゃりと音のしそうな安堵の笑みを浮かべた。
「体はだいじょうぶ? つらくない?」
そう言いながら、僕の額に手を伸ばしてくる綴。温度を確かめるような仕草からは、優しさが伝わってくるようで。
数時間前までの面影なんて、どこにも残っていなかった。
「ごめん……綴」
僕がそう……小さく呟くと、綴は苦笑する。
「ううん。俺も心配かけてごめんね……ありがとぉ」
ふわふわといつもみたいに優しく笑ってくれる綴の姿を見たら、胸の奥がきゅっと締めつけられて涙腺が勝手に熱を帯びてくる。
綴があんなに血を流して帰ってきて、治せたのはよかったけど、今度は自分が倒れて。
なのに綴は自分のことなんて気にもせず、何よりも先に僕のことを心配してくれる。
そしてこうして目が覚めるまで、そばにいてくれた。
「……綴……よかった」
そんな僕の言葉に、綴は少し困ったように笑う。
「和のおかげで、もう痛くないよ。だけどね、無理はしちゃだめ」
静かな朝の空気が僕たちを包んでいて、昨日の傷も、夜の出来事もまるで全部が夢だったみたい。
「……ごめんなさい。だけど……それを言うなら綴もだよ……どれだけ怖かったか……」
――本当に、すごく怖かった。
みんな僕の体を心配して、あまり治癒の能力を使わせようとはしない。
僕の能力はあくまでも「治癒」だ。無くなった部分を再生したり、血液を簡単に増やせるわけではない。
だから誰かが大きな怪我をして、もし僕がそこに間に合わなかったら?
――考えるだけで、怖くてたまらない。
「うっ……そうだね……」
反論できないようで、綴は眉を下げる。
「でもね……和がいるから無茶できる、とかじゃなくて……和がいるから安心して、辛い目にあっている子たちを俺は助けられるんだよ」
そんな風に真剣な表情で、綴は言った。
その言葉は僕の心の奥にあって、ずっと名前をつけられなかった雁字搦めになってしまった何かを、ほどいていく。
体が弱い僕はずっと「守られる側」だった。だからといって腫れ物扱いをされるわけでは決してなかったけど、いつだって綴や調は僕の体を優先した。
任務で怪我をして帰ってきても、大きなものでなければ、二人が僕に報告してくることはない。
十五歳になって「蒼」の等級を付与されても、僕は前線で戦うことができないから、大規模な任務の救護班や作戦立案など、裏方のサポートを主にしてきた。
分析や研究も得意な方ではあったし、それが任務を遂行する上で必要なものだと僕自身も理解している。
今では、医療班の中枢として仕事を任せてもらえるようにもなった。
だけどそれでも多くの任務をこなし、最前線で戦う調や綴を見ていると、僕だけがその場に取り残されるような焦燥感のようなものが降り積もっていく。
和がいるから、助けに行ける――。
だけど全然、そうじゃなかった。綴の一言はまるで、僕の形容できない気持ちをすべて包み込んでくれるようだった。
――僕は、綴やみんなの背中をちゃんと支えられてるんだ。
そう思った瞬間、少しだけ息がしやすくなったような気がして。
任務に行けない歯痒さが、なくなるわけじゃない。だけど、それを違うところに昇華させられるような気がした。
だから僕は、僕に与えられた役割を全うする。それが、大好きな綴のためになるのだと信じて――。
◆
「そんなことも、あったなぁ……」
ひとりごとをこぼしつつも、僕は深く息を吸ってから、目の前の男の子の治癒を始める。
「すぐ痛くなくなるからね……大丈夫だよ」
小さく囁きながらふれた彼の肌は、冷たくて。僕の能力は、使用時にじんわりと熱を発する。
その熱が傷に染み込んでいくように広がっていくと、傷は塞がる。
「こんな、小さいのに……」
見ているこちらが、苦しくなるほどの傷の数々。拘束されていたような痕に、打撲痕や注射痕。
目の前の小さな体にはあまりにも多くの痛みと、怯えの痕跡が多く残されていた。
ひとつ、またひとつと治すたびに、彼の呼吸は落ち着き表情も穏やかに変わっていく。
そんな様子に安心するが、どうしても肌に深く刻まれた火傷や切り傷といった、いくつかの古い傷は痕として残ってしまう。
「……やっぱり……もう、時間が経ちすぎてる」
あの頃よりも多少出来ることが増えても、何年も前から蓄積した傷は今の僕の力では、綺麗に治すことができない。
「……痛くなくても、消してあげられないんだね」
呟いた声に、悔しさが滲む。それはギフトとしての未熟さで……自分の限界を、痛感させられた痛みでもあった。
それでも、綴が救ってきた命を繋ぐことはできた。それが今の僕の戦い方。
「ここではもう痛い思いも、怖い思いもしなくていい……」
そんな約束のような言葉を、僕は呟いた――。
それからしばらくして小さなノックの音が聞こえ、静かに扉が開く。
「……和、様子はどう?」
綴がそっと部屋を覗き込んできて、湊と一緒に入ってくる。
綴の表情には任務明けの疲れが色濃く残っているのに、目だけは真っ直ぐに彼のことを見つめていた。
「……最近の傷は全部治せたよ。だけど……古い傷は完全には消えてくれなかった」
自分の声が情けなく、掠れてしまう。
「……ごめん、綴。僕の力じゃだめだった」
視線を下げて見えた小さな体には、綺麗に消してあげることができなかった古い傷。
「和」
綴に名前を呼ばれて僕は、ぱっと視線を上げる。
「ありがとう。和がいたから、この子はもう痛くないよ。それだけで十分に救われる」
その優しい声に、言葉に……心が熱くなる。
「すごいね、和くん」
湊も小さく頷きながら、そう言ってくれた。
二人の言葉に僕は何も言えなくなってしまって、唇を噛む。
悔しさも、安堵も入り混じったまま。
今はただ、この小さな子が安らかであるようにと祈るしかなかった――。
その後、僕は用意していた透明な袋に満たされた点滴液を持って、慎重に器具の接続を確認する。
――針、チューブ……それから、液体は気泡を残さずに流れてるから大丈夫……。
何度もしてきた動きなのに、心の中ではいつも少しだけ緊張してしまう。
「ごめんね、ちょっとだけ……ちくっとするからね……」
声をかけながら、細い腕に針を刺す。まるで壊れ物のような薄い皮膚に、この子の体は生きるために限界まで削られてきたことを改めて痛感させられる。
点滴が静かに滴り始め、落ちていく一滴、一滴がこの子の命に繋がっているような気がして、僕はしばらくそれを見つめていた。
「ねぇ、綴。聞きそびれちゃってたけど、この子の名前は何ていうの?」
針をしっかり固定しながら、静かに聞く。
「弥って言うんだって」
綴の声は、ただひたすらに優しかった。
「そっか、君は弥っていうんだね……綺麗な名前だ」
――よくがんばったね、もう大丈夫だよ。
そんな気持ちを込めて、そっと髪をよけてあげたときにふれた指先から伝わる体温は平均よりもかなり低いが、それでもこの子は生きている。
「僕が様子を見ておくから、綴と湊は休んで。二人とも限界でしょ?」
振り返ってふわりと笑うと、綴は一瞬、何かを言いかけたが、弥の様子を見て短く息を吐いた。
「……わかった、何かあったらすぐに呼んでね」
「うん、わかった。僕がちゃんと起きてるから、安心して休んで」
湊も小さく頷いて、綴と一緒に部屋を出ていく。扉が静かに閉まると、辺りを静寂が包みこんだ。
僕は弥の状態を簡単にまとめようと、タブレットを取り出し、体温や脈拍、呼吸などを記録するために指を動かす。
この子がここまで傷つくのに、どれほどの時間があったのだろうか。
考えるほどに、胸が痛んだ。
備考欄に「今は落ち着いて眠れてる。どうか、怖くない夢を見ていますように」
そんな一文を書いてみる。
――これじゃあ、日記みたいだな……。
昔、僕がみんなの健康管理を任せてもらえるようになった時に似たような文章を書き添えていたのを、偶々綴に見られてしまったことがある。
「きっとこれがいつかこの子たちの、ここまで頑張ってきた証になるね」
綴は、屈託のない笑顔を浮かべて、そう言ってくれた。それから僕は時折、こうした言葉を添えるようにしている。
守るための記録――。成長して大人になったとき、外の世界で自分の人生を選んでいけるようにというお守りのようなもの。
「……大丈夫、君はもうひとりじゃないよ」
寝息を立てている弥に小さく呟く僕の声は、静かな夜の時間に溶けていった。
タブレットを閉じて、少し明かりを落とす。座っていた椅子を壁側に寄せて、弥の様子が見える距離に腰を下ろすと、自然と体の力は抜けていく。
――どうか、弥の眠りが穏やかでありますように。
◆
窓の外が白んできて、夜が明ける頃――。うとうとと微睡んでいた意識が、ふと覚醒した。
――ん……あれ、僕……知らない間に眠っちゃってたのか……。
気付けば、一度淹れなおした眠気覚ましのための珈琲もぬるくなってしまっていて、差し込む淡い光が部屋の中を優しく照らしていた。
弥の様子を見るとよく眠れているようで、そっと毛布をかけ直してから、僕は部屋を出る。
いくつか必要なことを済ませてから部屋へと戻った僕は椅子に座り、葵が薦めてくれた小説を片手に弥の様子を静かに見守っていた。
ふと視界の端で弥が動いたのが見えて、それからすぐに布の擦れる音が耳へと届く。
「……っ」
何かあったのかとそっと覗き込むと、大きな瞳は開かれていて、深く考えず軽率に僕は声をかけてしまった。
「あ、起きたの?」
その瞳がこちらを向いて、僕を認識した瞬間――。怯えの色が浮かんだのがわかる。
――しまった。
「やだ……たすけて、……!」
「いやっ、やめてっ……こないで!!!」
鋭い声が聞こえて、弥が暴れて引っ張られた点滴の管が、かたんと揺れて勢いよく針が抜けてしまう。
――まずい……はやく止血しないと……。
「大丈夫だよ、弥。僕は何もしないから、落ち着いて……」
とにかく落ち着かせようと両手を上げて距離を取り話しかけるが、弥には全く聞こえていない。
「……弥?!」
その時――。泣き声が聞こえたのか、部屋の扉が開き、綴が入ってくる。
「……つづりさ……?」
綴の声に弥の動きが一瞬、止まった。
「……っ、たす、けて……!」
「おねがい……もう、……あそこ、には戻りたくないの……」
弥はふらふらとベットから降りて、綴へと縋り付くように助けを求める。
綴はそっと、その小さな体を抱き上げた。弥はしばらく涙を流したあと、泣きつかれてしまった小さな子のようにゆっくりと瞼を閉じた。
「ごめん、綴……僕が驚かせちゃった……」
「和のせいじゃないよ」
綴はそう言って、首を振った。弥は涙の跡を頬に残したまま、綴の服をぎゅっと掴んでいる。
点滴の針が抜けてしまったところには、血が滲んでしまっていて、僕はそこにそっと手を当てた。
皮膚がゆっくりと再生して、傷は綺麗に塞がる。古い傷を綺麗に治すことができなかったように、物理的に見ることのできない心の傷の治癒はもっと難しい。
「弥の体はもう何年も、限界の上で耐えてきたんだ……」
そんな誰に言うでもない僕の言葉は、虚しく響いた。綴はそっと弥をベッドへ寝かせて、髪を優しく撫でる。
「……大丈夫だよ、もう怖くないからね」
綴が囁くと、弥の眉が少しだけ緩んだように見えた。
「……和」
「どうしたの?」
振り向いて僕の名前を呼んだ綴の表情には、どこか影が差していて、何かを口にする事を迷っているような沈黙が流れる。
「……ごめんね……いつも、辛いことを任せてしまって」
ぽつり――。そんな音が聞こえてきそうなくらい静かに、綴は呟く。
僕の頭がその言葉を認識した瞬間、心がぎゅっと締め付けられた。
――その言葉だけは……聞きたくなかった。
なぜ綴がその言葉を口にしたのか、理由もわかっている。
それでも、僕は嫌だった。
「……やめてよ」
自分でも驚くくらいに掠れた、情けない声が響く。
「僕は……綴に謝られないといけないようなことを、しているわけじゃない。それに、嫌々やってるわけでもない」
綴が、目を見開く。その瞳の奥には優しさも、迷いも感じられて、揺れていた。
「僕は綴がいてくれるから、ここにいられる。任務に行けない僕の居場所を作ってくれたのは綴なんだよ」
――お願いだから、それを綴が否定しないでよ……。
「……そう、だね……俺、和の気持ちを考えてなかった」
一瞬……僅かに息を詰めた綴は、静かに目を伏せてから言った。
「ごめんね……ありがとう。和がいてくれて、よかった」
そう言ってふわりと笑った綴に、僕は目の奥が熱くなってしまう。僕はそれを誤魔化すために、唇を噛んだ。
そして気付けば僕の右手は綴の袖を掴んでいて、ほんの少しだけ離れたくない……なんて思ってしまう。
綴が柔らかく笑った気配がした、次の瞬間――。そのまま手を引かれて、綴にそっと抱きしめられる。成長して僕のほうが少しだけ背が高くなったけど、包まれる感覚は昔とは変わらなくて。
ゆっくりと息をすると、安心できる優しくて甘い匂いがした。
懐かしくて、落ち着く匂い。
「……もう少し、このままでもいい?」
小さくなってしまった声を、綴はしっかり拾ってくれる。
「いいよぉ」
穏やかな声が心に優しく染み込んでくるようで、抱き寄せられた温もりの中で目を閉じれば、綴に救われた日の気持ちがよみがえる。
初めて出会った日のこと――。
僕が大切にしている言葉をくれた日のこと――。
――やっぱり、綴がいるから僕は頑張れる。
そう思いながら、綴の首元に小さく顔を埋めた。綴の体温はこの世のどんなものよりも優しくて、ようやく心の奥にあった痛みが引いていくのを感じる。
「和。ここは俺が変わるから、ゆっくり休んでおいで」
そう言って優しく微笑む綴はいつもと変わらないはずなのに、僕にはどこか無理をしているようにも見えた。
「……うん」
本当はもう少しそばにいたかったけど、綴の気持ちを思えば、頷くしかなくて。
弥の寝息が微かに聞こえる中、部屋を後にした僕は静かに扉を閉める。
廊下へ出ると冷たい空気が頬を撫でていって、緊張が解けたせいか足元は少しふらついてしまった。
一度、深呼吸をしてから、前を向こうとしたその時――。
「……もっと早く見つけてあげられなくて、ごめんね……弥、軽すぎて不安になっちゃうよ」
聞こえてしまった綴の声は、怒りとも悲しみともつかないものだった。
僕はその声を、目を閉じたまま聞いていた……綴の優しさはいつも、痛いほど真っ直ぐなものだ。
誰かを守ろうとして、自分のことを後回しにしてしまう。
僕はその優しさが時折、怖くなることがある。いつかその優しさによって、綴がふわっといなくなってしまうのではないかと。
誰かがそばにいないと、きっと綴は無理をする。そして、本人にその自覚はない。
「……もう、大丈夫だからね」
その言葉が聞こえた後、僕はそっと扉から離れて、自分の部屋へと静かに歩き出す。
眠気よりも心の奥のざらざらとした感情の方が、強くて。
――僕も綴を守れるように、強くならなければ。
静寂に包まれる廊下で、そんな小さな決意を胸に抱いた。
◆
弥は壊れていたんじゃなくて……傷ついたまま、生き続けている子だった。
だから今でも揺れてしまうこともあるが、でもそれは決して弱さではなくて、弥が生きている証拠だ。
僕は叶の病室には花を置いたのに、弥にはそうしなかった。
代わりにしたのは、弥にとって安全な世界をつくること。
しばらくして、僕は小さく息を吐いた。
花や絵は、叶が外へ戻るための目印のようなもの。
弥にとって一番必要だったのは、人の体温。そしてそれは、綴がいたから必要なくて。
だから、弥に対して僕は世界を差し出さなかったんだ――。




