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未完成なイデア  作者: 綴 朔哉


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26/33

美しい瞳の中に映る星 弥side




 目が覚めた時、僕は自分の部屋にいた。ゆっくりと瞼を上げた先の視界は、ぼやけてしまう。


 妙に体が重くて、鈍い疲労感のようなものに包まれているみたいで、頭がうまく回らない。浅く息を吸えば、喉はがさがさと乾燥していた。


 体を起こそうとした時、綴さんがそばにいてくれたことに気付く。

 いつも見えてる優しい瞳は瞼で隠されていて、縁取られた睫毛が影を落としている。


「……つ、づりさん」

 

 ――なんで、僕の部屋に……?


 掠れた思考と、曖昧な記憶。


 ――そうだ……僕はまた、発作を起こしたんだ。


 思い出した瞬間。濁流のように、昨夜の出来事が流れ込んでくる。抑えきれなかった震えと苦しかった呼吸。滲んでいた視界の中で、包み込んで優しく撫でてくれる手と温かい声。


「ん……おきたの?」

 柔らかくて変わらない安心する響きが聞こえて、左右非対称な彼の瞳が、こちらに向けられる。


「……うん、おはよう」

「おはよう、体はどう?」

 あまりにも優しいその言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 綴さんはゆっくりと立ち上がり、僕のおでこにそっと手を当ててくる。


「……熱……はないね」

「……うん、ちょっと怠いくらい……だから、大丈夫」

「そっか……まだ顔色よくないから、今日は無理しないでね」

 そんな言葉に、視界がじわりと滲んでしまう。この人にこうしてふれてもらうたびに、ここにいられる安心と幸せを実感する。

 

 今でも夢に見たり……突然思い出す、冷たく暗い記憶。


 実験室(あそこ)には床も、空気も、何もかもに温度がなかった。





「……まだ反応が安定しないな」

 感情のない、無機質な声。


 全身を管で繋がれて呼吸すらままならず、ぼやける視界。自分が生きているか、死んでいるかすらもわからない毎日。


「投与量を増やせ」 

 そんな淡々とした響きが聞こえても、逃げ場はない。いっそ息が止まってしまえば……そう何度も考えたが、それも怖くて。


 ――やめてっ……。


 そんな言葉は音にすらならなくて、喉が震えるだけ。全身が焼けるように痛くて、何かが壊れていく感覚。


 ――だれか……ぼくを、たすけて。


 ようやく痛いことから解放されても、視界の外側を覆う透明で冷たい箱に閉じ込められる。動かせない四肢と、全身に絡みつく管。何かを投与するために、ずっと刺さったままの針。

 次第に痛さもわからなくなるが、気持ち悪い感覚はなくならないまま。

 どれだけ祈っていたって、逃げることのできない牢獄からは、誰も助けてなんてくれない。


 だけど、あの時だけは違っていて……。少し前まで大きな音がしていたのに、辺りが急に静かになったような気がしたけれど、目を開けることすら億劫で。

 そうしていた時、突然……声が聞こえた気がして目を開けると視界には、人影が映る。

 照明と霞む視界が邪魔をしてきて、良く見えない。


 目の前の誰かが何かを話しているけれど、空気中を彷徨っているような意識の中では不明瞭で、その声が何を言っているかまでうまく識別できない。


「だ、れ……?」

 そう呟いた声が、音になったのかも定かではなくて。


 その時、箱に手をかけられる。


 ――また……っ、いたいことがはじまってしまう。


 外の空気が一気に流れ込んできたことによって、恐怖が一気に膨らみ、限界まで大きくなる。


「……やめ、て……」

 祈りのような拒絶は、うまく声にならない。 

 

「ちかづかないで……ぼく、いたいのはもういやだ……」

 勢いよく起き上がったせいで、視界は揺れて世界が回る。何とか絞り出した言葉は、弱々しいもので。


「急に開けたらびっくりしちゃうよね……ごめんね。痛いことは絶対にしないよ」

 それは初めて聞く……優しくて温かい声だった。だけど、この人は安心してもいい人なのか……わからない。


「弥だね……約束する。俺は絶対に、君の事を傷付けない」

 その人は、名前を教えてくれた――。


 僕のことを番号なんかじゃなくて、名前で呼んでくれた――。


 僕に約束をくれた――。


 全部が初めてで、経験したことのない温かさに、涙がこぼれる。


「弥、立てる?」

 足に力を入れようとしてもうまくできなくて、首を振ると、ふわりと抱き上げられた。

 慣れない感覚に綴さんが着ていた服を掴んだら、優しく温かい手が背中を撫でてくれる。


 胸の辺りに顔をうずめたら、すごく安心できる匂いがして、不思議とすごく心が落ち着いた。


 そこからの記憶はあまりなくて……少しの衝撃を受けて意識がはっきりとしてくる。


「弥! 大丈夫?!」

 そう言った綴さんの顔には所々、煤が付いていた。


「だいじょうぶ……ありがとう、つづりさん」

 僕の言葉に、優しく笑った綴さんの表情は今でも忘れられない。

 あの時初めて見た星空は、今も僕の心に強く残っていて、夜空に浮かぶ星々をとじこめた綴さんの瞳が、何よりも一番綺麗に僕の中に焼き付いた。


 それからの記憶は、少し曖昧で。 





 ――まぶしい。


 次に目を開けると、知らない天井が見えた。ずっと見ていた暗いところじゃなくて、白くて明るい場所。


 ――ここは、どこ? あの箱の中じゃない……。


 体がふわふわと柔らかいものに包まれていて、僕が本当に小さい頃に一度だけ見た、綺麗なお花のようなあまい匂いがしていた。


 ――この匂い……どこかで。

 

 起き上がろうと体を少し動かすと激痛が走り、その痛みに呻く。

 腕に違和感があって、恐る恐るそちらを見ると覚えのある管。

 それを認識した瞬間、心臓がきゅってなった。

 

 ――またいたいのが、はじまるの……?


 ――こわいよ……だれか……たすけて。


「あ、起きたの?」

 その時……急に、声が聞こえる。殆ど反射的にそちらを見ると、すぐそばに人がいた。見たことのない、知らない男の人。

 心臓を直接掴まれたような恐怖に、喉の奥が張り付くような感覚。


 ――はやく、ここから逃げないと。


 それしか考えられなくて頭の中がぐちゃぐちゃになり、僕の喉は勝手に叫んでた。

 

「やだ……たすけて、……!」

 涙が溢れ出してきて、息が乱れる。

 

「いやっ、やめてっ……こないで!!!」

 ただひたすらに怖くて、さっきまで感じていた痛みなんてもうわからなかった。

 ベッドの端まで這うように逃げて、手を前に出す。僕は、誰にもふれられないよう必死だった。


「……(あまね)?!」

 そんな時。僕の名前を呼ぶ、あの優しい声が聞こえた。急に見えていた世界が、すごく遅くなる。

 その人の顔を見て、僕は自然と体の力が抜けた。


「……つづりさ……」

 僕がその人の名前を呼ぶ声は、震えてしまう。伸ばした手は空を切り、届かない。


「……っ、たす、けて……!」 

 優しく抱きしめてくれて、僕を怖い所から助け出してくれた人。

 あれは夢なんかじゃなくて、ちゃんと僕のことを助けてくれたんだ。

 

「おねがい……もう、……あそこ、には戻りたくないの……」

 気付けば体は勝手に動いていて、ベッドから半ば転がり落ちるように降りて、ふらつきながらも綴さんの足元にしがみつく。


 震える指先で、目の前の優しい人の服の裾を懸命に掴む。

 

「たすけて……おねがい……もういたいのはいやなの……」

 しがみついた僕のことを綴さんは、ほどいたりせずにそのまま抱き上げてくれる。


「弥、もう大丈夫だよ。ここは安全だからねぇ」

 すごくふわりとした穏やかな声が、耳の奥に優しく響いた。

 その声と温かい体温に、張りつめていたものが全部ほどけて、涙が止まらなくなってしまう。


 とんとん、と優しく背中を叩かれて、力が抜けると自然と瞼が重くなる。たくさん泣いた僕は、知らない間にまた眠ってしまったようで、次に起きた時には部屋の中は暗くなっていた。

 今度はさっきみたいに心臓は早くならなかったけど、頭の中がぼんやりしてる。

 知らない場所だけど、前みたいに怖くはない。


 動かそうとした手が温かいものに包まれていて、そっとそちらの方を見ると綴さんがいた。


 僕が寝ているベッドのすぐそばの椅子に座っていて、前髪が少し顔に掛かり、優しい目は閉じられている。

  

 ――ずっと、つないでいてくれたのかな。


 すごくあったかくて、安心できた。


 起こしてしまわないようにそっと起き上がり、綴さんの顔を見ていたら、さっきこの人を困らせてしまった光景が頭の中を流れていって、胸の奥がきゅうっとする。


「……ごめんなさい」 

 音になった僕の声は小さくて、掠れてた。

 

 怖くて泣いて、叫んで、綴さんにしがみついて……全部覚えてる。

 怒られるかもって思ってたのに、誰も怒らなかった。


「たすけてくれて、ありがと……」

 僕は小さくそう言って、綴さんの手をきゅうっと握る。

 

 その手はやっぱりすごく温かくて、もう少しだけ――。


 そんなことを考えていたら、綴さんの手がゆっくりと動いた。


「んぅ……あまね、起きたの?」

 ふわふわと柔らかい声が聞こえて、温かい手が僕の手をそっと握り返してくれる。

 

「……あ、ぼく……おこしちゃった……?」

 そっと顔を見上げると、綴さんはまだ少し眠たそうにまばたきして、それからふにゃって笑った。


「だいじょうぶだよ。弥の様子見に来たら、そのままここで寝落ちしちゃったみたい」

 さっきまで眠っていたからか、声は少し低いけどすごく優しい。

 今まで僕に痛いことをしてきた人たちとは、全然違う。


 同じ大人の男の人の声なのに、優しさが伝わってくるから不思議と怖くない。


 この人なら大丈夫だって思える。


「弥、もう怖くない?」

「……うん……」

 本当は、怖いのがゼロになったわけではない。だけど、綴さんがいるから安心できた。


「よかったぁ……ごめんね、起きた時そばにいなくて……」

 そう言って、綴さんは優しく頭を撫でてくれる。しばらくして綴さんは少しだけ迷うように視線を落とした後にぽつりと、やわらかい声で言った。

  

「……弥がさっき起きた時にそばにいたお兄ちゃんね、(なごみ)って言うんだ」

「……うん」


「その和がね……弥に、さっきは驚かせてごめんねって言ってたよ」

 その言葉を聞いた瞬間、心の奥が痛くなった。あの時は、急に現れた知らない男の人が、怖くてたまらなくて。僕はいっぱい拒絶して、暴れて泣きながら綴さんに縋り付いた。

 

「……和さん、怒ってない?」

 僕は毛布をぎゅっと握りしめて、恐る恐る聞く。


「だいじょうぶ、怒ってないよ」

 綴さんの声は、すごくやさしい。

 

「ちょっとびっくりはしたみたいだけど、俺がここに来る時も弥のことすごく心配してた」

「……ほんとに?」

 僕がそう聞くと、綴さんは優しく頷いた。

 

「ほんとだよ。ずっと、弥のこと気にしてた」


「……ぼく、いっぱい泣いちゃったよ……?」

 綴さんの表情を見るのが怖くて、視線を落として毛布の端をぎゅうっと掴む。


「弥、泣くのはわるいことじゃないんだよ。涙が出るのはちゃんと、心がある証拠なんだから」

「……こころ?」 

「ふふ。そうだよ」

 軽く首を傾げると、綴さんは優しく微笑む。

 

「……ぼく、おこってるとおもってた」 

「和はすごく優しいから、怒ったりしないよ」

 綴さんが、首を横に振る。

 

「……ぼく、ちゃんとあやまりたい……急に泣いちゃって、ごめんなさいって伝えたい」

 僕の言葉に、綴さんはふっと目元をゆるめてくれた。

 

「うん。和も弥が声をかけてくれたら、きっと喜ぶよ」

「……うん」

 まだちょっとだけ不安で、毛布の上に置いた自分の手は微かに震えてしまう。

 

「……ぼく……ほんとは、ほかの人がまだちょっと怖いの……」

 綴さんは言葉にはしなかったが、そっと僕の頭に手を置いた。優しい温かさがじんわりと、伝わってくる。


「……でも……つづりさんは……なんか、だいじょうぶなの」 

 少し震えてしまう指先で、綴さんの袖を小さく掴む。


「そうなんだね、ありがとう。無理しないで弥のペースで少しずつ、慣れていけばいいからね」 

 僕は、優しい声に小さく頷く。


「ほら、弥。今日はこのまま、もう少し寝ようね」

 そう言って綴さんは横に寝転がった僕に、ふわふわと手触りの良い毛布を掛けてくれる。


 ――つづりさん、じぶんの部屋にもどっちゃうのかな……。


「……つ、づりさん……あの……どっか、いっちゃう?」

 発せたのは自分でもびっくりするくらい、小さな声だった。

 

「ふふ。俺、一緒に寝てもいいの?」

 綴さんは一瞬、驚くように目を丸くしてからすぐに、ふわふわとした甘い声と優しい笑顔を向けられて、心がきゅうってなる。


 こんなに大切にしてもらって、本当に夢じゃないのかな……なんて。


「……うん。ぼく……いっしょに、ねてほしい」

 その直後、布団の隙間がふわりと沈んで隣に綴さんのぬくもりがじんわりと広がっていく。

 あったかくて、安心できて、心臓の奥がぎゅーっとなって。

 泣くつもりなんてなかったのに、勝手に溢れた涙は止まらない。


「だいじょーぶだよぉ……」

 そう言って、綴さんは優しくそっと抱きしめてくれる。ぎゅうーっと、だけど苦しくならないくらいの強さ。

 

「つづりさんは……いなくならない?」

「いなくならないよ。ちゃんと、ここにいるからね」

 僕の頭をずっと、優しく撫でてくれる。それが嬉しくて、止まりかけてた涙がまた出そうになってしまう。

 そんな僕の様子に気づいたのか、綴さんは何も言わずに、ただ静かに背中をさすってくれる。

 その手の温かさだけで、全部が少しずつ溶けていく気がした。


「……ありがと」

 誰かに抱きしめてもらって眠るのは、生まれてはじめてだった。

 怖くないし、痛くない。すごく安心できて、温かい。

 その体温に包まれていると、瞼が段々重たくなってきて、僕はまた目を閉じる。


「おやすみ、弥」

 そんな優しい声が聞こえて僕は今までで一番、穏やかに眠りの世界へと落ちていった――。

 


 ◆

 

「……いたいよ、たすけて……だれか」

「ここからだして、おねがい……」

 夢の世界では、ずっと誰かが泣いている。夢の中で僕はその声を聞いていることしかできなくて、不安でたまらなくて。

 ひとり暗闇をあてもなく彷徨いながら、温かい「なにか」を探す。


 だけど「なにか」の正体はわからなくて、涙がこぼれ落ちた瞬間――。


 夢から一気に目覚めて、見ていた世界がぱっと明るくなった。

 少し、ぼんやりとする景色。


「……ゆめ……?」

 目の前にはぐっすりと眠る、綴さんの姿。僕は思わず、手をのばしてしまった。


 ふれた綴さんの手は、すごく温かくて。

 

 夢の中で聞こえた声。あれは、過去の自分の泣き声だ――。

 

 目覚めてからそれを、僕は唐突に理解した。夢の中で探していた「なにか」はきっと、これだったのだろう。


 ――ちょっとだけ……。

  

 僕はそっと身体を動かして、綴さんの腕の中に潜り込む。綴さんは少し身動きしたけど、起きることはなくて。 

 起こさないように息を潜めて胸元の辺りへ顔をうずめると、助けてもらったときにもしていた安心する匂いがした。


「ん……」

 寝返りを打つ気配がした、次の瞬間。綴さんの腕が僕のことを、そっと抱きしめてくれる。


「ふふ、あったかい……」

 頭の上からそんなあまくやさしい声が聞こえて、包まれるようなその温もりに、僕の心にあったもやもやは綺麗に溶かされて、一気にふわふわしたものに満たされていく。

 

 ――あったかい。


 綴さんは、起きてもいなくなってなかった。ずっと、僕の隣りにいてくれた。

 僕は綴さんの胸の中にすっぽりとおさまったまま、再び目を閉じる。


 そこは僕にとって世界でいちばん、安心できる場所で――。



 ◆

 

 その次に、意識が浮上した時。 


「あまね」

 僕のことを呼ぶ、優しい声が聞こえた。

 

「……ん……つづ、りさ……?」

「あ、起きた。よく眠ってたね」

 そろそろ起きれそう? って優しく頬を撫でてくれながら、穏やかに聞いてくれる。


「……おきれ……る」

 

 ――がんばって、おきないと……。


 起きなきゃって、わかってる。だけど布団の中に残るぬくもりが心地よくて、体が動かない。

 

 温かいの、まだもう少しだけ……。

 

「ふふ、かわいいね」 

 綴さんの手が優しく髪を撫でてくれるのが、とても気持ち良くて。

 

 でも起きないといけない。僕はぐりぐりと、毛布におでこをあてる。


「うぅ……」

「ゆっくりでいいよ、弥」

 すぐ閉じてしまいそうになる目を頑張って開けて、ゆっくりと身体を起こす。


「お! 頑張って起きれたね、おはよう」

「……おはよう」

 やっとのことで口にしたその言葉を使うのは、初めてだった。

 それに綴さんは、優しく微笑んでくれる。


「ねぇ、弥。朝ごはん食べられそうかな?」

「……わかんない」

 お腹が空くという感覚が、わからなくて。綴さんは少し考えるように間をおいてから、柔らかく言った。


「そっか……じゃあ、みんなのところ行ってみようか。美味しそうな匂いをかいだら食べたくなるかもしれないしね」

 その声があまりにも優しくて、僕は拒むことができなかった。


「……うん、いっしょにいく……」

「ありがとう、弥。でも、無理はしなくていいからね」

 そうして綴さんと一緒に部屋を出て、リビングへと降りる。少しずつ心臓の音が大きくなって、僕のこの音が綴さんにも聞こえちゃうんじゃないかと、心配になった。

 僕の手を引いたまま、綴さんはゆっくりとリビングの扉を開ける。


 そこには思っていたよりもたくさん人がいて、心臓の音がもっと、大きくなっていく。


 知らない場所、知らない人の中で、自分だけが他の人とは何か違うような気がしてしまって、思わず体を小さく丸めた。


「弥、だいじょーぶ。俺がいるよ」

 綴さんが繋いでいた手に、きゅっと力を入れてくれる。


「……弥?」

 扉を開けてすぐに声が聞こえて、そちらを見ると穏やかな笑顔を浮かべる男の人。


「おはよう、弥。体調はどう?」

 そっと僕のそばにしゃがみこんで、目線を合わせてくれる。


「……うん、だいじょうぶ」

 すごく優しい人なのは声で分かるのに、まだ少しだけ怖くて。綴さんの手をぎゅっと握り、後ろに隠れた。


「僕は、和。昨日は、驚かせてごめんね……」

 

 ――この人が和くん……。

 

 昨日のことが、頭を過る。優しくしてくれようとしたのに、僕は泣いて、暴れて全部ぐちゃぐちゃにした。 

 和くんに、いっぱい嫌な思いをさせてしまったかもしれない。 

 思い出すと胸が痛くて、どうしてあんなことをしてしまったのだろうって、何度も考えた。

 

「……あ、の……ぼくもきのうは、あばれて……ごめんなさい」

 震えてしまう声で伝えれば、和くんはふわりと笑ってくれる。

 

「もう気にしてないよ」

 その言葉に、心の奥がきゅーぅっとなって。和くんは僕のことを責めるわけでもなく、避けたりもしない。

 そのことが少しだけ、苦しくて。

 

 頭を撫でてくれた綴さんの手に、涙が出そうになる。だけどその温もりが、言葉よりも大きな安心をくれた。

 

「……ありがと」

 緊張で小さくなってしまった声を、二人はちゃんと聞き取ってくれて、優しく笑ってくれる。


「もうすぐ朝ごはんできるから、弥も行こ?」

 こくりと頷いて綴さんと手を繋いだまま、和くんについていく。


 ――ちゃんと、ごめんなさいが言えてよかった。


 リビングのソファには和くんと同じくらいの年齢の男の人と、僕と同じくらいの男の子がいて、その子はその人に髪を整えてもらっている。

 キッチンにはご飯を作ってくれている男の人と、それをテーブルの上に運ぶもう一人の男の人。

 

「はじめまして、弥。俺は(みなと)っていいます」

 湊と名乗った男の人も僕と視線を合わせようと、しゃがみこんでくれる。


「……はじ、めまして」

 にこっと笑うとかっこいい顔が、柔らかい雰囲気を纏う。背も高くて、声も低いから怖いはずなのに、不思議と嫌な感じがしない。


「弥、そこに座ってみようか」

 綴さんに言われて、僕はリビングの椅子へと案内される。


「……キッチンで料理してるのが、調(しらべ)。俺と同い年でね、ごはんも、お菓子もすごく上手なんだよ」

 綴さんの紹介に気付いたのか、調さんは小さく手を降ってくれた。

 

「あっちのソファに座ってるお兄ちゃんのほうが、(かがり)。すごく頼りになるんだ」

 燎くんもこちらを見て、顔をくしゃっとさせて笑顔で手を降ってくれる。

 

「その隣りにいる子が、(はるか)。少し恥ずかしがり屋さんなんだけど、周りの人のことを凄く考えてくれてね、優しい子なんだよ」

 

「……おはよう」

 悠くんは、控えめに挨拶してくれた。


「……お、はよ……う」

 それに僕は一瞬びくっとしてしまって、返せた挨拶はちょっと変なものになってしまったかもしれない。


「あと悠と同じ歳の(さくら)と、今年十六歳になる(あおい)っていう子がいて……その子たちは、また追々紹介するね」

 そう言う綴さんの表情はうまく言えないけど、少し困っているような……そんな感じがした。


「弥、今日は冷えるからブランケット掛けようね」

 ふわふわしたオレンジ色の生地で出来たブランケットを、綴さんがそっと足のところに掛けてくれる。


 僕の目の前にはブランケットと同じ綺麗なオレンジ色のスープが、ことんと小さな音を立てて置かれた。

 

「……おいしそう」

 ほわほわと湯気が上がっていて、少し甘い匂いがしている。


 ――あったかい。

 

「ふふ、ゆっくり食べてね。無理はしなくていいよ」

「……これ……たべていいの?」

 

「もちろん」

 綴さんの優しい声。

 

「これは、弥のだからね」

 お皿を持ってきてくれた湊くんも、にこっと笑ってくれた。


 少し震えそうになってしまう手でスプーンを持ち、スープをすくって口へ運ぶ。

 舌に触れた瞬間、やさしい甘さが広がる。


「……おいしい」

 その温かさに涙が出てしまいそうになって、目の奥が熱くなってしまう。

 泣くのを必死に我慢していると手が震えてしまって、スプーンが小さくお皿に当たる音がした。


「弥?」

 綴さんが、心配そうに顔をのぞきこんでくる。


「どうしたの? 苦手なものでもあった?」

 僕はうまく言葉にできなくて、首を振るしかできない。


 ――ちがうの。そうじゃなくて……。

 

 ぽた、ぽたと涙があふれてきてしまって。


「ん……ゆっくりでいいよ、弥」

 綴さんの手が、ゆっくりと背中をさすってくれる。

 

「……ぼく……こんなおいしくて、あたたかいごはん……はじめて……」

 震える声でそう言えば、優しい手がそっと頭を撫でてくれた。 

 長い間ずっと失っていたものを、少しだけ取り戻せたような気がして。


 三分の一程、スープを食べた頃――。


 ――どうしよう……もうたべられない……。


「弥、もうお腹いっぱい?」 

「……うん……のこして、ごめんなさい」 

「ふふ。いっぱい食べられたねぇ、弥。食べられるだけで、十分だよ」

 綴さんはそう言って柔らかく笑って、僕の頭を撫でてくれる。

 

「それにね、謝らなくてもいいよ。弥が食べられなくても、誰も怒ったりしないからね」

 怒られない。本当は当たり前のことなのかもしれないけど、僕にとっては初めて言われた言葉で、心の奥が今度はぎゅっと痛んだ。


 ごちそうさまをすると、綴さんが僕の前にあったお皿を片付けてくれた。


「弥、お部屋に戻る? それとも、もう少しここにいてみる?」

「……おへや、もどりたい」

 頑張りたい気持ちもあったけど、ちょっと疲れちゃって横になりたかった。

 

「じゃあ、一緒にお部屋へ戻ろうね」

 綴さんはにこりと笑って手を差し出してくれたので、そっとその手を取る。

 

「気持ち悪かったり、お腹ごろごろしたりとかはない?」

「うん、だいじょうぶ」

 それから僕は、お部屋に戻ってすぐ眠ってしまった。


「ゆっくり眠ってね、弥」

 眠る直前――。綴さんの優しい声に、すごく安心したのを覚えている。


「おやすみ」

 僕にとって幸せの象徴ともよべる優しい声を最後に、意識を手放した――。



 

「ねぇ、綴さん……昔、一緒に見た星空をおぼえてる?」

「もちろん、忘れるわけないよ」


「雲ひとつなくて、すごく綺麗だったね」

 穏やかで温かい声で、微笑む。


 ――覚えて……くれてた。

 

「……だって……初めてだったんだ……」 

 小さくこぼれた声は、ひどく儚い響きで。喉は震えてしまうが、自然と笑みが溢れてしまう。

 

「……あんなに世界が……綺麗に見えたのは……」

「そうだね、俺もすごく綺麗だったのを覚えてるよ」


 それを言った綴さんの優しい笑顔が一番綺麗だと、僕は思った――。

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