人が溶ける動画を知るきっかけと過去の思い出。
始まりは、桜と交わした何気ない会話だった――。
「最近、変な動画がすごい流れてくるんだよね……」
「変な動画……?」
「そう、なんか……人が溶けちゃうやつ。それだけ聞くと、作り物じゃないの? ってなるんだけど、めっちゃリアルで気味悪いの」
そう言って、何とも言えない表情を浮かべる桜。
今から、約一時間ほど前――。
――はやく帰って、寝たい……横になりたい……頭が痛い。戻ったら、薬のまないと……。
任務を終えた俺は疲労困憊の状態で、所属している組織「リヒト」のアジト兼自宅へと帰ってきたのだった。
そんなことを考えながら、重りがついているのかと疑いたくなるほど重い足を引きずって、なんとか家まで戻ってきた俺を出迎えてくれた桜の顔を見た瞬間。
冗談は抜きにして、今まで体を支配していた疲労と頭痛は七割くらいどこかへ飛んでいったと思う。
「おかえり、綴!」
大きくなっても、相変わらず俺のことを慕ってくれるこの子が可愛くて、たまらない。
桜と出会ったのは、俺の恩人とも言える縁という人物が招集された任務へ、俺と調が後学の為に同行したときだった。
小児科病院の待合室での立て籠もり事件――。そこまで大きな規模の病院ではなく、当初はギフトではない非能力者が起こしたものだと思われていた事件だ。
だが実際はそうでなく、ギフトである犯人の能力によって初動が大幅に遅れてしまい、結果的に多大な被害を及ぼすことになってしまった。
「ギフト」とは簡単に言うと、異能を神から与えられた人間の事を言う。ある日突然、覚醒し能力を得るが、そこに規則性はない。
覚醒の予兆には、発熱や頭痛、倦怠感と言った体調不良が多く見られるとされる。
それは言わば、神に選ばれるようなもの。
その特異性から存在は公にはされておらず、その存在を実しやかに囁くものもいる。
そしてこういった事態に対応出来るのは、同じギフトであるリヒトに所属するものだけ。
だから警察から要請がくれば、俺たちも事件現場に向かう必要がある。
リヒトの仕事はどちらかと言えば、同じギフトを守るためのものが大半で、ギフト自身が事件を起こすというケースは、そこまで多くはない。
俺が所属する少し前、今から約二十五年ほど前に国の保護下に置かれたことにより、出来ることや守れるものが大幅に増えたと縁はよく言っていた。
桜の事件の犯人は二人組、四十代の夫婦だった。妻が待つ「感覚剥奪」能力によって、外部の人間には内部の音が聞き取れないようにされていた。
後の報告書によれば、この能力が事件の発覚自体を遅れさせる原因になったと言われている。
妻が能力を発動した時点では、まだ誰も病院内の異変に気付いていなかった。
そして次に、夫が「破断指定」という能力を使い、非常階段や患者の出入り口、関係者が使用する通用口などの一部を破壊。
だがこちらの能力も扉を大きく破壊させるわけではなく、意図的に壊れる場所を指定できる能力である為、外部からはわかりにくかった。
偶々、病院に入ろうとした親子が扉に手を掛けた瞬間、枠ごと崩れたことで通報に至る。
その時点で病院内は、地獄と化していた。夫の能力により建物内部が所々、崩落していたという。
偶然その日に二歳児健診のため、来院していた桜と母親は被害に巻き込まれてしまった。
◆
時刻は、昼の二時を少し過ぎた頃――。縁の元に任務要請が届いた。
それを確認してすぐ、準備を終えて現場へと向かうと病院の周囲には、警察の規制線が張られ物々しい雰囲気を醸しだしていた。
「人手が足りなくてな……お前たちにも俺と一緒に潜入してもらうが、命の危機を感じた場合は無理はせず逃げろ。いいな?」
縁の普段とは少し違う様子に、当時の俺は状況を把握しきれないながらも、ただ事ではないことだけは理解できた。
「……はい」
「……わかった」
俺と調は頷くしかなく、縁の後を追って静かに病院内へと侵入した。
内部に入るまでは気味悪いくらい、音がしなかったのにも関わらず、一歩足を踏み入れた瞬間、耳の中に一気に音が流れ込んできた。
小さな子の泣き声が聞こえ、壁が崩れ落ちる音。ガラスの割れる音と、女性の怒鳴り声が少し離れた所から聞こえてくる。
それらすべてが一斉に押し寄せてきて、頭を内側から殴られたような錯覚を起こす。
「……っ」
その音に視界が白く跳ねて、世界がぐらりと傾く。足から力が抜けて、倒れかけた俺の体を調が咄嗟に支えてくれた。
「綴、大丈夫か?」
「……ありがと……調」
一瞬、喉が詰まってうまく息が吸えなかったが、調の手のひらから伝わる体温だけが、俺を現実へと繋ぎ止めてくれているようだった。
「……立てるか?」
「うん……だいじょうぶ」
「……無理はするな」
そうして一歩、また一歩と進み踏み込んだ先に見えたのは、嵐が過ぎ去ったのかとすら思うほどの荒れようの酷い状態。
床にはガラスの破片や受付に置いてあったであろうボールペンやバインダーが散乱し、所々壁が崩れている。
「俺は対象を探す。お前たちは、人質にされた人たちの救助を頼む」
そう言って縁は、怒鳴り声がする方へと向かっていった。
指示を受けて、俺と調は反対方向へと進む。少しずつ先へ進むにつれて、倒れた椅子が道を塞ぎ、小さな子が退屈しないようにと置かれた絵本やおもちゃも散らばっていた。
これほどの惨状――。被害を及ぼしているのにも関わらず、その音が外には一切聞こえていない。
破壊音も、苦しみも病院の外では何事もなかったかのように世界は動き続けている。
俺はそんな現実に、恐怖を感じた。
「……酷いな」
そう、調が呟く。
事前に何らかの能力で、音を遮断できるギフトが関与している可能性は聞いていて、ある程度の被害は想定していた。
だけど目の前の光景は俺の想像を優に超えていて、呼吸が乱れ不規則になる。
天井から垂れ下がる配線は、時折バチバチと音を鳴らし、床には瓦礫が散らばっている。
そんな時――。
「……う……ぅ」
崩れた壁の向こうから、うめき声のようなものが聞こえた気がした。
通路の端、病院と外の世界を繋ぐ扉の前に人影を見つける。
「調! あそこ!」
崩れ落ちて瓦礫となった壁にもたれるようにして座り込む、女性の姿。
頭部から流れた血が床へ赤黒く広がり、着ている白の洋服を赤く染めていた。
――助けないと。
瞬間的にそう考えた俺の体は、先程まで感じていた恐怖の感情なんて忘れてしまったかのように勝手に動きだしていた。
できるだけ音をたてず静かに近寄ったその腕の中には、守るように抱きしめられた小さな子。
「……聞こえますか」
女性の顔を覗き込むように声をかけると僅かに身動きをし、ぼんやりとした瞳が俺のことを捉える。
「……私のこ、とは……い、いから……この、子を……桜を……おねが……いします」
そう言って腕の中の小さな子の頬を愛おしそうに撫でた後、小さな体と土埃で汚れくしゃくしゃになってしまった母子手帳を俺に託した。
小さな温もりが、俺の腕の中で広がる。軽すぎる重みと、微かな鼓動。
「……この……子は……今、私の……力で……ねむらせ、てい……す……どう、か……」
我が子を慈しみ、大切にふれながら母親は震える声で言葉を紡ぐ。
最後まで、視線は我が子から離れることはなかった。
「……桜、を……おね、がい……します」
「……はい」
俺の返事を聞き届けた後、母親の手から力が抜け、ぱたりと落ちた――。
託された命は俺にとって重すぎるもので、桜の母親の視線を、あの日から一度も忘れたことはない。
その少し後、縁から対象の死亡を告げられた――。
ギフトには「サクリファイス」と呼ばれる代償が存在する。
能力はギフトにとって、大きな恩恵をもたらすばかりの万能なものではない。
そして感覚剥奪を持つ妻のサクリファイスは恐らく、自分自身の感覚であると推測され、長時間の能力発動によって、聴覚が鈍化され結果的に彼女は錯乱状態に陥った。
縁によれば、発見時にはすでに夫の声が聞こえていない様子が見受けられたという。
外部から音を奪っていた彼女が、自らの能力によって、世界から切り離されていく。
そして愛する人が狂っていく様子を見ていた夫にも、サクリファイスが現れる。
確かに彼は、そんな妻に駆け寄ろうとした。だがサクリファイスによる身体的耐久限界を迎えたのか、足の関節を損傷したらしくその場に倒れ伏した。
そしてそこに自身が破壊した壁が崩れ、彼の体に降り注いだという。
瓦礫によって、形をなくした夫に気付いた妻は泣き声を上げた……はずだった。
口は大きく開かれ、喉を激しく震わせ、胸も肩も上下している。
なのに、彼女からは音がしない――。その声すらも、世界から奪われていた。
声の聞こえない絶叫は、異様だったと縁は言う。
魂が抜けたような彼女は、瓦礫の下の愛する人をしばらく見つめてから、静かに立ち上がった。
夫がいた場所に背を向け、音のない世界へと歩いていった。
振り返ることもせず、誰かを探すわけでもない。
ほどなくして、彼女は夫の後を追うようにして、自らの頭に持っていた拳銃を突きつけて、命を絶った。
その最期の音すら、銃声も、彼女自身の声も、何も聞こえなかったという。
対象の自殺という最悪の結末を迎えた事件は、静かに幕を閉じた。
犯行の動機は、自分たちに子供が出来ないことへの逆恨み。
妻には婦人科の受診歴があり、一年ほど前まで不妊治療を受けていた記録が残っていたという。
桜の母親は意識を失ってすぐ病院へと搬送されたが、そのまま帰らぬ人となってしまった。
重軽傷者は十二名に上り、死者は桜の母親を含めて三人。年配の女性看護師と、妻の付き添いで我が子の健診へと付き添っていた三十代の男性だった。
当時二歳だった桜は母親が持っていた「誘眠」の能力によって眠らされていたので、母親の最期には会えていない。
桜に外傷はみられなかったが、念のため病院で検査を受けた後、アジトへ連れて帰り、自分の部屋のベットへと寝かせる。
静かな部屋で母子手帳をそっと開くと、几帳面な字で桜の成長の記録と愛情のたくさんつまった言葉が書かれていた。
つわりはとても辛かったけれど、桜が生まれてすごく幸せ――。
かわいくてたまらない――。
つかまり立ちができるようになった――。
名前を呼ぶと振り向いて、笑ってくれようになった――。
もうすぐ二歳児健診! 帰りに新しい絵本を買って帰る――。
そんな幸せがあの事件によって、一瞬で奪われてしまった。
「……あの子の母親が亡くなったのは、お前のせいじゃない」
調はそう言ってくれる……だけど俺は、あの時のことを思い出すたび、後悔に苛まれていた。
後の調べによると桜の父親は一年前、桜が一歳の時に病死している。
その為、遺された母親が一人で育ててきた。
桜の母親の死を伝えた時、母方、父方共に親族には、桜の引き取りを断られてしまったという。
理由は、桜の両親の結婚が認められたものではなかったから。
それを聞いて、まだ子供の自分が出来ることは多くなんてないと理解しつつも、桜の母親が必死に守った命を俺が守ると決めた。
◆
桜が目覚めたのは、空の色が深く沈んだ頃――。
「……まま」
そんな小さな声が聞こえ、そっと覗き込むと寝起きでぼんやりしていた桜の意識は、次第に形を持ち始める。
「……さくら」
「だれ……? ぼくのままは?」
「俺は、つづり。ごめんね、桜のママは今ここにはいないんだ……」
「なんで……? ままのところ、いく」
桜の大きな瞳には涙の膜が張り始め、泣きながら母親を探すその姿を、俺は今でも忘れることができない。
「……まま……どこ……ままぁ……」
当時十三歳の俺は当然ながら子育ての経験なんてものはなく、小さい子と接したこともなかったから、どうしてあげればいいのか分からなかった。
とにかく泣き止ませてあげたくて、声を掛けながら後ろをついて回ったり、ぬいぐるみを渡してみたりと、俺は思い付くありとあらゆることを試す。
「んーぅ! はなして、いやっ」
だがどれもあまり効果を得られず、ダメ元で抱っこしてみれば、少しぐずりはしたが、背中をさすっているうちに落ち着いてくれたように見えた。
「まま……かえってきて……」
俺の服を小さな手でぎゅうっと掴み、啜り泣きを続ける桜。
「泣かないで……桜、良い子だねぇ、大丈夫だよ」
俺は自分にも言い聞かせるようにして、桜へと声を掛け続けた。
「まま……」
暫くして、電池が切れたように泣きつかれて眠ってしまった桜を抱っこしたまま、俺も眠りの世界へと旅立つことになった。
そして翌朝――。薄い光がカーテンから差し込み、部屋の中をふわりと包む。
俺よりも先に起きていた桜は前日の夜とは違い、まるで何事もなかったかのように平然としていたが、小さな手は懸命に俺の服を掴んで離そうとしない。
それはまるで、自分の前からいなくならないようにするための行動にも思えた。
幼いなりに母親がもう帰ってこない状況を理解したのか、あの夜を境に桜は母親の話をしなくなり、その代わりだとでも言うように、俺へと物凄く甘えるようになった。
小さい子用のビスケットを渡せば、嬉しそうにふにゃりと笑って喜ぶ。
今さっきまで遊んでいたと思えば、電池が切れたように眠っていたり。
あまりご機嫌がよくないときは、小さい体のどこからそんな大きな声が出るのかと不思議なほど、盛大に泣く。
桜と過ごす日々は経験したことのないことがたくさんで、成功と失敗を積み重ね、手探りで進めてきた。
そして二歳児の「いや」は想像していたよりも手強くて。
「やーぁっ」
ぐずり始める桜。だけど俺には、その理由がわからない。泣くわけでもなく、ただ落ち着きなく体を揺らし、服の裾を引っ張ってくる。
「……どうしたの?」
そう、声をかけても返事はなくて、その代わりに眉を寄せて、小さく唸ってくる。
そんな姿も可愛いくて、抱き上げると次第に大きな瞳には、涙の膜が張っていく。
「んーぅ、ちがう」
抱っこすると嫌がり、下ろしてほしいという。
着替えさせるのも一苦労で、洋服を見せれば首を振って全力で拒否。
ごはんを食べさせようとすると、口を固く閉じてしまう。
抱っこしようとすれば、床にペちょっとはりついて、頑なに動こうとしてくれない。
俺はその度に、急かさずに何度も立ち止まって、のんびりと待つようにした。
時間は掛かるし、予定は崩れるのが当たり前。思うようにいかないことのほうが圧倒的に多くて――。
それでも桜は、よく笑う子だった。
気まぐれで、昨日は嫌がった食べ物も次の日になると、平然と口にしたりする。
だけど次の瞬間には、また「いや」が戻ってきたりすることもあって、その全部が目まぐるしい。
正直、疲れてしまって嫌になったことも、一回や二回ではない。
学校と桜のお世話に追われて、泥のように眠る毎日。
それでも、桜の寝顔を見る度に心の奥が温かくなる。
――かわいい。
髪をそっと撫でると、寝返りを打ってこちらへと近付き、俺の服を小さな手で掴む。
――この姿を、桜のお母さんにも見せてあげたかったな……。
桜が甘えてくれる度に、俺はそう思っていた。
かけがえのない毎日を大切に、大事に過ごせることが俺にとっては幸せで。
所謂、桜のいやいや期というものが、収まり始めた頃のある日の昼下がり。
あれは、桜が三歳の誕生日を迎えた少し後だったと思う。
その日は授業が午前中までで終わったので、帰宅して桜と少し遊んだ後、リビングで珍しく素直にお昼寝してくれた桜を見守りつつ、俺は調と一緒に学校の課題を進めていた。
桜が眠ってから、一時間ほどが経過した頃――。
――もう少し……。桜が起きるまでに、終わらせないと……。
そんな俺の思いも虚しく、桜の声が聞こえた。
「……つづり」
いつもなら、起きた瞬間に寝ぼけて大泣きすることが多いのに珍しく自分で起き上がり、俺のそばまできて、服の裾を引く。
「ん? どうしたの? 桜」
「だっこ……」
そう言って両手を伸ばして待つ、桜。
――抱っこしてあげたい……けど、課題が終わってない……どうしよ……。
「ごめんね、桜。もうちょっとだけ、待ってくれないかな?」
「……や。いま、だっこ」
「えーっと……」
俺が少し困っていると、正面に座っていた調が吹き出した。
「ふはっ……綴、丁度いいし少し休憩にしよう。俺、飲み物取ってくるから、その間に桜のこと構ってあげなよ」
「……ありがとう、調」
「いえいえ。綴、飲み物は何がいい?」
「……オレンジジュースがいいなぁ」
調はそう言って、飲み物を取りに行ってくれる。
「桜、おいで。ごめんね……どうしたの? 寂しくなっちゃった?」
桜の脇のところへ手を入れて、そっと持ち上げる。
腕の中にすっぽりと収まった桜は、俺の胸元に猫が甘えるようにして擦り寄ってから、顔をうずめた。
「……うん」
「そっか。桜、すぐ気付いてあげられなくてごめんね」
「だいじょうぶ……つづり、ずっと……だっこしてて」
「いいよぉ、ずっとぎゅーしてようね」
ことん――。そんな音をたてて、机の上にふたつコップが置かれた。
ひとつは俺の分、もうひとつは桜用の蓋とストローが付いたプラスチックのもの。
「桜もジュース飲むか?」
「……のむ」
「桜、今日は上手に飲めるかなぁ」
俺はいつものように、手に持って桜へと渡す。
「すっかりいいお兄ちゃんだな、綴」
それを見ていた調は、コップへと口を付けながら言った。
「ふふ、でしょー?」
そう言って両手でコップを持ってジュースを飲んでいる桜の頭を撫でると、俺の方を見上げて嬉しそうにふにゃりと笑ってくれる。
慣れない子育ては大変だけど、全身全霊で甘えてくる桜の温もりに、俺自身も救われていた部分が大きい。
「つづり!」
またある時――。俺はリビングのソファで雑誌を読んでいたら、俺の名前を呼ぶ小さい子特有の元気な声が聞こえ、本へと落としていた視線を上げる。
ぱたぱたと走ってくる当時、四歳の桜。俺は内心転んでしまわないかと心配になるが、そんな心配をよそに桜は俺の膝まで辿り着き、小さな手足で懸命に登ろうとする。
「んしょ……」
「だっこする?」
「ぼくがじぶんで、のぼるの……」
手を差し伸べようとしたが、首を横に振られてしまえば手を出すわけにもいかなくなり、いつでも防御態勢を取れるように準備しておく。
「のぼれた!」
満面の笑みを浮かべ、俺に体重を預けるようにしてぎゅうっと抱きついてくる。
ある程度くっついて満足したのか俺に背を向けて、俺の手を掴んで遊び始めた。
その様子はご機嫌そのもので、まるでここは自分の特等席なのだとでも言うように嬉しそうにしている。
俺は、それが可愛くて堪らなかった。
「つづり、だっこして!」
「ねむれないから、だっこ……」
「つづりの上、のぼる!」
小さな手を目一杯のばして抱っこをせがんできたり、眠れなくてぐずったり、無邪気な笑顔ではしゃいで俺の膝に登ってきたり。
俺としては、甘えてくれるのは嬉しい。だけど、それが母親を求めてなのだとしたら……俺はずっと、そんな複雑さを抱えていた。
もう少し早く現場に着いていれば――。
あの時、もっと早く見つけていれば――。
桜の母親が死ぬ事は、なかったのではないか――。
この子から、母を奪わずに済んだのではないか――。
ひとりでも、靴を履けるようになった。洋服のボタンを留められるようになった。
そうしてひとつずつ、桜は出来ることが増えて、成長を感じる度にその気持ちは大きくなっていく。
俺がそばで見ていていいものなのかと、不安に駆られる。
本来は、喜ぶべきことのはずなのに――。
リビングのソファへと座り、テレビを見ていたら、桜は俺の膝を枕にして、ぐっすりと眠ってしまった。
愛おしい子が、そばにいるいつもと変わりない日常。だけど俺の心の中だけが、ざわざわと波を立てている。
一度思考の波に攫われると、自力で抜け出すことが難しい。
「……綴」
そんな時、ぱっと目の前に調の顔が映る。
「っ……しらべ、ごめん……気付かなかった」
「……また、難しい顔してる」
普段はあまり変わることのない調の表情の中には、心配の色が差していた。
「どうした?」
「……何ってことは、ないんだけどね……」
俺は、調に話した。今、自分が不安に思っていることすべて。
俺の隣に腰掛けた調は、俺の話を最後まで何も言わず、静かに聞いてくれた。
「……あの時の俺たちにとっては、最大限の出来ることをしたと思ってる。だけど、力がなかったのも事実だ。それに綴が考えてる桜にとっての母親という存在の大切さも間違ってない」
正面を真っ直ぐ向いて、調は続ける。
「……だけど、綴は桜のお母さんとの約束を逃げたりせずに、ちゃんと守ってる。この先、正解かどうかの答えを出すのは、桜自身だと俺は思う」
「誰かの代わりになんて、誰もなれない。だから、綴は綴の出来ることをしてあげればいいし、他の誰よりも綴が一番近くで見守っていてあげるべきだと、俺は思ってるよ」
声は淡々としているのに、紡ぐ言葉は凄く優しい。出会った頃から、変わらない。
俺が苦しい時、いつも調はこうして助けてくれて、言葉をくれる。
「……ありがと、調」
「……それに……お前が笑ってないと、俺の調子が狂うからな」
「えぇーなにそれ」
そう言って二人で小さく笑ったのは、俺たちだけの秘密――。
◆
「ちょっと綴! 僕の話、聞いてる?」
不思議そうに、覗き込んでくる記憶よりも成長した桜。
――本当に、大きくなったなぁ。目の前の桜の姿を見てそう、思う。
小さい子の成長とは、本当に感慨深いもので。
親になったことなんてないのに、嬉しいけど……寂しい。そんな少し複雑な気持ちを、分かってしまったような気がした。
――ふふ。俺、思ってるより疲れてるのかもなぁ……。
桜の顔を見てそんなことを思ってしまう辺り、自分もそれなりに年齢を重ねたのだな。なんて思ってしまった。
「綴?」
「あ、ごめんね……ちゃんと聞いてるよ」
ここで、冒頭の話題へと戻る。
「これ、フェイクにしては精巧なつくりだし……また、僕たち絡みの案件かもしれないよ」
桜がこう思うのも、無理はない。
ギフトと呼ばれる能力者たちは、それぞれに固有の力を持つ。例えば、俺には「物質形成」桜には「血花操術」。
他にも俺と同い年で一番の理解者、最年長の調はギフトの中でも最強と謳われる「氷結」の持ち主。
俺たちより三歳年下で、俺たちが所属する組織である「リヒト」の主戦力である燎には、「操炎」。
ギフトの中でも一二を争うほどに珍しく、貴重な「治癒」能力の持ち主であり、リヒトの頭脳である和。
「植物操生」を持ち、強靭なフィジカルを誇る湊。
サクリファイスと呼ばれる、代償……つまり、ギフトにとっての弱点がない「引力操作」を操る葵。
能力強化実験、通称エニスキシ実験の元被験体であり「石化」能力を持つ弥。
桜と同い年で、最年少。天の川のように美しい銀色の髪と紫色の瞳を持つ悠は「幻覚」能力の保持者である。
「わかった。調にも、報告しておくよ」
俺自身はあまり詳しくはないのだが、桜いわく、映像技術が発達した現在でもここまでのものを一個人で作るのは、難しいのではないかという。
「……綴、この動画が本当にギフトに関係してるとしても、無理はしちゃだめだからね」
桜はむうっと頬を膨らませて、いかにも心配してます。という態度を隠す気もないようだった。
「わかってるよ、桜。だいじょーぶ、お兄さんが桜に嘘ついたことなんてないでしょ?」
「え? どうだろう……」
「ちょ、そこはすぐに、そうだなって言ってよぉ」
「もぉー桜ぁ……」なんて少し頬を膨らませて、おどけてみるが、俺の冗談に乗って笑っていた桜の表情は、すぐに真剣なものへと変わる。
「……ほんとに、無理はだめだからね」
桜がこう言うのには理由があって……ここ最近、俺がよく体調を崩すようになったから。
誰にもその事を話してはいないが、それは決まって能力を使った後に起こる。
調あたりは、原因に薄々勘付いているのかもしれないが、今のところ直接聞いてくることはない。
みんなが俺の体調不良を凄く心配してくれているのは、ちょっとだけ心苦しくて。
そして目の前の桜も例外ではなく、純粋に俺のことを心配してくれる。
「この間も、体調崩してたでしょ……綴が言わなくても、僕にだってわかるんだからね」
「……うん……心配かけてごめんね」
「もう絶対、無理しないで!」
二十三歳と大人になっても、小さい頃からの素直で真っ直ぐな性格は変わらなくて、そんな所もたくさんあるこの子の、可愛い所のひとつ。
「本当に大きくなったね、桜」
「もぉ、なにー? 急に……」
手をのばして頭を撫でてあげれば、口では少し嫌がりつつも口元は緩んでいて、猫みたい。
そんなまだ幼さの残る所に少しだけ安心してしまうのは、親バカが過ぎるだろうか――。




