冷たい世界から救ってくれた、小さな手。湊side
調さんと綴さんがしていたタルトの話を聞いたのは、偶然だった――。
アジトのリビングではいつも、各々が自由に好きなことをして過ごしている。
例えば葵だったら、読書。自分の部屋へと戻るときもあれば、リビングに本を持ってきて読んでいることもある。
和くんなら、勉強。最近は、また新しい資格を取るために頑張っているらしい。
弥は雑誌を読んだり、最近はまっているというカメラをいじったり。
桜や悠は、綴さんと調さんを誘って映画やバラエティ番組なんかをよく見てる。
燎くんは、トレーニングが多い。俺も普段なら一緒にストレッチしたりしているけれど、あの日は任務が長引いてしまい、ご飯のあとすぐにお風呂へと入ることにした。
お風呂から上がり、飲み物を取ってくるのを忘れていたことに気付いてキッチンへと向かった時、偶々二人の会話が聞こえてきたのだ。
「甘い物特集だって、調! はやく!」
「はいはい、ちょっと待って」
食卓の方で、任務資料の確認をしていたであろう調さんをソファに座っていた綴さんが呼び寄せ、隣に座らせる。
特集が始まっていくつかお店が紹介され、三軒目だったタルトのお店が紹介された時、綴さんの目が輝いた。
「わぁ、綺麗……だけど並ぶのかぁ……」
並んだりする事があまり得意でないのか、綴さんは少し残念そうにしている。
「なかなか、難易度が高いな」
調さんも、少し難しそうな顔をしていた。唯でさえ翠等級で忙しいはずの調さんは、並ぶ時間を簡単には作れないというのもあると思う。
「食べたいって、顔してるな」
調さんが誂うように言うと、綴さんは少しだけ視線を逸らして肩をすくめた。
「……そりゃ、食べてみたいけど……」
機会があれば……かなぁ。なんて笑う綴さんの言葉はたぶん、半分は本気で半分は諦めだったのだと思う。
そんな綴さんに対して、調さんは何が言いたげではあったが、それを言葉にすることはなかった。
――綴さんを大切にしているのからこそ、食べさせてあげたい気持ちが強かったりするのかな。
俺がそんな事を考えている間に、テレビでは別の店の紹介へと移り、二人の会話もすでに次のものへと移っていた。
――今度、ダメ元でもお店に行ってみようかな……。
そう思い、スケジュール管理アプリを開きながら部屋へと戻ったが、ベッドへ横になってからの記憶はない……。
◆
そしてその翌日。オフだからと目覚ましもかけていなくて、起きたときにはすでに昼を過ぎていた。中庭で風にでも当たろうと思い、自室から出たその時に、廊下で悠に袖を引かれた。
「ねえ、湊……昨日のタルトのことなんだけどね」
声は密々と小さなものだったが、目はきらきらさせている。
「今度、オフが重なってる日に一緒に買いに行かない?」
俺は一瞬だけ考えて、ゆっくりと頷く。
「……いいよ、俺も買いに行ってみようかなって、思ってた」
そう答えると、悠はぱぁっと顔を明るくした。
「ほんと!? じゃあ決まりね!」
それを聞いた悠は、嬉しそうに笑う。
「俺ね、お店のことちょっとだけ調べたんだ……」
悠はまるで秘密を共有するみたいに、指でスマホを軽く叩く。
「ここの駅前にあって……」
お店のSNSのアカウント画面を見せられて、話がぽんぽんとまとまっていく。
「水曜日のお昼とかは、並ぶの比較的少ないみたいなんだって……」
真剣な表情でスマホを操作する悠につい、笑みが溢れてしまう。
「……湊?」
「ふふ。何でもないよ」
「そうなの?」
首を傾げる悠は小さい頃と変わらず、可愛らしい。
「二人、喜んでくれるといいね」
「うん!」
大好きな人たちに喜んでもらえるようにと、俺たちは秘密のサプライズ計画を立てた――。
◆
そして当日、二人には遊びに行ってくると言ってアジトを出る。
俺の運転で悠とお店に向かうと、店先には数人の列。
悠だけ先に降りてもらって、俺は近くの駐車場に車を停めてから合流する。並んでいるのは女性ばかりで、少しだけ居心地は悪かったけど、悠が色々な話をしてくれたから、退屈することはなくて。
四十分ほど並んでようやくお店の中へと入ることができ、無事にお目当てのタルトを購入することができた。
「買えてよかったぁ……内心、ちょっとどきどきしてた」
お店のロゴが入った紙袋を大切そうに持って、ふにゃりと笑い安心した様子の悠。俺も本当は少しどきどきしてたし、二つ後ろの人で売り切れた時は内心ではひやりとして、変な汗がでたくらい。
――だけど、これで二人に喜んでもらえる。
安心感と満足感を胸に二人、車へ乗り込んでアジトまでの家路を急いだ。
「湊が、調に渡してね」
「……え、いや……悠の方がいいんじゃないの?」
「湊が、車出してくれたし……だから、ね?」
にこりと笑って、大事に持っていた紙袋を俺に委ねてくる。
「湊が、先に上がって!」
後ろからぐいぐいと背中を押され、玄関から上がり、リビングの扉を開けると、二人は笑顔で迎えてくれる。
「ただいまです」
「おかえり」
「おかえり、二人とも」
「ただいま」や「おかえり」は他の人からすれば、なんてことない言葉なのかもしれない。だけど、俺にとっては、凄く大切なもの。
「あの調さん、これ……おみやげ」
そう言って渡すと、調さんより奥にいた綴さんの目が驚きに見開かれる。
「……それ!」
「そう! 前、テレビでやってたやつだよ」
「買えたの?!」
「俺と湊で、頑張ってきました!」
得意げに胸を張って、悠は言った。
「ありがと、悠、湊。すごくうれしい」
そう言って、綴さんは花が綻ぶように笑ってくれた。その笑顔は、とても儚げなもので。昔ここへ来た時に、彼が見せてくれたものと同じだった――。
その笑顔に昔の記憶が、よみがえる――。
◆
――痛い、苦しい。
――ここから、逃げたい。
俺は、必死に足を動かした。後ろなんて振り返らず、懸命に。
段々と息がうまく吸えなくなってきて胸の奥が軋み、心臓が暴れ出すような感覚。
自分が今どこにいるのかも、わからない。
――逃げないと。
それしか頭になくて……どうしてそう思ったのか。なぜ、こんなことになっているのか。
そんな理由すら、自分でもよく分からなくて。その時にはもう、それすらどうでもよくなっていたけど、今止まってしまったら、俺は壊れてしまうような気がした。
だけど体の方は限界を迎えていたようで次第に足が縺れ始め、視界はぐらつき始める。気付いたら、俺の体は硬くて冷たい所に倒れていた。
雨が容赦なく体を打ち付けてきて、水溜りの水は服の中にまで染み込み、指先は震えてしまって上手く力が入らない。
あぁ……このまま死ぬのかなぁ、なんて思った。
意識が、少しずつ遠のいていく――。
「……大……夫で、か?!」
――だれ……?
――逃げないと、捕まってしまう……動け……うごけ。
必死にそう思うのに、脳が出す信号を体は全く聞いてくれない。
「るか、……に、電……して」
酷い耳鳴りがして、世界がくるくると回る。視界がうまく結べなくて、なにも判別できない。
「す、し体、起こ……ま、よ」
目の前の人は何か話しているのだが、言葉をうまく聞き取ることができない。
そこで、俺の意識は完全に途切れた――。
◆
「ん……?」
次に重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、見知らぬ天井が視界に広がり、体はふかふかと柔らかい感覚に包まれていた。
――あったかい……ここは、どこだろう。
ぼんやりとする頭では何も思い出せず、体を起こそうとしても、まるで泥の中に沈んでいるみたいに重くて、指先すら思うように動かせない。
視線だけを動かし辺りを見回すと、男の子が一人ベッドのそばの椅子に座っている。
眠っているのか、その小さな頭はこくりこくりと船をこいでいて、その手元には本がある……もしかして、俺の様子を見ていてくれたんだろうか。
「あ、の……」
自分でも何を言おうとしたのかわからなかったが、俺が声を出した瞬間、男の子はゆっくりと目を開ける。
現れた瞳は透きとおるような紫色をしていて、目が離せなくなった。
「っ!?」
だけどその子は俺のことを認識した瞬間、ガタンと音を立てて椅子から猫のように飛び上がり、そのまま勢いよく部屋を出ていってしまった。
「え……?」
部屋へと取り残された俺は、ぽかんとするしかなくて……呆然と扉を見つめるしかなかった。
俺は、何か怖がるようなことをしてしまったのだろうか……時間が経つにつれて、罪悪感のようなものが押し寄せてくる。
声も掠れてるし、必死で逃げてきたから酷い見た目なのかもしれない。
――逃げてきた? 何から?
いま自分で考えていたはずなのに、何から逃げてきたのかを思い出すことができない。
怯えさせてしまったかもしれなくて、申し訳なさを感じていたら、男の子は戻ってきてくれて、扉から少し顔を覗かせる。
「和、呼んでくるから……ちょっと、待っててね」
小さい声でそう言った後、小さな足音を立てて走っていってしまった。
――なんかわかんないけど、めっちゃくちゃ可愛い……。
なんていうか……守りたくなるような、初めて抱く不思議な感情に包まれて、肩の力が抜けていくのがわかった。
それから少しして、ふと廊下の方から足音が近付いてくるのに気付く。
こんこん――。
ノックの音が聞こえて、男の人が二人入ってきた。
ひとりは俺と年の変わらなさそうな、柔らかく穏やかで優しげな雰囲気の持ち主。
もうひとりは俺よりは年上に見えて、醸し出す雰囲気はどこか気品のようなものを感じるが、それゆえに近寄りがたさのある人だった。
そして後者の人の後ろにさっきの男の子がくっついて、こちらの様子を窺ってきている。
「具合はどうですか?」
前者の彼は、ふわりと優しい笑みを浮かべた。
「はい、何とか……」
体は酷く怠いが、特に痛みは感じない。
――痛くない? え……あれ、怪我が……なくなってる。
体にあったはずの傷が、なぜか綺麗になくなっていた。
「そうですか……ひとまず安心しました」
目を白黒させている俺には構わず、にこやかに話しながら持ってきていたコップに水を注いでいる。
「とりあえず、水分を取ってもらえますか? 体、起こしますね」
自力で起き上がろうとするが、上手く力が入れられない。
そんな状態の俺を彼は支えてくれて、背中のところに枕を入れてくれる。
「ただの水なので、安心して飲んでください」
そう言ってコップを渡され、口に含んだ水は体に染み込んでいくようで、思っていたよりも喉が渇いていたことに気付かされた。
「僕は和と言います。こちらが調、その後ろに隠れてる子が悠です」
和さんの簡潔な自己紹介のあと、調さんにも会釈をされ、俺も慌てて返そうとしたのだが喉が鳴るだけで、口を開いたのに言葉は出てこない。
――え、なんで……。俺もはやく、名前を言わないと。
そんなふうに考えたが、自分の名前は一向に出てこない。
――名前、はやく言わないと……。でも、思い出せない……。俺は、誰だ?
名前を……考えようとすればするほど、頭の奥がずきんと痛む。焦りで喉が締まり、視線が勝手に彷徨う。
「あの、焦らなくて大丈夫です」
そんな俺の様子に気がついたのか、和さんは声をかけてくれる。
「……俺は……えっと……湊。……湊です」
そして突然、頭の中にぽんっと名前が浮かび上がって、俺の口からぽつりと勝手に言葉がこぼれおちた。
名前を口にした瞬間。何かが繋がったような感覚はしたが、その響きに何の感情もわかなくて少し戸惑う。
「……あの……助けてもらって、ありがとうございます」
声に出したその言葉は、自分でも驚くほど弱々しいものだったのだが、和さんはすぐに優しく笑って、首を横に振った。
「お礼なら、悠に言ってあげて下さい。この子があなたを見つけたので」
「え……あ、あの、ありがとう……助けてくれて」
悠は一瞬びくっと肩を揺らしたが、すぐに小さく首を縦に振ってくれた。
「……うん」
その場に沈黙が流れて、俺は何か言葉を探そうとしたけど、見つからなくて。
「……もう、いたくない?」
悠は調さんの服を掴み後ろから少し顔を覗かせて、小さな声で言った。
「うん。もう平気だよ、ありがとう」
懸命に口角を上げて笑えば、安堵の感情を浮かべた紫の瞳が見える。
「悠……湊のことは俺と和に任せて、下で綴の手伝いしてきてくれるかな?」
ここまで静かに見守るようにしていた調さんが、悠の目線に合わせてしゃがみ込み、そう伝える。
「おてつだい……? うん、わかった」
不思議そうにしつつも、素直に頷く悠の頭を優しく撫でた調さんの声音は、とても優しげなものだった。
ぱたぱたと小さな足音が、階段を降りていくのが聞こえる。
「湊さん、いくつかお聞きしても?」
和さんは、悠が出ていった方に向けていた視線をこちらへと戻す。
「大丈夫です」
俺がそう答えると、にっこりと笑ってくれた。
「まず、どこか体に違和感はありますか?」
「いえ、特には……」
「そうですか、では次に……」
「年齢を教えてください」
「……十、七歳」
「誕生日はいつですか?」
「……三月……十七日」
「血液型はわかりますか?」
「……B型、です」
自分に関する基本的なことは少し時間をもらって考えると、さっきの名前の時のように答えが浮かび上がってくるので、答えることができた。
だけど家族構成や出身地といった少し複雑なものは、どうしても思い出すことができなくて。
「最後にもうひとつだけ……。ここに来る前のことは、何か覚えていますか?」
その質問に体感している空気が、一気に冷たくなったような気がした。
「ただひたすら逃げていて、気がついたら……雨の中で体が動かなくなって……」
「……何から逃げていたのかは、思い出せますか?」
「……いえ、ただ逃げないと……痛くて、怖くて……ここじゃないどこかへ行かなければと……それだけでした」
どうしてもその部分にだけは靄が掛かっているまま、何も思い出せすことが出来なくて。
「……すみません、これ以上は……思い出せません」
胸の奥で何かが、ざらざらと音を立てている。
俺は何者で、なぜ逃げていて、どこから来たのかわからないまま。
まるで自分の体だけが、知らない世界に取り残されてしまったような感覚。
「そう、ですか……辛いことを思い出させてしまってすみません……これからの事は元気になってから考えましょう」
「……いえ……わかりました」
和さんは、柔らかい笑顔をみせてくれた。
「ねぇ、湊。何か食べたいものはある?」
それまでベッドの脇で静かに見ていた調さんの、少し低めの落ち着いた声が、部屋の空気を震わせる。
その視線にはすごく優しさがあって、目の奥が少し熱くなってしまった。
「……食べたいもの……何か、温かいものが食べたいです」
自分でも驚くほど自然に言葉が、発せられた。俺の体と心は、思っていたよりも冷え切っていたことに気付く。
「分かった。胃に優しい温かいもの、作ってくるね」
「……ありがとう……ございます」
それから十分ほどが経った頃――。調さんが持ってきてくれたのは、葱が散らされたうどんだった。
ほかほかと湯気が上がっている器を覗き込めば、透き通ったつゆからは出汁のいい香りがして、腹の虫が鳴いた。
「……いただきます」
箸を持つ手が少し震えてしまいそうになるが、なんとかそれを抑えてうどんを口へと運ぶ。
「おいしい、です」
程よい甘さを感じられる出汁は、体に染み渡っていく。
こんなに温かい食べ物を食べたのは、とても久しぶりな気がした。
「よかった」
優しく笑う、調さん。頭を俺より大きな手で撫でられて、初めての気持ちに少し動揺してしまう。
過去の俺は、誰かにこんな笑顔を向けられたことがあったのだろうか、そんなどこか擽ったいような……不思議な感覚に包まれる。
「ごはんも食べられたことですし、とにかく今はゆっくり体を休めて下さい」
穏やかに笑ってくれる和さん。
「記憶は無理に思い出さなくていい。ここにいる間は安全だからね」
すごく頼もしい、調さん。
ただ当たり前のように俺へ手をのばし、助けてくれる。それが、とても新鮮で。
誰かの優しさなんて、長い間忘れていた――。
先ほど和さんから聞いた話によると、俺はここに連れてこられてから、二時間ほど昏睡状態に陥っていたらしい。
骨折といったような大きな怪我はなく、一番酷いものでも右足を軽く捻挫していた程度だったという。
大半が細々とした擦り傷のや痣のようなものだったらしく、後は俺自身の免疫機能と体力の回復を待つのみだと言われた。
「あの、傷は……」
「それは、秘密だよ」
和さんは人差し指を唇に当てて、にこりと笑うだけで傷が綺麗に消えていることについて、教えてはくれなかった。
◆
そしてあれからひとりになって、記憶を思い出そうとしても上手くいかず、考えれば考えるほどに頭の奥はぼんやりと霞み、白んでいく。
何かを見つけても捕まえようとした瞬間に、その形は崩れ去ってしまう。
逃げていた。というその事実だけは、はっきりと刻まれているのに、その理由はどうしても掴めない。
「俺は……一体、何から逃げてたんだ……」
そんな呟きは静かな空間に溶けて、時計の秒針の音だけが耳に届く。
ここにいると、不思議と息がしやすい。だけどここは俺の場所じゃないのだと、誰かが囁く。
自分の事を思い出せないまま、ここにいていいのか。
何もわからないまま、俺なんかを助けてくれた優しい人たちのそばにいてもいいのだろうか。
俺がもし、彼らの邪魔になる存在だったとしたら?
記憶を取り戻して、一緒にいられなくなったら?
そう考えると、思い出すことが怖くなった。感情の温度に振り回されて、戸惑いを抑えられなくて。
――本当はすべて、都合のいい夢だったらどうしよう。
どこまでが現実で、どこからが夢なのかわからない。
こんなに優しい世界が、本当は夢だったら。俺はもう、現実を生きていけないかもしれない――。
少しふわふわとし始める意識の中でそんなことを考えていると、徐々に視界はぼやけていく。
体はもう限界だったのだろう、瞼が重くて。涙が頬を伝う感覚を感じ、俺はそのまま眠りに落ちた。
◆
次に目が覚めると、俺は変わらずふかふかしたベットの上にいて、ゆっくりと体を起こす。
そばにある窓は開けられていて、心地よい風と日差しが部屋の中へと入ってきていた。
ふと見た窓枠の所には小さな花瓶が置いてあり、そこには一輪の青い花が揺れている。
「……青色の花……? 綺麗……」
誰かが、置いてくれたのだろうか。そう思ったとき、ふとベットの近くに置かれた机へ目が留まった。
そこには数字がたくさん書かれたプリントを広げたまま、突っ伏して寝ている悠の姿。
銀色の髪が、ふわりと風に揺れている。
――そばに、いてくれたのだろうか。
心臓の辺りがきゅうっとなって、少しそわそわとしてしまう。
――布団とか、掛けてあげたほうがいいのかな。
そんなふうに思って、何か掛けられるものを視線だけで探していた、そのとき。
扉が静かに開いて、柔らかい空気をまとった男の人が入ってきた。
俺は思わず息を呑み、体が硬直してしまう。知らない人の登場に、緊張が走る。
「しーっ……」
俺が起きていることに気付いたその瞬間、その人はゆっくりと人差し指を自分の鼻先に当てた。
その仕草があまりにも自然で優しくて、固まってしまっていた体が少しずつ緩んでいく。
「俺は、綴。驚かせてごめんね、湊」
綴さんは悠の方に視線を向けて、すごく優しい笑みを浮かべた。
その優しい表情によって、この人が怖い人でないのはわかる。
「……いえ、大丈夫です」
綴さんは手に持っていたブランケットを悠にそっと掛けてから、ゆっくりとベッドの方へと近付いてきた。
特徴的で、少しミステリアスな雰囲気を漂わせる涼やかな目元に、綺麗な形の唇。
どこか儚げな気配を持つ、不思議な人――。
「体調はどう?」
そっとベットのそばへと座り、聞こえる柔らかな声は不思議とすごく安心する。
「……昨日に比べると、だいぶ……楽です」
寝ている悠を気遣って小さな声でそう伝えると、綴さんは静かに微笑んでくれた。
「よかったぁ。ここに運ばれた時は結構、傷だらけだったって聞いてたから、心配してたんだ」
優しい声と言葉に胸がじん、と熱くなる。
昨日の和さんや調さんもそうだったが、ここの人はなぜこんなにも優しい人ばかりなのだろう。
俺が上手く言葉を見つけられずにいると、綴さんはふと悠の方へと視線を落とす。
「この子ね、湊の事が心配でずっとここにいたんだよ」
「そう……なんですか」
「そのお花もね、湊が目覚めたときに少しでも気持ちが和らぐようにって、一生懸命選んだんだよ」
あ、でも今聞いた事は悠には秘密にしててね。なんて悠の小さな頭を撫でるその仕草のひとつひとつが、俺の知っている世界のどこにもなかった優しさで。
「だからまた、この子が起きてるときにそれとなく言ってあげて。きっと喜ぶと思うから」
俺はもう一度、眠っている悠の寝顔を見つめる。心に温かい気持ちが広がっていく。
――どうして、こんなにあたたかいのだろう。
「ねぇ、湊。昨日も調や和から聞いたかもしれないけど、今は何も気にせずゆっくり休んでね」
そう言ってから、綴さんは俺の肩に手をかけてそのままゆっくりと体を倒される。
「……ありがとう……ございます」
綴さんはふわりと微笑み、そっと俺のおでこにふれてきた。少しひんやりとした手は気持ちよくて、眠気を誘ってくる。
「だいじょうぶ、ちゃんと回復してるよ。だから心配しなくていいからね」
その優しい声は魔法みたいで心の奥で固まっていた不安が、ゆるやかに溶けていく。
悠の規則正しい寝息も相まって、瞼はゆっくりと重くなっていき、俺はまた深い眠りの世界へと落ちていった――。
◆
そうしてここへ運ばれてから、三日目の朝。
目を覚ますと、昨日まであった体の怠さは跡形もなく消えていた。
重くて持ち上げることすら億劫だった腕や足は軽々と動くようになっていて、足を床につけて立ち上がっても体がぐらつくことはない。
筋肉の張りや、痛みもなくなっている。
ただ体の方は回復しても、記憶が戻る気配は全くなかった。
しばらくして、和さんが様子を見に部屋へと入ってくる。
「おはようござい……?! え?! 立ち上がって、大丈夫なんですか?」
とても驚いている様子の和さんに、俺の方が困惑してしまう。
「はい……もう、大丈夫だと思います……」
「嘘でしょ……驚異的な回復力ですね……三日前、昏睡状態にまで陥ったのに……興味深い……」
和さんは、目を瞬かせる。
俺は苦笑するしかなくて、自分でもどう説明していいのかわからない。
ただ昔からどれだけ怪我をしても、人よりも早く治っていた気がする。
――おかしい。
――気味が悪い。
――化け物。
そんな言葉が一瞬、頭の中を過っていく。誰に言われたのか、どこで言われたのかも曖昧なのに……記憶の靄の奥に、確実にそれらは存在していた。
「……っ。やっぱり、変……なんですかね……」
「うーん、現状は何とも言えないですけど……まぁギフトがいるくらいだから、今さら驚くほどでもないって感じかなぁ……。それに助かったなら、それでいいです」
和さんはそう言って、柔らかく笑う。何でもないことのように言ったその姿に、救われたような気がした。
「……ありがとうございます」
特別視されない。ただそれだけのことが、こんなにも心を軽くしてくれるということを俺は知らなかった。
「ねぇ、湊。僕はもっと君と仲良くなりたいので、敬語はなしにしませんか?」
少し首を傾げつつ言う和さんの仕草は、少し蠱惑的というか……どこか人を惑わすような……そんな雰囲気を漂わせていて。
「え……あ、はい。和さんがいいのであれば……」
「じゃあ、決まり! 今から敬語はなしね。呼び方も、さんはいらないよ」
にこりと笑う和くんはとても穏やかな空気をまとっていて、それが俺は普通なんだという安心感を与えてくれる。
「わかりま……うん、ありがとう」
――ここでは、俺は化け物なんかじゃないのかもしれないと思えた。
◆
「湊?」
悠の声で、はっとする。
「はやく、リビング行こ?」
部屋着へと着替えるために戻った自分の部屋で、荷物を持ったまま佇む俺に、悠は不思議そうな表情を浮かべていた。
「……うん、そうだね」
急いで着替えてから、呼びに来てくれた悠の後を追って、俺もリビングへと向かう。
あの日、みんなに見つけてもらえたから、今の俺がいる。
それは感謝してもしきれないほどの恩で、それを少しでも返せるようにと、日々鍛錬に励む。そして貰ったこの幸せな毎日を、俺は大切に過ごしている。
「あけるよ」
調さんがそっとタルトを箱から出した瞬間、甘い匂いがふわりと広がった。
「わぁ……」
思わずそんな声が漏れたのは、誰だったか。色とりどりのフルーツが整然と並んだタルトは、テレビで見たときよりもずっと鮮やかで、宝石みたいに綺麗で。
だけどタルトよりも、みんなが嬉しそうにしてくれるその表情のほうが、俺には美しく見えた。
それは、きっと——。




