新たな事件と、そばにある優しい日常。燎side
ハーブティーを見つけたのは、偶然だった。綴の看病のためそばにいた時にふと思い出した、遠方での任務。
任務の遂行度合いにより場合によっては、泊まりになる可能性もあると事前に伝えられていた。そうなった時にいくつか足りないものがあることをふと思い出す。
少し前に和からもうすぐ帰るとの連絡もあったから、明日の予定の事を考えて、念には念をと前日に行っておくことにした。
綴へのメモを残し、そっとアジトを出る。
昔、悠の必要なものを揃えた商業施設に行くと、大幅に改装がされていて、新しくハーブティーの専門店がオープンしているのを見つけた。
――調は紅茶とかハーブティーよく飲んでるし、身体にも良いって聞くから綴にもよさそうだし、お土産にいいかもな……。
興味を惹かれ、お店へと足をのばす。ペパーミント……ローズヒップ……スカルキャップ……。お店の棚にはたくさんありすぎて、俺には何が何かわからない……。店員さんに聞こうかと周囲を見回したが、ほかのお客様の接客をしていて、誰もつかまらない。
仕方なくひとりで店内をみてまわっていると、その中で唯一、聞き覚えのあったカモミールを見つけた。
――これは確か、調が何回か出してくれたことがあるやつだ。
思わずそのパッケージを手に取り、スマホで調べる。
鎮静作用、安眠、ストレス緩和。効能としてはリラックス効果が高いらしい。
――これなら俺も飲んだことあるし、いいかも。
俺は二人が喜んでくれる姿を想像すると、少しわくわくした。
レジでお金を払う際に店員さんに、ラテが飲みやすいと教えてもらったので、帰りの電車で作り方を調べたのだが、アジトへと戻ると綴は眠っていて、調もまだ帰ってきていなかった。
――まぁ、渡すのはあとでも大丈夫だし、先にやらないといけないことをしちゃおう。
そう考えていたら……結局、色々と準備をしたりしている間に渡すタイミングを逃してしまい、そのまま次の日を迎えてしまった。
◆
調が起きていたら直接渡せばいいし、そうじゃなくてもキッチンにレシピを書き写したメモと一緒に置いてから出掛けようと思ってリビングへと下りたら、悠が朝食の準備をしていて驚く。
「……! おはよう、悠」
「あ、燎、おはようー!」
まだ早朝と言ってもいいくらいの早い時間なのに、元気が有り余っているのか、悠はとても明るい。
「早いね」
「うん。早く目が覚めたからね、調の手伝いしようと思って部屋に行ったんだけどいなくて、綴の部屋覗いてみたら、昨日の夜そばにいたみたいでさ」
「……綴、また具合悪いのかな……」
「うーん、どうだろ。あの感じはたぶん調の、心配性がでたんじゃないのかなぁ……」
そう言う悠は、どこか嬉しそうで。きっと二人の仲がいいのが嬉しいんだと思う。
みんなそうだけど、悠は特に二人のことを慕っているから。
「……なら……いいけど」
俺はふと、手に持っていたものを思い出す。
「そうだ。悠、これあとで綴と調に淹れてあげて」
調べたレシピのメモと一緒に、手渡した。
「どうしたの、これ……?」
悠は不思議そうに、大きな瞳をぱちりと瞬かせる。
「昨日、新しくお店が出来てて、そこで見つけたんだよ」
そう言えば、悠はにこにこと少し誂うような視線を俺の方へ向けてきた。
だけど特に何か言ってくることはなく、素直に受け取ってくれる。
向けられるその視線が、少しだけ居心地悪くて。
そんな視線から半ば逃げるようにして、時計に目をやれば、アジトを出ないといけない時間が迫っていることに気付く。
「じゃあ、いってくるね」
「はーい、お見送りするよぉー」
悠はそう言って、玄関まで見送ってくれる。
「調には、内緒にしてて」
そう言えば……と、少し照れ隠しのようなものを伝えてから扉を開けて、俺は殆ど逃げるように外へ出た。
「ふふっ。はーい、気をつけてねー!」
元気な声を背に、俺は一歩踏み出す。きっと、悠に任せれば大丈夫――。
◆
駅に向かう道中。悠が、初めてアジトへきた日の事を思い出す。
あの日。体育祭の練習か何かで、疲れてしまっていた俺はご飯を食べた後、そのまま眠ってしまった――。
ふと目覚めた時には、時計は二十一時を指していてた。俺は慌ててお風呂に入り、部屋へと戻ると調から一件のメッセージが入っていることに気付く。
その内容は、突然連れて帰って来た男の子に必要なものを揃えるため明日、綴と一緒にお使いへ行ってきて欲しいという内容――。
その子は悠と言って、桜と同い年だという。特に予定のなかった俺はすぐに了承し、その日は眠りについた。
そして翌朝、リビングへと降りた俺の目に映ったのは、ソファの端にちょこんと座る小さな姿。
星の輝きを放つ銀色の綺麗な髪と、宇宙を閉じ込めたような美しい紫色の瞳――。
「熱いかもしれないから、ゆっくり飲んでね」
その隣には調がいて、穏やかな眼差しを向けている。
「うん……」
悠は、小さく首を縦に振った。
マグカップを小さな両手で包み込むように持ち、そこからふわりと立ちのぼる白い湯気に、顔をうずめるようにしている。
「……あったかい」
そのあまりに美しい光景に、俺は思わず息を呑んだ。
銀色の髪は陽の光を受けて淡くきらめき、紫の瞳は湯気に溶け込むように静かに揺れていて。
眉目秀麗――。
夢幻泡影――。
明鏡止水――。
そんな言葉が次々と自然と頭に浮かぶが、そのどれもが目の前の子の美しさを表すには不十分で……。俺が知っている言葉なんかでは、到底足りなかった。
「おはよう、燎。ちょうどいいところに」
調に気づかれて名前を呼ばれたとき、ようやく我に返り二人のそばに近付く。
「はじめまして、悠。俺は、燎って言います」
視線を合わせて、手をそっと差し出す。
「……はじめ、まして」
悠は少し遠慮がちに俺の手を取って、小さな声で返してくれた。
「……悠の瞳、すごく綺麗だね。それに髪も……星みたい」
美しい髪と瞳に見惚れて思わずそう言った瞬間、悠の表情がぴくりと揺れる。
「……ほんと? ……俺のこと、気持ち悪くない?」
その問いに、世界が止まったような感覚がした。俺は言葉が出なくて、心臓は物凄く嫌な音を立てはじめる。
純粋に褒めたつもりだった。だけど、悠の反応は俺が予想打にしていなかったもので。
無神経なことを言ってしまったのかと、焦りで喉が詰まる。
「……そ、んな……誰かに……そう言われたことがあるの?」
視線を落とし、小さく頷いたその仕草に胸が締め付けられ、俺は必死に言葉を紡ぐ。
「気持ち悪いなんて、そんなこと絶対にない。俺は……本当に、綺麗だと思ったの。瞳も、髪も、見惚れるくらい……」
言いながら、心の底から出てくる言葉に自分で驚いた。
だけど、それ以上に伝えたくて。
髪とか瞳とか関係なく、悠が自分の見た目を「気持ち悪い」と刷り込まれていることが、俺は悔しくてたまらなかった。
「だから……そんなふうに思わないで。俺はね、本当に凄く綺麗だと思うの。その瞳と髪は、悠だけの特別なものだよ」
思わず熱を込めすぎてしまった自分の声に俺は、はっとする。
「……それにね、めちゃくちゃ格好良いと思う」
深く息を吸って、少し落ち着きを取り戻してからそう言うと、悠の表情がぱあっと、明るくなった。
「ほんと……?」
それまで不安げに揺れていた紫の瞳は、花が開くように輝きを増す。
俺は頷いて、悠の目をまっすぐ見つめた。
「ほんとだよ」
声に込める熱が、自然と強くなる。
「それにもし他の人が違うって言っても、俺は絶対に悠の味方だから」
「俺も、悠の味方」
ここまで静かに見ていた調も頷いて、同調してくれた。
「だから無理にとは言わないけど隠したり、嫌だなんて思わなくていいと思うよ。それも悠のいっぱいある個性の内のひとつ」
俺は悠の手を、そっと包み込み繋ぐ。
「……うん」
きゅっと握り返してくれて、悠の表情がふわりとほころぶ。頬にうすく色がさして、年相応の笑顔を見せてくれた。
その笑みは無邪気で、でもどこか儚さもあって胸が締め付けられる。
「……ありがとう、かがり」
その言葉が俺の胸の奥でじんわりと広がって、何度でも守ってやりたいと思わせるくらい、まっすぐ響いてきた。
「……じゃあ、おれも……かがりとしらべの、みかたになる……」
悠の顔はすごく真剣で、小さな体に似合わないほど一生懸命で。
「ありがと」
そう言いながら、俺は悠の髪にふれる。さらりと指の間をすり抜ける銀色の髪は、やっぱり星の光を閉じ込めたみたいにきらきらしていて。
「心強いな。悠が味方でいてくれるなんて」
「そうだね」
調の言葉に俺が頷けば、悠は一瞬きょとんとして、それから少し照れくさそうに視線を落とした。
「……だって。二人とも、やさしい……から」
「悠は、優しい子だね……」
調が微笑みかければ、悠の表情がかすかに揺れて少し見開かれた目をすぐに伏せてしまう。
「……おれ、そんなの……」
声は震えていて、言葉の先は続かない。
「……どうしたの?」
俺は思わず、眉を寄せてしまう。
悠は小さく首を振るが、唇を噛み、肩も震えている。その表情は、今にも泣いてしまいそうで。
「……おれ、ずっと、わるいこだって……言われてたんだよ……?」
その声は、苦しそうに震えていた。
「……やさしいこ、なんかじゃ、ないよ……?」
絞り出すような声に俺は、怒りと切なさが同時に込み上げる。
――どうして、そんなことを……。
だけど当時の俺はそれを上手く、言葉にすることができなくて。
何をどう言えばいいのか、わからない。
「悠」
そんな沈黙を優しく断ち切ったのは、調だった。落ち着きを帯びた声で名前を呼べば、その場の空気が変わる。
調はそっと、その小さな肩にふれて言った――。
「悠は、悪い子なんかじゃないよ。誰がなんと言おうと、俺はそう思う。だからね、そんな風に自分を責めなくていい」
悠はそっと、顔を上げる。紫の瞳には涙の膜が張っているが、視線は痛いほどに真剣だった。
「……ほんと?」
悠は、小さく唇を震わせて聞く。
「ん。ほんとだよ、それに俺だけじゃなくて、綴や燎も知ってるし、他のみんなも絶対にそう思う」
調は頷いて、まるで当たり前のことのように答えた。
刹那――。潤んでいた悠の瞳から涙が一筋溢れたが、その瞳は宝石のようにぱぁっと光を宿す。
その言葉は悠の心にまっすぐに届いたみたいで、俺はその横顔を見て、胸のもどかしさが少し和らいだ。
――調は、やっぱりすごい。悠にとって必要な言葉を、渡してあげられる。
俺も調のように、強くて優しい人になりたい。もう二度とこの子の優しさを、否定させたくない。
その美しさに見合う、純粋で、綺麗な心。俺はそれを守りたいと、強く思ったのだった――。
◆
今回俺が任された任務は、結果的に拍子抜けするほど何もなかった。
指定されていた建物は、すでに跡形もなく退去済み。
内部に人の気配なんてものはなく、廊下に設置されてあった監視カメラのログも途切れていた。
裏口も、屋上も、侵入の痕跡はなし。
――はぁ……。わざわざ、こんな遠い所まで来たのに。
「……こちら燎。対象地点には、何もありません」
報告を入れると、返事は短く返ってきただけだった。多少はこういうことも想定していたが、やるせない気持ちでいっぱいで。
今回は、引き上げるしかない。そう結論付けて俺は離れた位置にいた仲間のところへと向かうため、少し暗い路地へと入る。
そこでふと気付く――。
路地の奥に、何かが散らばっている。服のようにも見えるし、ゴミの山のようにも見えた。
最初は遠目に見えたのもあって酔っ払いの仕業かとも思ったが、周囲を見渡しても、人の気配はない。
静かすぎる――。
誰かが酔って転んだなら、物音がするはずで……倒れているなら、普通は呼吸や呻き声がある。
だけどそれが、一切ない。
それに落ちているものは不自然なほど、整っているように見える。
――気味が悪い。
どこか不穏な空気を察知し、背後や死角に神経を集中させるが、特に動きはない。俺はそのまま警戒を解かず、近づく。
そうすると、はっきりと見えた。服が……重なって落ちているのを……。
上着にシャツ、ズボン……それから下着。脱いだのではなく、着ていた形のまま崩れ落ちたような配置。
靴は殆どをズボンに覆われるようにして、履き口は上を向いたまま揃っていて、自ら脱いだような形跡ではない。
「人だけが、忽然と消えた」
そんな表現が、これ以上なく当てはまる光景だった。
俺は息を殺し、周囲をもう一度見回す。そこには争ったような痕も、血もない。引き摺られたりしたような形跡も、見当たらない。
「……まさか」
足を止めた瞬間。ふと調からの報告を思い出し、背筋に冷たいものが走る。
人が、溶ける……動画――。
人体にだけ作用して、それ以外には影響を与えないという能力。
聞いた当初は冗談めいた推測だと思っていたはずなのに今、目の前の光景がそれを否定しなかった。
ただ間違いなく、今ここには人体だけが存在しない。その存在だけが綺麗に、削ぎ落とされている。
――ここには……誰かがいたはずだ。
なのに溶けた痕跡も、焼けたような匂いもない。
――人が消えた……これは、明らかに別件……だよな。
俺は服の山から目を離せずにいた。世界は、こちらの都合なんて待ってくれない。
それは空振りに終わった任務の帰り道でさえ、例外じゃないのか。
ため息をひとつ落としてから、静まり返った路地で俺は、現状を待機中の仲間に報告する。
そして警察にも連絡を入れて、その到着を周囲の警戒を怠らずに待つ。その間にプライベート用のスマホを取り出し、調へと電話を掛けた。
五回ほど呼び出し音が鳴った後に、繋がる。
「燎? どうした」
調の声は、いつもと変わらなかった。それを聞いただけで、胸の奥に溜まっていた緊張が、僅かに緩むのを感じる。
俺は簡易的に状況を報告してから、電話を切った。
調の声を聞いて安心した、というのが本音。だけどそれと同時に、自分はもう大人なのに……と少しだけ自己嫌悪のようなものが過ぎっていった。
それに今は見ないふりをして、深く息を吐く。
しばらくして到着した警察の実況見分の際。人が消えたこと以外での大きな異常は特に見当たらず、酸性反応や、温度変化といったものも検出されなかったという。
長時間の拘束後。薄暗い路地を離れて舗道に出ると、日が落ちて冷えた夜の空気が肺に入ってきて、頭の中が少しだけすっきりとした。
歩き出して数歩のところで、不意に記憶が引き戻される。
昔の夢――。
それは、いつも同じところで終わる。大人になった今は殆ど見ることはなくなったが、俺がリヒトに来た当時はそうではなかった。
そして夢の直後は起きた世界が夢か、現実か判別できなくて、怖くて。
そう言う時。恐怖を一人で抱えていられない俺は、とにかく気をそらしたくて。うまく吸えない息を必死に落ち着けてから、軽い酸欠でふらふらとする頭を抑えて階段を下りる。
半ば倒れ込むようにしてリビングのソファへと座り、いつもみんなと居る場所で過ごす。
もしかしたら、誰か起きているかもしれない。僅かに期待して……そうすると、少しだけ怖くなくなる。
「……燎、眠れないのか?」
そしてそうしている時、なぜかいつも調だけは気付いてくれた。
蜂蜜たっぷりのあまいホットミルクを作ってくれて、そっと隣にいてくれる。その指先から伝わる熱が、胸の奥の冷えを溶かしていった。
それが俺にとっては、凄く安心できて――。
◆
ふと手に持ったままだったスマホに、通知が来ていた事に気付く。
「お疲れさま。二人とも喜んでたよ」
そんなメッセージが、悠から来ていた。
――よかった。
返事を返してから、スマホの画面を閉じる。
悠と初めて会ったあの時、俺ができることは多くはないかもしれないけど、できることは全てやりたいと強く思った。
悲しいとか辛いたことだけじゃなくて、嬉しいや楽しいという気持ちをたくさん経験してほしい。
もっと、自分の事を大切にしてあげてほしいと。
◆
あの日は、悠と少し話した後。いつも通り葵と朝ご飯を食べて、二人分の食器を持って降りてくると、和が悠の痣を治癒していた。
それを見守った後、俺と和はそれぞれ悠と桜の着替えを任され、そのまま和たちと一緒に桜の部屋へと戻る。
今日の買い出しの時はとりあえず、桜の服を悠には着てもらうことになった。
「桜は今日、何の服がいいの?」
和が桜の方へ向いてそう聞けば、にこにこと嬉しそうに言う。
「まえにつづりがほめてくれた、むらさきのがいい!」
「紫……あぁ! これ?」
「そう!」
二人はわちゃわちゃとしながら服を選んでいく。桜が選んだのは、紫の襟付きシャツに膝丈のズボンのセットアップのもの。
綴はおしゃれなのだが、派手……というか個性が強めの洋服をよく着ているイメージがある。
そんな綴が買ってくる桜の洋服も、必然的に個性的なものが多い。
そして調も実は服にこだわりがある人なので、そういうのもあって、二人は相性が良く仲がいいのかもしれないと俺はいつもこっそりと思っている。
そう言う俺はあまり興味はなく、和も似たような感じで、デザインよりも機能性を重視したいと言っていた。
葵の場合は興味もあるし、選ぶものは全てセンスを感じるが、他人にあまり関心を示さない。
なので誰もそこにツッコむことはなく、順調に桜にもそのセンスが受け継がれつつあるようだった。
――やっぱり桜は素直だな。大好きな綴に褒められた服をちゃんと覚えていて、迷いなくそれを選ぶ。
「悠は、何色が好き?」
そんな賑やかな声の横で俺も、悠に聞いてみた。
「……みどり」
少し考え込んだあと、悠は小さく答える。
「緑か……じゃあ、これはどう?」
俺は桜のクローゼットの中から、グレーっぽいデニム生地の膝丈ズボンに、緑のチェックスカーフが腰元に垂らされているものを取って見せる。
「この上に、この白いシャツとかだとあまり派手すぎないかな……って」
一緒に襟のない黒のボタンが付いた、白色のシャツを見せてみた。
綴や調みたいにセンスがあるわけじゃないけど、少しでも悠に似合いそうなもの……と必死に考えたのだが……どうだろうか。
悠は少し服を見つめたあと、そっと俺の方を見て言った。
「……おれ、それがいい……かがりがえらんでくれたの」
その控えめな言葉が頼りにしてもらえたみたいで、嬉しくて。
「ありがとう……これ、着てみてくれるかな?」
順番に服を渡せば、少し緊張した面持ちで袖を通していく。
下の方のボタンは小さな指で上手にとめていたのだが、首元にある一番上のボタンだけがうまくとめられないようだった。
「んー、……」
小さな指が布とボタンを何度も行き来して、でも穴に通らなくて、小さな肩が強張り始める。
「……っ」
悠は焦りからか、だんだん瞳に涙がたまってきて、泣きそうなのをぐっと我慢しているのに、助けてって言おうとしない。
きっと悠は弱音を吐けない環境に、慣れてしまっているのだろう。
「悠」
俺が名前を呼べば、びくっと肩を揺らし、こちらを見上げてくる。
その瞳には悔しさと、僅かな恐怖が混じっているように見えた。
俺も今の悠ぐらいの頃、ボタンをとめるのは苦手だった。自分で出来ないのが凄く悔しくて、でも諦めるのも嫌で意地になってしようとすればするほど上手く出来なくて。
だけどそんな時はいつも母さんが優しく手伝ってくれて、出来た時はいっぱい褒めてくれた。
「ボタン、手伝ってもいい?」
俺は出来ないことを責めないように、追い詰めないように柔らかく伝えることを意識する。
悠は一瞬だけ迷うように視線を彷徨わせてから、小さく頷いた。
俺はしゃがみ込んで、そっと襟元に手を伸ばす。
「一番上のとこ、難しいよね」
俺に母さんがしてくれていたように、優しく慎重にボタンを穴に通す。
手伝う側は思っていたよりも難しくて、手先が震えそうになるけど、悠を絶対に不安にさせたくなくて頑張る。
しっかりボタンは穴を通り、上手くとめられた。
「よし! できたよ、がんばったね」
そう言って軽く首元を整えてから、小さな頭を優しく撫でる。
「……ありがとう」
悠は目元を赤くしたまま、微かにそう呟いた。
「どういたしまして」
悠はとめてもらったボタンのところを、そっと指でふれた。その小さな背中は、まだ少し緊張しているのがわかる。
「ねぇ、悠」
俺はしゃがんだまま、彼と目線を合わせた。
「困ったときは、助けてって言っていいんだよ」
その言葉に悠は目を丸くした。それはまるで、初めて聞いたみたいに。
「じぶんのことは……じぶんで……やらなきゃ、わるいこだって……」
ぎゅっと小さな手を握る、悠。
「それに……いままで……だれも……たすけてくれなかった……」
その瞳には涙の膜が張っていて、戸惑いを隠しきれていない。
俺は胸が締めつけられるのを感じながら、静かに首を振る。
「そんなことないよ、悠は悪い子なんかじゃない。それにね、一人じゃできないことも、誰かと一緒なら出来るようになるかもしれない」
「……そう……なの?」
不安そうに言う悠。
「うん、そうだよ」
「たすけては、わるいことじゃない?」
「悪いことじゃないよ。それで綴も、調も、和や葵、桜だって悠のことを嫌いになったりしない。もちろん俺もね」
「だからね、これからは助けてって言ってもいいんだよ」
俺の言葉を聞く悠の目は揺れていた。信じたいけど、信じるのが怖い……そんな迷いが見える。
「さっきね、俺に手伝わせてくれたみたいなのでいいの」
一瞬きょとんとしたあと、悠は小さく頷いた。
「わぁー! 悠、すごく似合ってるね!」
それからズボンと靴下も履いてもらったら、悠の姿を少し離れたところで見ていた和が、声を弾ませて近づいてくる。
花が咲くような満面の笑みで顔を覗き込まれて、思わず視線を泳がせている悠。
「調と綴にも見せてあげなきゃ! はやく行こ! 燎、悠!」
「ぼくも、つづりにみせる!」
そう言って二人は、先にリビングへと降りていく。
「俺たちも行こうか」
手を差し出せば、小さく聞かれる。
「……変じゃない?」
「大丈夫、すごく似合ってるよ」
その瞬間、悠はふっと表情を緩めて嬉しそうに笑ってくれた。小さな手が、俺の手をそっと握る。
リビングへと降りると調の姿はなくて、綴だけ。
「あ、きたきた!」
待ってましたと言わんばかりの和と、綴に抱っこされてご満悦な桜。
「おぉー! そのお洋服、よく似合ってるね、悠」
桜のことを優しくソファに降ろしてから、悠の目の前に来た綴。
「ねぇ、ぼくは? ぼくも、にあってる?」
ソファに立ち上がり、桜は自分の紫の服をひっぱりながら綴に言う。
「うん、桜もすごく似合ってるよ」
綴が笑ってそう言うと、満足そうな桜。
そんな様子に悠の表情も少しずつほぐれて、どこかぎこちなさのあった笑みが、自然なものに変わっていく。
――よかった。俺は、ほっと一息つく。
一通り話したあと、和と桜は部屋へと戻っていった。
先に家を出る予定の調を見送るため、綴と悠と一緒に待っていれば、それからしばらくしていつも通り完璧に身支度を済ませた調が、リビングへと戻ってきた。
「……! 悠、よく似合ってるね」
「……あ、りがと」
嬉しそうに頬を染める、悠。それを優しく見守っている、綴。
「……悠、今日一緒に行けなくてごめんね」
調は悠の目線に合わせてしゃがみ込み、小さな手を握る。
「……うん。おれは、だいじょうぶ……だから、おしごとがんばって」
声には不安が滲んでいて隠しきれていないが、調に心配をかけないように悠は頑張っている。
そして調もそれに気付いているが、任務を放棄するわけにもいかなくて、少し眉を下げていた。
「ありがとう、頑張ってくるね。それに綴と燎が一緒なら絶対に大丈夫だから、楽しんでおいで」
「……うん、わかった」
――悠の感情には、俺も覚えがあった。
母さんが仕事に行ってしまう時。少しでも一緒にいたかったから、どんなに早くても、遅くても俺は必ず見送った。
だけど、そうすればもっと寂しくなる。ただ一緒にいたいだけなのに、一人になった時すごく苦しくなる。
永遠の別れでもなくてたった数時間、離れるだけなのにひとりぼっちで、置いていかれるみたいで凄く不安になった。
胸が、きゅっと痛んだ――。
大人に甘えることを許されずに過ごしてきたせいで、悠の寂しさは俺なんかが想像できないほど大きい。
その気持ちをどうやったら埋めてあげられるのか、俺には正解が分からない。
「じゃあ、悠。行ってくるね」
玄関までついて出てきた悠に調が靴を履いてから、柔らかく声をかける。紫の瞳は、わずかに揺れていた。
「……いってらっしゃい……」
小さな手はぎゅっと握りしめられていて、寂しさを我慢しているのがわかってしまう。
わがままなんて言わない。ただそばにいてほしいだけ。けれどそれが本当は一番のわがままなのではないかと思って、あの時の俺も母さんに言うことが出来なかった。
悠の姿を過去の自分と重ねてしまい、俺も苦しくなる。胸の奥でもどかしさを抱えて、ただその横顔を見つめていた。
「三十分後くらいに集合にしようか」
調を見送ったあと、綴はふわりと笑って悠の頭を撫でてから、俺の方を見ていった。
「わかった」
「じゃあ、また後でね」
綴はそう言って着替えるために部屋へと戻り、その場には俺と悠の二人が残る。
準備ができていた俺たちはテレビを見ながら綴を待っていたのだが、悠は調が家を出た後も寂しそうに玄関の方を見つめていた。
その姿に俺は、つい言葉をこぼす。
「……ねぇ悠、抱っこしてもいい?」
悠は、ぱちっと目を瞬かせて俺のことを見上げ、驚いたような表情のまま、少し間を置いてから聞いてきた。
「……だっこ……いいの?」
「もちろん、おいで」
俺はそっと、腕を広げる。悠はこくんと頷いて、そばに寄ってきた。
きゅうっと小さな手を俺の首の所に回して、少し遠慮がちにくっついてくるこの子を、守ってあげたい。
「……ありがと」
かすかな声が耳元に落ちてきて、俺は胸の奥がまた熱くなるのを感じて、もっと堂々と甘えてもいいと思ってもらうために頑張ろうと決めた。
そして、約束の三十分を過ぎた頃――。
なかなか降りてこない綴を不思議に思って、様子を見に行こうと、悠のことを抱っこしたまま立ち上がる。
階段を途中まで上がったくらいのところで、桜の泣き声が聞こえてきた。
――やっぱり桜に、お留守番は難しいかな……。
「さくら、ないてる……どこかいたい、のかな?」
その声を聞いて、悠は心配そうに眉を寄せている。不安の感情が大きくなってきたのか、俺の服をぎゅっと掴んできた。
俺は一旦、悠を落ち着かせるためにそのまま階段を降りて、リビングへと戻る。
「悠、ジュース飲もうね。りんごとオレンジどっちがいい?」
「……りんごが、いい」
俺はコップを二つ出して、冷蔵庫から取り出したりんごジュースを注ぐ。
「はい、どーぞ」
おそるおそる両手で受け取った悠は、少しずつ飲む。
「……美味しい?」
表情はまだ少しこわばっていたが、俺がそう聞くと悠はこくんと首を縦に振った。
少しして、悠が落ち着いた頃合いを見計らって綴の様子を見に行くことにする。
「ごめんね、悠。少しだけここで待っててくれる?」
「……うん」
不安そうに紫の瞳は揺れていたが、すぐに小さく頷いてくれて。それから俺は綴のもとへと向かったんだよな……。
あの時、あんなに小さかった子が、と思うとすごく不思議な感じがして――。
◆
そんな記憶を思い出していると、やっと住み慣れたアジトが見えてくる。
本当は任務のために訪れた隣県で、一泊する予定だったのだが今日の朝、数時間かけて来た道のりを、俺は同じ時間かけて戻ることにした。
どうしても、アジトに帰りたくて。結局、着いたのは二十二時を回ったところだった。
——疲れた……やっと帰ってこれた。
いつもより少しだけ多い荷物を下ろして俺は靴を脱ぎ、音を立てないように玄関とリビングを隔てる扉を開けるとそこには、湊の姿。
「あ、おかえり。燎くん」
「ただいま……」
「お疲れさま。調さんが、ご飯用意してくれてるけど食べる?」
「……ありがとう。食べるよ」
「わかった。温めとくから、着替えてきたら?」
そう言って、湊は立ち上がりキッチンへと向かう。俺はその言葉に甘えて、一度部屋へと向かった。
荷物を置いて、着替えて戻ってくると調と綴の姿もあって驚く。
「おかえり」
キッチンに立つ調の、穏やかな声。
「おかえり、燎」
ダイニングテーブルに座る綴の、柔らかい声。その手には湯気の立つマグカップ。
「ただいま……綴、体はもう大丈夫なの?」
「うん。もう、だいじょうぶだよ」
そう言って、ふわりと笑った綴の表情に嘘はなくて。
「綴も、食べるか?」
調はキッチンで湊の分の夜食を作っているのか、何か作業をしつつ、声を掛ける。
「うん。ちょっとだけ食べたいなぁ」
「わかった」
――この空気、すごく安心するな。
その光景をぼぉーっと見ていたら、湊にダイニングテーブルへと連れて行かれる。
「ほら、座って、座って」
すでにそこには、料理が並べられていた。チキンソテーにクシ形に切られたトマトの入ったスープとサラダ。
疲れすぎて忘れていたが、目の前のごはんに空腹を思い出し、お腹がなった。
「燎、白米も食べる?」
「うん、食べる」
そう答えると、調は優しく微笑んでくれる。
「湊、できたから持っていってくれる?」
「うん。ありがとう、調さん」
そんなやり取りの後、みんなでダイニングテーブルを囲う。
湊と綴の夜食として調が作っていたのは、焼きおにぎりを使った出汁茶漬け。
調は冷凍庫に作り置きされてあったものを解凍しただけだと言うが、俺が作ったら絶対こうはならないと思う。
綴は半分ほどを食べ終えた時、箸をおいた。
「……もう、おなかいっぱい」
少し申し訳なさそうな声。
「いいよ、俺が食べる」
それを聞いた調はそれだけ言って、何の迷いもなくお皿をすっと引き取った。
別にそれ自体は、珍しいことではない。少食な弥が食べきれなかったパンや、小さい頃にご機嫌斜めで大泣きした後に桜が手放したおにぎり。悠が途中で眠ってしまい残したお昼ご飯のプレートなんかを、調は特に何も言わず引き取る。そんな光景を今まで何度も見てきた。
調は相手を特別扱いしないふりをして、だけど一番弱っているところを、きちんと拾い上げることができる人。
ただ桜も、悠も成長したし、弥も人並み程度には食べられるようになってからは殆ど見なくなり、頻度は減っていたから、この光景は久しぶりに見たような気がする。
綴と調に助けられた俺が、悠に居場所を渡したいと思ったのは、偶然なんかじゃない。
こういう何気ない光景を、ずっと見てきたから。
そして俺は今日見たあの光景のことを、口にしたのだった――。




