守る覚悟を決めた日。 調side
今朝、燎に綴を任せた後。俺は縁と動画の撮影場所と思われる所へ向かった。
撮影されたとされる通り自体には、人はそこまで多くはなかったのだが、少し歩けば駅は近いし、比較的大通りに面している。
動画がサイトに上げられたのが、四日前――。
「そりゃ、四日も前なら証拠なんて残らねぇか」
縁が半ば、ひとりごとのように言った。
確かに動画の背景と、一致はしている……だが、何もない。
血の跡はもちろん、能力を使われた形跡すら、感じ取ることができない。
時間が経っているとはいえ、ここまで何も残らないのも不自然で。
塀にふれてみても特に違和感はなく、まるで最初から何も起きていないみたいだった。
「撮影者に連絡は?」
「……取れません」
事前に調べたところによれば、動画が撮影されたとされる部屋の住人は、すでに退居済みだという。
古いアパートの一室は、すでにもぬけの殻の状態。
管理人に話を聞いたところによると家賃の振込がなかった為、連絡を取ろうとしたが電話が繋がらなかったので、直接部屋を訪れた所、玄関に鍵と一ヶ月分の家賃が置いてあったという。
撮影者は、どこに姿を消したのか。自ら逃げたのか、それとも消されたのか。
動画を撮るのに至った経緯は、何だったのか。ただ偶然居合わせ異状な光景を前に、咄嗟にカメラを向けただけなのか。
或いは……撮らずにはいられなかったのか……。
その他に被害者が一般人男性だということまでは、判明している。
ギフトでもなく、関係者でもない。怨恨なんかの線も薄い。
こちらも撮影者同様……偶然、ただ居合わせただけの可能性は高い。
「アカウントに動きはなく、それ以外の投稿もありません」
「撮影者も、被害者も巻き込まれたのかもしれないな……」
どちらも能力者の世界とは、無縁だったはずで。
だけど何らかのきっかけによって、こちらの世界へと足を踏み入れてしまったのだろう。
このまま放っておけば、動画は拡散し続ける。そうなれば恐怖は伝染し、その火は燃え広がり続ける。
しかもそれは「善意」や「好奇心」という止めようのないものを媒介にしていて、それは静かに、確実に世界を侵食していく。
ブブッ――。
スマホが振動し、ディスプレイを見ればそこには「燎」の文字。
「燎、どうした?」
「調、今大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ」
そんなやり取りで、燎が様子を見て掛けてきてくれたのがわかる。
「綴、朝よりかは体も楽になったみたい。顔色もちょっとよくなってる」
簡潔な報告。やはり燎に任せて正解だった。
「そうか……ありがとう」
「でね。俺必要なもの買うの忘れてて、ちょっと出ようと思うんだけど……和が帰ってくるまで少しの間、綴ひとりにしちゃうから、一応報告……」
――本当に、律儀な子だな。
「わかった。俺も出来るだけ早く帰る」
「うん。気をつけてね」
「……あのさ」
通話を切ろうとした時、燎が少しだけ言い淀む。
「どうした?」
「……俺が綴にしてあげられることって、何があるのかな」
きっと電話の先の燎は不安そうな顔をしているんじゃないかと、直感的にそう思った。
「そうだね……看病のために色々してあげるのも勿論だけど、一番はそばにいてあげるだけでいいと思うよ」
俺は、深く息を吸う。
「……きっと、それだけで十分」
電話を切った後、画面が真っ暗になる。
「綴のことか?」
隣を歩いていた縁が、何気ない調子で聞いてきた。
「……まぁ。ですが、ご心配には及びません」
言葉を選んだつもりだったし、それは事実でもある。
「ふぅん」
縁が、わざとらしく間を置く。
「お前……綴のことになると、ほんと俺に当たり強いなぁ」
それは、誂うような口調だった。
「あなたの気の所為だと思います」
「ははっ、まぁそういうことにしておいてやるよ」
縁は楽しそうに笑う。
「普段は冷静なくせに、綴のことになるとなぁ……」
くつくつと喉を鳴らして、こちらを見る。
「心配しなくても、お前から取ったりしねぇーよ。じゃあ、後はよろしくー」
そう言って縁は、ひらひらと手を振りながら帰って行った。
――はぁ……本当にあの人は適当だな。
その背中を見ながら、思う。
――綴が笑っていられる居場所は、俺が守る。
その覚悟だけは誰にも譲るつもりはないし、それにそもそも綴のことを、あの人に渡す気はない。
奪われないように……離れていかないように。
◆
縁の姿が見えなくなった後、俺はもうひとつ。調べておかないといけないものがあり、そこへ向かうために足を踏み出した――。
そしてその帰り道、食材や必要なものを揃えるためにスーパーへ寄って買い物をしていた時――。
何年か前、珍しく燎が体調を崩したことがあったのを俺は、ふと思い出す。
◆
あの日突然、そこそこの音を立てて開かれた自室の扉――。
俺が振り向くよりも先に、声が飛んでくる。
「ねぇ調! 雑炊の作り方教えて!」
その犯人……綴の、開口一番はそれだった。
――また唐突な……。
「……お前、料理できねぇだろ」
「そこをなんとか! お願い、調! 燎、ご飯食べられそうなんだって」
「駄目だ」
「そこをなんとか……」
お願い! なんて手を合わせて言ってくるこいつは、如何せん料理ができない。
「……お前この間、キッチンとんでもないことにしたの忘れてねぇからな」
綴は……米すら炊飯器で炊けないレベルの料理音痴だ。
少し前に和が体調を崩した時、俺は桜と湊を連れて任務に出ていたし、頼みの燎も弥と悠を連れて別任務にあたっていて、葵も私用で外出していた。
和の体調不良をいち早く察知した綴はスマホを片手に雑炊を作ろうとしたようなのだが、何をどうしたのかキッチンは酷い有様になっていて、帰ってきてすぐ異臭に気付いた湊によって、その状態が発覚したのだった。
鍋は真っ黒になり、床は水浸し。
焦がした鍋を前に、どうしていいのか分からなくなった綴はひとりで狼狽していて、俺はその惨状に開いた口が塞がらなかった。
「……それは、すみません……」
結局、その日は俺が雑炊を作り、それを桜に届けてもらった。
申し訳ないが湊にも協力してもらい、任務後の疲れた状態でそこから約二時間かけて掃除しないといけない羽目になり、俺の中に苦い思い出として残っている。
「でも、俺も調みたいに作れるようになりたいんだよぉ……」
徐々に小さくなる綴の声。こいつはいつだって、自分より周りの事ばかり。
こいつは、本当に馬鹿なやつだ。そして俺も、それを放っておけない馬鹿だ。
「……わかった。ただし、俺の指示以外では絶対に動かないこと。それが、出来ないなら俺が作って持って行く」
俺がそう告げると、綴は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「……! ありがとう、調」
それから二人並んでキッチンへと立ち、鍋に火をかける。
俺は綴でも出来そうな簡単な作業をいくつか任せ、調理を進めていく。
綴は約束通りそれ以外のときは隣で大人しくしていて、俺の動きを真剣に見つめているその姿は、小さい頃の悠や桜のようで、少し微笑ましい。
「できた!」
完成したものを燎の部屋へと持っていって、戻ってきた時、あいつはとても嬉しそうな顔で笑ったんだ。
「調! 燎ね、美味しいってぜんぶ食べてくれたよ」って――。
確かに綴の言う通り、当時の燎が体調を崩すのは珍しかった。
俺の記憶にあるのは、十年以上前に燎がリヒトへ来て翌々日からの数日間の間だけ。
助けた翌日の時点で熱は下がっていたし、軽く頭痛があるとは言っていたが、無理をしているような様子もなくて……。
だからあの時の俺は正直、少し安心していた――。
表面上は大丈夫そうに見えていたからと、少し油断してしまっていた。
冷静に考えれば母親のことがあったのだから、簡単に安定するわけなんかなくて。
俺は出来る限りこまめに燎の様子を見に行ってはいたのだが、学業の合間に稽古をこなし、それと並行して任務にも同行していた。
綴に至っては、そこへ桜のお世話も入ってくるから、時間は常に足りない。
俺が覚えているその記憶の時だって、燎の様子を自分が見ると言って綴を桜と一緒に寝かせたのに、気付けばソファで眠りこけてしまっていた。
夜中にふと目が覚めて、時計を見れば日付が変わっていたから、眠る準備を済ませてから俺は燎の様子を見に行く。
部屋の前について、そっと部屋の扉を開けるとそこには魘されている燎の姿。
慌ててそばへ駆け寄ると呼吸は荒く、額には汗が浮かんでいた。
「燎、起きて」
軽く体を揺すると、熱に浮かされたような潤んだ瞳が現れる。
ふれたところからは高い熱が伝わってきて、俺は熱を発する額に、手を当てた。
――かなり、高熱だな。
意識が覚醒したことにより辛さを自覚したのか、起き上がることの出来ないほどの頭痛に呻き、泣く燎。
譫言のように、母親を呼び続けるその姿に胸が締め付けられてしまう。
夜通しそばにいて、朝方ようやく呼吸が落ち着いた燎は、眠りについた。
それから数日の間、燎は体調の波に振り回されたが、以降は大きな不調を目にすることは減っていった。
十五年以上一緒にいるが、燎は「見せない」という事が上手い。年齢を重ねるにつれて、なおさら。
本当はただ隠していただけなのかもしれないが、能力を完全に使いこなせるようになってからは殆ど見ていないような気がする。
どちらかと言えば、体調を崩しているところよりも、眠れない事が多いという印象の方が俺としては強かった。
母親を自分の能力によって殺してしまった燎は一時期、不眠症状に悩んでいたことがある。
俺たちが住むアジトは、三階建ての建物だ。
一階はリビングとキッチンが一続きになっていて、みんなが集まるそこは賑やかなことも多い。
二階には個人部屋として七部屋、三階にも六部屋あってそれぞれの階に風呂とトイレが設置されてある。
三階には洗濯物を干せるサンルームなんかもあってそこはよく日差しが差し込むし、地下には鍛錬場も設置されていて、燎や湊は時間さえあればそこで鍛錬をしていることが多い。
建物自体は長方形の造りをしていて、中央には広い中庭がある。
そこにはプールやハンモックなんかもあって、外部からの視線を気にしなくていいような作りになっているので、悠や桜は小さい頃からよくそこで遊んでいた。
そして湊や弥が、リヒトに加入するより前――。
昔は縁や纏さんも住んでいたのだが、俺と綴が成人を迎えたのを機に「子守から解放されたい」と言い引っ越していった。
けれど本当の理由は縁なりの下の子たちへの気遣いだったのだろうと、今では思う……纏さんは、多分巻き込まれただけ。
今は俺と綴、燎が三階。後の子たちは、二階に部屋がそれぞれある。
アジトは今でこそ笑い声が絶えないほどに賑やかになったが、燎が来たばかりの頃は違った。
縁や纏さんは日々任務が忙しく、アジトへは寝に帰ってくるようなものだったから、俺と綴の二人とまだまだ幼かった桜しか基本的にアジトにはおらず、空室ばかりで閑散としていた。
当時、綴は四歳になったばかりの桜の面倒を見ることに必死で、初めてだらけの慣れない子育てに追われて、正直余裕なんてなかったと思う。
燎の事も気にかけていたようではあるが、自分の事に加えて一日中際限なくある桜の世話をして、夜は寝かし付ける。
そして疲労からそのまま一緒に寝落ちてしまうような日々の中では、燎が眠れない夜を抱えていることに気付けるはずもなかった。
俺ですら、目まぐるしい日々を過ごすのに必死で。
あの頃の燎は……自分の能力を嫌っていて、母親を殺してしまった炎を憎みながら、それでも捨てきれずに抱えていて、自分が力を使えばまた誰かを傷付けてしまうのではないか。
燎はそれをずっと恐れていたし、俺はその矛盾に苦しみ続ける姿を、何度も見てきた。
まだ幼いその背中に見合わない、あまりに重すぎるもの。
その不安や辛さを俺や綴に悟られないようにと笑って見せていたが、その瞳に滲む迷いや怯えの色は隠しきれていなかった。
だけど当時の俺には、どう声をかけてやればいいのか分からなくて。
綴のように器用に寄り添えるわけでもなく、気の利いた事を言えるわけでもない。
あいつはどんな時でもふわりと笑って、その柔らかい声で迷いや不安ごと溶かしてしまう。
そしてそれは今でも変わらず、燎だけではなくて、桜や悠には勿論。和や湊、葵や弥が体調を崩したときも、そっと甘える時もあいつは迷わず手をのばしてやれる。
そういうことを当たり前にできるのが、綴だ。
俺にはそれがうまくできないから、結局黙って見守り、必要とされれば手を貸すことしか出来ない。
だから燎が自分の力のことで悩んでいた時も、そうだった。
◆
夜中に目が覚めて喉の渇きを覚えた俺は、水を飲むためにリビングへと向かう。部屋の照明は落とされているのに、控えめなテレビの音だけが静かに響いていて、不思議に思いながらもソファの方に目をやれば、体を小さく丸めて膝を抱え込むようにして座る燎の姿――。
「……燎」
「しらべ……?」
燎の声は、少し掠れていた。
「どうした? 眠れないのか?」
「……うん」
声をかける事を本当は一瞬、躊躇った。綴のように、自然に近づいて慰められる自信が俺にはなくて。
だけど、そのままにすることもできなくて。
「燎、牛乳大丈夫だったよね?」
「……うん」
「わかった。ちょっと、待ってて」
キッチンへ行き、小さな鍋に火をかけて牛乳を温める。
少しでも温かさを感じて、安心してもらえるようにと願いを込めながら、燎の分には蜂蜜をたっぷり入れて甘くした。
「……これ」
マグカップをふたつ持って戻り、片方をそっと差し出せば燎はそれを受け取ってくれた。
俺も隣に腰を下ろし、マグカップに口を付ける。体の中に温かい感覚が通っていくのが分かり、その熱は体だけではなく心にも届いていくみたいだった。
「……ありがとう」
燎は、小さく呟いた。
「どういたしまして」
俺は無理に話を聞こうとはせず、少しだけ他愛のない話をした。
甘い蜂蜜が効いたのか瞼が少しずつ重くなり始めた燎を、そっと抱えて部屋へと連れて行く。
ベットへと寝かせ、俺も自分の部屋へ戻ろうとした時。その手が俺の袖を引き留める。
「……しらべ、今日だけ……その、一緒に寝てほ、しい」
寂しさの滲む声音。ここで断れるやつは、たぶん人間じゃないと思う。
その日柄ではないが一緒に眠ることになり、燎の体温に俺もひどく安心できて、いつもより深く眠れたような気さえした。
そしてそれから、頻度こそ多くはないが燎は少しずつ、俺に対しては甘えてくれるようになったと思う。
俺はそれが本当は、嬉しかったりする。
まぁそれは、俺だけの秘密なのだが――。
悩んだり困ったりしている時に必要なのは、必ずしも言葉ではないということをあの夜知って、今はそれでもいいのかもしれないと思えるようになった。
綴が輝く光なのだとすれば、俺は影になるのだと思う。光があるから影は際立つし、逆もまた然りだと思っている。
苦しさを変わったり受け取ってやることはできなくても、その重さを分け合うくらいは俺にもできるはずだと。
そして燎はリヒトで過ごすうちに、少しずつ変わっていった。
共に過ごす穏やかな時間や、下の子たちが入ってきたことによって生まれた誰かを守りたいという温かな気持ち。
それらが少しずつ、力への抵抗を塗り替えていったのかもしれない。
今ではその力は俺たちに欠かせない主戦力となったが、燎は能力に頼るだけではなく血の滲むような鍛錬を重ね、身体そのものも鍛え上げてきた。
あの夜眠れなくて体を小さく丸めていた少年は、今では頼もしい仲間に成長した。
◆
だから少し前。燎に稽古を付けてほしいと頼まれたときは、正直凄く驚いた。今の燎なら俺じゃなくて、誰とでも渡り合えるはずで。
「調だから、お願いしたいんだけど……だめ、かな?」
そう言われた瞬間、思わず視線をそらしてしまった。俺にだから頼みたい。
そんな真っ直ぐな思いが、伝わってきて目の奥がつんっとした。
母親の事を助けることが出来なかった俺に、燎が頼る言葉をくれるとは思ってもみなかったから。
それを、断れるはずもなく俺たちは向き合う。
「じゃあ、始めるよ」
俺はそう声をかけながら、自然と口元が緩んでいた。
互いに汗を散らしながら、何度も間合いを詰め、受けて……返して。
攻撃を繰り出すたび、その精度は上がっていき動きは鋭くなる。
やがて一通りの稽古を終え、肩で息をしながらタオルで汗を拭っていた時――。
隣で同じようにしていた燎が、ふとこちらを見て言ったのだった。
「あのね、調。その……昔のことなんだけど……」
その言葉に思わず、手の動きは止まってしまう。燎の方へと視線を向ければ、真剣な眼差しに射抜かれた。
「あの時は、助けてくれて、そばにいてくれて……本当にありがとう」
「……っ」
それは事故が起こったあの日の事か――。
それとも、夜通し看病をしたあの時か――。
ホットミルクを一緒に飲んだことか――。
燎がどれの事を指しているのかは、わからない。
それでも滅多に揺れたりしないはずの俺の心は、いとも簡単に揺さぶられてしまって、涙へと変わる前に顔をタオルで覆い息を整える。
余計な感情を見せてしまわないように――。
「……あぁ」
返事をしようとしたが喉が詰まったように声が出なくて、そう答えることが精一杯だった――。
◆
スーパーの閉店を知らせる蛍の光によって俺は記憶から引き戻される。
急いで必要なものをカゴに入れて、会計を済ませて帰宅の途に付いた。
リビングの扉を開けた時、控えめなテレビの音が耳に届く。
綴のそばには悠と和がいてくれた。
和はソファから少し離れたところにあるダイニングテーブルで片耳にイヤホンをした状態で、ノートに向かい勉強をしていたようで、俺に気付くとすぐに顔を上げ、微笑んでくれる。
「おかえりなさい、調」
「ただいま、和」
悠は綴と一緒に映画を見ていたんだろうけど、任務の疲れもあって眠ってしまったのか、穏やかな寝息をたてていた。
――映画を観ていたのはきっと、綴の気分転換になればと悠なりに考えてくれたものだろう。
そのおかげか綴も隣で安心したように、眠っていた。
「ごめんね、あの映画が終わったら起こすつもりだったんだけど……」
そう言って少し眉を下げる和。だけど、二人にはきちんとブランケットが掛けられていたから、和はしっかり様子を見てくれていたのだろう。
「いや、助かったよ。任せっぱなしでごめんね」
「そんなことないよ。僕が好きで、そばにいたんだから」
「そうか……ありがとう、和」
「いえいえ。燎は今、お風呂入ってるよ」
「わかった。あとは俺に任せて、和も部屋へ戻りな」
「うん。何かあったら、いつでも呼んでね」
「あぁ、その時は頼む」
和はダイニングテーブルを綺麗に片付けてから、にこりと笑って、部屋へと戻っていった。
それからしばらくして。
「おかえり、調。お疲れさま、俺も手伝うよ」
買ってきたものを冷蔵庫へとしまっていた時、燎に声をかけられる。
「ただいま、燎。ありがとう」
俺がそう言えば、燎は目尻をたらして安心したようにふにゃりと笑う。
「そういえば……」
燎がふと思い出したように言った。
「今日ね、葵が自分のカーディガンを綴に掛けてあげてたんだよ」
その言葉に、俺の手が一瞬止まる。燎は何でもないことのように言ったが、それが何でもないことでないというのは、燎もわかっている声だった。
「……そうか」
俺は、静かに息を吐いた。
「……葵らしいな」
燎は、小さく頷く。
◆
葵がリヒトへ来たのは、今から約十八年前。ここへ保護されて来てすぐの頃は食事はおろか、睡眠すらまともに取ろうとせず、自分の命を強引に削ぎ落とすかのような行動に俺たちはどうしていいのかが、非常に難しかった。
昔。リヒトに来る以前の、彼の調査資料を読んだときのことを思い出す――。そこに並んでいた文字の羅列を見て、胸の奥には鈍い痛みが走ったんだった。
七歳時点まで母親による育児放棄の疑いに、著しい栄養失調と心的外傷の兆候。
そしてある日、家に帰ってこない母親を探すため、真夏の強い日差しの中を徘徊し、警察官に保護される。
警察官に保護された当初、恐らく葵はまともな食事を与えられておらず、同じ年齢の子たちの平均よりも遥かに体が小さかったそうだ。
そんな淡々と記された事実の裏に、どんな感情が隠されていたのだろうか。
文字を目で追いながら、想像してしまう。小さな手でどれくらい母親を探したのか、小さな足でどれだけ歩いたのか。
だが、葵の母親が迎えに来ることはなかった――。
そんな事を考えたって調査資料が答えてくれるわけではないし、感情が記されているわけでもない。
これはあくまでも過去に起こった事実を切り取り、並べられているだけに過ぎない。
母親が迎えに来てくれることを信じ、待ち続けて裏切られた時の心の痛みや、その事実の裏にある壊れた心の音までは到底、俺には計り知れない。
そしてそのまま葵は、児童養護施設で保護されることになる。
一件目の施設では特別裕福な暮らしができたわけではないようだが、本を読むことを好んでいた本の虫で、時間さえあれば常に本を持ち歩き読書に耽っていたという。
どうやら読み書きなどは独学で身につけたようで、その努力と探究心には目を見張る物がある。
それを聞いて受けてもらった知能検査では、百三十の数値を叩き出した。
葵は間違いなく天才と呼べる子だ。彼の母親が言う、出来損ないなんかでは決してない――。
だがすでにその頃からあまり人と関わろうとはせず、本以外の事には無関心な傾向が発現していたという。
だがそうなっても無理はないと、俺は思う。きっと感情を殺す事でしか、葵は自分の心を守れなかった。
そして一年ほどその施設で過ごしていたある日。そこの園長であった年配の女性が亡くなり、その息子が後を継いだ。
だがその男は金儲けのために、オメガの息が掛かっていた別の施設へと、葵を含む数名を売り払った。
母親の件以降、ようやく平穏な生活を送れると思った矢先に、ディナミス実験の候補被験体へと選ばれてしまったのだが、その時点で葵はすでに能力覚醒をしていたと思われる。
葵本人がうまく隠していたのか気付かれることはなく、連れてこられた子たちの中でも体の小さかった葵は、最後の方まで順番が回ってくることはなかった。
保護後の精密検査の結果、薬物反応は出たのだが、幸いにも軽度であるとの診断。
医師によれば、俺たちが施設へと突入したあの日に、初めて処置を行われた可能性が高いという。
葵の件でその男の居場所を特定、そしてその後すぐそいつは逮捕されたのだが、被害者数は二桁どころではすまなかった。
そのため重い実刑が下り、長い月日が流れた今もそいつは刑務所の中にいる。
医師から、葵は慢性的な栄養失調に陥っているため、食事療法を行いできるだけ栄養を摂るようにと伝えられていた。
文字を追えば追うほど、苦しくなる胸の内。資料を閉じても心のざわつきは消えず、自らの過去に少し重ねてしまう。
葵が育ってきた環境に比べれば、俺のものは全然甘いのかもしれない。
だけどその痛みは少しだけわかる。愛を与えられずに育った環境は、心に見えない大きな傷を作り出す。
俺も綴に出会うまでは「笑う」ということが分からなかった。だから葵が笑えなくなってしまった理由を、理解できてしまう。
きっと心を壊さなければ、葵は生きてこられなかった――。
だから俺にとっての綴がそうだったように、葵にとっての希望を見つけてほしいと切実に願っていた。
そして葵が唯一、興味を惹かれるのが物語を読む事なようで、そうすると寝食を忘れがちになってしまう。
何を食べたいのか、何が好きなのか自分でも分からないようで。今まで生きることに必死で、食べ物の味なんて気にする余裕すらなかったのかもしれない。
だからそんな葵の食事にはとても悩まされて、口の前まで食べ物を運び、少し無理にでも食べさせたこともある。
睡眠に関してもそうで、葵は限界まで活動して、突然電池が切れたように眠り続けるようなことも多く、眠気を自分で判別できないようだった。
ある時。何気なく、夜中にきちんと眠れているか様子を見ようと、俺は葵の部屋へと足を運んだのだが、隙間からは明かり漏れていた。
上手く眠れないのかとそっと覗けば、真剣に本を読んでいる葵の姿を見つけたのだった。
放っておけば夜通し本を読んでいることに気付いてからは、出来るだけ睡眠環境を整えることに尽力した。
睡眠に関しては、燎も同時期に悩まされていたというのもあって、纏さんに相談しながら色々なことを試した。
使い捨てのホットアイマスクや、誘眠効果のあるハーブティー。
葵の場合、睡眠が改善させるには数年を要したが、それでも少しずつ改善していく姿に、俺は安心していた。
そして食事や眠りの部分が改善されたことにより、今ではリヒトの仲間の中で、誰よりも背が高くなった。
葵の無表情な仮面はなかなか外れなかったが、あの時の俺もそうだったように、考え方なんて言うものは簡単には変えられないし、変わらない。
だから俺は例え鬱陶しいと思われていたとしても、これ以上葵の心と体が擦り減ってしまわないようにと工夫を積み重ねてきた。
「一度壊れた心は、二度と元には戻らない」
そんな比喩的表現の通り、葵は自らの心を長い時間をかけて修復をしてきた。
今では読書以外の好きなことを見つけ、お洒落が好きな弥と一緒に外出するまでになり、俺や綴だけでなく、葵の事を知るやつらはみんな凄く安心している。
だから今回のカーディガンを掛けるという行動も、一般的には特に変哲のない行動なのかもしれない。
だけど、初めて施設で見つけた虚ろな瞳をしていた頃の葵からは想像もつかないもので。
誰かにふれて、気にかけることができる。それができるようになったことが、何よりだった。
「葵のそういう一面を見られるのは、嬉しいよね」
「……そうだな」
そう言って俺は静かに、冷蔵庫の扉を閉めた――。
◆
燎も自分の部屋へと戻り、映画のエンドロールも終わってしまった静かなリビングには、寝息がふたつ。
「綴」
俺が声を掛けると、綴の瞼が少し震えてそれからゆっくりと開く。
瞳には、うっすらと涙の膜。
「……おかえり、しらべ」
寝起きの少し舌足らずな、話し方。額にそっとふれれば朝とは違い、微熱程度にまで下がっていて、内心少し安心する。
「微熱……くらいかな。今すぐ部屋で寝ろ、綴」
そう言えば、なぜか少し嬉しそうに綴はふにゃりと笑った。
「朝よりは、だいぶましになったよ?」
「そうか。よかった」
――ならひとまずは、大丈夫そうだな。
俺はそのまま悠を起こし、持っていたペットボトルを綴へと渡す。
「……部屋、戻るね」
そしてそれから例の動画の件を報告していたら、綴の様子が少し変わったことに気付く。
「……綴、一緒にいこうか?」
「だいじょーぶ、ひとりでいけるよ。ありがとね、調」
振り返ってふにゃりと笑う姿はいつも通りのはずなのに、どこか違和感がある。
「おやすみ、調」
「……おやすみ」
この時、俺は違和感を無視するべきではなかった――。




