私、もうこの関係を止めようと思います。
「お兄様。私……もう、兄離れしようと思います」
月明かりが差し込む、ヴァルトハイム家の廊下。
クラリッサ・ヴァルトハイムは、寝室まで送ってくれた兄・アルノルトへと向かい合った。
いつものように、クラリッサの茶色い髪をなでた美しい兄。黒の前髪から覗く碧眼は、離れていったクラリッサの毛先を名残惜しそうに見つめている。
「突然どうした? 毎晩、こうして一緒に過ごしているのに」
「十五歳にもなって、毎晩のように部屋まで送ってもらうなんて変ですから」
「だいたい想像はつくが、もしかして誰かに変だと言われたのか?」
「それはその……友人に」
視線を彷徨わせるクラリッサに、アルノルトは一瞬だけ顔を強ばらせた。しかし束の間の沈黙が流れたあと、いつものように柔らかな笑顔を作る。
「なるほどな。急にこんなことを言い出したのは友人のせいか」
「違います! 友人達のおかげで、私達は変なのだと気付いたのです」
最近、学園で指摘されるのだ。
『あなた達兄妹はおかしい』と。
二つ歳上の兄・アルノルトは、世の令嬢達に大変人気のある男だった。
涼やかで整った容姿に洗練された立ち振る舞い、加えてヴァルトハイム公爵家の跡継ぎ。そんな人だから、クラリッサの友人達にとっても憧れの存在だ。普段から、兄アルノルトの存在が話題に上ることは度々あった。
『あんな素敵なお兄様がいるなんて羨ましいわ』
『お屋敷でもきっと完璧でいらっしゃるのでしょうね』
皆が口々にアルノルトのことを褒め称える。完璧過ぎて近寄り難い存在となってしまっている兄は、こうして誰からも遠巻きにされることが多い。
クラリッサは、皆からのそのような距離に寂しさも抱いていた。妹としては、少しでも周りに親近感をあたえたかったのだ。だから先日、つい言ってしまった。
『たしかに素晴らしい兄だけれど、決して完璧なんかじゃないのよ。寂しがり屋だし、お休みの日なんてひとりじゃ居られないんですもの』と。
クラリッサとしては、何気なくアルノルトの親しみやすさをアピールしてみただけだった。
しかしクラリッサの話を聞いた友人達は言葉を失い、顔を見合せる。
『……お休みの日まで、アルノルト様はクラリッサと過ごしているの?』
『えっ?』
『学園でもこんなにべったり一緒にいるのに?』
友人達は、目を丸くしてこちらを見た。
彼女達の反応で、クラリッサは「しまった」と後悔した。休日まで兄妹二人で過ごすなんて、どうやら普通じゃ無いらしい。少なくとも、友人達の感覚では。
そういえば、いつも『仲が良すぎる』と冗談めかして笑われていたのを思い出した。
自分達の歪さに気付いたからには、もう今まで通りではいられない。自分のためにも、兄アルノルトのためにも。
「――というわけで、明日から別々に過ごしましょう。お兄様」
「なぜそんな寂しいことを言うんだ、クラリッサは」
「今までがおかしかったのですよ。兄妹とはいえ、毎日一緒にいるなんて」
「そうか? 一緒にいて何か不都合はあったか? 無かったはずだが」
「不都合なんて……」
不都合など無い。むしろ、クラリッサにとっては兄といることに心地良さすら感じていた。それが当たり前にあったクラリッサの日常であったから。
不都合があるとしたら、それは――
「不都合、あります! このままでは困るじゃないですか。私にもお兄様にも、婚約者なんて永遠に現れなくなりますよ!」
そう。もう十五歳にもなるのに、クラリッサにはまだ婚約相手がいなかった。
『クラリッサにはなぜ縁談がないのかしらね』
『うちのクラスで、婚約者がいないのなんてもうクラリッサくらいよ』
それも友人達から言われていたことだ。
十七歳であるアルノルトも婚約はまだ。未だに独り身だ。兄である彼がまだ焦りもしないから、そういうものなのだと……クラリッサもこれまで婚約のことなど気にもしなかった。
けれど、友人達から何度もそう言われるものだからだんだん不安になってきたのだ。この歳にもなってまだ縁談がこないなんて、流石に普通じゃ無いのではと。
「……婚約?」
「お兄様は十七、私も十五歳ですし。そもそも、婚約者がいないことも問題だと思うのです。周りの友人達は、幼い頃から婚約していたといいます。私とお兄様だけです、こんな……」
「俺にはクラリッサ以外必要無いが」
「いいえ! お兄様はこのヴァルトハイム家を背負って立つお方です。いつか現れるお相手のためにも、私との関係は絶対に正さなくてはなりません」
二人の関係――アルノルトの一日は、クラリッサを起こすところから始まる。
そして朝はクラリッサと一緒に学園へ向かい、帰りはクラリッサの教室にまで迎えに来る。クラリッサが寄り道したいと言えば街にも喜んで付き合うし、食事だって当然のようにクラリッサと共にする。
つまり一日中、クラリッサに付きっきりなのだった。
こうして浮いた話もなく、婚約者もいないまま十七歳になった兄。このままでは、アルノルトにも永遠に婚約者なんて現れないだろう。
「心配過ぎます。離れましょう、お兄様」
「嫌だね。なぜクラリッサと離れる必要がある」
「私達にはそれぞれの人生があるのです。いつかは兄妹離れしなくてはなりません。今がその時だと思うのです」
「俺はそんなつもりは無いからな」
「いえ、私はもう決めました。ではお兄様、私は明日から一人で生きます。おやすみなさい」
「クラリッサ!」
アルノルトが呼び止める声を振り切り、クラリッサは寝室に閉じこもった。そしてその夜から、兄離れを心に決めたのだった。
翌朝、クラリッサはいつもより早い時間に屋敷を出た。
アルノルトとは別々に学園へ向かうためだ。朝は弱いけれど、幸い早起きには成功した。兄と顔を合わすことなく屋敷を抜け出すことに成功している。
そうして一人きりで学園にやって来たクラリッサに、友人達は驚いた様子で駆け寄った。
「どうしたの? アルノルト様がいらっしゃらないようだけど」
「今日から別々に行動することにしたの」
「別行動!? あなた達が?」
「私だっていつまでもお兄様と一緒にいる訳じゃないのよ。少しずつ、離れていかなければならないと思ったの」
クラリッサの兄離れ宣言を聞いた友人達は、手を叩いてお祝いをしてくれた。そして兄離れの協力をすると約束してくれたのである。
「みんなありがとう。心強いわ」
「まかせてクラリッサ。私達があなたをアルノルト様から独り立ちさせてあげる!」
それからというもの、友人達は徹底的にクラリッサを匿った。
アルノルトが教室まで迎えに来ても、クラリッサの代わりに対応してくれる。学園から帰る際にも、先手を打ってクラリッサを連れ出す。
おかげでクラリッサとアルノルトは、学園での接触がほとんど無くなっていったのだった。
ただし、ヴァルトハイム家に帰ればそうはいかない。
家族として、食事は兄と共にせざるを得ない。避ける言い訳も無いので、これまで通り食卓についているのだけれど。
「クラリッサ。そろそろ意地を張るのは止めたらどうだ」
「意地なんか張っていません」
「俺がいなくて寂しいだろう」
「寂しくありません」
こうして食事のたびに、アルノルトから説得されるのだった。どうやら兄は、クラリッサが意地を張っているのだと思っているらしい。
「これは、お兄様のためでもあるのですよ。お兄様も早く妹離れをしないと」
「俺はクラリッサから離れないと何度も言っているだろう」
真正面に座られ、食事のあいだはこうしてずっと「無理をするな」と説得され続けた。そしてクラリッサはそれを否定し続ける。
同じやりとりを、今日も繰り返すことになる。
「朝も帰りも、一人きりで大丈夫なのか?」
「当たり前です。もう十五歳なのですから」
「それにしては、あまり顔色が優れないように見えるが」
「えっ?」
その言葉に、クラリッサは思わず反応してしまった。
実は今日、アルノルトが女生徒に囲まれているところを見てしまったのだ。
今日だけではない。ここ数日、そのような光景をよく見かけるようになった。クラリッサと離れて単独行動をとることになったアルノルトは、以前より話しかけやすい存在になったのかもしれない。これまで以上に、兄の話題も耳にする。
そんな兄の姿を見かけると、胸のあたりがザワザワと落ち着かなくなった。自分の知らない兄を目にするたびに、悔しいような、逃げ出してしまいたいような衝動に駆られてしまうのだ。
(私ったら駄目ね。全然兄離れできていないわね)
周りには心配かけないよう明るく振舞っていたつもりだったのに、アルノルトにはいくらか見透かされていたのかもしれない。
でも、ここで折れるわけにはいかなかった。
「ご心配ありがとうございます、お兄様。ですが、きっと慣れれば平気になりますからご心配なさらず」
クラリッサはもう兄離れすると決めたのだ。
一歩も譲ろうとしないクラリッサに、アルノルトは諦めたように眉間を寄せた。
「平気にならなくていいのに」
食事を終えたアルノルトは席を立つと、最後に何かを思い出したのか、クラリッサを振り返った。
「そういえば、クラリッサの友人とかいう者達……あれはなんだ」
「え?」
「あれは本当に友人か?」
兄はそれだけ呟くと、食堂を去ってしまった。
その問いかけにクラリッサは首を傾げる。
「友人に決まっているじゃない?」
「クラリッサおはよう」
「今日も一人で来たのね。偉いわ!」
翌朝も、一人きりで学園へ現れたクラリッサを友人達が取り囲んだ。温かく迎え入れられることで、心細さもだんだんと落ち着いていく。
(こんなに優しい人達を、お兄様ったらあんな言い方するなんて)
兄離れしようと決めてから、学園でのアルノルトへの対応は友人達に任せていた。
クラリッサを匿う友人達は、アルノルトにとって邪魔な存在であることは間違いない。だから兄が彼女達のことを良く思わなくても仕方がないのかもしれない。
けれど、クラリッサにとっては大切な友人達だ。あまり悪く言わないでもらいたい。ますますアルノルトとの仲が険悪になってしまう。
「あの、兄からみんなに失礼は無いかしら? 歯に衣着せぬ物言いをする人だから、少し心配で」
「いいえ、大丈夫よ。アルノルト様のことは私達に任せてね。クラリッサが兄離れしてしまったら、アルノルト様はきっと寂しいでしょうけど」
「そうだわ、かわりに私達がアルノルト様のお相手をしてはどうかしら」
「みんなが?」
友人達が言うにはこうだ。
今まで四六時中一緒にいた妹が離れてしまい、アルノルトは当然寂しいはずだ。しかし寂しがるからといってクラリッサが絆されていては、いつまでも兄から離れられない。
だからクラリッサの友人達が、話し相手になってはどうだろうかと。
「そ、そこまで迷惑をかけることはできないわ!」
「いいえ、役得よ! アルノルト様との関わりなんてなかなか無いもの」
「話す機会があるだけでも、私達は嬉しいのよ。ね、クラリッサは気にしないで」
「えっ」
(あっ……なるほど……)
クラリッサには、友人達の思惑が透けて見えてしまった。どうやら、彼女達はなんとしてもアルノルトとの接点を持ちたいらしい。クラリッサを匿うという名目のもとで。
『あれは本当に友人か?』
昨晩の、アルノルトの言葉を思い出す。
彼はもう友人達の下心に気付いていたのかもしれない。
その日、アルノルトは夕闇も迫る頃に帰ってきた。
いつまでたっても帰ってこないので心配していたところ、夕食間際の時間になってやっと姿を現したのだった。
「なんだ、クラリッサ。待っていてくれたのか」
「ええ、あまりにもお帰りが遅いので……どこかへ寄り道でもされていたのですか?」
「ああ、お前の友人とやらに誘われてな」
「私の友人に?」
「クラリッサへの誕生日プレゼントを選びたいから一緒に選んで欲しいと、街へ連れていかれた。お前はもうすぐ誕生日だろう?」
たしかに来月、クラリッサは誕生日を迎える。友人達はそのプレゼントを選ぶために、兄であるアルノルトの意見を聞きたかったらしい。
けれどそんなの口実に決まっている。きっと、友人達はアルノルトと一緒にいたかっただけだ。そしてそれをアルノルトだって分かっていたはず。けれど「クラリッサのために」と名を出されて、断る訳にはいかなかったのではないだろうか。
友人が兄を誘おうと、兄が誰と出かけようと、クラリッサがとやかく言える立場ではない。まして、彼女達は自分へのプレゼントを選んでくれていたのに。
どうしても自分だけが置き去りにされたような気がして、胸の奥に引っ掛かりを覚える。
「どうした? 俺がいなくて寂しかったのか」
「い、いいえ、そんなことありません」
「プレゼントとは別に、これはクラリッサへ土産だ。気に入ってくれるといいが」
そう言いながら、アルノルトはクラリッサに小さな瓶を手渡した。
瓶の中には、淡い色をしたキャンディがコロコロと詰まっている。きっと部屋に飾るだけでも可愛らしい。いかにもクラリッサが好きそうだ。
「可愛い……ありがとうございます、お兄様」
「笑顔が戻ったな。甘いものでも食べて、早く元気になるといい」
アルノルトは、元気の無いクラリッサを出先でも気遣ってくれていたようだった。
本当に、優しく完璧な、理想の兄だ。兄離れしなければと思えば思うほど、クラリッサの心はギュッと締め付けられた。
「この間、アルノルト様と街へ出かけたの。楽しかったわ!」
「通り過ぎる人、みんなアルノルト様を振り返るのよ」
「クラリッサ、プレゼントも期待していてね。アルノルト様と一緒に、とっても素敵なものを選んだから」
翌日からの話題は、アルノルトとの買い物のことで持ちきりだった。
アルノルト様、アルノルト様と、友人達はもう取り繕うこともなく目を輝かせている。クラリッサの兄離れなんて、もっともらしい理由はもう必要なくなったようだ。
それもそうだろう。クラリッサを介さなくても、直接アルノルトに話しかければよいだけのことなのだから。
「またご一緒したいわね。アルノルト様みたいな方が恋人だったらどんなにいいか」
「憧れるわ。ねえクラリッサ、アルノルト様ってまだご婚約されていないでしょう?」
「私達、どうかしら? 可能性あるかしら?」
「えっ……!?」
クラリッサは咄嗟に言葉が出なかった。
あまりにも驚いてしまって。
「可能性って、あなた達にはお兄様以前に婚約相手がいらっしゃるでしょう?」
「たしかに婚約者はいるけれど、アルノルト様となれば話は別よ」
「婚約破棄だって、最近じゃそれほど珍しい話では無いし」
「ねえクラリッサ、それとなく聞いてみてくれない? 私達はどうですかって」
聞けば聞くほど、クラリッサには受け入れられなかった。たとえ冗談であったとしても、アルノルトに対してそんな風に言うなんて。
「……私は聞けないわ。あなた達が婚約していなければ話は別なのだけれど」
「ちょっと聞いてみるだけでいいのよ。希望があるなら、それに賭けでみたいじゃない?」
「賭けるだなんて……それって、あなた達の婚約者にもお兄様にも不誠実だと思うわ」
「な、なによ。いいじゃない、夢を見たって」
「クラリッサは良いわよね。何もしなくても特別扱いされるんだから」
「みんな……」
優しいとばかり思っていた友人達のこのような本心、聞きたくなかった。しかしどれほど言葉を重ねても、クラリッサが妹である限り、こちらの思いは通じないだろう。
諦めかけたところ、ふいに背後から抱き寄せられた。
アルノルトだ。彼が姿を現しただけで、友人達がワッと沸き立つ。
「きゃあ、アルノルト様!」
「抱きしめられるなんて、本当に妹って羨ましいわ」
「妹、妹と、本当にうるさい奴等だな」
「えっ?」
「クラリッサは妹ではないが」
「妹じゃ……ない?」
アルノルトの一言だけで、きゃあきゃあと騒いでいた友人達が一斉に黙り込んだ。
教室が、水を打ったような静寂に包まれる。
「うそ……クラリッサ、妹じゃないの?」
「お前達の話は聞いていた。クラリッサは、血の繋がった妹では無い」
「お兄様! やめて」
「クラリッサ、お前も言えば良かったんだ。俺とお前は兄妹などではないのだと」
アルノルトは淡々と言ってのけてしまった。
クラリッサが、必死に秘めていたことを。
事故で両親を失ったクラリッサがヴァルトハイム家に引き取られたのは、十年前。クラリッサが五歳の時だ。
クラリッサの実両親と親友同士であったヴァルトハイム夫妻は、孤児となったクラリッサを快く迎えてくれた。
そこで出会ったのが、二つ年上の一人息子・アルノルトだ。ヴァルトハイム家で暮らしていく上で、クラリッサは彼の妹となることが必然的に決定した。
アルノルトは、幼い頃から非常に良い『兄』だった。優しく美しく、しっかりとしていて面倒見も良い。突然やって来たクラリッサにも、ヴァルトハイム家の一員として当たり前に接してくれる。
だからクラリッサも懸命に『妹』になろうと努めた。その甲斐あって二人の関係は順調だった。仲が良く、いつも隣で笑っていられるような、そんな兄妹になれた。それをアルノルトが望んでいるようであったから。
しかし、十五歳となったクラリッサは現実を見た。
あまりにも兄との距離が近過ぎると知ったのだ。それは、友人達からもおかしいと指摘されるような関係だった。
このままではいけない。アルノルトが変な目で見られてはならない。彼のためにも、普通の妹でなければならなかった。だって、クラリッサはアルノルトの妹として存在するのだから。
(でも……お兄様は私のことを「妹じゃない」と言ったわ。ずっと、そう思っていたのだわ)
友人達と言い合った後、教室へ残ることも躊躇われたクラリッサは、とっさに裏庭へと逃げ込んだ。
木陰にある静かなベンチに、一人きりで腰掛ける。もう、このままどこかへ家出してしまおうか。このような気持ちのままヴァルトハイム家へ帰り、アルノルトと顔を合わすことさえ辛かった。
今まで妹として生きてきたクラリッサの想いは、まったく意味を成していなかった気がして。
(妹の役目を果たせていなかったかしら。私がお兄様に憧れていたりしたから)
いくら正しい妹であろうとしても、憧れや嫉妬はどうしても隠しきれなかった。鋭いアルノルトのことだから、そんなクラリッサのことなんてお見通しだったのだろう。
(お兄様……私は……)
「クラリッサ、ここにいたのか」
一人きりだと思っていた裏庭に、いつの間にかアルノルトが立っていた。どうやらクラリッサを探してくれていたらしい。
心配げに目を細めた彼は、クラリッサと目線を合わせるように、そっと跪く。
「お兄様……授業はどうされたのですか」
「今はクラリッサが優先だろう。心配した。あんな奴らの言うことは気にすることはない」
膝の上で握りしめた手を、アルノルトの手が包んでくれる。それだけで、じんわりと心がほどけていくようだった。
このような触れ合いも、いつまで許されるのだろうか。妹として、ヴァルトハイム家の一員として。
「……お兄様、私は妹として不足でしたか?」
「は?」
「兄妹では無いと、みんなの前でそう仰ったではありませんか。私は、ヴァルトハイム家に迎えられてからずっと、妹としてやってきたつもりです」
「ああ、クラリッサがうちに馴染もうとしてくれていたのは分かっている」
「でもお兄様は、妹になりきれていない私のことなど、とっくに気づいていたのですね。だからあのようなことを……」
伏せた瞳から、思わず涙が零れる。
普通の妹になれなかった自分が、情けなくて惨めで悲しかった。兄であるアルノルトに、このような感情を抱きたくなかった。
「お兄様、ごめんなさい。こんな私、妹失格だわ」
「なぜ謝る? 謝ることなど無いのに」
「だって私が、妹なのにお兄様のことを――」
「クラリッサ。俺はもうずっと、お前を妹だと思ってはいない」
「……え?」
「お前が言ったんだ。俺と生きていくと」
(お兄様と生きていく――?)
『アルノルトさま。きょうからよろしくおねがいいたします』
十年前。ヴァルトハイム家へ迎えられたクラリッサは、実両親を亡くした悲しみを抱えたまま、アルノルトに向かって頭を下げた。たった五歳という幼さで。
その時、この孤独な少女を支えていかなければならないという使命感が、幼いアルノルトの胸にも芽生えた。家族として兄として、クラリッサを守っていくのは自分しかいないのだと。
彼女のためにできることはなんでもやった。そのうち、ヴァルトハイム家に溶け込んだクラリッサは徐々に笑顔が増えていった。
『おにいさま、ずっといっしょにいてくださいね』
クラリッサがいるだけで、ヴァルトハイム家は花が咲いたように明るくなった。アルノルトに課せられた公爵家跡継ぎという重圧も、彼女といれば軽くなった。
『ああ、ずっと一緒にいよう。俺はクラリッサのそばにいる』
兄妹とは、こんなにも素晴らしいものなのか。
アルノルトは、自身の感情を兄妹愛だと思い込んだ。しかし、ある日を境に率直な想いが顔を出す。
アルノルトが十歳になった頃のことだ。両親から、縁談の話があったのは。
アルノルト、クラリッサそれぞれに、それまでも多くの打診はあったらしい。公爵家と繋がりたい家は絶えることがなかったが、クラリッサの気持ちが落ち着くまで、両親が待ってくれていたようなのだ。
『私は、お父様とお母様へご決断をおまかせしたいと思います』
クラリッサはすんなりと縁談を受け入れた。彼女の立場を考えれば、当たり前の返事かもしれない。
けれどアルノルトは違った。到底受け入れ難いものだったのだ。
自分のことはともかく、クラリッサがアルノルト以外のものになるなんて耐えられなかった。それは兄としての庇護欲などという生易しいものではないと、自覚したのはこの時だ。
『俺は嫌です』
両親に刃向かったことなどなかったアルノルトの、初めての反抗だった。目を丸くする両親を相手に、アルノルトは譲らなかった。
『クラリッサをまた違う家へやるというのですか。俺は絶対に反対です。ヴァルトハイム家が迎えた以上は、責任をもって彼女を守るべきです』
『アルノルト、待って。今は将来の婚約の話をしているのだけど』
『同じことです。いつかクラリッサがこの家から出ていくという話ではないですか。そのようなことは俺が許せません。クラリッサはこの家に必要な存在なのです』
決して引こうとしないアルノルトに、両親は顔を見合わせて絶句したあと、ドッと笑いだした。そしてクラリッサに尋ねたのである。
『アルノルトはこう言っているけれど、クラリッサはどう思う?』と。
「その時、お前は『ではこの家にいます』と――そう返事をした」
「え……?」
「覚えていないのか」
「え、ええ。まったく」
それは……まだクラリッサに、選ぶ力が無かっただけではないだろうか。
当時、クラリッサは八歳。兄のただならぬ気迫に、ただ頷くしかなかったのではなかったのでは。そう思えてならなかった。
「その時から、俺はクラリッサと生きていくことを決めている」
「そんな……では、私達に婚約相手がいないのは」
「両親が待ってくれている。成人しても俺達の気持ちが変わらないのであれば、その時は意思を尊重してくれることになっている」
クラリッサの手を握るアルノルトの力が、少しずつ強くなっていく。
「クラリッサ。俺のために妹でいようとしたのだな。しかしそんな必要は無いんだ。妹じゃなくて構わないんだ。それでも妹でいたいか? 俺は兄のままでいなければならないのか?」
アルノルトの強い眼差しに、唇が震えて言葉が出てこない。
「わ、私は――」
クラリッサは、混乱の中にいた。妹でなくなるという選択肢があるなんて考えもしなかった。なのに、まさかこのようなことになるなんて。
「クラリッサ、返事をくれないか」
しかしアルノルトは跪いたまま、この曖昧な関係を終わらせるために答えを迫る。
(お兄様……)
来月、クラリッサは十六歳になる。この国で定められた成人の年を迎える。両親もアルノルトも、この時を待っていてくれていた。
そのことを考えるだけで、こんなにも胸がいっぱいになる。なら、答えなんてもう決まっているのではないか。
いつになく不安げなアルノルトの手は、緊張のせいかひどく冷たい。
クラリッサは覚悟を決めると、返事の代わりにその手をギュッと握り返した。
◇◇◇
「誕生日おめでとう、クラリッサ」
「これ、私達からのプレゼントよ。気に入ってくれると嬉しいわ」
「みんな、ありがとう……!」
翌月。十六歳の誕生日を迎えたクラリッサは、友人達から約束されていたプレゼントを贈られた。
先日、街で友人達とアルノルトが選んだというプレゼントだ。さっそく箱を開けてみると、中にはレースの手袋が丁寧に折りたたまれている。
「わあ……! なんて可愛らしいの!」
「アルノルト様が、色々とアドバイスを下さったの」
「あれもこれも好きそうだって言われて、選ぶのが大変だったんだから!」
「今思えば、あんなに熱心なのはクラリッサのことに関してだけなのよね。敵うわけないのに……私達ったら本当に馬鹿だったわ」
二人が兄妹ではないことを知った友人達は、納得したあとにクラリッサへ謝ってくれた。
妹として振舞っていたクラリッサとしては、謝られるのも申し訳ないくらいなのだけれど。友人達と無事に和解できたことで、ホッとしている自分もいる。
「これをつけて、アルノルト様とたくさんデートしてあげてよね」
「もう今日から婚約者になるんだから」
「え、ええ、そうね」
誕生日を迎えたクラリッサは成人となった。
そしてさっそく今朝方、根気よく待ってくれていた両親と待ちきれない様子のアルノルトから、確認をとられたのだった。
『クラリッサは、このままヴァルトハイム家にいたい?』と。
朝のことを思い出すと、思わず頬が赤くなる。
ほてった顔を友人達にからかわれていたところ、いつものようにアルノルトが教室までやってきた。
「クラリッサ、帰るぞ」
「お兄様……じゃあみんな、またね。プレゼント本当にありがとう」
教室の中まで入った彼は、友人達からクラリッサを攫っていく。以前に増して自信たっぷりのアルノルトに、友人達は呆れたように肩を竦めた。
「あら……じゃあね、クラリッサ」
「素敵な誕生日になるといいわね!」
彼女達に見送られながら、アルノルトに手を引かれる。いつもより強引な彼に、クラリッサは慌ててついて行った。
「お兄様……なにか怒っていますか?」
「『お兄様』じゃ無い、何度も言っているだろう」
「あっ」
「今日、俺達は婚約した。忘れないでくれ」
「そ、そうですよね、つい癖で……」
『クラリッサは、このままヴァルトハイム家にいたい?』
両親からのその問いかけに、クラリッサは『はい』と即答した。もう、返事も気持ちも決まっていた。するとすぐさま、婚約の手続きがとられたのである。
クラリッサは一度ヴァルトハイムの籍から抜け、遠縁の姓を名乗ることになった。婚姻を結ぶまでの期間限定だ。今、アルノルトとは正真正銘の他人なのだった。
ただ、長年染み込んだ呼び方はなかなか抜けないもので。こうしてつい『お兄様』と呼んでしまって、アルノルトを度々怒らせている。
「……アルノルト様」
「声が小さいな」
「だって、まだ慣れません」
「慣れるまで呼べばいい。いつか慣れる」
「アルノルト様、アルノルト様、アルノルト様」
「様、も要らない」
「アルノルト様……愛しています」
クラリッサからの不意打ちに、アルノルトは目を瞬かせる。
このような表情が見られるのも、婚約者だけの特権だ。満足そうに笑うクラリッサを見て、アルノルトもまた満たされた笑顔を浮かべた。
「いいものだな、婚約というのは」
「はい。お兄様と婚約できて嬉しいです……あっ」
呼び名を失敗したその瞬間、アルノルトがまたクラリッサをギロリと睨みつける。
けれど……睨まれていたって、もうなにも怖くはない。
二人は手を繋いだまま、互いの名を呼び合いながらゆっくり歩いていくのだった。
おわり




