5. 犠牲の天秤
――引ったくり。
そんなセレスの言葉を聞いて、ようやく俺は引ったくりにあったのだと理解した。
「ねぇ、なんでぼーっとしてるの!? 早く追いかけないと!」
「大丈夫ですよ。もう捕まえます」
「何を言って――」
「こらぁ! よくもわたしの食べ物を盗んだなぁ!」
盗ったものが食べ物だった時点でこうなることはわかっていた。
振り返って見てみると、ティファが片手で男の胸ぐらを掴み、もう片方の手でバスケットを持っている。
「ティファさん、ありがとうございます」
「ねぇ、ルシアンさん。これ、わたしが取り返したから全部わたしのものにならないかな?」
「なりませんよ。それは数日分の食料、あとセレスさんにもお裾分けするものですから」
「数日分? 一食分じゃなくて?」
「……そうなるかもしれませんね。おや、シュタインさんですか?」
ティファが捕まえた引ったくり犯。
それは、この街で暮らすごくごく普通の男だった。
「どうして――」
「申し訳ございません神父様っ! どうか、どうか見逃してもらえないでしょうか……つ」
顔を真っ青にして謝罪を繰り返すシュタイン。もしも体が自由だったなら土下座でもしそうな勢いだ。
「ティファ、離してあげてください」
「ん、わかった」
ティファがぱっと手を離すと、シュタインは脱力したようにへたり込む。
俺は彼と目線を合わせるように屈んでみた。
「どうしたのですか、シュタインさん。貴方が引ったくりをするなんて……」
「す、すみません。その、実は――」
シュタインはぽつりぽつりと話し出した。
仕事で大きなミスをしてしまい、仕事を失ったこと。
その直後に空き巣にあい、全財産を失ったこと。
ここ数日、妻も子供もロクなものを食べていないこと。
「お願いです、神父様! どうか、どうか妻と子供になにか食べ物を分けてはもらえないでしょうか! 僕は何も要りません、だから妻と子供だけでも……っ」
鬼気迫る勢いだ。
俺はちらりとセレスに目を向けると、それに気づいた彼女はこくりと頷いた。
セレスは慈愛と真実の女神が人間になった姿。本来よりも大幅に弱体化しているが、人間が嘘をついているかぐらいなら見破ることが出来る。
つまり、今のシュタインの言葉に嘘は無い。
「シュタインさん、顔をあげてください」
俺がなぜ引ったくりに気づけなかったのかわかった。
俺も彼女同様に、その人間がどんな欲望を抱いているのかを見抜くことが出来る。けれど、彼からは何も感じ取れなかった。
自分のためではなく、他者のため。
即ち、無欲。
……気に入らない。
「ティファさん、リンゴを一つ貰えますか?」
「うん、いーよ」
投げ渡されたリンゴを受け取って、シュタインさんに手渡した。
そして、目だけで笑みを作る。
「シュタインさん、これを貴方にあげます」
「あ、ありがとうございます! 妻と子供も、きっと喜びます!」
痩せこけた顔に笑顔を浮かべ、震える両手で包むようにリンゴを持つシュタイン。
そんな彼の言葉に、俺はゆっくりと首を振った。
「何か勘違いされているようですね。これは、貴方にあげたのですよ」
「それは、どういう……」
「貴方にあげたのですから、貴方が食べてください」
「ちょ――」
何か言いかけたセレスを視線だけで黙らせる。
再びシュタインに目を戻すと、にこりと微笑んだ。
「大丈夫です。このことは誰にも言いません。それに、貴方だってお腹が空いているでしょう? 誰も責めはしませんよ」
「で、ですが」
「それに食べてください、と言ったのは私です。貴方は何も悪くない。心優しい貴方は私の善意を拒否できなかった、ただそれだけです」
躊躇い、迷い。瞳の揺らめきはそんな感情をありありと表していた。
実際、お腹は空いているのだろう。当然だ。妻と子供を大切に思うこの男が、自分だけ食事をとっているわけがない。
下手をすれば、ここ数日何も食べてない可能性すらある。
俺はとびきりの笑顔を浮かべながら、懐に手を入れ一枚の紙切れを取り出す。
「そうそう。偶然持っているこの入信書のゼルス教は、自身の欲を優先することは悪いことではないという教えが――」
「――やはり、僕は食べることは出来ません!」
「はい?」
「神父様、お心遣いありがとうございます。ですが僕は、妻と子供を置いて食事をとることは出来ません」
お返しします、とリンゴを手渡される。
欲望に流されるままにリンゴを食べ、その正当化のためにゼルス教に入信させる流れだったが、どうやらそう上手くはいかないらしい。
「……キミ、何をしようとしてるのさ」
「迷える子羊に適切な道を示すのも、神父の役割のひとつですよ」
そんなふうに嘯くと、ますますセレスの目が冷たくなっていく。
「……こほんっ。そうですか、食べていただけませんか」
「分けていただいたのに、申し訳ありません」
「ティファさん、こちらのリンゴをあげます」
「え、いいの?」
何やらレモンを齧っていたティファは目を丸くしてリンゴを受け取る。
……この状況でよく食べられるな。しかもレモンを丸かじりって。
ツッコミをしたい気持ちをぐっと堪えて、俺は人差し指を立て、彼女に質問をした。
「ティファさん。もし、私と貴方が空腹で倒れそうな時、リンゴを一つ与えられたら、貴方はどうしますか?」
「わたしが食べる」
一切の躊躇いもなくそう断言した。
清々しいまでのその発言に、二人で分ける的な考えをしていたのだろうセレスが「えぇ!?」と声をあげる。
「どうして貴方が食べるのですか?」
「お腹空いてるからに決まってるじゃん。で、お腹が膨れたらその分を稼いでルシアンさんにリンゴを半分あげる」
……もう半分はティファが食べるんだろうなぁ。
話の本筋はそこではないので、何も言わずに再びシュタインと向かい合う。
「絶対の正解、というのはありませんがこういった選択もあります」
「せ、選択……」
「働ける人が倒れたら、正規の方法で食べ物を得る手段が無くなる。そうなれば残された人はどうなると思いますか?」
「それは……」
「これは最悪な想定です。ですが、今の貴方の姿を見てわざわざ雇おうと思える、余裕のある人はこの街にはあまり居ません」
小さな街。
生きていけないほどに貧しい訳では無いが、誰かに手を差し伸べられるほどの豊かさはない。
「大切な方のために己を犠牲にする考え方は素晴らしいと思います。でも、もう少しだけ自分を顧みて、視野を広げてみてください」
そう締めくくると、チラリと冷ややかな目をしているセレスを見て殊更に明るい声で続けた。
「この話をしたくて、先ほどリンゴを渡したのですよ!」
「……はいはい。そういうことにしといてあげるよ」
そういうことも何も事実だぞ。
そう言いかけたが、寸前で思い止まる。だってこの女神様、嘘が通じないからね。
「……それと、ここからは独り言なのですが」
咳払いをひとつして、わざとらしさ満載で言葉を続けた。
「今日、果物や野菜をたくさんいただきまして、もしかしたら料理を作り過ぎてしまうかもしれません。そうなると料理を無駄には出来ませんから、偶然教会に訪れた方に食べてもらいましょうか」
「し、神父様……!」
「シュタインさん。もしも今日、偶然教会の近くに来たのなら立ち寄ってみてください」
「は、はい! ありがとうございます!」
顔を輝かせて走り出すシュタイン。
そんな彼の背中を眺めながら、にやにやとこちらを見る目があった。
「……なんですか?」
「そんな回りくどいことしなくてもいいと思うんだけどなぁ」
「神父ですから。特定の個人に同情して、贔屓にしたとなれば不平等に繋がります」
「……ま、そうだね」
教会だって金が無制限にある訳じゃない。誰でも彼でも助けるわけにはいかないのだ。
まぁ、その御神体である女神様はそうしたいらしいが、現実は残酷だな。
「それにしても、空き巣ですか」
これまでの会話を思い出し、ふとそう零す。
それを聞いたセレスが神妙な顔で頷いた。
「うん。最近空き巣の被害が増えているみたい。シュタインさんみたいに全財産、ってわけじゃないけど、小さい被害も含めたら相当の数だよ」
「空き巣が出始めたのはいつぐらいからですか?」
「そうだね…………あ」
何かを思い出したように声をあげると、セレスはとある人物を見た。
「え、いや……まさかぁ、ね。あのさ、本当に関係ないかもしれないんだけど……」
その人物はふんふんと言いながら、聞いているのか聞いていないのかわからない顔できゅうりに味噌をつけて食べている。……どこから味噌を持ってきた。
「ちょうど、ティファさんが来たあたり、かな?」
名前を呼ばれたティファは、きゅうりを一気に半分ぐらいまで噛みちぎると、自分を指さしてこてりと首を傾げた。
「え、……わらひ?」




