3
目を覚ますと、天井が知らない色をしていた。
深い青。けれど夜ではない。月光でもない。蛍光灯のような人工の白さでもない。ただ、濁っていた。曇った硝子越しに見た空のように、世界が自分から半歩ずれている。
最初に気づいたのは、呼吸の音が二重だったことだ。
自分が吸って吐くたび、もう一つ、同じタイミングで肺が鳴っている音が聞こえた。隣に誰かがいるのかと思って体を起こす。だが部屋には自分だけ。ベッド、布団、机。生活感のない四畳の和室。窓はない。時計もない。
どこだ、ここ。
覚えがない。記憶が継ぎ目のように途切れている。思い出そうとすると、脳の表面に泥が塗られる感覚がして、思考が滑っていく。
自分が“ここに来た”記憶がない。だが、“ここに来るしかなかった”ような感覚だけは、妙に確信めいて残っていた。
――呼吸が、また重なった。
この音は、部屋の中ではなく、“内側”から聞こえていた。
自分の中に、自分以外の誰かが息をしている。
そう理解した瞬間、全身の毛穴が粟立った。
自分が動かしているつもりの右手が、一瞬だけ“止まった”。
あれは、自分の意志ではなかった。
関節が一つ多いような感覚。骨の長さが違うような。皮膚の下に、知らない神経が混ざっている。背骨を走る違和感。身体が、自分ではない誰かのものにすり替わっていく。
「……っ、う、うそだ」
声が、口から漏れた。けれど自分の声じゃなかった。音の高さが違う。言葉の終わりが濁る。誰かの声帯を借りて話しているような不快感が喉を通った。
目の奥で、何かがまばたきした。
暗闇に目が慣れたのではなかった。自分の視界を“もう一人”が覗いていたのだ。
引き戸が、勝手に開いた。
誰もいないはずの廊下から、足音が入ってきた。
音がひとつ、またひとつ。ゆっくりとこちらに近づいてくる。靴音ではない。裸足だ。布が畳を擦る音。湿っている。粘度を含んだ、ぬるりとした気配が、空気ごと部屋の中に染みてくる。
見えないのに、視界の端にそれがいる気がした。
反射的に後ずさる。足がもつれ、尻もちをついた。壁にもたれた瞬間、背後に硬い何かがあることに気づいた。
振り返る。
鏡だった。
だがそこに映っていたのは、自分ではなかった。
同じ制服、同じ髪型、同じ顔。だが、目が違った。黒目が大きすぎる。白目がない。歯の並びが逆だ。笑っている。表情筋だけが真似をしている。生き物の表情ではない、仮面のような顔。
“それ”が口を動かした。
「よう。やっと会えたな」
声は、自分のものだった。けれど、自分が聞いたことのない響きだった。温度がない。感情が通っていない。凍った音。
「お前、誰だ」
そう問うと、“それ”は一度だけまばたきをして、にやりと笑った。
「誰でもない。お前の“影”だ。踏み越えたやつだけが、俺を持つ」
「影……? 俺の……?」
「言っただろ。“契った”って。忘れたのか? 祠でのこと」
鼓膜が痛む。脳が揺れた。
祠。桜の花。契り。――あの夜。あの灯。
ばちん、と記憶が繋がる。目の前が揺れる。吐き気。視界が赤黒く滲み、鏡の“それ”が一歩、こちらに踏み出したように見えた。
だが鏡の表面は、何も割れていない。彼はただ、自分を見つめていた。こちらの動きを“真似していない”。
鏡の中の自分が、先に動いていた。
「……返せ。全部、返せ」
一真が声を絞り出した瞬間、背中に激痛が走った。
肩甲骨の下、脊髄の中央に、焼印を押されたような熱。全身が硬直する。目が見えなくなるほどの痛み。
それと同時に、意識の奥で“それ”が笑った。
――痛みを感じてるのはお前だけだ。こっちはもう、慣れた。
倒れ込んだ体を抱えるようにして、彼はようやく立ち上がった。窓のない部屋の中央に、いつの間にか光が差していた。
明かりの中心には、あの女が立っていた。
祠で見た、“顔のない女”。
白く、長い髪。白無垢のような衣。顔は仮面のようにのっぺらで、どこにも目も口もない。だが、それでもわかる。“こちらを見ている”と。
「契りは、果たされた」
口がないのに、声が響いた。骨に直接届くような音だった。血の音と混ざって、心臓が狂ったリズムを刻み始める。
「あなたは、“灯”を選んだ。咲かぬ花のかわりに、咽ぶ炎を抱いた」
「選んでない……俺はそんなの……!」
「違う。選ばされたのでもない。あなた自身が“望んだ”のよ。姉を追うために。あの灯の先へ行くために」
その言葉に、胸が締め付けられる。
姉――死んだはずの、姉の影が一瞬、脳裏をよぎった。
彼女の顔が、最後に見た時よりも、何倍も鮮やかに、まるで昨日会ったばかりのように思い出された。
「……会えるのか。姉さんに」
「望むなら。だがその先は、“人ではいられない”」
女が一歩、近づく。足音はない。まるで空気の一部が凝固して、輪郭を持ったような存在だった。
「“灯”は咽ぶ。命の影を食らいながら、それでも名を残すもの。あなたが今夜、生まれたのは、ただの始まりに過ぎない」
女が差し出した手の上に、赤い桜の花弁がひとひら、ふわりと落ちた。
地面に届く前に燃えた。触れることすら許されず、ただ、燃え尽きて消えた。
「あなたは、もう“普通”には戻れない」
その瞬間、一真の背中に“何か”が咲いた。
音もなく、皮膚の裏から広がる炎のような疼き。
それは、灯。
咽び泣くように、花の形をした“灯”が、彼の背骨に根を張った。
翌朝、灯野一真は自室で目を覚ました。
制服は畳んであった。泥の汚れは消えていた。傷もなかった。夢だったのかと疑いたくなるほど、現実は平穏だった。
だが、鏡の中の自分だけが、
――まだ、笑っていた。