2
耳鳴りがしていた。
最初は気のせいだと思った。だが、それはずっと、右耳の奥で燻るように続いていた。テレビの砂嵐を無理やり絞ったような、金属の擦れるような音だった。
それが聞こえるようになったのは、あの祠の夜を境にしてだった。
夢だったのかもしれないと思った時期もあった。自分はあそこには行っていない。ただの寝不足。あるいは精神的な疲労による幻覚。誰に相談するわけでもなく、ただ己の中で片付けていた記憶。
けれど、現実はどうやら、そう都合よくできていないらしい。
教室は無人だった。放課後の喧騒もなく、掃除の音も、誰かの笑い声も、何も聞こえない。ただ椅子と机の整列された静寂の中、自分だけがそこにいた。
黒板に向かって座ったまま、右手に握ったシャープペンシルの芯が、まだ一文字も書かれていないページの上で止まっていた。
字を書くという行為が、今の自分にとってどれほど難しいことか。何を書けばいいのかも分からない。ただ、何かが形になってしまうのが怖かった。自分の中から出てくる“それ”が、自分自身のものではない気がして。
机の天板には、わずかに朱が混じったようなシミが浮かんでいた。
それを見つめながら、ふと「これは血だ」と思った。でも誰の? いつの? 自分の中でいくつかの仮定が交差するが、どれも確証がない。ただ、それを拭う気にはなれなかった。
──お前は、見たんだろ。
誰かが囁いた。
振り返る。誰もいない。けれど、確かに空気が一度だけ、震えた。
背後のロッカーの隙間、机と机のわずかな影の奥、掲示物の裏。そういった“隠れられそうなところ”のすべてに、目があるような気がした。
ぞわり、と首筋に鳥肌が立つ。教室の中なのに、風が吹いたような感覚がした。視界の端で、窓の外に何かが過ぎった気もする。だが、それを追う気力はもう残っていなかった。
ふと気づくと、机の上に“それ”が置かれていた。
薄桃色の花弁──桜だ。けれど今は四月ではない。桜の季節など、もうとっくに過ぎている。なのに、それは確かに、そこにあった。
「……なんで」
声が出たのは、無意識だった。自分の声が、自分の耳に届いているのに、どこか他人事のような距離を感じた。
そのとき、不意に目の前のノートに、黒い字が一文字、浮かび上がった。
──契。
それはまるで誰かが上から焼き印でも押したように、インクではなく、紙そのものに刻まれたような印象だった。ペンで書かれたわけではない。けれど確かに、そこに存在していた。
そして、また声が聞こえた。
──契りを望むならば、ひとつ選べ。灯を抱くか、花を喰むか。
「なに、言って……」
思考が途切れた。言葉の意味が理解できない。けれど、感覚的にはわかっていた。これは“選ばされている”のだ。自分の意志ではなく、誰かに用意された選択肢の上を歩かされている。
机の端に、小さな灯がともった。
ほんの一瞬だった。それは蝋燭のように揺れ、ゆっくりと煙のように消えた。だが、確かに見えた。それと同時に、胸の奥に小さな熱が灯った気がした。鼓動が早くなる。だが、それは恐怖ではなかった。
むしろ、懐かしさに似た感情だった。
──姉さん。
また、あの声。
今度は、はっきりと聞こえた。あの祠で、姉の名前を呼ぶ“誰か”の声だった。自分ではない、けれど自分にとても近い存在。
耳鳴りが強くなる。視界の端が揺らぎ、教室の床がわずかに波打ったように感じる。自分の手が自分のものではない感覚。まるでもう一人の誰かが、この身体の奥で目を覚ましかけているような。
契るとは、何を差し出すことなのか。
その問いに、答えはまだなかった。ただ、胸の奥で何かが笑っていた。