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咽ぶ灯と契り花  作者: 匿名a
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咽ぶ火

山の入口で、風が止んだ。


 肌を撫でるはずの春の匂いが、空気の中からすっぽりと抜け落ちていた。

 音もなかった。鳥のさえずりも、葉擦れも、虫の這う微かな気配すらも。

 ただ湿気を含んだ静寂だけが、澪の耳にぴたりと張りついていた。


 道の名はなかった。

 Googleマップにも、古い国土地理院の地形図にも、この道は存在していない。

 けれど、澪の手元にある古びた紙には、確かにそれが記されている。

 筆で描かれたような線。手書きの道筋。所々に滲んだ墨の痕。そして最後に、祠を示す朱の丸印。


 その紙を渡してきたのは、三日前のことだった。

 駅前の公園。澪がベンチで煙草を揉んでいると、突然、見知らぬ老人が近寄ってきた。

 痩せた影。焦点の合わない白濁した目。あまりにも唐突で、拒否の言葉すら出なかった。


 「おまえ、呼ばれたな」


 そう言って差し出されたのが、その紙だった。

 声に怨嗟も祈りもなかった。ただ、“それだけ”を告げるためだけに生きているような存在だった。


 「ほんとに、ここでいいの?」


 声がした。少女のものだ。

 澪の背後、数歩の距離を保ってついてきていた神田あゆみが、少しだけ声を落としてそう言った。


 高校の制服の上にグレーのカーディガンを羽織っている。手には小さな手提げ鞄。

 ローファーはすでに泥で染まり、裾のあたりはうっすら濡れていた。


 「たぶん、ここだ」


 澪は短く返す。

 自信はない。ただ、確信はあった。

 足元の土が、あまりにも“知っている”感触だったからだ。


 この道を、以前に通ったことがある。

 そのはずなのに、記憶は曖昧だった。地名も景色もまったく浮かばないのに、足は迷わず進んでいく。


 夢の中で、何度も見た。

 木々の合間を抜けて伸びる獣道。古びた鳥居。朽ちた祠。

 白い着物をまとった、顔の見えない女。咽ぶような灯の音。


 それらはすべて、“彼女”の姿と重なっていた。

 白山澪香。姉。三年前、失踪。


 「……ねえ」


 あゆみが再び口を開く。

 その声音は、澪の呼吸と同じ温度で重なっていた。


 「本当に、ここに来たの? お姉さん」


 「たぶん、来た」


 「どうして、そう思うの?」


 「思い出せないから」


 あゆみは何も言わなかった。

 その代わりに、足元の苔を避けるようにして、慎重に歩みを進める。


 彼女は、澪の過去を少しだけ知っている。

 姉のこと。澪の記憶が“断絶している”こと。

 そして、それがどこか“人為的なもの”ではないかと、本人が感じていることも。


 この祠は、ただの宗教遺構ではない。

 ――何かを、誰かを、閉じ込めた場所だ。


 鳥居が見えたのは、それからしばらくしてからだった。

 急勾配の石段を登り切った先、林の隙間にひっそりとそれは佇んでいた。

 朱が剥げ、左の柱がわずかに傾いている。注連縄は千切れ、ぶらぶらと風に揺れていた。いや、風はない。だが、揺れていた。


 その奥に、小さな祠がある。

 扉は閉じられ、苔に覆われ、しかしそこだけが不自然に整っていた。

 まるで、“誰かが使っている”かのように。


 「……ここ、なんか……おかしくない?」


 あゆみが立ち止まり、眉をひそめる。

 彼女は霊感があるわけではない。けれど、なにか“わかる”人間だった。

 この静寂が自然ではないことを、肌で感じ取っていた。


 澪は答えなかった。

 祠を見つめたまま、胸の奥にうずく違和感に身を委ねていた。


 右手の指先が、ぴりぴりと痺れる。

 痛みではなかった。記憶の“入口”に触れたときの感覚だった。


 (ここに来たことがある)

 (あのとき、俺は――)


 思考が、滑った。


 唐突に、視界の端で何かが動いた。

 白い影。木の陰をすり抜ける、形にならない“気配”。


 目を向けたときには、もうそこには何もいなかった。

 ただ、空気の粒子だけが、わずかに震えていた。


 カラン、コロン。

 下駄の音が、聞こえた。


 音だけが、確かに残っていた。

 誰かが歩いている。けれどその“誰か”は、この空間には存在していない。


 「……聞こえた?」


 あゆみが、息を飲みながら尋ねる。

 澪は頷く。


 「木の下駄、だろ?」


 「うん。でも、姿は見えなかった」


 「見えないように歩いてるんだろ。見つけられないように、じゃなくて」


 あゆみは澪の横顔を見つめた。

 その目には、わずかな違和感が浮かんでいた。


 澪の声が、澪ではない何かのものに聞こえたからだった。


 (また、来たんだな)


 胸の奥で、誰かの声が囁いた。

 それは、澪のものではなかった。

 だが、確かに“澪の中にある声”だった。


 振り返る。あゆみがいた。

 彼女は微かに震える肩を押さえながら、祠を見つめている。


 「なんか、あそこ……誰か、立ってない?」


 彼女の指が指した先。祠の扉の前。

 そこには、確かに“何か”がいた。


 人の形をしていた。

 白い衣。長い髪。顔は見えない。輪郭すら曖昧。

 けれど、その存在は“明確に”澪を見ていた。


 風が吹いた。

 なかったはずの風が、祠の奥から、澪の頬を撫でて通り抜けていった。


 咽ぶような、灯の音がした。


 夢と同じだった。

 夢と、まったく同じだった。


 けれど、今回は違う。

 この場に立っている自分の足元に、“現実の土”がある。


 ここは、夢ではない。

 記憶でも、幻でもない。

 そして、最初から“初めて”ではなかった。

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