青い手帳
「私が住み込みで働いております、屋敷の旦那様につきましてはあまり明るい噂を聞きませんし、実際その通りだと思います。屋敷の謎でございますか?ええ、もちろん存じておりますが、それを理解するには順を追わなければなりません。
旦那様は大変物音に敏感なお方で、些細な物音でも眠りから覚めてしまう方です。起きてしまうと、最悪そのまま朝を迎えてしまうのだとか。
こんなエピソードもあります。
夜、旦那様が寝ている一方で召使いが自分の部屋の片付けをしていました。衣服の整理をしていのですが、音はほとんど立てませんでした。ですからこの夜に限っては、旦那様がこの召使いのせいで寝られなかったというのはあり得ないでしょう。
しかし、召使いが横になり、もうじき意識が消えるというところで、寝られないと苛立たしげに旦那様が部屋に入ってきました。こういう時の旦那様はドアの開け方が非常に荒く、ドアノブは壁にぶつかって哀れな音を立てるのでした。それに驚いて、召使いは目を覚まし、目の前に旦那様がいるということで再び驚きました。それから眠れないことをいいことに旦那様は一人ベラベラと話し出しました。召使いは自分に返事が求められていないと気づくと寝てしまおうと何度か試みるのですが、その度に肩を叩かれるなり揺さぶられるなりして起こしてくるのでした。おかげで召使いは、旦那様と同じく夜更かしすることになってしまいました。かといって眠気から仕事が普段より疎かになると、旦那様は容赦なく叱りつけました。
ただこれでもまだマシな例で、自分が起こされた原因がはっきりわかる、特に召使いの仕業だと断定できる場合の旦那様の狂乱ぶりと言ったら始末のつけようがありません。まず手始めに近くにある花瓶を壁に投げつけて破壊し、奇声をあげながら階段を上り下りしたあと、普段は見向きもしないドラムを物置部屋から取り出して、何らかの演奏を始めるのでした。これだけなら一時間もしないうちに疲れて寝てくれそうな感じもするかもしれませんが、違います。日が昇るまでは当たり前、酷い時には水をかけてようやく正気に戻ったということもあったそうです。
夜中に演奏するとなると、近所迷惑で警察が来たこともやはりあるそうなのですが、大半は隣人と警官が機嫌を良くして帰るそうです。何を渡したんですかね。
以上のように荒唐無稽な噂でしたので、私はてっきり旦那様に恨みを持った人間によるデマだと思い、まともに取り合いませんでした。オオカミ少年ばかりが噂を立てていると決めつけていました。耳栓をすれば済む話ですから。……愚かでした。
起きている間の旦那様は紛れもない聖人であることだけははっきり申し上げておきます。ギャグは絶望的につまらないですし(そのくせどんな話にも無理矢理ギャグを挿れようとするので質が悪い)、自分ルールが独特でしばらく理解に苦しみこそしますが、基本的に親切です。何より給料が弾んでいます。他の屋敷の二倍はあります。
しかしその金額故なのでしょう、寝に入ったあとの旦那様につきましては擁護の仕様がありません。耳栓をするなり、防音を施すなり幾らか提案や対策を促したのですが、それでも目を覚ますときは頻繁にあるのです。
金目当てで定期的に新入りがいますが大抵の場合、一ヶ月と持ちません。寝不足とストレスが全身を駆け巡り続けるのですから当然でしょう。おかげさまで私一人で召使いをしているときが三ヶ月と続いたこともあります。
私も例に漏れず辞めたくなりました。旦那様のつまらぬ話の聞き手になるという無意味で退屈な徹夜ほど萎えることはありません。連日に及んだときの絶望感といったら、考えるだけでゾッとします。
幸か不幸か、何事にも峠というものはあるようで、私はどうもそれを越してしまったのでした。旦那様の話を一晩中聞かされる間は、身体を起こしていなければならないのですが、その姿勢で目を開けたまま、おまけに相槌もメトロノーム的ではありますが打ちつつ寝ることができるようになりました。この程度になると気づいていないのか、旦那様の方から起こされることはなくなりました。旦那様の演奏につきましてはもはや耳栓なしでも眠れるようになりました。代償に、雷だろうが、地震だろうが、目覚まし時計の音だろうが一度寝てしまうといつもの時間に起きるまで全く気づかなくなりました。
旦那様の生活スタイルに耐えうる体質を手に入れた私は、知らないうちに歴代最長の召使いとなりました。これまでの誰もが挫折した仕事を私は為しているのだと言う自負に目覚めました。
働いている間は例外を除き、寝られないと思えと言わんばかりですから、コスパはそれほどでもありません。ですが今の私に言わせれば充実がありました。定期的に雇われる新人が来る度に自分の強さを実感することができました。
そんなある日、旦那様のご子息が屋敷にやってきました。「お子さんは今何をしていらっしゃるのですか」と旦那様に尋ねますと、「冗談は面白くないと困るよ。息子の話はいつも夜中にしているじゃないか」とのことでした。なるほど道理で私が知らないわけです。夜中の私は先に申し上げた通り寝ていますので、旦那様は私に話したつもりでも、実際は人形に話しかけていたも同然でした。
私の主観を申しますと、旦那様の息子というのは、旦那様とは別方向で問題のある方でした。便宜上ここでは太郎としておきます。来たその日に、太郎はその屋敷の新しい主であると宣言したのでした。当然私は反論を試みたのですが、旦那様に諭されて引き下がることとなりました。
太郎は機嫌が悪いと、旦那様を怒鳴りつけ、やつ当たりするのでした。対照的に私の扱いは、かなり丁寧で旦那様以上に私の手違いを許してくれるのですが、旦那様からの言いつけは聞かぬようにと釘を刺すのでした。そのため私にしてみればいつの間にか旦那様との主従関係が逆転しており、違和感を感じました。そこで、太郎がいない隙を見ては旦那様の言いつけを承っておりました。そうでもしないと旦那様が惨めでならなかったのです。
太郎は屋敷にあった骨董品や絵画を片っ端から売り払い、服や時計などの高級品に変えてしまいました。売れなかったものに関しては、窓から庭に放り投げてそのままにしていました。それを旦那様が止めようとしても、完全に無視して放り続けるのでした。その行いは太郎の気分次第で夜中にも行われたのでした。私はせめてもの抵抗として、警察に通報したのですが、いつものように警察は機嫌を良くして帰ってしまいました。
太郎はよく次のようなことを私に言いました。「どうも君はここの生活に満足しているようだね。それもいいさ。もし、終わらせたくなったら屋敷の地下室にある青い手帳を開くんだな。親父は妄想を文字起こししただけだって言っているが、あなたにはその真偽が分かるでしょう。」実質的に、この時点で私が実質的に太郎の召使いであったことを考慮すると、私が隠れて旦那様の言いつけを聞いていることがバレていたのだと思います。
また太郎は旦那様に言いました。「何を俺に期待しようがお前の勝手だがな、いくら取り繕っても、お前らの勝手で俺をこの世に引き摺り込んだことには変わりないわけだ。それでもな、俺をうまく騙して、それこそ傀儡として、余計な考えが浮かばないように教育すれば良かったんだ。社会のマナーとでも称してな。そうすればあんたの言うことをしぶしぶでも聞こうとしただろう。だがもう遅いぜ。俺はな、裏でこそこそしている大人が童話を、絵本を子供に読み聞かせようとしている構図が許せないんだ。どうせ今でもあのボロいドラムを残してあるんだろ。さっさと捨てろよ。いくら叩いたって昔の俺は戻ってこないし、戻らない。まさか俺にギターを持たせて、その召使いにベース兼ボーカルをやらせようなんて考えていないよな?」
対して旦那様は「だがそう言い聞かせることで私を踏み台にし、優越感を得たのだろう。君のその発想は自己防衛のための手段に過ぎないじゃないか。わがままの極みだよ。君はね、大半は自分以外の自由意志で動かされているのだよ。当たり前だろ、人は環境適応のための真似と先祖代々から受け継がれてきたDNAあってのものだからな。あとね、青い手帳を見れば分かることだけど、君がこうなることまでは計画通りなのさ」
ここで旦那様の口から青い手帳という言葉が出ました。ここで初めて、私は青い手帳の中身を知りたくなりました。二人が丁度外出していない時を見計らい、地下室に行きました。普段は掃除と整理のために出入りするのですが、一度も青い手帳を見たことはありませんでした。
そのため、探すのには苦労しましたがなんとか見つけました。そこには太郎と召使いの教育計画と称したものが旦那様の筆跡で書かれていました。先の太郎の発言はいずれも手帳通りの台詞だったのです。これまでの旦那様の行為にしても確かに手帳に書かれた通りでした。でもまさか家の中で芝居をしているとは信じられず、後付けで書かれたと思い、手帳の日付を見たのですが、私が雇われる前の日付が記入されていました。そして私が今日、青い手帳を探すことまで記されているのでした。
なんだか怖くなりました。自分が操り人形であり、自由意志と信じた行為がそうでもなかったと思わされました。世界は色褪せたように感じました。後ろを振り返ると、自分の四肢から白い糸がでているように思われました。この糸が切れない限り、私は何をしても「させられた」ことになるようで虚しくなりました。
なんだか悔しくなりました。再び青い手帳を開き、書かれていないことを私がしていないかを確認しました。驚いたことに、旦那様が夜中に目覚めて何をするか、何を話すか書いてあるのに、どこにもドラムを使って演奏するとは記載されていないことに気づきました。……私の頬が緩むのを感じるのでした。」
この一連の記述を見て、
「納得いかない。そもそもこの召使いというのが虚言癖持ちなのです。青い手帳なんて無理もいいところでしょう。私の知る限り、新人がやめる要因にこの語り手である彼女が関与しているケースをしばしば耳にします。なんでもわざと主人が起きるように仕向けて、新人を苦しめるのだとか」
「彼女の言い分は自分の都合のいいように言い換えるのが得意なんだよ。ほんとよく言うよ。でっちあげもいいところじゃないか。冒頭に誰も頼んでいないのに謎なんて言い出して、結局明かさず仕舞い。いや、そもそもなかったのだ。私は以前、文中でいう太郎がいる時に働いていたのだが、彼女は私に冷たく、太郎はそもそも口を聞いてくれなかった。ただなんとなく、太郎は彼女を主人の手から奪いたいのかなとは思った」
という意見をもらった。この証言も加えて、召使いと親しかったという人に話を聞くと、
「前の二人は彼女のことを分かっていないからそんなことを言えるのだ。彼女は何かと比喩で話したがる節がある。例えば彼女は戦争のことを鼻くその投げ合いだと言った。彼女なりに戦争への嫌悪感を表したのだと思う。屋敷の主人の奇行にしてもその類いの可能性が高い。手帳にしても彼女なりに不満を表現したのではないか」
以上が現在、俺の手元にある情報である。この情報内では太郎ということになっている。理由は不明。青い手帳に関しての俺の発言はそのまま書かれているが、目的は全く別のところにあったことだけは断言しておく。そもそも親父はあの手帳を燃やして以来(実際は俺が回収した)、存在を知らないはずだから。
ところで、俺は彼女を親父から奪いたかったのかもしれんな。なんだかそんな気がしてきた。
あとさ、できれば夜中に親父とドラムを奪い合うのやめて欲しい。できればボーカルをしてほしいな……。