紫の卵
ややホラー気味です。
僕は小さなショッピングモールの隅っこで、クレープ屋をやっている。
特別やりたい仕事じゃなかったけど、会社勤めが合わずに退職し、その後たまたま起業支援のセミナーで出会ったやけに威勢のいい男に促されるまま開店した。
「美味しいもので、人を笑顔にする仕事です!」
僕自身も食べることが好きだったし、そんな甘言に弱った心を動かされてしまったんだ。
正直、あまりうまくいっていない。
毎月少しずつ、赤字が積み重なった。
大きな赤字なら、ちゃんと辞められていたかもしれない。だけど、あと少しでなんとかなりそうな状況は、僕を決断から遠ざけた。
*
今年は卵の値段が高く、仕入れるのに随分苦労をしていたら、いつもと違う業者がやってきた。
紫色のスーツを着て、卵のように丸々太った奇妙な男だった。
食品卸の営業にしては、随分おかしな風貌だ。
だけど、格安の卵を大量に用意できるという。
持ち込まれたた卵は、随分と奇妙だった。
なにしろ紫色をしている。
殻も紫だし、中の黄身も紫だ。
――アウトだろ。
と思ったが、営業の卵男に促されるまま恐る恐る口にすると、紫の卵は信じられないほどに美味かった。
少し燻したような柔らかで香ばしい匂い、新鮮な風味、優しい甘さと口の中に広がる深いコク。
こんなに美味いものは、初めて食べた。
僕は興奮した。
どこかで眠っていた熱が、焚きつけられたみたいだった。
だけど、あえてそれは隠して卵男と交渉する。
「この卵さぁ、色がどうにもマズいよね」
「ええ、ええ、おっしゃる通り。ですが、召し上がればお分かりいただけるかと?」
「見た目で食いついてもらえないと、お客さん来ないんだよなあ」
「ははあ、これは手厳しい。では、珍しい商品にしてはいかがです? 例えば、そう、紫色のクレープとか」
――いいアイデアだ。
だけど、僕はわざと渋い顔をして見せた。
そして、さらに安い金額で卵を仕入れることに成功する。
卵男のアイデアはそのまま使うことにした。
アイデアは所詮アイデアで、卵が売れればそれでいいと、卵男は満足そうに帰っていった。
*
『パープルクレープ』とバカみたいに簡単な名前を付けたクレープは、瞬く間に人気になった。
僕は商売の大波を予感して、店の名前自体も『パープルクレープ』に改名した。
簡単でわかりやすいものは正義だ。
最初に僕が一生懸命考えて名付けた店の名前なんて、誰一人覚えていないだろう。僕ももう覚えていない。
淡い紫になるように調合したクレープ生地で、見た目の毒々しさを薄れさせた。
女の子ってのは、ピンクよりも紫を好む子も多いらしい。と、どこで調べたか知らないが、卵男もそう言った。
色味がかわいいと、女子高生から評判が広がった。
なぜだか分からないが一緒に写真を撮れば、自分も可愛く写ると評判だった。
僕には違いがわからないが、そういうものかと受け入れるくらいの頭はある。
行列に並ぶのもイベントになる。
専用の写真フィルターも作られた。
SNSにあげれば、あっという間にいいねがつく。
食べ物をアクセサリーみたいに消費されていくが、構わない。
どうせ僕だって商売だ。
クレープ屋は、店を出すのも簡単だ。
立地の良い場所を選び、屋台みたいな小さな店をたくさん出した。
流行りの時は、波を逃さないようちゃんと乗らなきゃ面白くない。
最初は見た目で来店する客ばかりだったが、そのうちリピーターが中心になってきた。
奇妙な卵だが、そもそも味がすごくいい。
若い女性だけじゃなく、老若男女、広い世代が訪れるようになった。
*
今更ながら、僕はそのことが嬉しかった。
――美味しいものを人に食べさせたい。
クレープ屋を始めた頃の、バカみたいに青くて純粋な気持ちが蘇った。
そうだ、なんでもいいと思っていたが、僕はクレープ屋を選んだんだ。
クレープ屋は、誰の悩みもどんな問題も解決しない。
なんなら太らせたりして、あとで悩みを増やすこともあるだろう。
でも、食べたその瞬間、辛いことや悲しいことを一秒でも忘れてくれるなら。
そうだ、僕はそういうことをしたかった。
どうして忘れていたんだろう。
アクセサリーで構わない?
儲かればいい?
そんなの嘘だ。
僕は、美味しいものを人に食べさせたい。
僕の仕事の、一番強い、一番最初の衝動だ。
「美味しいもので、人を笑顔にする仕事です!」
そう、甘言なんかじゃない。
あれは、本当に、僕が願っていたことだ。
*
一年程過ぎた頃、来店頻度の高い客たちが、死に始めた。
警察から何度も話を聞かれたが、何も証拠はないし、因果関係も立証されない。
紫の卵も含め、材料を全て調べられたが、どれからも毒性のあるものは検出されなかった。
けれど、全く無関係というには無理があるほどに、パープルクレープの客たちは死んでいった。
で、店が潰れたかといえば、そうでもない。
一度来店した客たちは、何かに取り憑かれたように繰り返し来店する。
それを見て、好奇心の湧いた新規客も途切れることはない。
店をたたむことも、全く考えていない。
僕はこうなることが、多分はじめから、心のどこかでわかっていた。
初めて紫の卵を食べた、あの最初の瞬間から。
紫の卵には、中毒性がある。
化学的なものではないだろう。
もしもそうなら、僕はとっくに捕まっている。
なにしろ紫の卵だ。
普通というには、おかしいだろう。
やばいと気付いた時にはもう遅い。
どれほど健康に悪いとわかっていようとも、あの美味しさに抗う術などありはしない。
僕の最初の衝動は、
美味しいものを人に食べさせたい。
それだけだ。
とても純粋で、とてもシンプルな願い。
どうせいつか死ぬ人生だ。
食べ物で死ぬのは、生き物として何もおかしくないだろう。
美味いものをたくさん食べて、そうしてみんな死ねばいい。
良い記憶を抱いて死ぬことに、なんの罪があるだろう。
SNSでは、今もキラキラとパープルクレープの写真が大量に溢れている。
危険性を指摘する声は、このSNSには届かない。
ここは、かわいくて楽しい今を大事にする、閉じた世界。
そう、今を大事にすればいい。
先のことなど、あとでいい。
僕の店では、それを叶えられる。
僕が熱っぽくそう語ってみせると、紫の卵を納入しにきた卵男は静かに微笑んだ。
「今日も大盛況ですねえ」
開店前の店から外を見ると、すでに二十人以上は並んでいる。
「天気がいいから、今日も忙しくなるよ」
「追加の卵が必要でしたら、いつでもお電話ください」
「君もよかったら、ひとつ食べていってよ。もちろん代金はいらないよ。スタッフ用に作ることもあるからさ」
「いや、これはどうもどうも」
僕がそういうと卵男はいつも慇懃に礼を言う。
だけど、彼は一度もパープルクレープを食べたことはない。
いや、その前の、普通のクレープだって食べなかった。
そういうものだ。
彼は彼で、商売をしているだけだ。
そうして卵男はもう一度言う。
「追加の卵が必要でしたら、いつでもお電話ください」
僕は頷く。
開店時間だ。
今日も、美味しいものでたくさんの人を笑顔にする、素晴らしい仕事が始まった。