第2章:舞踏会の夜、二度目の誓い -5
……気づけば、音楽は終わっていた。
わずかな静寂の後、二人の踊る姿に釘付けになっていた人々から、拍手の波が寄せられてくる。
「すばらしい踊りだったわ。つい見とれてしまったもの。……あら、貴女も?」
「あんなにおとなしくて、恥ずかしがりでいらしたネリネ姫様が、あんなにご立派に、お美しくなられるとはな……」
「嫌だわ、わたくしなんて、感動しすぎて涙が出てしまったみたい。いやあね、年を取ると涙もろくなっちゃって……」
踊りを終えたネリネとダリルに向けられたのは、祝福の言葉と眼差しだった。
……誰も、弱虫姫と嗤い、罵る人などここにはいない。
再び流れ出した音楽に合わせ、楽しげに踊り出す人々の姿を目にして。
これ以上ないくらいに最高の形で舞踏会を始めることができたのだと、遅まきながらにネリネは気がつかされた――
(私、ちゃんと笑えていた? ちゃんと、踊ることができていたの……?)
呆気に取られるネリネに近づいてきたのは、プリシラだった。
つんとすまし、唇を尖らせたプリシラは、今宵はネリネとは対照をなすように目の覚めるようにあざやかな青のドレスを身にまとっている。
「プリシラ……」
予期せぬ妹の接近にネリネが思わずびくりと肩を震わせると、プリシラは愛らしい顔を不愉快そうにしかめる。
けれど、その表情とは裏腹に。
ふいっと視線をそらしたプリシラが放ったのは、ネリネが予想もしなかった言葉だった。
「ふん。お姉様にしては、すごく綺麗な踊りだったんじゃない? 顔だって、いつもの暗くて不細工な顔じゃなくて、その……、明るくてよかったと思うし?」
「え……?」
ぽかんとして、プリシラを見つめる。
あまりの衝撃に、はじめは聞き違いでもしたのではないかと思った。
だって今、プリシラはネリネに何と言ったのか。
顔を合わせるたび、ネリネを嘲り笑っていたはずの、あのプリシラが――
「プリシラ……。どうして……?」
するとプリシラは居たたまれなくなったのか、柳眉を逆立て、頬を紅潮させながら声を荒らげてくる。
「な、何よっ! あたしがお姉様のこと褒めたら、そんなにおかしいわけ!? 別に言いたかったのはそれだけだから、そんなに嫌そうな顔しなくたってもう行くわよ、お姉様の馬鹿! せいぜい今夜は、そこの騎士と楽しく過ごしたらいいんだわ!」
捨て台詞とばかりにそう言い放つや、プリシラはネリネに背を向け、大勢の人々の中に戻っていく。
その姿が貴婦人達のドレスの間に見えなくなっても、やはり戸惑いはなくならなかった。
しばらくして、ともにプリシラを見送っていたダリルが声をかけてくる。
「……何て言ったらいいのか、わかりませんか。プリシラ王女は本当に、あなたのことを褒めたかっただけなのだと思いますよ。悪意があるようには見えませんでした」
「……そうですね。でも……」
ダリルの言う通りだ。
いつもプリシラがネリネに向けてくる悪意を、先ほどのプリシラからは感じなかった。
だからこそ、戸惑いが消えないのだ。
再びプリシラの姿が見えたのは、それからまもなくのことだった。
もう機嫌を損ねたような様子はなく、近づいてきた青年の誘いに応じて、ダンスを始めようとしている。
プリシラのことは、正直、とても気になる。
……でも、今は。
「姫様。お疲れではありませんか?」
「いいえ、大丈夫です」
虚勢でもなんでもなく、ネリネは少しも疲れを感じてはいなかった。
いつもだったなら、一曲踊っただけでも、気疲れしてすぐに休みたくなってしまうほどなのに。
むしろ、それどころか……
(もう一度……。もう一度、ダリル様と踊ることができたら、どんなに……)
いつしかそう心から願っていた自分に、ネリネは驚かずにいられない。
はっとして、ネリネはダリルから顔を背ける。
(私……今、何を考えていたの……?)
もうとっくに、ネリネは気がついていた。
ダリルの姿は――その凜々しく端正な面差しは、すらりとした立ち姿は、令嬢達の視線を引きつけてやまない。
周囲には、遠巻きにダリルに視線を向け、頬を染める令嬢達が集まっていた。彼女達もまた、彼と踊ってみたいのだ。
……だから、ネリネが彼を独り占めにするわけにはいかない。
とっさに身を引き、口走った。
「ごめんなさい。私は向こうで待っていますから。あなたはどうか他の方と……」
「……いえ。待ってください、姫様」
「…………!」
急いで去ろうとしたネリネの手が引き止められる。
顔を上げれば、ダリルはまっすぐにネリネを見つめていた。
触れた手が、熱い。その熱は、ネリネとダリル、いったいどちらのものだったのか……
あっと思う間もなかった。
ネリネの手の甲に、温かく柔らかな熱が降りてくる。
――彼に、口づけを落とされたのだと。
理解した途端、まわりを取り巻くすべての物が動かなくなり、時すらも止まってしまったかのような、そんな心地になってしまう。
「……嫌なら、断っていただいて構いません。けれど、嫌でないならば、どうか。……もう一度だけ、俺と踊っていただけませんか」
……こんなにも。
こんなにもどきどきして、どうにもならなくなったことが、今までにあっただろうか。
目眩がするくらいに。
いっそ息苦しくなるくらいに、嬉しくてならなくて。
ダリルを前にした時、どうしてこんな気持ちになるのか、まだネリネにはわからなかった――
「……はい」
今度は迷うことなく、彼の手を握り返す。
花開くように微笑み、ネリネはうなずいた。
「はい。私でよければ……喜んで」