第1章:弱虫姫の騎士 -2
かつてこの大陸には、邪悪な魔物を生み出す暗黒しか存在しなかったという。
そこに、光を司る創世神が現れ、太陽を天へと昇らせた。太陽の光は地上を広く照らし出し、暗黒を退け、幾千幾万のまばゆい生命を生み出した。
それが、ラウステラ国に伝えられる創世の神話である。
創世の女神フィリスはそれからというもの、フィリス教の主――地上における救いの神として、人々から厚く信仰されることになる。
そして、王族の騎士を任命する儀式は、大聖堂の祭壇、女神フィリスの御前で厳かに行われるのが伝統とされてきた。
美しく神秘的なステンドグラスの光が降り注ぐ、大聖堂の広間。
フィリスの象徴とされるカサブランカの花の刺繍をあしらった純白のドレスをまとい、ネリネは今、祭壇の前に立っていた。
背後の薔薇窓から注ぐ清らかな光は、よりいっそうネリネの姿を神々しく照らし出す。
儀式に立ち会うべく聖堂に集まった人々の目に、その姿はあたかも女神フィリスが降臨したかのように見えていたのだが、当のネリネは人々の感嘆のため息にはまるで気がついていない。
……気にする余裕など、なかったのだ。
(……落ち着いて。落ち着くのよ。大丈夫……、大丈夫)
今も緊張で手が震えている。
当日に少しでも緊張しないようにと、ここに来るまでに何度も頭の中で儀式の手順を繰り返してきたのに、あまり意味はなかったようだ。
今から執り行われるのは、生涯にただ一度の、神聖な儀式。
ネリネにとっても、ネリネの騎士になる人にとっても、この儀式は特別なもの。
……否、ネリネなどよりもずっと、ネリネの騎士になる人にとって、この儀式はその生涯を大きく決定づけるもの。ネリネには考えにも及ばないほどに重要な意味を持つものなのだ。
だから、絶対に失敗するわけにはいかない。
けれどそう思えば思うほど、緊張は増し、震えが止まらなくなるばかりで。
「騎士、ダリル・オルブライト。主となる者、ネリネ・リーリア・ラウステラの前に」
ついに、聖堂内に朗々と響く大司教の声が、儀式の始まりを告げる。
――ダリル・オルブライト。
それが、ネリネの騎士になる人の、名前。
やがて眼前に立ったその人の姿に、ネリネは思わずはっと目を見開く。それまで心を苛んでやまなかった緊張や恐怖すらすっかり忘れて、息を呑む。
(真紅の、瞳)
まず目を奪われたのは、ネリネをまっすぐに見つめる真紅の双眸だった。
それはこれまで見たことのないくらいに、あまりに深くあざやかな赤だった。その赤は、彼が黒曜石を思わせる漆黒の髪をしていたこと、それから黒を基調とした騎士服をまとっていたことで、よりいっそう存在感を放ち美しく輝いているように見える。
けれど、ネリネが呆然となってしまったのは、その宝石のような強い輝きを帯びた色味のせいばかりではない。
(どうして……?)
なぜかは、わからない。
この騎士とは……彼とは、間違いなく初対面のはずだ。
それなのに、どうしてか。
彼の姿を見た瞬間、ネリネの心に真っ先に浮かんだのは――懐かしい、という感情だったのだ。
真紅の瞳が、わずかに細められる。
その眼差しの奥底に、何か、計り知れないほどに深く強い情動が秘められているように見えたのは、果たしてネリネの気のせいだったのだろうか……
やがて騎士は厳かな所作で、ネリネの前に膝をつき頭を垂れる。
ただ息をするのすらはばかられるほどの静寂を震わせ、ネリネの声は水面を揺らす波紋のように、あまねく広く響き渡った。
「女神フィリスの御前に。騎士ダリル・オルブライト。貴方はその生涯を賭して、我、ネリネ・リーリア・ラウステラを守る剣となり、盾となることを誓いますか」
それは、ネリネの前に跪く騎士に、己の身のすべてを尽くした絶対の忠誠を求める言葉。
騎士は答えた。彼の声は、低く、深く、凪のように穏やかで……それでいて、巌を思わせるほどに決然としたものだった。
「女神フィリスの御前に。ネリネ・リーリア・ラウステラ様。我、ダリル・オルブライトは貴女を絶対唯一の主として戴き、何者にも断ち切ることのかなわぬ忠誠を誓います」
騎士の言葉が終わるのと同時に、ネリネは横に控えていた神官の手から剣を受け取る。もう何百年もの間、誓いの儀式に使われてきた由緒ある宝剣で、金剛石のあしらわれた柄を握れば、実際以上の重みを手の上に感じるほどだ。
「貴方を私の騎士として任じます。いつ何時も、その命に代えてでも、私を守護しなさい」
剣を掲げ、騎士の両肩を叩く。
女神フィリス、そして聖堂の長椅子を埋め尽くす王宮や教会の重鎮達のもと、儀式は終わった。
これで、彼――ダリル・オルブライトは、正式にネリネの騎士として認められることになった。
(終わったのね……)
滞りなく儀式を終えられて、どっと安堵が全身を包む。
……けれど、やっと訪れた安堵は長くは続かない。
跪く騎士を――ダリルを見つめる。
ネリネは自他ともに認める、できそこないの王女だ。表向きの褒め言葉や社交辞令の裏で、ラウステラ国の弱虫姫と陰口を囁かれるようになって、ずいぶんと久しい。
当然のこと、このダリルだって、ネリネの悪い評判は聞き及んでいるはず。
(弱虫姫の、騎士)
不名誉な称号だ。
これからは、ネリネばかりではない。ネリネの騎士となったダリルまで、皆から嘲笑と蔑みの視線を向けられることになるのだ。
他ならない、ネリネの不甲斐なさのせいで。
(ごめんなさい……ダリル様)
心の中で、ダリルへの謝罪を言葉にする。
大聖堂を出て外の空気に触れても、自室へ戻ってカサブランカのドレスを脱いでも、ネリネの心に暗い霧は立ち込めたまま、晴れることはなかった。