第1章:弱虫姫の騎士 -1
(ああ、ついにこの日が来てしまったわ……)
ここはラウステラ国、王城。
王女のための居室の一つ。
ラウステラ王国の第一王女、ネリネ・リーリア・ラウステラは、大鏡に映る自分の姿にひどく不安げな眼差しを向けた。
相変わらず、今日も今日とて冴えない顔と風貌だと、自分でもそう思う。
背に流した髪はこの国では珍しくもない、くすみのある亜麻色。恐れのあまり眉尻が下がっているせいで、淡い桃色の瞳は実際よりも暗い色味を帯びて見える。
せっかく明るい白のドレスをまとったのに、どこかどんよりと近寄りがたい雰囲気が滲み出てしまうのは、ネリネの顔に浮かぶ表情が暗く沈んでいるせいだ。
――ラウステラ王国の弱虫姫。
使用人達によってよく手入れされた鏡が映し出すのは、そう誹られても仕方のないほどの姿だった。
ネリネの髪にカサブランカの花飾りを添えた侍女のマリーナが、鏡越しに優しく微笑みながら声をかけてくる。
「姫様、これですべてのお支度ができました。とてもよく似合っておいでです。誰がどう見ても、女神フィリス様のようだと惚れ惚れすること間違いなしですわ」
「あ……、その。あ、ありがとう……」
お礼を言おうとした声は案の定、消え入りそうなほど弱い。言葉尻などは掠れて息も同然で、侍女達みんなに聞こえたかどうかも疑わしかった。
事実、侍女達の間には困ったような、微妙な空気が流れている。
その空気を壊すようにして扉が開かれたのは、それからまもなくのことだった。
「お姉様! 準備はできたの? 今日は誓いの儀式なんでしょ?」
「プリシラ姫様、お待ちになってくださいませ! ネリネ姫様のお邪魔になったらいけないと、あれほど申しましたのに……!」
「邪魔なんかしないわ。お姉様の晴れ姿を見るだけだもの。ねえお姉様?」
「あ……」
愛らしく首を傾けて顔を覗き込んできた妹姫に、ネリネは思わず口を噤む。
プリシラ・リーリア・ラウステラは、ネリネの一つ下の妹だった。
木苺を思わせる色のあざやかな髪に、くりっとした漆黒の瞳。
ネリネとは違って、表情豊かで容貌も愛らしく、愛嬌があって話し上手。民からも王宮に出入りする貴族達からも、ラウステラ王国の妖精姫と呼ばれて親しまれる王女だった。
気後れするネリネの様子が癇に障ったのか、プリシラが口を尖らせて言った。その眼差しには、まぎれもなく軽蔑の色が滲んでいる。
「なあに、お姉様? 言いたいことがあるんだったら、はっきり言ってくれなきゃ聞こえないわ。やっぱり今日も、不細工な顔。あーあ、可哀想。せっかく綺麗なドレスなのに、お姉様なんかに着せられてきっと泣いてるに違いないわ」
「姫様、何をおっしゃるのです!」
プリシラが吐き捨てた嘲りの言葉が聞き捨てならなかったのか、マリーナがネリネをかばうようにして前に立つ。
けれどプリシラが動じることはない。ますます不機嫌そうな顔をして、マリーナを睨みつける。
「何? 本当のことを言っただけでしょ? それの何がいけないのよ」
「本当のことではありませんでしょう? ネリネ姫様はこれ以上ないほどお美しくなられましたのに、なぜそのような心ないことをおっしゃるのです」
「お姉様がどれだけ着飾ろうと意味ないわ。それに、可哀想なのはドレスだけじゃない、お姉様の騎士になる人だってそうよ。だって、今日からお姉様の暗い暗ーい顔を毎日毎日、飽きるくらい見なくちゃいけなくなるんだから!」
「…………」
プリシラの言葉の一つ一つが、ネリネの胸に深く突き刺さり、碇のように重く沈み込んでいく。
ネリネは俯き、唇を噛みしめた。そうしなければ、今にもみっともなく取り乱してしまいそうだったから。
(……全部。本当のことだわ)
傷つく資格なんて、ネリネにはないはずだ。だってプリシラの言葉には嘘などない。ネリネに関わることで、これまでどれほどの人が迷惑をこうむってきたのだろう。
ネリネはもともと、内気でおとなしい性格だった。
人前に出ることは苦手で、恥ずかしがり屋。
幼い頃はもっとひどくて、何とか社交の場に出ても、母の後ろに隠れて立っているだけで精一杯だった。
子どもの頃は、それでもよかった。
でも、成長するにつれて、人見知りの激しいネリネをよく思わない人は、だんだんと増えてきて。
『ねえ聞いた? ネリネ王女、この間のパーティでもほとんど何もお話しにならなかったって』
『ダンスの相手をしたよ。いやあ、王女殿下には悪いけど、あんなに気まずい時間を過ごしたことはなかったね。本当にいったい誰に似てしまわれたのか』
『やれやれ、この国のお世継ぎが、まさかあんな弱虫姫だとは……。先が思いやられるとはこのことだな』
ひそひそ、ひそひそ。
周囲の人々の話し声を聞くのが恐くなったのは、いったいいつの頃からだったか。
どこにいても、誰かに悪口を言われているのではないか、嗤われているのではないかと、不安でならなくなって。
ネリネの引っ込み思案な性格は、周囲の皆からますます呆れられていくばかりなのだ。
(本当に……気の毒だわ)
ネリネの従者になる騎士のことを思うと、気持ちが深く沈んでいくのを抑えられない。
――今日は、王族と騎士が特別な絆を結ぶ、誓いの儀式が執り行われる日。
ラウステラ国の王族は皆、十八歳になる年の春に騎士を一人、特別な従者として任命しなければならない習わしがあった。
王族のお付きとして任命された騎士は、それ以後、その王族の護衛と政務補佐を担うことになる。
文武の両方に特に秀でている者でなければ、王族の騎士に任じられることはない。
本当だったなら、王族の騎士に選ばれるのは、騎士達にとって最も名誉とされることだった。
騎士となった者は皆誰もが、王族のそばに仕える騎士になることを目指すと聞く。
……ただ、ネリネの騎士ともなれば、話は別だ。
(誰も、私の騎士になんて、なりたがるはずがない……)
弱虫姫とあなどられ、馬鹿にされる王女の、騎士。
外れくじもいいところだ。
ネリネの騎士になればきっと、ネリネと一緒に嘲笑を受けるか、同情の眼差しを向けられることになってしまうに違いないのだから。
ずきずきと痛む胸に手を当てて、押さえ込む。
気を抜けば、涙が溢れてしまいそうだ。
それでも、今、泣くことはできない。
誓いの儀式は、もうまもなく執り行われるのだから。
「お時間になりました。ネリネ王女殿下、どうぞ、大聖堂へとご移動を……」
開かれた扉から、聖教の使者が顔を見せる。
――いよいよだ。
ネリネはついに、自分の騎士となる青年と顔を合わせなければならない。
これから全生涯をかけ、ネリネに絶対の忠誠を誓い、ネリネを助け、守る役目を担うことになる人と。
「せいぜい頑張るのね。せっかくお姉様の騎士になってくれる人に嫌われないように。まあ無駄な頑張りかもしれないけどね?」
とどめとばかりにくすくすと笑うプリシラの声を背に、侍女に促されながら部屋を出て行く。
疼くような重苦しい胸の痛みを努めて無視し、目尻にうっすらとたまってしまった雫をこっそりと拭って。
ネリネは一歩、足を踏み出した。