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【序章】暗闇に差す光


 ごみ(くず)みたいな生涯だったな、と、彼は死を前にしてそう思う。


 ここは貧民街の路地。

 治安はいつでも悪い。いつでも、死臭と、酒と吐瀉物(としゃぶつ)のすえた匂いがただよっている。

 まともな人間は住んでいないし、寄りつくこともありえない。

 ――生まれも育ちも貧民街の彼も、もちろん、まともな生き方などしていなかった。


「げほっ、げほ、かはっ……!」


 ()き込んだ途端、口の中に血の味が広がった。

 咳をすればするほど、胸や喉が焼けつくように激しく痛む。

 それでも、咳をするのを止められない。


 ひゅうひゅうと鳴る喉の音を聞きながら、彼はうつろな眼差しで空を見上げた。

 創世の女神フィリスが天に掲げたとされる希望の象徴――恵みの太陽は、今日も嫌みなまでにまばゆい光を放っている。

 空はいっそ憎々しいほど、青く澄んで美しかった。


(これが……天罰ってやつ、か……)


 彼は幾度となく、悪事を繰り返してきた。

 親の顔も知らず、物心ついた頃から天涯孤独だった身だ。

 生きるためには、仕方のなかったこと。

 けれどこの世の神様というやつは、そういうやむにやまれぬ事情など、微塵(みじん)も哀れんではくれないらしい。


 熱がまた、上がってきた。

 身体は内側から焼き尽くされるかのように熱くて、もう腕も足も、ほとんど動かせなくなっていた。


 彼の身体を(おびや)かしているのは、疫病だった。

 近頃貧民街で広がっている病は、かかれば命はないとされていた。

 発症すれば皆、血を吐き、ひどく苦しみながら死を迎えることになる。


「げほっ、く……、かはっ……!」


 彼がどれだけ苦しんでいたとしても、手を差し伸べる者など誰もいない。

 当然だ。助けようと近づき、自分も病を得ようなどというお人好しなど、どこにもいるはずがない。

 彼だって、病人を見かけた時は、助けようなどと考えたことは一度としてなかったのだ。


「…………」


 少しずつ暗くなってきた視界に、嫌そうに顔をしかめる通行人の姿が見える。

 ――誰も、助けてくれる人なんていない。

 そう。

 誰も。


(このまま……俺は、死ぬのか)


 死ぬのは不思議と恐くなかった。

 むしろ、心のどこかでずっと望み続けてきたことだった。

 もう、どうだっていい。

 死ねばもう、()(かわ)くことも、力に勝る大人達から(むち)打たれ、理不尽な暴力を受けることもなくなるのだ。

 この、ごみ屑みたいな生涯がようやく終わる。

 そう思えば、死はこれ以上、願ってもないことだ。

 それなのに。 


「…………ぅ、あ。ぁ……っ!」


 ――手を。

 誰かに助けを乞うように手を伸ばしてしまったのは、なぜなのだろう。


 その瞬間、彼は気づく。

 ……誰でもいい。

 誰でもいいから、死ぬその時まででいいから、手を、握っていてくれたなら。

 そう、狂おしいほどに願っていたことに気づいて、絶望する。


 ――ああ、そうだ。

 寂しかったのだ。

 今だけじゃない。彼はずっと、この世界にたった一人きり。

 それがどうしても、寂しくて寂しくて、悲しくて、仕方がなかった――


「邪魔だなあ、何だこの手はよぉ!? 通行人の邪魔してんじゃねえよばーか」

「ぐあっ……!」


 手を靴底でぎりぎりと踏みつけられ、靴先がめり込むほどに強く腹を蹴られる。

 たまらず腹を押さえながらうずくまるが、通行人は去ろうとせず、執拗に蹴りを見舞おうとしてくる。


「ぎゃはは面白ぇ! もっとやっちまえよ!」


 見る間ににやにや笑いを浮かべた大人によって囲まれる。

 普通なら、疫病にかかるのを恐れ、病人のまわりにこれだけ人が集まってくることはない。おそらく彼らは、日が昇っているうちから飲んだくれ、正気をなくした酔っ払い達なのだろう。


(結局、最後まで……これか)   


 馬鹿なことをしたと思った。

 誰が彼のような、ごみ屑も同然の人間の手を握ってくれるというのだろう。

 救いなど、訪れるわけがない。

 これ以上ないほど、はっきりとわかりきっていたことだったのに……


「ほら、とどめさせよ、とどめ!」

「こいつ、意外にしぶといな。おらっ、死ねよ屑が!」


 ……それなのに。


「――――やめて!」


 突如として聞こえてきた声に、彼は瞠目(どうもく)する。


 少女の、声。

 真っ先に見えたのは、亜麻色の髪だった。

 小さな背中で柔らかく波打つ長い髪。

 そこにいたのは、見知らぬ少女。

 彼よりもずっと小柄な幼い少女が、彼をかばうようにして立ちはだかっていたのだった。



 (りん)とした声で、少女は堂々と言い放つ。その声は端々が震えていて、はたで聞いていてもわかるほどの怒りに満ち満ちていた。


「この人、すごく痛がっているし、苦しんでいるわ! それなのに、どうしてこんなひどいことをするの!?」

「なんだてめえは! 子どもはすっこんでろ。じゃなきゃてめえも同じ目に遭いたいのか、ああ!?」

「おい、やめろって。まずいぞ、あの子どもは……!」


 ひそひそと耳打ちする男。

 明らかに大人達の表情が変わったのはその時のことだった。

 瞬時に顔を青ざめさせたかと思うと、彼らはばつが悪そうにそそくさと逃げ去っていく。


 何が起こっているのか、わからなかった。

 けれど、呆気に取られていられたのも、つかの間のこと。

 彼は再び激しい咳の発作に襲われた。


「がはっ……、げほっ、がぁ、っ……!」

「――しっかりして!」


 瞬間、彼は驚愕する。

 泥と血と唾液で汚れきった彼の手を、そっと優しく握っていたのは。


「だ……めだ……っ!」


 とっさに少女の手を振り払う。

 彼の病は、かかれば必ず死ぬと言われる恐ろしい病なのだ。

 死ぬその時まで誰かに手を握っていてほしいなどという願いは、もう完全に吹き飛んでいた。

 残っていたありったけの力を振りしぼって、彼は少女に警告する。


「俺、は……病気だから……。それ以上……っ、近づくな……!」


 今すぐに、ここから離れてほしかった。

 でなければ、この少女まで病にかかってしまうかもしれない。


 ――この不条理な世界で、たった一人だけ。

 神にすら見捨てられた彼を、守ってくれた。汚れきり、ひどい匂いのするぼろきれをまとった、ごみ屑のような彼のそばに(ひざまず)き、優しく手を握ってくれた。


 このままでは、たった一人、彼に寄り添ってくれた彼女に不幸をもたらしてしまう。

 それだけは、絶対に嫌だったのだ。

 なのに少女は、首を横に振る。

 手を握るばかりか、血と泥で汚れた彼の身体を膝の上に抱き、女神フィリスを思わせるような慈悲深い微笑みを浮かべて告げるのだ。


「大丈夫」


 喉が、熱かった。

 つう、と何かが頬を伝い落ちていく。

 それが涙だとわかった時にはもう、少女の手が彼の頬を撫ぜていた。

 彼の流した涙を拭いながら、少女は再び、言葉にする。

 それは、これまでずっと暗闇の底で生きてきた彼にはあまりにも温かく、まぶしく……優しすぎる言葉だった。


「もう、大丈夫よ」



 ――それは、どれほど時が経とうとも、一日たりとも、忘れたことなどない記憶。

 果てのない暗闇の底まで降りてきて、光を灯してくれた少女の記憶だった。



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