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30. どっか


 洗濯物を干し終えて、空を見上げる。

 気持ちよく晴れ渡り、風も心地よい。どこか草の匂いを感じるような風だ。

 夏が近づいている。けれど、その前に訪れる雨の季節を感じさせる、ほんの少し湿り気を帯びた風だ。


 昨夜、私はベッドに寝転がって、ずっと考えていた。

 今の仕事をずっとやれるわけじゃない。

 もちろん、そんなことはわかっている。下宿人がいなくなったら、たちまち、私の仕事はなくなる。

 先輩が私に話してくれた条件が、とても私にとって都合のいいものであることも、よくわかっている。


 それなのに。

 私はまだ迷っている。

 もとの会社に戻るということは、今の下宿屋の仕事をやめる、ということでもある。


 先輩の笑顔のそばにいられることがひたすら嬉しかった頃の自分なら。

 仕事の楽しさに夢中だった頃の自分なら。


 でも。

 今は、迷う。

 なぜ?

 勇気が出ないから?

 一度逃げ出した場所へ戻る、勇気が。

 こんなチャンスが巡ってくることは、もう、二度とないだろう。たぶん。いや、きっと、ない。

 勇気なんか、どうとでも絞り出せばいいじゃないか。

 でも。


 ぐるぐる考える。考え続ける。

 

 7人の笑顔が浮かぶ。やっと慣れてきて、色々話せるようになった。

 にぎやかだけど、煩わしいわけじゃなくて、一緒にいてホッとする、彼らのいる空間。

 仕事は簡単に言ってしまえば、家事全般で、それなりに仕事量は多い。でも、自分なりの工夫次第で、楽しくも効率よくも出来るし。何より自分の仕事を喜んでくれる姿を目の前で見ることが出来る。手応えを直接感じられる。

 そんな仕事はけっこう貴重じゃないか?


 以前の自分を思い出す。

 毎日くたくたに疲れているのに、眠ると明日が来てしまう、それが怖くて、夜、なかなか寝付けずにいた。眠いのに眠れなくて、布団の中で何度も寝返りをうって、そして眠れないまま朝を迎えていた日々。

 それが、今は、心穏やかに気持ちよく眠り、普通に朝を迎えられている。

 あの頃はいつも胃の中に、大きな握りこぶし大の石が詰まっているような気がしていた。それなのに、辞めた途端、石はどこかにいってしまった。

 

 今やっと、のびのびと深呼吸が出来る。美味しくご飯が食べられる。普通に眠れる。

 あらためて、あの頃の自分の気持ちを思うと、簡単に戻る気持ちにはなれない。


 でも、先のことを思うと、今戻っておくことが望ましいのかもしれない。

 もう。……わからへん。

 相談できる親ももういない。かといって、相談できる兄弟姉妹や友人もいない。


 ぐるぐるする思考を持て余しながら、洗濯干し場からリビングに戻ると、ヒロヤがいた。

 ソファで新聞を広げて。

 私の姿を見ると、新聞をたたんで、すっと立ち上がった。

 

「え? え? お仕事は?」

 びっくりして思わず、目が丸くなる。

「有給休暇とった」

 急いで、ヒロヤの顔色を見る。とくに、問題はなさそうだけど。

 朝ご飯も……普通に食べてたよな。それで、みんなと一緒に車に乗り込んで、普通に出かけていったよな? 

 でも。急にお腹痛くなったとか? 急いで朝のメニューを思い浮かべる。なんかあぶないものはなかったか? 

「な、なんで? ……どっか体の具合でも?」

 焦る私に、ヒロヤはのんきな笑顔で応える。

「いや。今日はさ、一日、天気がいいって」

「うん……?」

「やから、どっか、出かけよう」

 真っ直ぐにこちらを見ている瞳に思わず吸い込まれそうになる。

「どっかって……?」

「……ドライブでも?」

「え、でも、掃除、まだ途中」

「一日くらい大丈夫やって」

「え~」

「ほら。行くで。はい。バッグ、持って」

 ヒロヤは、リビングの片隅に置いてある私のバッグを手に取ると、それを手渡してきた。自分は、小さめのリュックのようなカバンを肩にかけている。


「とりあえず、出かけよう。走りながら、行き先は考えたらええから……さ、行こう行こう」

 バタバタと急かされるようにして、玄関から押し出され、車に乗り込む。7人が余裕で乗れる車だから、ちょっと大きい。その車に、2人で乗る。

「なんか、後ろがさみしいね」

「まあね」

 たっぷり空いている、後ろのスペースを見ながら、訊く。

「帰り、買い物したいな。重いものとかかさばるの、いっぱい買ってもいい?」

「ええけど。でも、ひとまず仕事はおいといて。遊びに行くで。」

 ヒロヤが笑って続けた。

「なんかさ、頭の中がぐるぐるするときは、じっとしてないで、体動かすねん。そんでもって、外の空気吸って、いつもと違う景色見て、気分入れ替えてみ。たまにはええかもしれへんよ」


 そうか。

 彼は、私がずっとぐるぐる考え込んでいることに気づいてたのだ。

 それで、私を外に連れ出そうと思ってくれたのか。ぐるぐるした気持ちをリセットできるように。


 彼が車のエンジンをかけて、なめらかに車をスタートさせた。彼の運転はいつもそうだ。スムーズに走り、いつだって心地いい。そういえば、7人が出かけるときも、彼が運転していることが多い。

「とりあえず、ざっくりと方角だけでも決めて」

「方角。う~ん……じゃあ。南へ」

「OK」

 


 南に向けて私たちが出発したあと、入れ違うように、尾野先輩の車がうちの下宿屋に向かっていたとは、そのときの私は思いもしなかった。


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