11. 始まりは、おにぎり
「おつかれ~。お。まだ仕事してたの? なんか、みんないないね?」
出張から帰ってきた尾野先輩が、自分のデスクに荷物を下ろして言った。
夜7時を過ぎている。今日は、課長の声かけで、スタッフの多くは、めずらしく早く上がって飲み会に出ている。小さな子どもを保育園にお迎えに行く先輩女性2人は帰り、私も飲み会には参加せずに、気になっている仕事を片付けることにした。疲れてもいたし、お酒自体が苦手だというのもある。
「今日は、みなさん、飲み会に行ってはります」
私は、PCから、顔を上げて答える。
「そう」
少し首を傾けて、尾野先輩がほほ笑む。そして、薄茶の大きな丸い瞳で、私の目をのぞきこむ。
「野々原さんは行かないの?」
「お酒あまり飲めないんで」
「そっか。ご飯は? もう食べた?」
「いえ。これ終わったら、帰ってゆっくり食べようかなと思って」
「ふ~ん。もうすぐ終わりそうなの?」
「ん~。いえ、まだちょっとかかりそうです」
私は、机の上の書類とPCの画面を見て、答える。そんな私を見ながら、尾野先輩は、ニッコリ笑いながら、机に置いていた紙袋を、持ち上げてみせた。
「じゃあさ、おにぎり食べない?」
「え?」
「いや、出張先の駅でね、美味しそうなおにぎり屋さんがあってさ。みんな残業してるだろうから、差し入れにと思って、たくさん買っちゃったんだよね」
そう言うと、彼は、紙袋から、次々とおにぎりを取り出して、私の隣の机に並べ始めた。
「これ、鶏そぼろ。天むす風。おかか。昆布。鮭。焼き肉入り。チキンライス。ショウガの炊き込みご飯。……」
「……一体、どんだけ買ってきはったんですか。しかも、めっちゃ美味しそう……」
次々手品のように、紙袋から姿を見せるおにぎりを目で追っていると、思わず、お腹が鳴ってしまった。
「ふふ。お腹は、正直だね~」
「き、きかなかったことに」
先輩がクスクス笑っている。恥ずかしくて、顔が上げられない。でも下を向いていると、よけいにおにぎりが目に入る。……あかん。もう、これ以上お腹を黙らせることはムリそう。顔を上げると、先輩がおかしそうに笑っている。
「どれがいい? 全部2コずつ買ってあるから。お好きなものをどうぞ」
すっかりおにぎりに目を奪われている私に、
「じゃあ、こうしよう。もう他に分ける人、誰もいないから、2人で山分けにしよう」
そう言って、たくさんのおにぎりを2つに分け始める。評判の、細くて長い、きれいな指。思わず見とれてしまう。
「おにぎり食べて、急ぎの仕事だけ片付けて、さっさと帰ろうね。明日できることは今日するな、だよ」
そう言って、彼は、少しイタズラっぽく笑う。
誰よりも仕事が早く、そのクオリティも高くて、その上、面倒見がよくてえらそうなところのない、気さくな人柄の彼は、男女問わず、誰からも好かれている。決して仕事一辺倒なタイプではなく、けっこうのんきな発言をするところも、好感度が高い。
「俺、少し片付けないといけないことあるから、しばらく……そうだな。40分ぐらいは、仕事するけど。野々原さんは? どれくらいかかりそう?」
「あ。えっと、私もそれくらいです」
……ほんとは、もっとかかりそうだけど。
「よし。じゃあ、目標40分で。がんばろう。……俺、そぼろ食べながらやろうっと」
斜め向かいの席で、そぼろおにぎりを頬張りながら、先輩がPCに向かう。
私も、同じそぼろおにぎりに手を伸ばす。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
目標40分。おにぎりをかじりつつ、私はPCの画面に集中する。
約40分後。1時間はかかりそうと思ったのに、なんとか仕事は片付いた。
「やった~。終わった~」
思わず声が出た。
「お。おつかれ~。俺もほぼ終わり」
斜め前の机から、先輩が笑う。
「あ~。おにぎりの威力、ハンパなかったです! めっちゃ元気でて、1時間はかかると思ったのに、半分くらいの時間で済みました~」
「よかった。なんかさ、おにぎりって、不思議に元気が出る食べ物だよね」
「そうそう。しかも、片手で持てるから仕事しながら食べられるし」
「そうそう」
目を見合わせて、笑い合う。
「ほんとに、ごちそうさまでした! 残業したおかげで、なんかめっちゃ得した気分です」
「そういってもらえてよかったよ。誰もいないのに、大量のおにぎり抱えて、わびしく家に帰るなんてことになってたら、めちゃくちゃさびしいもん。いてくれてよかった」
『いてくれてよかった』
その言葉に、一瞬ドキッとするけど、先輩は単純に、おにぎりが無駄にならなくてよかった、ということでそう言ったのだ。そう自分に言い聞かせるけれど。なんだか嬉しくて、その声と笑顔は、しっかり心に刻み込まれた気がする。
残ったおにぎりは、それぞれが持って帰って明日の朝ご飯にすることにして。
2人で、職場を出る。
最寄りの駅までは一緒で、そこからは別の路線なので、改札を抜けたあと、
「ありがとうございました。ごちそうさまです。じゃあ、また明日」
「おつかれさま。気をつけて帰ってね。また明日」
挨拶を交わして、手を振って笑顔で帰って行く彼の後ろ姿が人波に紛れていくのを見送った。
帰宅して、おにぎりは冷凍にできるものは冷凍にして、あとは冷蔵庫に入れて、明日の楽しみに回すことした。
思いがけない幸せな時間に、心がほかほか温かかった。
ただ憧れていただけの先輩が、少し、いや、かなり近くなった気がした。
『いてくれてよかった』
彼の声を、バカみたいに何度も思い浮かべて、ちょっと浮かれてしまう。
――――それが、始まりだった。




