1.9
「……ィル、――フィル」
「ん……ろ、ぜん……?」
「フィル起きろ。何かがこちらにやって来る」
ローゼンの声に、フィラリアがはっきりと覚醒するのと、その何かが現れたのはほぼ同時だった。
ゥガアァァーーーッ!
「!!」
森を裂き、地を揺るがすような野太い咆哮。
「フィル、おそらくヤツだ。俺は天幕を出るのと同時に撃って出る。お前はこのままここから奴の隙を狙いながら攻撃しろ。結界はそのままにしておく」
「そっ、それじゃあローゼンがほかのせいれいまほうつかえない……っ」
「問題ない。俺の本分はこっちだ」
言うが早いか、剣を持ったローゼンは天幕から飛び出して行った。
フィラリアも慌てて天幕の入口を捲り上げ、外の様子に目を配る。
(! いた、依頼の……! でも、何か違う……?)
ガキン!!とローゼンの剣を受け止めた雄々しい双角は、通常ならば漆黒。
まるで太古の鎧を纏った雄牛のようなその魔獣は、本来ならこんなにも大きくはないはずだった。言っても体長二メートル程。
なのに今目の前で荒々しい息を吐き、大量の唾液を口元から撒き散らすようにして黄金の角を頭ごと振りかぶっているその魔獣は、裕にその倍はありそうだった。
グゥルゥアァァーー!!
(っ、呆けてる場合じゃないわ)
「"じばんちんか"!」
フィラリアが叫んだ瞬間、巨体が地響きと共に僅かに地面へ沈む。
一瞬足場を失った魔獣のからだが傾いだ隙を逃さず、ローゼンがその片方の眼を深く突き刺した。
次の瞬間。
「"ひらいしん"」
すかさずその剣先に魔法を狙い定めると、空から落ちた稲妻が放電しながら魔獣の眼窩を焼き尽くした。
ギィィァアアァッーー!!
プスプスと音を立て、煙を放ちながら辺りを漂う肉の焦げる匂い。
ローゼンは、赤黒い血を振り払うように引き抜いた長剣を、そのまま返すかたちでその首元へと斬り上げた。
――しかし。
ガキンッ!
それは容易く分厚い皮膚に弾かれる。
「チッ、硬いな」
「ローゼン! けっかいをといて!」
「おい、フィル大丈夫なのか!」
「はなれておくから、へいき! だから……!」
「くそ、今言ったこと守れよ……っ」
ローゼンの精霊魔法による結界が解除されると即、フィラリアは天幕の魔道具を戻してすぐにその場所を離れた。
そして魔獣から充分に距離を取りながら――
(硬いやつに効きそうなもの、硬いやつに効きそうなもの……、森の中だから火は駄目だし……ッそうだ)
「ローゼン、そのまじゅうをけっかいでしほうにかこってー! じめんいがいー!」
「魔獣をか?!」
「そう!」
「チッ。――囲ったぞフィル!」
「"しゃくねつじごく"!」
瞬間、ローゼンが張った結界の中を、下から魔獣ごと茹で上げるような炎の海が満ちる。その様はまるで赤い折り紙を折り上げたような煉獄の四方体。
結界によって声は遮られているが、時折り結界内にぶつかる黒い体躯の暴れ具合から、そのダメージの程が伺えた。
「――ローゼン、ほのおがきえたらつぎはこおらせるから、そうしたらけんでこうげきして。おんどさでからだがもろくなっているはずだから」
フィラリアがぱたぱたと傍へ走り寄りそう言うと、魔獣との近さが気になったのか、ローゼンはその秀麗な眉を顰めた。
「わかったから、お前はすぐに距離を取れ」
「うん、じゃあ――」
よろしくね。
そう言いかけた時だった。
パリン――!
壊れるはずのなかった結界が、音を立てて割れた。
次の瞬間。
暴れ狂うように踊り出た、火だるまの巨体。
「! フィル――!!」
「!? "バリ――」
その猛威からフィラリアを庇い、前に立ち塞がった長身。
それが――彼が――襲い来る熱風と共に弾き飛ばされるのを、若葉色の瞳はまるでスローモーションのように見つめるしか出来なかった。
見開いた双眸の目の前を、眩しい粉炎と粉塵が舞う。
「ろ、ぜん」
それでもフィラリアが次に魔獣へ向けて氷結の魔法を唱えたのは、無意識のことだった。
「"ダイヤモンドダスト"」
(いやだ、いやだ、いやだ、)
「ローゼン――!」
我武者羅にその倒れ臥した体に駆け寄り、震える指先でそっと触れる。
「ろ、ぜん、やだ……」
自分の短くて細い指が、こんな時なのにひどく頼りない。
「わ、わたしまだちゆのまほうははつどうできないの……さっきバリアのまほうも、したがまわらなくてまにあわなかった……」
ぽろぽろと流れ落ちる涙でローゼンの顔がよく見えない。
怪我は。
血は?
ちゃんと生きて……
――その時。
「……何で泣いてる……」
「! ローゼン?!」
フィラリアの震える指先をそっと掴んでゆっくりと起き上がる長身を、息が止まったように見上げた。
「くそ、気を失っていたのか……」
「だ、だいじょうぶ……けがは……」
「ああ、結界が間に合った。ただ、展開が不十分だったせいで爆風で吹き飛ばされたようだな……待ってろ、とどめを刺してくる」
そう言い置いて、ローゼンは剣を片手に向かっていった。
それからは、あっという間のことだった。
魔獣の討伐が完了し、本当ならすぐにでもその場からローゼンの精霊魔法で転移して街に帰っても良かった。けれど。
「いい加減泣きやめよ」
「だって、ローゼンがしんじゃうかとおもった……」
「あれくらいのことで死ぬか」
そうは言っても、本当に怖かったのだ。
今まで二人でいくつもの依頼をこなしてきたが、こんなふうに命の危険を感じるようなことまではなかった。
「も、もうわたしのことをかばうようなことはしないってやくそくして」
「何馬鹿なことを言ってる……」
「わたしがしんでもわたしのじごうじとくだから。ローゼンがあぶないめにあうひつようない」
「それ、本気で言ってるなら怒るぞ」
実際、本当に怒ったような声でグイと顔を持ち上げられる。
「っ、だけどほんとうにローゼンがしぬのはいやなの……」
あまりに頑なだったからか、ハァ、と溜息が降ってきて、フィラリアは鼻を摘まれた。
「どうしてそれは俺も同じだと思わないんだ……」
結界は内側からも外側からも魔法、物理共に攻撃は通りません。
ただ中から結界を通らずに直接離れた場所へ作用する魔法は、その限りではありません。